2016年6月19日日曜日

雪原(4)


 はたして川端康成の「雪国」は石井世界と直結するのかどうか、此処から先はどうしたって足が鈍る。先ずもって石井が何時どのようにして「雪国」と接触したか、小説なのかそれ以外か皆目分からない。出逢っているのは違いないのだけど、さまざまなバリエーションを映画やテレビジョン、舞台の上に展開させてきた作品であるから、読み手の印象はどの媒体に拠ったかで相当違ってくるだろう。「雪国」の総体をつぶさに見比べ、さらに石井の各作品と照合するのは困難は話で、これ以上の深掘りは諦めざるを得ない。(*1)

 そもそも男とおんながいる限りにおいて、「雪国」的な情景は日々この世界に星のごとく生まれては消えていくのであって、小説に限って言っても手繰っていけば似た場面がすぐに見つかるだろう。特別視しては滑稽だし、他人が磨き上げた水晶玉の内側に石井の劇が小さく収斂されることなど、考えてみれば最初から有り得ない話で、仮に「雪国」の影響があったとしても、それは肩に降り立った雪片程度の重みでしかない。いい加減、この辺りで話を打ち切らないと笑われそうだ。

 
 備忘録を兼ねて、最後に二点のみ書きとめたい。ひとつは繭蔵の二階から落下した葉子という娘の解釈。ある人は「葉子の終焉が果たして死なのか、あるいは狂気なのか、小説「雪国」は明らかにしていない。失神した彼女を抱いた駒子は「この子、気がちがふわ」と叫ぶから、たぶん狂女として生きのびるのであろう」(*2)と書いていて、確かに川端の本意はそこであろう。最初に映画化された折りに八千草薫が演じた葉子は、顔面に大火傷を負った姿で幕引きにも現われていたけれど、あれなどは随分と歪曲された演出と感じられる。「島村はやはりなぜか死は感じなったが、葉子の内生命が変形する、その移り目のようなものを感じた」と原文にもあるから、葉子はその身を狂気にゆだね、一線を越えて業火に身を投げたと捉えるのが正解となる。

 それにしても小説の冒頭で「悲しいほど美しい声」を発し、「澄んだ冷たさ」を同居させていた娘が、巻末ではその「内生命を変形させて」狂ったまま生きのびていく状況というのは、まったくもって酷い話であって、小説家というのは怖ろしい思考回路をしていると唖然とするより他ない。2004年以降の石井隆の映画には、狂気へと緊急避難するしかなかったおんなが続出するのだが、その原石のひとつとして、「雪国」の葉子が石井のこころの奥のどこかに佇んでいる可能性が(雪片程度の確率で)あるだろう。

 また、「雪国」の劇中で男とおんなの間にちょっとした言葉の行き違いがあり、おんなが激昂する場面がある。読みながら、人が人と触れあい、心根を語っていくことのどれだけ繊細で困難な作業かを考えさせられる事しきりだった。男の気持ちに悪意は潜んでいなかったが、安易に用いた言葉がおんなの精神をひどく迷倒させる。(*3) 

 偶然にもそのやりとりは、以前に調べた『天使のはらわた 赤い教室』(1979 曾根中生)での台本改訂箇所とそっくりであって、あの映画での名美は「雪国」の駒子と違って怒りに我を忘れることはなかったのだけど、それは演出家がそこまで気が回らなかった為であって、石井自身が自ら指揮していたら、やはりあんな不用意な発言は村木に許さなかったと思われる。「君はいい子だね」と「君はいい女だね」に天と地の開きが「雪国」に生まれたように、石井が「女(ひと)」と書くときはあくまでも「女(ひと)」であり、「女(おんな)」とは別次元なのだが、あの映画の監督はそんな事は蹴散らして進むひとだった。そこまで細かなところに心を砕く点から言っても、石井隆は川端の血筋に当たる。私の人生に川端は寄り添わなかったが、後継者と信じ得る存在とこうして併走し、精緻な伽藍が建立なっていく過程を日々見上上げることが叶うのは、つくづく幸せで嬉しいことだ。

(*1):主な作品 ウィキペディアより
映画『雪国』(東宝)監督 豊田四郎  出演 池部良、岸惠子、八千草薫 1957 
テレビドラマ『雪国』(NET)若原雅夫、小山明子、矢代京子 1961
テレビドラマ『雪国』(TBS)池内淳子、山内明、岸久美子 1962
映画『雪国』(松竹)監督 大庭秀雄 出演 岩下志麻、木村功、加賀まりこ  1965
テレビドラマ『雪国』(NHK)中村玉緒、田村高廣、亀井光代 1970
舞台劇『雪国』 芸術座 若尾文子、内藤洋子 1970 
テレビドラマ『雪国』(KTV)大谷直子、山口崇、三浦真弓 1973 
(*2):「川端康成研究叢書5 虚実の皮膜 雪国・高原・牧歌」 川端文学研究会 教育出版センター 1979所載 『雪国』の作品構造 上田真 91頁

(*3): 島村がしばらくしてぽつりと言った。
「君はいい子だね。」
「どうして?どこがいいの。」
「いい子だよ。」
「そう?いやな人ね。なにを言ってるの。しっかりしてちょうだい」と、駒子はそっぽを向いて島村を揺すぶりながら、切れ切れに叩くように言うと、じっと黙っていた。(中略)

駒子は自分を振り返るように、長いこと静かにしていた。その一人の女の生きる感じが温かく島村に伝わって来た。
「君はいい女だね。」
「どういいの。」
「いい女だよ。」
「おかしなひと。」と、肩がくすぐったそうに顔を隠したが、なんと思ったか、突然むくっと片肘立てて首を上げると、
「それどういう意味?ねえ、なんのこと?」
島村は驚いて駒子を見た。
「言ってちょうだい。それで通ってらしたの?あんた私を笑ってたのね。やっぱり笑ってらしたのね。」
真赤になって島村を睨みつけながら詰問するうちに、駒子の肩は激しい怒りに顫えて来て、すうっと青さめると、涙をぼろぼろ落した。
「雪国」 川端康成 1937 手元にあるのは新潮文庫141刷 引用は145-147頁

雪原(3)


 
 石井自身が時おり口にするように、スターシステムを採用した石井の劇画作品群を俯瞰すると、名美と村木という宿命の男女が延々と為す地獄めぐりの観を呈する。さながらダンテの「神曲」での道行きに似た面持ちなのだけれど、ここでいう「神曲」の景色とはウィリアム・ブレイクWilliam Blakeの手による夢現の水彩画ではなく、暗くて色彩のないギュスターヴ・ドレPaul Gustave Doréの版画を想起しなければ嘘だろう。大袈裟でもなんでもなく、紙面上に刻まれるのは世界を構成するあらゆるもの全てであった。岩肌や林、霧や小船に至るまで、視角に映り込むものは何もかも、さも面前に在るがごとく緻密に描かれたドレの地獄と、どこか漂わす気配を石井世界は同じくしている。

 承知の通りそれは、石井の目指すところが漫画以上に“映画”であった為だ。ロケーションにこだわり、光にこだわり、念入りに選択されたその現実空間に名美と村木の役者ふたりがおもむろに配置されていく。近年の映画製作の現場では技術革新によりコンピューター・グラフィックスが多用され、舞台背景の模造と挿し込みは容易となっていて、かならずしも現実空間を切り取る作業ではなくなったようであるが、石井劇画の構築とは一から十まで徹底した現物主義だった。

 当然ながら、背景とのバランスもあって両者の衣装や装飾もずいぶんと手が込んでいた。皺や伸びにこだわり、バイクのヘルメットを描くときには新たに調達するという具合で、背景も現実なら人物も現実に可能な限り近付け、隙間なく縫合され、同等の比重を保って私たちのこころに訴え掛けた。石井隆は描き手である前に当初から監督業をこなしていたのであり、それも美術から衣装から何から何までを自分で準備する大変な役割を負っていた。

 さて、名美の投身によって劇的な終わりを迎えた【おんなの街 雨のエトランゼ】(1979)から少し後になって、石井は同じシリーズ「おんなの街」の連作として【夜に頬よせ】(1979)という中篇を執筆している。愛読者は冒頭から興味を惹かれる場景を目にすることになる。そこは写真スタジオらしく、照明器具に囲われたモデルのおんな(名美)が衣服をはだけて撮影に応じる真っ只中にあるのだが、彼女が被る帽子は【雨のエトランゼ】で名美が愛用していたのと同一のものに見える。もちろんおんなの風貌は名美のままである以上、読者のこころに異様な緊張が生じるのは避けられない。(*1)

 手塚治虫の描くロック(間久部緑郎)が馴染みの黒いスーツ姿であちこちに出没し、颯爽と風を切ってページを闊歩しても私たちはぜんぜん気にしない訳だから、漫画とはそういう無茶なものと捉え、帽子の類似ぐらいにいちいち驚いてはおかしいのかもしれない。石井は余程この帽子が気に入っていたのだ、だからまた使われたに過ぎないと言われてしまえば話は仕舞いなのだが、ついこの前に投身自殺を図ったおんなの面影そのままを同じ雑誌の冒頭に再現して見せる石井の意識というのは、そこまで単純ではないように思う。(*2)

 視座を反転させ、【雨のエトランゼ】という物語を裏側から覗き見るところから【夜に頬よせ】は構想され、前者ではあまり触れられなかったおんなの私生活に肉薄するぞ、これはそういう話なんだよ、と点滅して知らせる信号灯として、あの馴染みの帽子は採用されたと捉えるのが妥当ではないか。実際、両作品の舞台設定は近似する箇所が多く、眩暈を覚えるようなデジャブ感に襲われる読者も少なくない。魂の諸相を描くにはいくら枚数を投じても足らないという信念からか、それとも【雨のエトランゼ】から泣く泣く削ぎ落とされた部分がいつしか脈動して血が通い、細胞分裂を盛んに始めたものなのか。はたまた、スタジオでの撮影を終え、おつかれさまと挨拶を交わして家路につくおんなの姿を以って、【雨のエトランゼ】というロマンティックな映画が終わり、名美という女優が素に戻ったとでも言いたいのか。何にせよ明確な意図が石井には内在していて、遅れて産みおとされたのが【夜に頬よせ】なのであって、【雨のエトランゼ】とは一卵性の双生児だ。

 無謀にも私は石井の【雨のエトランゼ】に川端の「雪国」を重ね見ようとしているが、その【雨のエトランゼ】の執筆時の作者の心境は、【夜に頬よせ】と境なく溶け合っていることをここで再確認しなければならない。

 再びこのあたりで川端康成の方に話を戻すと、【夜に頬よせ】にはあきらかに文豪を想起させる描画がひとつある。それは村木と名美と共に物語の軸芯となる若者、陽介のある晩の行動として表われる。名美はこじんまりした木造アパートにこの陽介と同棲しているのだが、短気でどんな仕事も長続きせず、自らをクズ、能なしと責めては自殺の真似事を繰り返すのだった。ある時、名美が帰宅すると流しの近くに陽介は横たわっており、その手元にはガスのホースが延びている。ご丁寧にもその端を陽介は口にくわえ、うう、ゼエゼエ、ンググ、苦ッ!と喘いでいるのだった。直ぐに狂言と見破った名美はこれに冷静に対処する。

 滑稽でもの悲しいこの自殺演技については、現実にあった騒ぎを根底に置いていて、気付く人はすぐに気付くのだろうが川端の死を知らせる報道とそっくりだ。事件から五ヶ月ほど経ってから家族が雑誌に寄稿し、発見時の突飛な様子は全否定されている。常用していた睡眠薬の飲み過ぎによりひどく酩酊し、誤ってガスを放出させたまま寝入った末の偶発的な事故と説明されている。しかし、新聞紙面を最初に飾った内容は以下の通りに統一されていて、かなりの衝撃を世間に与えたのだった。「当時、この事件を報道した新聞の見出しを拾っただけでも、四十七年四月十七日付の朝刊では、朝日が〈川端康成氏、自殺/仕事場でガス吸入〉、毎日が〈川端康成氏が自殺/ガス管をくわえて〉、サンケイが〈川端康成氏が自殺/初のノーベル賞作家/逗子のマンション/ガス管くわえて〉、東京が〈川端康成氏が自殺/逗子のマンション/ガス管くわえ〉と、いずれも見出しにガス管をくわえていたという事実を大々的に謳っている」(*3)

 川端の事件は1972年であり、石井の各作品、1976年に【暴行雪譜】が、1979年には【雨のエトランゼ】と【夜に頬よせ】がある。それぞれの間には三年程度の隙間が空いていることから、連環を主張することに無謀を感じる人もいるだろうけれど、あるひとりの作家の死が石井のこころに色濃く影を落としたことは間違いないように捉えている。

 
(*1):加えて帽子を被る名美の頭部は、カメラのシャッターの開口部がガッと作動し、その奥に出し抜けに出現している。【雨のエトランゼ】の別離に関わる重要な小道具がカメラであった点を振り返れば、石井の心理に黄泉の国からの帰還、もしくは多重世界があったと想像するのは容易い。
(*2):【雨のエトランゼ】に代表される名美着用のトレンチコートおよび帽子は、『俺は待ってるぜ』監督 蔵原惟繕 1957の北原三枝由来ではないか、という意見がある。
(*3):「自殺作家文壇史」 植田康夫 北辰堂出版 2008 引用は24頁


雪原(2)


 石井隆がかつて寄稿した文章やインタビュウにおいて、川端康成に触れた事は一度も無かったと記憶している。水上勉とその文学、映画化なった作品に関しては熱心な言及(*1)が無理なく見つかるのだが、川端についてはどうも見当たらない。石井世界と「雪国」とを結びつける試みは、狂った妄執と捉えられてもだから仕方がない。

 推論が正しいとしても、騒ぎ立てるに価しない話やもしれぬ。作劇を生業とする者なら誰もが熟読していて当然であり、だから、石井の創作現場にどんな反射光が及んでもそれはごくありふれた現象に過ぎない。川端と並行して石井世界を楽しんだ上の世代の人にとって、もはや手垢のついた話題に過ぎず、何を今頃になって吠えているのかと訝り、私のことをひどく哀れと感じるかもしれない。その辺りについては自信がまるでない。


 川端は越後湯沢に何度か足を運び、取材と体験を基にして「雪国」を構築していった。今でこそ舗装道路が完備されて大型トラックが行き交い、全国展開の大手商流に侵され、同じ車種、似た服装、世界に通じる情報端末を誰もが身につけて均一化された次元だけど、昭和初期の格差は恐ろしいほど有って、山懐に抱かれた当時の温泉町というのは東京のそれとは別世界同然だった。冬季の降雪にともなう環境の激変と、それによって育まれた風習や産業に関しては、特に想像の及ばぬ夢幻の領域にあった。

 異邦人として湯町に闖入した川端が、虎の巻として大切に懐中に忍ばせ、当時はまだ「雪国」とは呼ばれていない物語を練るのに使用した古い風土記がある。これは「北越雪譜」という書物だと広く知られているが、どんな本であるのかを簡略にまとめた文章があるから書き写せばこんな具合だ。「『北越雪譜』(ほくえつせっぷ)は、江戸後期における越後魚沼の雪国の生活を活写した書籍。(中略)雪国の諸相が、豊富な挿絵も交えて多角的かつ詳細に記されており、雪国百科事典ともいうべき資料的価値を持つ。著者は、現在の新潟県南魚沼市塩沢で縮仲買商・質屋を営んだ鈴木牧之。1837年(天保8年)に江戸で出版されると当時のベストセラーとなった」(*2)とある。

 実際の執筆にあたってもその文中に盛んに引用を重ねた「北越雪譜」だけど、この本は「雪国」における舞台美術の役割に止まってはいない。形を変えて天地を縦貫する水(雨、雪、水蒸気)の動線が「北越雪譜」の冒頭には紹介されてあるのだが、これに近似した縦方向への動きが「雪国」の逸話や男(島村)の視点に視止められるのだし、また、男の脳裏にこびり付いて物語全体を暗雲のように覆い尽くす“徒労”という意識は、古から雪に対峙して疲弊を極める山間部住民の心情を反射させているだろう。さらには、幕引きにて発狂に至った葉子という娘の造形にも影響を及ぼしていると説く論文も見つかる。(*3)

 「雪国」の中で島村が東京でどのような日々を送っているか、それを彼の目線でやや自嘲的に説明するくだりがあるが、この辺りの茫洋とした感じは「北越雪譜」という書中の奥を彷徨う作者の実像と被って見える。「雪国」という幻想譚には、書物に淫した男の独白という隠れた一面があるのであって、二冊の書物の連結は思いのほか強い。(*4)

 ほとんどの読者はこの“昔の人の本”を実際に手に取ることはしないし、川端の内面と彼の小説にどこまで浸透してその創造を支援したか気にしないのだけど、「北越雪譜」と「雪国」の執筆活動は融け合っており、両者の解離は許されない。

 さて、前置きは終えて本題、つまりは川端と石井隆の連環について語るなら、先ず瞠目すべきはこの鈴木牧之(すずきぼくし)の遺した「北越雪譜」という書名だ。おそらく造語であるのだろう“雪譜(せっぷ)”という語句に汎用性は皆無であり、いくら探してもシンセサイザー奏者のアルバムタイトルが僅かに見つかるだけであって、ほぼ全ての検索結果が「北越雪譜」という書物に集約されてしまう。ところが、石井の初期の劇画には、他ではほとんど見られないこの“雪譜”を題名に用いた短篇が見つかるのであって、これは果たして偶然の一致と言えるだろうか。

 1976年(昭和51年)のヤングコミックに掲載された二十一頁のそれは、【暴行雪譜】と題されたもので、同年「女地獄」と銘打たれた特選集にも再収録されている。強姦未遂事件を起こした若者が切羽詰って秋田行きの夜行列車に飛び乗り、雪に覆われた海辺の駅に降り立つ。そこで淋しげな風情のおんなと出会うのだった。

 いつか運命的な出逢いが訪れ、互いに惹かれ合い、霊肉一致の融合を果たす日が必ず来ると信じて生きる街住まいの人間の翳を、どちらかと言えば石井は丹念に描いてきた。地方の町から都会の底辺へと漂着した男女の弧弱を見つめ続ける石井隆の作歴において、それとは真逆のベクトルを示す関東圏からの脱出行と、雪深い僻村での和服姿のおんなとのいじらしいとも言える出逢いが描かれていて、【暴行雪譜】は奇妙な潮目と波形を湛えている。石井が川端「雪国」を自分なりに咀嚼し、現代に蘇らせた小品と捉えるのがどうしたって自然ではないか。

 物語の最後で断崖に突き出た雪庇(せっぴ)が突如として崩れ、声をあげる間もなく海面へと真っ逆さまに落ちていく若者の様子というのは、(水上原作の映画とも似ていることは似ているけれど、)川端の創造した葉子という娘の墜落場面ともひそやかに共鳴するところがありはしないか。


(*1):「記憶の映画3」聞き手 権藤晋「石井隆コレクション3 曼珠沙華」1998 まんだらけ 所載 「水上作品が僕を惹きつけて、原作を買っては読み耽っていた」
(*2):ウィキペディアより
(*3):「川端康成『雪国』を読む」奥出健 三弥井書店 1989 158頁 「行男の死後この二人は決定的な違いをみせる。駒子は極力行男のことに触れまいとするのに対し、葉子はまるで〈物の怪〉に憑かれたように墓参を繰り返す。この葉子の姿は『北越雪譜』──「織女の発狂」の項─に記されている名品を織ろうとして気の狂った機織娘に似ている。」 

(*4):「西洋舞踊の書物と写真を集め、ポスタアやプログスムの類まで苦労して外国から手に入れた。異国と未知とへの好奇心ばかりでは決してなかった。ここに新しく見つけた喜びは、目のあたり西洋人の踊を見ることが出来ないといるところにあった。その証拠に島村は日本人の西洋舞踊は見向きもしないのだった。西洋の印刷物を頼りに西洋舞踊について書くほど安楽なことはなかった。見ない舞踊などこの世ならぬ話である。これほど机上の空論はなく、天国の詩である。研究とは名づけても勝手気儘な想像で、舞踊家の生きた肉体が踊る芸術を鑑賞するのではなく、西洋の言葉や写真から浮ぶ彼自身の空想が踊る幻影を鑑賞しているのだった。見ぬ恋にあこがれるようなものである。しかも、時々西洋舞踊の紹介など書くので文筆家の端くれに数えられ、それを自ら冷笑しながら職業のない彼の心休めとなることもあるのだった。」「雪国」 川端康成 1937 手元にあるのは新潮文庫141刷 引用は24頁

2016年6月12日日曜日

雪原(1)


 日常の慰めのひとつは、車を駆っていくらかまとまった距離を走ることだ。車種は問わないし、速度もそうは出さない。商談や会議、葬祭に出向く機会にほぼ限られ、やみくもに走る事がない点が自分でもつくづく貧乏性と感じるし、身近な知人と会って過ごした方が余程愉しく有益な時間になると分かってはいるのだけれど、なんだかこの頃は凄く臆病になって逢えずにいる。

 朗読や落語を収めたコンパクトディスクを旅の友と決めて、流れる風景を愛でながら耳を傾ける。俳優や噺家の発する台詞が肌に吸い付くようであり、さらに体内の奥へ吸収されて五臓六腑にじゅんと沁みていく感じが有ってたまらない。

 最近の脳科学の話によれば、ハンドルを握っている私たちの内側でアルファ波と呼ばれる脳波がだだ漏れ状態なのが測定されるらしい。発進時のとがった緊張が煙のように消え去り、タイヤが順調に回りだして以降にいよいよ泉のごとく湧き上がるそれは、甘い快楽や集中力の極度の高まりが運転にともなう確たる証しだ。これは素人推測なのだけど、多分そんな最中に聞く先人の名筆というのは、走行がもたらす愉悦と相互に影響し合い、うねうねと繋がる波形を増幅する効果が有るのだろう。

 言葉に手ごわい浸透圧があって、自身の体験記憶と共鳴しては渦巻き、思考が活発化するのが実に嬉しい。麻薬の酩酊にこれはかなり近しい神経の活性ではないか、と本気で疑っている。三島由紀夫、堀辰雄、サガン、遠藤周作、瀬戸内寂聴といった薬をむさぼる際には、視界がゆらりと明度を増すようでさえあって、あきらかな覚醒作用が働いて感じられる。

 先日、新緑の樹々に抱かれて蛇行する峠道を上り下りしながら、川端康成の「雪国」(1937)(*1)を最初から最後まで聞いた。窓の外は虫たちがわんわんと鳴いて、その生命力を競い合っていた。恥ずかしい話だけれど、こんな年齢になって物語の全容を初めて知る。無菌状態の新興住宅街に生まれ育ち、花街や晩酌とは無縁の幼少年期を過ごしてしまったから、トンネルや列車、それに様ざまに変わる雪の質感や寒気といったもの以外は自身の引き出しに乏しく、絵面がぜんぜん浮かばなかった。最初の数頁をめくっただけで手に負えない気がして放り投げている。ありきたりながらも年相応に経験を重ねて、少しは人情の機微を察するだけの箪笥預金が出来たせいだろう、描かれた男たちの暗澹も女たちの焦慮や諦観も、もはや一方通行ではなく、自分のこころと盛んに交信を始めるところがあった。男優の巧みな話術を借りて血肉化なったおんなの息づかいと肉声が、鼓膜をさわさわと震わせ、明瞭に想いの丈が伝えられた。一字一句が光跡を露わにしつつ、しんしんと胸の内に降り立った。

 川端の創造世界に圧倒された私は車を降りてからもしばらく引きずられ、その残響に耳を傾けた。特に最終章で映画を上映していた繭蔵が出火し、偶然居合わせたものか、それとも蛾が炎に吸い寄せられるようになったか、宿命に打ちのめされた若いおんなが二階から落下する描写と、これに続くヒロイン駒子の「この子、気がちがうわ。気がちがうわ」という絶叫、そしてその刹那に男が見上げる天空の星々の在り様といった大胆なカットバックには衝撃を受けた。

 葉子という娘の墜落は一瞬の出来事で、「あっと人垣が息を呑んで、女の体が落ちるのを見た」その中に男とヒロインも混じるのだが、川端はその時間を巻き戻し、さながら映画フィルムをコマ送りにするか、それとも劇画の枠内に永遠に面影を刻むようにして落下の仔細を読者に再提示する。

 「繭倉は芝居などにも使えるように、形ばかりの二階の客席がつけてある。二階と言っても低い。その二階から落ちたので、地上までほんの瞬間のはずだが、落ちる姿をはっきり眼で追えたほどの時間があったかのように見えた。人形じみた、不思議な落ち方のせいかもしれない。一目で失心していると分った。下に落ちても音はしなかった。水のかかった場所で、埃も立たなかった。新しく燃え移ってゆく火と古い燃えかすに起きる火との中程に落ちたのだった。」

 このように一度書き留めた上で川端は、おんなの身体を二階家まで持ち上げてから再度投げ捨て、落下の描写を執拗に繰り返す。「古い燃えかすの火に向って、ポンプが一台斜めに弓形の水を立てていたが、その前にふっと女の体が浮んだ。そういう落ち方だった。女の体は空中で水平だった。島村はどきっとしたけれども、とっさに危険も恐怖も感じなかった。非現実的な世界の幻影のようだった。硬直していた体が空中に放り落されて柔軟になり、しかし、人形じみた無抵抗さ、命の通っていない自由さで、生も死も休止したような姿だった。島村に閃いた不安と言えば、水平に伸びた女の体で頭の方が下になりはしないか、腰か膝が曲りはしないかということだった。そうなりそうなけはいは見えたが、水平のまま落ちた。」(*2)

 残酷かつ崇美なおんなの墜落の様子を後追いしながら、いつしか私の目のふちには石井の劇画代表作【おんなの街 雨のエトランゼ】(1979)のラストシーンが浮上した。どうかしている、またいつもの馬鹿な連想が始まったかと、誰に言われるまでもなく警戒する囁きが内心に起こり、この場に書き綴ることに躊躇いを覚えたままでしばらく過ごした。

 だいたいにして村木の仕事場のあるビル屋上から投身した名美は失神しておらなかったし、その身体は‟く”の字に少しだけ曲がっていたから水平ではなかった。生も死も休止したような姿で宙に浮かんだ名美の姿は、身体の向きが上向きか下向きかの違いはあっても、どちらかと言えば同名のフランス映画(*3)の冒頭に置かれたスクリーンプロセスで撮られたおんなの投身場面に近しいのであって、川端の「雪国」にある葉子の絵姿と表面上は二重写しとならない。そもそも名美の身体がいよいよ路上に至ったとき、無音という訳でもなかった。

 石井作品との連環はさておき、川端の「雪国」が胸にひどく来たのは事実であって、この際しっかりと記憶に収めたいとまずは考えたのだが、何しろ有名な国民文学であるし、不勉強な自分が未熟な経験と知識で消化するのは困難と感じられ、関連する研究書籍を幾冊か読み漁り、また、岸恵子や岩下志麻の映画も探しては眺めるといった時間をこの半月過ごした。

 そのような行程を経た上でも私は、いや、それで尚更という気持ちなのだけど、川端の「雪国」が石井の“記憶の文学”として機能し、その足跡を石井世界に横たわる真っ白な雪原に残した可能性を否定し切れずにいる。世間にいくら笑われても構わないから仮のテーマとして皆に開示したいと思い、頬を撫ぜていく初夏の風だけを味方にこれを打っている。


(*1):川端康成「雪国」 朗読 加藤剛 新潮社 2001
(*2):「雪国」 川端康成 1937 手元にあるのは新潮文庫141刷 引用は171頁
(*3):『雨のエトランゼ』Un Beau Monstre 監督 セルジョ・ゴッビ 1971