2012年3月18日日曜日

“Scintillating scotoma”



 視界(ここでは知識の範囲、奥行きといったことでなく、実際この瞬間に瞳に映るもの)をひどく歪ませ、向き合う同僚の顔をどろどろに溶かして一ツ目入道に変えてしまう、そんな異常が起きたことを以前書いた。

 医者からは十分な説明をもらえなかったものだから、不安を拭えないままでずっといたのだけれど、ウェブというのはつくづく有り難い、別件で検索を重ねるうちに偶然にもその正体に行き着いた。いやいや、発症の原因がよく分かってはおらないというから、“正体を見た”というのは当らない。名前のあるもの、つまり珍しくないものであって、さしあたり慌てるまでもないと判っただけだ。それでも随分と気持ちは軽くなって、こんな風に皆に告白なぞしてしまっている。

 あのとき私を襲ったのは、どうやら“閃輝暗点(せんきあんてん)”Scintillating scotomaと呼ばれる現象らしい。虹色の結晶風のものが宵の明星よろしく最初はぽつんと点になって現われ、やがて厳冬期の車のフロントガラスがじわりじわりと氷結していくように、大きく育って視界を侵食していく。最後はエルンスト・ハースErnst Haasの撮ったオイル染みのような影が立ち塞がるのだが、眼球面のカーブと関わるものか、直線でなく蛇がのたうつように、はたまた渦を巻くように当初連なっていく。それは人によっては(作家の芥川龍之介なのだけど)歯車の次々と浮かんでは繋がっていく奇怪な姿を連想させるようだ。薄べったい雲母の、日光に照らされて七色に映えるがごとき“鮮明な幻(まぼろし)”の背後には、現実の光と影が控えている。湾曲してみたり白く霞んでしまうものだから、仕事や家事に当然ながら支障が出る。歩行しにくい、運転出来ないというのが第一に困った話だし、やはり怖いし心細い。視界が狂うと頭が半分眠ったようになり、他愛もない会話すら儘(まま)ならなくなる。

 課題の山積なって忙殺されることが引き金になるという指摘もある。つまり厄介な時期を選んでわざわざ出現するのが、この“閃輝暗点(せんきあんてん)”という訳だ。そうでなくとも疲労困憊(こんぱい)気味であるのになぜこんな時に、こんな状況でとひどく当惑する。何もかも放り投げて逃げ出したくなる。子供のように床に転がり、もう好きにしたら良いさ、と駄々をこねたくなる。

 けれど、今になって冷静に振り返れば、ひどい怖れと焦燥のある反面、昔なつかしい万華鏡を覗いているような、どこか愉快な気持ちも味わったように思う。破砕なったプリズムが目の前にぱらぱら散って乱反射するような、表現しにくい独特の妖しさが(まさしく眼前にて)広がっていて、喜びなり楽しさに直結する部分も確かにあるのだった。実際“Scintillating scotoma”で画像検索してもらえば分かるのだが、絵心のある人は画布やモニター上に嬉々として再現し、多くのひとにその景色を共有してもらいたいと強く願うのである。うつくしく、興味深い風景がたくさん並んでいる。墨汁を塗りたくるようにして視界が徐々に狭まり、光が失われていくのではなくって、何か奇妙なものを“見た”感覚が残ってしまうから、それが熱烈な“目撃談義”や絵画での再現に繋がっているのだろう。著名な作家と同じものを“見れた”、あれは儲け物だったかもしれぬと内心喜んでいるところが私にだってある。終わってみればそんな呑気なことも言えてしまう、病気とは到底呼べぬ代物である。

 さて、この一件を通して学んだのは、“見る”という行為の怪しさと愉悦である。“見たこと”は瞬く間に肉体の奥深い場処に収納され、扉は堅く閉ざしてしまうから、他人の“見たこと”と己の体験とは正確な意味において比較の仕様がない。映画や絵画はある程度は再現性を具えているけれどが、同じ場所に並び佇んで同じものを眺めていても、角度も光も、眼球に据えられた水晶体の濁りもまちまちだから微妙に違ってしまう。現実世界で“見る”ということは、だから唯一無二のもの、宇宙にひとつだけの煌(きら)めきなのであって、そう意識すればいつもの風景が急に愛しいものと感じられるし、明度をぱっと上げるようである。

 この世に存在しないと言われるもの(例えば一ツ目入道)だって、ありありと“見える”ことが現にある訳だから、世にリアルと呼ばれるものにしてもどこか段差なり変調があって当然、どころか相当に怪しげなところが混在しているのじゃないか、という疑念をいまは抱く。

 個々の隙間に忍び込む、この“見るという行為のずれ”について石井隆という作家は、かなり意識して作品のなかに取り入れて来たように思う。たとえば、『ヌードの夜 人が人を愛することのどうしようもなさ』(2010)の終盤、れん(佐藤寛子)という名のおんなが目撃してしまう“なんか”が直ぐに思い浮かぶ。すれすれの河岸で生きてきた哀れな魂の、終(つい)に渡河に至った道程を幻視なり幻聴の不意打ちで表しているのか、それとも、あの荘厳な地下神殿に“なんか”が飛翔する影が確かにあったのかもしれず、その両方かもしれないし、いや、どちらでもないかもしれず、もはや誰にも分からない形で終わっているのだけれど、横に並んだ竹中直人演じる村木という男の目にはいささかもそれが映じていないというのがひどく寒々しい。

 強く抱き寄せるからだの、薄衣(うすきぬ)の向こうにしっかりした体温を感じ、我が頬を柔らかな相手の腹に密着させていく。電流が肩から腕先を通じて相手へと駆け抜け、引き波となって寄せ返し、さながら性愛の頂きに登ったかのような激しい痙攣と嗚咽をもたらす。かくも一体化なった、苦労してようやっと誂(あつら)えた形にもかかわらず、刹那“見るという行為のずれ”が起動して両者の間を無惨にも割(さ)いていくのだった。お前たちはひとつ身には決してなれぬ、それが宿命なのだと告げ諭し、人という生きものが根源的に背負っている孤影を黒々と落としていく。

 幾つかのインタビュウで語られているから支障ないと思うが、石井は幼少時の病床にあって薬の作用か熱によるものか分からぬが、この世に存在しないと言われるもの(例えば幽霊)を目撃している。確かに目撃しているにもかかわらず“見たこと”にならぬ、嬉々として語るわけにいかぬ、孤塁を守るような日常を石井は過ごしたのであり、これを繰り返し公言してはばからぬ石井の真意はどこにあるかを私たちはもう少しだけ考えて良いように思う。

 病弱であったことに同情を求めるではなく、また、人並み外れて繊細だったことの自慢でも当然なくって、“見ること”“見れぬこと”が劇空間「石井世界」において重要な役割を果たしている、というサインが込められている。

 本来描かれてあるべきことが描かれず、在ってはおかしなものが画面を占める。焦点が微妙にずれていることが、かえって我々の心眼の働きを誘発する。そんな“見る”という行為の怪しさと愉悦に充ちているのが、石井隆の作品と思う。

2012年3月11日日曜日

“物質的な雑用”


 ボーヴォワールSimone de Beauvoirは台所に立つのを避けた。料理が出来なかったわけでなく、その行為の固定なることが女性を男性社会に隷属させる第一歩と捉えたからである(*1)。懐に余裕があるときにはホテル住まいをして、家事と名の付くことから距離を置いた。

 当然彼女とは視点が異なるだろうが、石井隆の“台所”というのも特殊な場処である。その創造世界における“台所”は私たちの身近なそれとどこか違って、隔絶されたような、なにか遠い処にあってぼんやりした印象を抱かせるものとなっている。性愛の景色や愁嘆場(しゅうたんば)が差し挟まれるとは言え、広義の区分けに従えばラブストーリーに相違ない石井の劇であるから、家庭臭、生活臭が希薄となるのは当然といえば当然だろう。

 されど、つぶさに作品を見つめ返していくならば、忌避(きひ)されている、とまで言うと極端かもしれないけれど、不穏な気配を漂わせる場処となって時折牙を剥くのが石井世界にとっての“台所”であると解かってくるのであって、これは到底無視できないかたちと思う。石井は名美に代表されるおんなたちを台所に立たせるのを避けている。料理が出来ないわけでなく、その行為の果てに待つのが情念の噴出や、憤怒の臨界と爆発だからだ。

 『GONIN2』(1996)に終盤描かれた“台所”については先に書いた。スクリーンを染めるのはほんの一瞬であり、加えて淡々として抑制の利いた筆致ゆえに多くの観客は刹那に見送り、直ぐにも忘れ去られる場面であるのだけれど、流れに棹差して内実を透かし見ればとても穏当とは言い難い、むしろ不吉な描写と言えるものだった。もっとも公開当時からその凶兆に気付いた訳ではなくって、後年私たちの心胆を寒からしめた『人が人を愛することのどうしようもなさ』(2007)より逆照射されて、ようやくこの箇所がほかの石井作品の“台所”と根茎を繋ぐ可能性に思い至ったのだった。

 『人が人を──』は人間の魂の多層性、不可逆性を浮き彫りにした傑作で、喜多嶋舞が名美という存在を体現すべく全身全霊を捧げていく様子がもはや崇高とさえ評して過言でなかったのだけれど、その物語の軸心には『GONIN2』の志保(西山由海)の件(くだり)とよく似た面貌が埋め込まれていた。まず結婚生活の破綻があり、“台所”があって“包丁”があり、隣接した寝室で凄絶な凶行があり、という展開が見止められる。石井ファンには承知の通り、『人が人を──』は1991年9月より石井が発表した短篇連作【カンタレッラの匣(はこ)】中の【主婦の一日】のイメージを踏襲しているから、この三作品は尾根(おね)を結ぶ連山と称して問題ないだろう。石井らしい反復がここにはある。

 手土産のあわびを調理しようと“台所”に立って“包丁”を振るっている最中に、居間兼寝室に招いた恋人に開かずの間(ここではビデオテープ)を覗かれてしまい、急旋回(恐らくは鮮血飛び散る)の予兆を湛えた肉汁ぬめつく刃先のクローズアップで幕を閉ざす【降水確率】(1987)や、過去の暴行事件に関わる男たちの再訪にほとほと困惑し、その中の一人(鶴見辰吾)を“台所”で撲殺してしまう『フリーズ・ミー』(2000)、それに、衝動に駆られて自制が利かなくなった名美が、“台所”のガス台にかかっていた薬缶をだしぬけに掴んでその中身を肉親に浴びせ掛けてしまう【真夜中へのドア】(1980)なども思い出される。

 最近作『ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う』(2010)の冒頭でも“台所”は描かれていた。男との乱闘でしびれを切らして“台所”に走り、“果物ナイフ”をその手に持ち帰ったのは姉役の井上晴美であった。我が国の住宅事情が“台所”と寝室をごく近い場処に定めてしまい、愛憎の現場に“包丁”なり“果物ナイフ”なりを即座に調達可能にしている事は現実の刃傷沙汰(にんじょうさた)の顛末を見ればよくありがちであって、なにも石井隆の発案による特別な舞台装置ではないのだけれど、調理行為や料理を囲む団欒をこどこどく回避し(*2)、“台所”を武器庫としてだけ使っていく傾向はやはり独特であるように思う。

 その背景には女性という存在を男性社会に隷属された者として強く意識し、その解放を望む気持ちが働いているものと推察しているが、正直言ってよく分からない。ただ、頑(かたく)なまでに繰り返される一連の描写は常に直情的、直線的で、打算を帯びたものはあまりない。思惑が働いても計画は大概稚拙で、憐憫を誘うものばかりだ。おんなたちの側に視座が置かれ、その不可逆の、永劫の罪をまばたきなく静かに見守るばかりである。途切れることなく注がれるまなざしは誌面とスクリーンを貫き、どこまでもおんなの後ろ姿を追っているように思う。しなやかで且つ強靭であり、ボーヴォワールの意志に決して負けていない。

 さて、あの揺れ、あの混沌から一年が過ぎましたね。今もこうして好きな事に想いをめぐらせ、好きなことに勤(いそ)しむことが出来るだけ幸せなことと思います。これを読まれる人のこれからの時間の穏やかで哀しみの少ないことを祈ります。

(*1): ボーヴォワール「私たちの選んだ生きかたのおかげで、私がいつも女性の役割を演じなければならなかったことはありません。でも、ひとつだけ思い出があります。戦争中、だれかが食料を補給したり配給券を確保したり、ちょっとした料理をしなければなりませんでした。もちろん私がしました。サルトルにはまるで不可能でした。男性ですから。(中略)こうした物質的な雑用を私がひきうけたのは、私とサルトルとの関係のせいではなく、彼に能力がなかったからです。サルトルがこうしたことに無能なのは男性優位主義的教育が家事全般から彼を遠ざけた結果なのです。彼にできることといったら目玉焼くらいかしら。」
サルトル「そんなところかな。」
「ボーヴォワールは語る 『第二の性』その後」 Simone de Beauvoir aujourd’hui アリス・シュヴァルツァー 福井美津子訳 手元にあるのは平凡社ライブラリー51 1994 引用はその85-86頁で1973年ローマでのインタビュウ   
(*2): 『ヌードの夜 愛は─』の終幕のシーケンスはこれまでの流れと真っ向から対峙する。ちひろ(東風万智子)は調理行為を通じて村木(竹下直人)のこころに敢然と挑んでおり、料理を囲む団欒を遂に実現させている。石井世界が大きく変貌した証しと思う。ただ、村木の住まいの“台所”は機能しておらないし、カメラは最後まで引きっぱなしで作られた料理に肩入れしていない。どことなく変則的で、この辺りの微妙さ、繊細さも石井らしくて興味を覚える。


2012年3月10日土曜日

“夕餉(ゆうげ)の仕度”


 映画『GONIN2』(1996)は、まがう方ない活劇である。白刃(はくじん)が闇を裂き、銃火を映じて赤赤とぬめつく。滑空自在のカメラと畳み掛ける編集、叫び疾走して疲れを見せぬ役者たち、余裕で色香を滲ますおんなたち、そこに絡まり混ざる始原的なドラムの雄たけび──

 当然ながら血で血を洗う暴力描写と肉体の躍動する様に、観客の多くの視線は束ねられていく。銃身支える指先を目で追えば、その果てには我らを吸い尽くさんと待ち構えるかのごときおんなの肌がある。瞳なり脳髄がことごとく捕縛されていくのは致し方なく、観劇の後に口を開けば、喜多嶋舞や余貴美子、夏川結衣の暴れぶりとすらりと伸びた肢体を誰もが話題にするのは必然だろう。送り手の石井隆にしてもご満悦、して遣ったりの気分に相違ない。

 観客を恍惚の境地へと橋渡しする力技(アクション)以外の、導入部やどちらかと言えば穏やかな箇所は、それでは物語の“尾ひれ”に過ぎないのだろうか。

 石井には大衆の抱く曖昧模糊とした夢まぼろしを透かし見て、くっきり生々しく塑造して提供する商業監督の一面がまず在り、これに併行して自身の編み出す世界観(いわゆる“石井世界”)をどこまでも堅守する(気付く人は気付いてしまい、次第に虜(とりこ)になる)突出した作家性がある。明滅を繰り返すこの二種の色相はウロボロスのように互いを侵食してみたり、遺伝子の螺旋を描くように寄り添い舞って、銀色の映写幕をどこまでも覆って見える。

 我々の日常とてハレとケとが交互に寄せ来るまだら模様、縞模様の風体であるのだし、人の生きる上で表と裏はつきまとう。どちらが本当とか嘘とか、どちらが上等とか言うのでは決してなく、石井隆とは実に多層で一筋縄にいかぬ作家であることを告げたいだけである。一瞥(いちべつ)をもって見送る訳にはいかぬ、澄んでいながらも光さえ届かぬ深淵を抱えた沼なのだ、底なしなのだ、と虚空に向けて囁きたいだけだ。

 そんな目線で『GONIN2』を再度俯瞰すれば、これは食べる前のキャンディにかたちが似るように思う。男の浅慮、暴走しがちな夢想という粘っこい糖質と血しぶき由来の酸味、それにおんなの肝に巣食うさらさらの結晶を絡ませた上で、銃弾と日本刀との衝突がもたらす摩擦熱でどろり成型してみせた宝石大のキャンディ。これを赤いセルロイド紙で包み、両端をねじって金魚の“尾びれ”のように仕上げている。誰もが見惚れる殺陣(たて)は真ん中の飴玉の部分であるのだが、細心の注意を払って折り込まれた両端のひだひだとて、見落とす訳にいかぬ大事な意匠だろう。

 たとえば、次のシーンは終幕近くになって挿入されたものだ。貴金属店を急襲した賊の手から宝石の山をまんまと横取りしたおんなたちの内(なか)に、愛を見失って途方に暮れる主婦“志保”(西山由海)がいた。追っ手の包囲網が狭まってもろとも捕獲されんとする寸前、この志保というおんなだけはからくも劇の流れから離脱して日常世界への復帰を果たしている。ところが、その逃げたおんながわざわざ終盤も終盤の押し迫った段階で、忽然と(場処は違えども)戻ってくるのだった。



志保の住む家・台所(同じ頃)
    志保が夕餉(ゆうげ)の仕度をしている。流しで、トントントン、野菜を切っている。
    後ろのテーブルには、夫の茂行と志保の茶碗類。しかし茂行の姿、気配は、無い。
志 保「……」
    志保、黙々と野菜を切り刻み続ける。指にリングは無い。(*1)
 

 (注:この先結末に触れる)──“同じ頃”というのは、後に残してきた他のおんなたちが廃墟然とした建物奥で追っ手に完全に包囲されてしまい、死出を覚悟で敵中突破を図っていくその時日(じじつ)を指す。雨あられと弾が降り注ぎ、銃煙の霧となってたなびく中でおんなたちは次々に“フリーズ”していくのだったが、通常石井世界にあってそれは現世に“死”を穿(うが)つ刻印であるから、ここに一瞬、夕食の支度にいそしむ安全圏のおんなの立ち姿がよぎることに虚を突かれ、思わず呻いてしまった。

 やはり“同じ頃”に一陣の風が吹き渡り、先に逝った娼婦サユリ(大竹しのぶ)の身体を巻いていた一枚の毛布をまくり上げている。降りたはずの幕が再度開いた恰好で、つまりは石井なりのカーテンコールであって、逃げおおせた志保の顔も儀礼的に点描したに過ぎない、そう受け止めることはここで可能だろう。

 また、余、喜多嶋、夏川の三人の前後に死者と生者を配置して、今まさに潜らんとする死線を明確にする、そんな意図も少しはあるに違いない。どう受け止めてもらっても構わないとする石井のスタンスは常に変わらないから、どれもこれも正解といったところだろうが、私なりにもう半歩だけ踏み込んで得る感触は、この雷光の突如射し入るようにして出現した独りのおんなの情景が街角でもなく旅先でもなく、寝室でもなければ喫茶店でもなくって、“台所”を舞台に選んでいることの幽かな“不自然さ”である。

 銃弾に肉と骨とが貫かれ、粉々に砕かれようとも、男たちの横暴に対して覚醒した我が内なる力をもって立ち向かうことを決意した、その“同じ頃”、そうして、傍らに横臥した死者の肉体がそろそろ自己崩壊を始める、その“同じ頃”に対置された“台所”というのは一体全体何だろう。

 古今東西“台所の光景”とは母性と寛容とを顕現し、まばゆき光背(こうはい)に縁取られかのような神聖さを付帯されがちであるが、ここで石井もその白さと温かさを強調して、洞窟のような場処で朽ちていくしかなかったおんなたちをより黒々と塗りこめるための補色として対極的に置いたものだろうか。

 それとも、魂を粉々に砕かれようとも、男たちの横暴に対して覚醒した我が内なる力をもって立ち向かうことを“決意した者”として、そうして、その傍らに横臥した死者の肉体がそろそろ“自己崩壊を始めるといった状況”の、つまりは“同じ側に立つもの”として、この“台所”を描いたものだろうか。どちらとも取れるが、より石井らしく思えるのは明らかに後者だろう。安全圏にない“台所”が挿されていたように思う。

 劇の中盤に描かれた厨房での銃撃線は、活劇映画史に刻まれる凄絶で悪夢的なものだった。ステンレスの大型機器が妖しく反射し、お手頃なシャワーもちゃんと付属している。それゆえに選ばれたに違いないけれど、思えばあの場面とて上記に等しく、そろそろ自己崩壊を始める気配の生肉のでんと転がる“台所”であったのだし、ちひろ(喜多嶋舞)というおんなの転機となる場処であった訳だから、符合するものは確かにあるのだ。


(*1):準備稿 シーン113