2020年7月24日金曜日

“個人の時間”~石井隆の時空構成(6)~


 2011年3月の東日本大震災により、多くの町が壊滅的被害を受けた。わたしが住まう町は直接の打撃はまぬがれたものの、停電と見えない放射能汚染、物資不足によって喘ぐような毎日を送らざるをえなかった。きっと誰もが大なり小なり思い出す景色があって、今でもふと真向かう瞬間があるに違いない。二度とほどけぬ紐でもって各人の足首に縛り付けられている。

 思い出されるひとつが時計だ。もはや笑いの種でしかないが、あの日の夕刻、壁掛けの時計の針がぐるぐると回り出し、見つめる誰もが唖然として息を呑んだ。地震と停電と関係があることは直ぐに了解したので混乱はなかったが、オカルト映画や大林宣彦のジュブナイルじゃあるまいし、めまぐるしく針を移動し続ける時計の出現は冗談の域を越えて不快以外の何ものでもなかった。いつまでも止まらず、見ていて気が滅入って仕方ないから、手を伸ばして壁から外すと裏側の電池をはずして寝かしつけた。

 近畿から東北に至る広範囲にむけて標準電波を送信する「おおたかどや山(やま)標準電波送信所」(福島県)が機能しなくなったので、手持ちの電波時計が正確な時刻を見失った為だと後で知った。他に確認すべきこと、思案すべき点は山積みでいつまでも時計ひとつに拘(かかずら)ってはいられないから、吹っ切るようにして次の作業に移ったのだけど、暗澹たる気分は刺青となって脳裏に刻まれている。

 時計が当てにならなくなった、正確な時刻を示さなくなったことに強烈な拳(こぶし)を喰らった形となり、立ちくらみに似た症状が出た。少しばかり吐き気のともなう、地面が傾ぐような気分を味わったのだが、それは裏を返せば自分の中で時計が狂わないもの、遅れないものと信じ切っていた証拠である。実際は送電が止まれば、または、操作場のひとびとの避難が始まればたちまち混迷におちいる脆弱な基盤であって、薄氷に乗った如きが電波時計という物の正体なのだ。

 それにしても、時計が正確だなんていつから信じ込んだのか。幼い時分の家の時計は少しずつずれて当たり前で、5分や10分の狂いは許容範囲でしかなかった。ネジの巻き忘れ、突然の故障など生活者にとっては至極一般的な出来事に過ぎない。目覚ましの役目など不信感を抱かせる最たるもので、枕もとに二個並べて寝る夜も普通にあった。

 先日、ヴィットリオ・デ・シーカの『ひまわり I Girasoli』(1970)を観ていたら、ハネムーン旅行を愉しむ若い夫婦をめぐる歓喜や刹那感をあぶり出す仕掛けとして、宿泊した部屋の小型時計がいつの間にか止まっていたという軽妙な場面が挿み込まれていた。今は朝の6時か夕方の6時か分からない、いや、それでも構うまい。昼夜の感覚を失いながらもふたりは歯を見せ笑って済ませ、時計が針を刻まない空間へと没入していく。時代背景は1944年頃で古いのだけれど、似たようなハプニングは以前なら幾つも転がっていたように振り返る。(*1)

 腕時計にしても信用し過ぎると墓穴を掘るところがあり、実用性からやや離れた存在だった。人によっては高額で精巧無比のものを携え、それで学業なり仕事に邁進しておられたかもしれないが、私の場合はそうではなかった。社会に出てからは擦り傷作りながら狭いところに腕をつっこみ、袖口まで濡らす仕事を与えられていたし、時間についていちいち意識したら苦痛を感じてしまう劣悪な環境でもあった。時計の存在を気にしないことが最初にまず求められる職場だった。大体にして往時は時計をする学生の割合は少なかったようにも思うし、今でも就く仕事によっては縁遠い道具でしかない。

 ポケットベルや携帯電話がいつしか世に現われ、それで時刻を知ることは済ませられるから、自然と腕時計への憧憬は育たず、審美眼も養えぬまま今日に至っている。さすがに最近は国産の安時計をはめる日が増えたけれど、高温多湿のこの国土では外せるなら外した方がよい妙ちきりんな道具にしか思えない。そんな無粋な天邪鬼に育った自分なのに、三月の「正確な時計」の喪失にひどく慄(おのの)いたのが不思議といえば不思議だ。人は知らないうちに変質する。道具に使役させているつもりが、立場は逆転して彼らの奴隷になっていく。どんどん裸の王様にさせられていくのだけれど、知らぬは本人ばかりなのだ。

 一般社団法人 日本時計協会のホームページに記載されている「日本の時計産業概史」という特集ページの下の方に、「1970年代のわが国のウオッチ生産(電子化への推移)」というグラフがある。これを見るとデジタル(電子式)の腕時計の生産量は1978年で約5分の1、1979年でようやく3分の1程度に過ぎない。生産量にしてこれであるから巷に溢れる腕時計のほとんどはまだねじ式か自動巻きであり、いつの間にか正確な時刻を忘れ、さらに油断すればひとの腕を枕にして寝息を立てるのが常だった。(*2)

 劇画【夜がまた来る】(1975)を皮切りに「ヤングコミック」誌に続々と傑作を送り出し、出版業会の話題を席巻し、数多くの読者の耳目を集めた石井の劇画群というものの「時計をめぐる社会の現況」がまさにそうであった。これを踏まえた上で石井世界の時間の二極性を考える必要がある。公の時間と個人の時間がまったく別のものであり、性質がまるで違っていた点をきっちりと視野に入れた上で、作品を細かく丁寧に読み解くことが大切ではないか。

 石井劇画が熱狂的に受け止められた1979年、石井は映画会社から依頼を受けて始めて脚本に手を染めた。『天使のはらわた 赤い教室』(監督 曾根中生)がそれであるが、承知の通り、あの映画は物狂おしく時間と歳月につき言及していく。それこそが主要な登場人物を激しく疲弊させるのである。時間という濁流をまともに喰らって壊滅する恋人の劇であった。

(*1): I Girasoli 監督 ヴィットリオ・デ・シーカ 主演 ソフィア・ローレン マルチェロ・マストロヤンニ 1970
(*2): 一般社団法人 日本時計協会 https://www.jcwa.or.jp/etc/history01.html


2020年7月19日日曜日

“腕時計に執着はあるか” ~石井隆の時空構成(5)~


 大時計のアップで始まり、同じくその針を凝視して閉じられる【三十分の街】(1977)。読むと石井が時計に関して強い愛着を持ち、劇中に好んで配すると早合点されそうだが、実際はそうではない。むしろ石井の中には時計全般へのこだわりは無い。

 石井が一度これと決めた物へのまなざしは、特有の厚みと粘度を帯びていく。ライター、ハンカチ、櫛(くし)、コート、拳銃、鯨の置き物といったさまざまな物がこれまでスポットライトを浴びてきた。それら選ばれた小道具には、死別した者への切実な祈りが託され、また、親切心やほのかな愛情といったどちらかといえば報われない想いがそっと宿っている。言葉にできない思念を現世に保留する工夫として、彼らは石井作品を彩ってきた。その中に「時計」は含まれていただろうか。

 【三十分の街】を読み進める読者の目には、男の手首にはまった腕時計が繰り返し飛び込んでくる。おんなの身体に回した腕がコマの前景をガバッと横断して、意図的に腕時計を見せつけると解釈出来なくもないけれど、石井隆の劇画を舐めるようにして読めば、性愛の只中での腕時計の着装率はきわめて高くて【三十分の街】に限った演出ではないのだ。

 【緋の奈落】、【水銀灯】、【やめないで】、【蒼い閃光】(いずれも1976年発表)といった作品内の男たちは、服を脱ぎ捨てても腕時計は外さない。下着を脱ぎ捨てても時計のベルトを弛めないままの姿も散見される。使用時間ごと料金の変わるホテルを利用する身として便宜上どうしても外せないでいるのではなく、男性の身体をめりはりを持たせて描く手段として腕時計が登用されて見える。それとも、都会に暮らす勤め人と分かるように襟章代わりなのか。

 いずれにしても彼らは腕時計の文字盤を一度も覗くことなく、面前に波打つおんなの乳房やくねる首すじに視線は釘付けとなる。ざわめく事態のはざまにあって、腕時計は時刻を知らせる役割を放棄する。

 後年石井が撮った映画『ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う』(2010)では、腕時計は死肉をこびり付かせた忌まわしき遺品でしかない。かつて着装していただろう故人に対して、登場人物および観客の想像力は最後まで起動しない。今はどこにもいなくなった人間の物腰や言動を推理し、懐かしむための引き金とならず、どこまでも金銭的な価値を探られ、完全犯罪を瓦解させ得る証拠物件といった全く人情味を喪失した小道具へと貶められる。石井世界の腕時計の本質をそれとなく示唆する場面ではないか。

 タイトルに具体的な時間を挿し入れた【三十分の街】という作品は、ともすれば単純な時計や時間を主軸にする作品と思われてしまうが、実態はそうではないのだ。あくまでも駅という公共の構築物に設置された「大時計」の描写こそが重要なのである。腕にはまった「個人の時間」ではなく、誰ひとり持ち出すことが出来ず、粛々と時を刻み続ける「公の時間」がクローズアップされており、為すすべなく従うしかない、絶対に勝てない相手として「大時計」が君臨している。

 その面影は私たちの胸にひたひたと染み込んでいく。容易に洗い流せるものでなく、すぐに揮発するものでもない。深く浸透したその面貌(かお)は沈降する香りをじわじわっと蓄えて、登場人物と私たちの胸を知らず知らず圧迫する。



2020年7月18日土曜日

“運行図表(ダイヤグラム)”~石井隆の時空構成(4)~


 過日海外から客人を迎え、駆け足で町のあちこちを案内する機会を持った。その際の会話で印象に刻まれたのは、彼らが日本の鉄道に向ける驚嘆のまなざしであり、それを通じて拡大解釈された私たち日本に住まう者への礼賛の念の強さであった。

 緻密な運行図表(ダイヤグラム)に一分と違わず発着を繰り返す電車にひどく驚き、これを成し遂げる鉄道会社の社員たちを讃えるとともに、日本国民の繊細さ、生真面目さの発露ととらえては言葉を尽くし、目をきらきらと輝かせる。

 はたしてそうだろうか。彼ら鉄道員を私たちの代表と考えられると迷惑ではないにしろ、何だか妙な気持ちになる。ダイヤグラムを是が非でも守らせようとする威圧的な社風が醸成された結果、無理な速度調整をした運転士が現われて、遂には多くの死傷者を出した脱線事故に至ったことを私たちは記憶に深く刻んでいる。素晴らしい、世界に誇れるとべた誉めされても正直あまり嬉しいとは思わない。

 国民性や民族性といった言葉で何百万、何千万もいる孤別で多彩な人たちを一括りにして形容することの愚かしさ、危うさについて、歴史は雄弁に物語って絶えず警鐘を鳴らしている。私などは歴史なんかに無縁の存在で、名を残す働きなど何もせずに黙って墓に納まる役回りだけれど、先人たちが無念の涙を流しつつ足を踏み外した陥没穴に目を凝らし、上手にそれを避けて歩む義務のようなものは託されて在ると思っている。軽口はたたかないように自重し、また、相手の言葉も鵜呑みにはしない。

 珍客の話題はこれぐらいにして、今は何を言いたいかといえば、日本の鉄道と駅ぐらい時間に支配された存在はないという点だ。先述した臼井の「駅と街の造形」という本のなかに次のような文章がある。駅をめぐる森羅万象に骨の髄まで浸らせる、そんな鉄道マン人生を過ごした臼井ならではの言述だ。

「列車は時刻表に基づいて運行され、乗客は駅に装置された時計や運行案内板にしたがって行動する。駅を支配するものは誰でもなく実に時間であり、駅は時間の表徴(ひょうちょう)に満たされた空間といえる」(*1 111頁)

 駅を利用する私たちは大きな車輪付きの台に乗り込み、長距離移動にともなう肉体疲労を回避しようとしている。中には純粋に電車そのものを愛で、がたごと揺られることの愉悦を味わいたいが為にしげしげと通う趣味人もいるだろうが、大概は運賃を払って移動する目的である。気持ちを縛るのは距離や速さ、混み具合、目的地での過ごし方であって、駅と電車がどれほど正確に動いているかなんて意識しない。

 石井の初期の劇画【夜がまた来る】(1975)を振り返るとき、ついつい我々の目はおんなの肢体に行き、その暗い瞳を覗きつつ正体のまるでつかみ切れないことに苛立ち、ついでにその横で立ちすくんで狼狽しまくる哀れな若者の横顔を笑って、いやはやおんなは怖ろしいものでござるな、男など蜘蛛の巣にかかった蜉蝣(かげろう)みたいだな、と自嘲しつつ頁を閉じる次第なのだが、実はこの劇の肝になっている点は鉄路という完璧なダイヤグラムに劇が丸ごと乗っかっている点である。

 始発の電車に乗り込んだ男女を描いただけでなく、途中下車した男女が離れ離れになることなくプラットホームに居続け、まもなくやって来るはずの次の電車を待ってホームに無言でたたずむ風景は、時間というものに男女が支配されていて、その呪縛からは到底逃れられないという事を裏打ちしている。

 “日本の駅空間”に流れる時間は人の生理に特におかまいなく刻み続ける面からいって、まったく冷徹で容赦がなく、その分、人間なり恋情という物象が無常で儚いことを暗に伝えてくる。石井隆がそれに気付いて劇に盛り込んだのか、それとも往事の誰もがそう思い共振したものか。たぶん前者ではなかろうか。石井ほど訥々と、けれど徹底してドラマを思考する者はいない。

 石井はその後も“日本の駅空間”を支配している「時間」を劇中に採用し、読者の気持ちを揺さぶり続けた。石井にとって都会に生きる男女を描くことは、駅空間にまみれるという事でもあった。

 ここでさらに例として石井の劇画作品を上げれば、【三十分の街】(1977)が分かりやすい。街娼との束の間の交感を描いたこの小編は、駅の入口に掲げられた大時計のアップで始まり、同じくその針のツンと動いた瞬間を写実的に描いて幕を閉じている。肉体を丸ごと一定時間、ゆきずりの相手に差し出す娼婦とそれを買う男を描いたこの寸劇を、単なるひそやかな情事の擬似ドキュメントと読んで思考をあっさり止めてしまう読者がほとんどだろうが、込められた石井の思念はずっと深く、湿度も予想外に高い。

(*1):「駅と街の造形」臼井幸彦 交通新聞社 1998

2020年7月1日水曜日

“駅を呑み込む”~石井隆の時空構成(3)~


 平穏な景色が程なく変異して、回復不能な乖離へと至り往く石井隆の劇。日常と非日常、伝統的なモラルと情愛、その境界をあっさりと跨いでいき、時には生命の輪郭さえも曖昧になる。石井隆の劇における特殊な生死(しょうじ)すれすれの舞台につき、いまは「電車」や「駅」に絞って考えている。

 たとえば『ヌードの夜』(1993)を観ている最中、私たちは物語の展開に無我夢中となり、また演出の巧みさに乗せられて見逃しがちなのだが、中盤の電車の使い方などはよくよく考えるとかなり異様な、つまり、石井の劇でありがちな“不自然”な展開が認められる。まんまとだまされて殺人の濡れ衣を着せられた男(竹中直人)が、高層ホテルの客室から逃亡したおんな(余貴美子)を探し当てる。勤め先帰りのおんなを待ち受け、電車のなかで再会を果たすのだった。その手には死人を無理やり詰め込んだスーツケースを携えている。

 放り込まれたドライアイスがかろうじて腐敗を引き延ばしているにしても、同じ車両に居合わせたほかの乗客はその重たく忌まわしい遺体が直ぐそばに居合わせているのを露とも知らない。前代未聞の生と死の混在する空間を石井は笑いを誘うような役者の物腰と台詞でフィルムに定着させながら、その実は画集【死場処】(1973)と同列の危急の光景を淡淡と描写するのである。

 同じく道具立てに電車が選ばれた作品を引き合いに出せば、石井の初期の劇画【夜がまた来る】(1975)が適当と思われる。【死場処】とも製作年が近しい。石井は自作単行本を絶版とするのをこれまで常としたから、この【夜がまた来る】を実際に読んだ人は残念ながら限られるだろう。簡単な説明が必要と思われる。

 まず題名に関して言えば、後年撮られた夏川結衣主演の映画『夜がまた来る』(1994)と同じ字面であるのだが、両者を構成する要素にあからさまな共通項は見当たらない。石井はこれぞというタイトルを懐中で温め、歳月を経てから別の作品に冠することが度々ある。たとえば『天使のはらわた 赤い眩暈』(1988)の台本が「ヌードの夜」と当初呼ばれていたという話はよく知られるところだ。石井隆という特異な作家が、ゆったりと思考し堅実に前進を遂げる性格と窺い知れよう。

 個別の物語として観客は認識するものが、存外石井の中には題名を“くびき”と為して何がしかの切実な祈念なり共振するサイドストーリーを底流させることは往々として有ることだから、劇画【夜がまた来る】と映画『夜がまた来る』の間にはそんなひそやかな連結の意図が含まれるかもしれない。いや、実は大いにあり得ることで全く油断ならないのが石井隆という作り手の怖さなのだが、いったんこの題名の件は風呂敷を畳んでいずれの機会に譲ろう。

 劇画【夜がまた来る】にだけに焦点を合わせ直し、その内容を縮訳すれば次のようになる。高校の同窓会帰りの男ふたりが始発電車に乗り込む。夜通し乱痴気騒ぎをした訳でもなさそうで、強烈な睡魔に襲われ正体を無くす程ではないのだ。他愛もない会話がいつしか始まる。朝の冷気を裂いて走り出す電車の車両には、彼ら以外に乗客の姿はまるで無い。

 背広を着込んでいる男は既に社会で出たらしいが、もう一方は普段着のジャンバー姿でいささか童顔である。背広の男は相手の今の暮らしぶりを探ろうとするのだが、若者は世間慣れしておらず会話はいよいよ弾まない。非日常から日常に向けて電車はがたがたと進むなかで、それぞれを虚ろな喪失感、淡い屈託のようなものが包み始める。

 そんな列車が駅に停まるとひとりのコート姿のおんなが乗り込んでくる。あいかわらず他に乗客は見当たらず、密室に三人の男女が閉じ込められた形となる。悲鳴がして若者が見やれば、男がおんなに無理強いをしようと暴れている。加勢を求められた若者は成り行きで手伝ってしまう。

 背広の男は次の駅で降りてしまい、おんなと若者だけが残される。ここから劇は変調する。おんなはロングブーツの脚を巧みに使い、トラバサミさながら若者の下半身を捕獲して性交のつづきを強要するのである。若者はすっかり心身のコントロールを奪われ、おんなの肉体に埋没していく。事が済んで、視線を交わさぬままに無言の時間を手探っていくうち、いたたまれなくなった若者は逃亡を図ろうとする。次の駅に到着して発車のベルが鳴り響くのを聞きながら、このおんなとは金輪際会うまいと決めるのだった。無言のまま、のっそりとホームに降り立っていく。

 しばし意味もなく高架下なんかをうろついた後で、帰宅のために駅舎へと舞い戻る若者である。そもそも降車予定の駅はとっくに過ぎていたし、今日は日曜で仕事が休みだ。気を取り直して家路へと急ぐのだった。閑散としたプラットフォームに着いたところで目に飛び込んで来たのは、あのコート姿のおんなが何故か列車から下車しており、うつむきがちに佇立する姿なのである。足元の小石なんかを蹴っているが、男を待ち構える気配が濃厚に漂う。今やおんなの方が狩りをして男を玩ぶ時間なのである。若者の顔から血の気がさっと失せ、頬に冷や汗が流れ落ちるところで物語は幕を閉じる。

 石井隆の電車がいささか突飛な位置にあることが、この【夜がまた来る】からも読み取れる訳である。特に若者が駅構内に再度足を踏み入れ、そこにおんなを発見するところなどは極めて奇抜で印象に刻まれる。

 【夜がまた来る】に起きた男女間での立場の反転は、石井隆の世界と長く親しむ読者や観客には馴染み深いものだ。理不尽な男性優位社会にあって当初女性が性的に虐げられていくがその様相が突如反転していき、今度は女性側が底無しの生理機能と強靭な精神を存分に用いて男を完膚なきまでに組み伏せていく。この図式は承知の通り、石井作劇の心柱(しんばしら)となっている。

 虚勢を張るだけの空疎で弱い生き物に男は過ぎず、最終的におんなの敵ではないという【夜がまた来る】に穿たれたピリオドは、石井の他の劇画作品【埋葬の海】(1974)、【紫陽花の咲く頃】(1976)、【街の底で】(1976)、【おんなの顔】(1976)、【やめないで】(1976)、【墜ちていく】(1977)等と明らかに通底し、それぞれと深く共振していく。劇画と映画の境界を破って、『天使のはらわた 赤い教室』(1979 監督曾根中生)にも当然ながら繋がっていく。

 その意味で【夜がまた来る】を真摯に語るつもりならば、石井隆の劇を縦断するこの性差をめぐる不動の構図、飽くことなく反復される声明(しょうみょう)にも似た石井の一途な想いに手を伸ばして、これを覚悟持って飲み干し、その上で“人間”なり“社会”を語ることが正しい役回りと機会なのだと感じる。いずれ優れた評論家や研究者により石井が徹底して論じられる機会は訪れると信じているし、その際に性差をめぐるこの手のテーマは盛んに取り上げられるはずだ。

 この主題の前では電車という大道具は存在感を減じ、はっきり言って瑣末な事柄となる。どこまでも粘着してやれ電車だ、やれ駅だと騒いで言葉を継ぐのは石井が望む方角とはまるで違って野暮の極みかもしれない。少なくとも真っ当な作品論とは呼べないだろう。この世界で役立たない無駄な道程であると私だってそう思わなくはないのだが、まあ、一種の隙間産業である。外野席から声を枯らして応援するだけのベンチを温める順位にも入らぬ自分は、他人からは滑稽で阿呆な奴と言われてもこのまま可笑しな列車談義を続けよう。

 航空機、車両、列車といった公共の交通手段のなかでの扇情的な場面というのは古今東西の物語中に数限りなくあり、それ自体は珍しくない。何がひとをそのように駆り立て、どうしてそれが私たちの娯楽へと直結するのか、心理学の専門家でない自分には答えが出せない。吊り橋理論やタブーを侵犯することで人間の軸芯にある性がめらめらと発火する、そういう事は有りそうな気がするが確かな事は言えない。

 同じ時代に人生を歩みながら、それぞれに与えられる機会の数も物象も段差があって一律ではない。これを読むどこかの誰ぞは動く車両の旅客となる内に、それとも埃まみれのプラットフォームに降り立って、幸いにしてか不幸にしてか愛憎渦巻く局面に遭遇してしまい、今も魂にあざやかな痕跡を残しているかもしれないけれど、私にはそういう浮いた出来事は多く起こらなかったし、おそらくこのまま平凡な生を全うするに違いない。

 こんな年齢となっても情念の荒野が未開拓なままの自分が【夜がまた来る】に描かれた列車について、では一体なにをどう語れるかと言えば、ただただ石井が日本の鉄道車両を丹念に取材し、当時の表現に従えばゼロックスで運転席をのぞむ先頭車両の姿、客車内の誰もおらない座席群、ドアの外に広がる茫洋とした小さな駅の様相、高架下や階段といったものを熱心に転写しては紙面に組み込み、劇を編成してきたことへの言及となる。

 ロケを重視した映画的手順を導入し、「映画そのもの」を誌面に産み落とそうと石井は夢描いて孤軍奮闘した。そのなかで写真の多用が起きたことは周知の通りである。それがどうしたのよ、石井の劇画はそういうモノだろ、モノクロのざらざらした街路や木立やビルがひしめく世界だろ、何も特別なことはあるまいよ、いい加減にしろと憤懣覚える人もいるだろう。

 此処はきわめて大切なポイントであった。本来自由闊達にペンを走らせ、深宇宙での苛烈な王位争奪戦でも地中の恐竜王国でもケーキで出来た城での魔女からの脱出だって何だって描ける漫画の表現空間にあって、ひたすら現実風景を淡淡と取り入れていった行為は、石井隆という作家の針路を自ずと決めたところがある訳だし、そのほとんど変えることが無かった描法が物語の色度(しきど)の振れ幅を調整し、強固な「作風」を彼にもたらした点は特筆すべき出来事だろう。

 そうして、そのこだわりが遂に「電車」や「駅」を呑み込んで何が起きたかと言えば、石井隆の劇に「時間」の概念ががっちりと刻まれ、隅々にまで「時刻」が根を張って行ったのであり、この展開は石井世界を縦覧する上でも絶対に見逃せない関所ではないかと考えている。