2021年8月30日月曜日

“台本は作品と呼び得るか” ~石井隆の鳥たち(3)~

 

 工業製品ならば均一感保てるが、初めてこの世に産み落とされる何がしかの物はそのほとんどに紆余曲折の側面がある。程度はさまざまであれ、当初の思惑とは異なる顔付きになって悲喜こもごもが寄り添ってくる。

 こと映画づくりの現場というのは混迷と突破の連続であり、初期の構想とはずいぶんと違った様相を呈していく。妥協ももちろん有るだろうが、瓢箪から駒の喩えそのままに知恵出しが盛んに維持され、結果、期待をはるかに超えた絵面に仕上がることも間々ある。最終的にもたらされるその驚嘆、その愉悦に映画人たちは虜になっていて、今日も苦労の絶えない現場に馳せ参じる。

 実現しなかった部分はだから常に付き物で、それをいちいち咎めたり、人目に晒すのは滑稽なことだ。私たち読み手は劇場なりモニターで提示される最終局面に没入し、大いに楽しめば十分なのであって、そこに至るまでの不可視の道程をほじくり返すことは邪道かもしれない。特に初期のプロットや準備稿の内容を大声で取り上げて、過去から完成作品を照射する行為はこれから鑑賞に臨む人に先入観を植え付け、評価や感銘の質と量を歪めかねない。完成された作品こそが真実であり、其処のみを玩読しないと創り手たちの苦労を台無しにする恐さがある。

 これから私は石井隆が執筆した数篇の映画台本に言及しようと考えていて、特に完成なった映画との違いに触れようとするのだが、上に綴ったように、それは作品を論ずる上では根本的に間違いではないかと躊躇する気持ちが半分ある。同時に、いや、これはフィルム全般ではなくフレーム内にもぞもぞと居着いた鳥たちの生態の不思議、面白さを中心に語る訳だから構うまいという気持ちが半分になっている。

 また、フィルムへの定着はならなかったものの、確実に石井の脳裏に在ったヴィジョンが台本の行間にきっちりと書き込まれているのであれば、それは他からの介入がそう多くない穢れなき段階とも言える。新雪の処女峰に等しく、石井隆の純粋思考がこまかい結晶と成って降り積もっている。きわめて透徹した創造空間であり、むしろ瑣末な部分までも積極的に取り上げて作家論を補填するのが順当ではなかろうかという妙に甘えたい気持ちもゆらめいて、なんだか思考が分裂してしまって覚悟が定まらない。

 取り上げるつもりの台本は『GONIN2』(1996)、『ちぎれた愛の殺人』(1993 監督池田敏春)、『ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う』(2010)である。この三本を愛して止まない人で、ノイズめいた解釈の侵入は回避したいと考える方はご注意願いたい。

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