2011年11月16日水曜日

“寒地獄”



 堂々めぐりと笑われそうだけど、小泉八雲(こいずみやくも)の著作に気持ちを引きずられている。出入りの庭師“金十郎”に誘われ、町のお祭りに足を運んだ際の印象を綴った次のくだりでこころ騒ぐものがあった。 

────私が地獄の雰囲気のうちに所どころ不釣合な点のあることを考えている間に、地獄に関する普通の仏教の絵本のうちには寒さの苛責(かしゃく)の絵を一つも見ない事を思いついた。

実際インドの仏教は氷の地獄の存在を教えている。たとえば人の唇が凍るので「あゝたた」としか言えない──それで“あたた”と呼ばれる地獄がある。それから舌が凍るので「あゝばば」としか言えないから“あばば”と呼ばれる地獄がある。それから“大白蓮地獄”がある。そこでは寒気にさらされた骨は『白蓮の花の咲くよう』である。金十郎は日本の仏教に氷の地獄があるはずだと思うが、たしかには覚えないと言う。

私は寒気の考えは日本人に非常に恐ろしい物になれるとは思わない。日本人は一般に、寒い事が好きであることを告白している。それから氷や雪の愛すべきことを漢詩などに作る。(*1)


 八雲は“擦りあわせ”の名人だ。来日するまでの四十年間で培(つちか)った知識と日本で実際に目撃なり耳にしたことを寄せ木して、異質なるもの、別個なるものを浮き彫りにする。さらに念入りに咀嚼して想いを馳せていく。季節は酷寒の頃、神社やら墓所に面した町の広場に出店が立ち並ぶ。一角にはお化け屋敷や地獄めぐりといった妖しげな見世物小屋が軒を連ねており、ふたりはその一つで小銭を払って冥途のジオラマ─炎に包まれた光景─を観て歩くのだったが、折からの冷え込みも手伝って奇妙な違和感を覚えるのだった。思考の歯車が勢いづいて“擦りあわせ”が始まる。日本の地獄は炎のうねり狂う光景ばかりではないか。なぜだろう、そういえば西洋とも違う、インドとも違う──

 百年以上も前に発せられたこの問い掛けは、ゆるゆると波紋を拡げて我が身におよぶ。なるほど“地獄”を脳裡に思い描くとき、そこに白い雪片はついぞ舞うことがない。ダンテの「地獄篇」では至るところ氷河や氷結した洞穴ではなかったか、どうして日本の地獄には固い凍土や雪に閉ざされた池が存在しないのか。紅蓮の炎やぐつぐつと煮える溶岩の川ばかりが思い浮かんで来るのは、考えてみれば可笑しなことだ。

 三途の川を自ら渡って確認する訳にもいかぬから、答えは書物に求めるしかない。石田瑞麿(いしだみずまろ)という人の本に回答を見出した。まとめると次のような具合だ。

────地獄は寒地獄が観念として始めに考え出されたものである

『長阿含経』中の『世記経』には最後の第十六番目に、それまでとは全く違った寒氷地獄があり、その内容は「ただ寒風に罪人がさらされ、全身凍結して皮肉が脱落する激しい苦痛に悲しみ叫喚する」と説いている。

『雑阿含経』一二七八経へのように、八寒地獄と整理されて存続する。(中略)これら八寒地獄は、八熱地獄とどうかかわって、どのような位置を保っていったか(中略)。この一々の名が示すように、ここに堕ちた罪人の身体の変化、または寒気によって生ずる叫び、といった単純な発想を出ていない点が、この地獄を八熱地獄に対して従属的なものとしたり、(中略)軽く扱われる結果を招く要因であろう。寒地獄での寿命にしても、語るものは少ないし、その業因にしても同様である。

一般的には熱地獄の方が印象の上では強い(*2)


 素裸の人体に氷点下幾十度といった烈風が吹き寄せ、さながら蓮の花弁の開くように肉と骨をぱっくりと割り裂いていく。壊死した皮膚は次々に醜い“あばた”となって顔面を覆ってしまう。熱地獄に劣らぬ凄惨な光景が“寒地獄”では展開するのであるけれど、それがいつ終わるものかまるで想像出来ない点が“恐怖する感情”と直結しないようである。

 わたしたちは物が焼かれて徐々に変質し黒く炭化していくさまや、魚や動物、時には人体が骨灰(こっかい)へと変化し至るのを日常的に見守っている。よくよく知っていればこそ、わが肉を焼き焦がす“過程”が果てなく永劫に続くと言われれば、そりゃ酷いよ、勘弁してくれと呻いてしまうのだったが、凍結状態がいつまでも続くと言われても、まるで科学小説の冷凍睡眠じゃなかろうか、その間に夢は見るのかしらん、などと呑気な事を確かに考える。

 北国の住人ともなれば積雪の処理に追われる日もあろう。身を切るような冷たい水で収穫したものや道具を洗うこともあろう。かじかんだ指先はいつしか感覚をうしない、自身の肉体の端々である気がしなくなる。これら酷寒下での感覚の麻痺、四肢の消失(幻覚であるにせよ)を多少なりと経験する日本人にとって、激しい苦痛と悲しみが続くことの実感(=想像の原資)がどうにも乏しく、意識を集中させて暗黒世界の構築を推し進めることが出来ない。

 また、ひとくちに“冬”といっても様々な段階があって、水道管の破裂するような凍てつく夜もあれば、羽毛のような雪片が音もなく舞い下りる夜もある。そんな雪夜は実感として至極あたたかい。容赦なく髪や肉を焼いてしまう炎と違い、雪は目にやさしく“情”を感じさせる存在である。私自身は八雲の指す一般的な日本人とは違い、“寒い事は嫌い”であることをここで告白しても良いのだが、それでも冬と地獄とはいつまでも結び目を作ろうとしない。

 もしかしたら埋葬の手段も影響するかもしれぬ。冷え冷えした地底に葬られる西洋と荼毘に付される(ようになった)日本では、罪を負ったままの死者に対する“苛責(かしゃく)”の方向は当然違ってくるだろう。──かくして“寒地獄”は我々の思念の中から姿を消したのである。

 さて、“白い地獄”の朧(おぼろ)になっていくのを見送るうち、私のなかで今度は石井隆の『フリーズ・ミー』(2000)について若干の修正が加わるところがある。『フリーズ・ミー』は場景のほとんどをマンションの一室に限定しており、ヒッチコック作品(*3)にも通じる野心や乾いた笑いに満ちた佳作だ。

 ちひろ(井上晴美)というOLの住まう部屋に次々と男がやって来る。彼らは五年前に彼女を強姦した悪党仲間であり、当時の様子を撮影したビデオテープを大量に複製して裏社会で売りさばいた過去を持つ。どうやら別な事件で捕まって入牢していたらしいのだが、出所した男たちはおんな(事件について口をつぐんでいたらしい)に再接近することをもくろむ。ところが、ささやかな幸せを守ろうとする必死の反逆に遭ってしまい、油断した男たちはひとり残らずおんなに撲殺されてしまうのだった。

 後始末に悩んだおんなは業務用の大型冷蔵庫を電話注文し、運送業者の手で届けられたそれに男たちの屍骸を押し込んで凍らせてしまう。狭いワンルームマンションに三つの大きな箱がひしめき、生者と死者との奇妙この上ない同棲生活が始まるのだったが、事情をまるで知らない恋人の訪問と(異臭を発端としての)事の発覚からひとときの均衡はあえなく崩れ、若者とおんなの関係は終わりを告げると共に両者の命も途絶える、という幕引きであった。

 正直言えば観賞直後の印象は、精密画の絵師たる石井にしては乱暴な仕上がりと思われた。しかし、読書経験で培った知識と石井世界の諸相とが線を結び、孤絶して見えた景色がほかの石井作品と峰を連ねていく感覚が生まれるに従い、この『フリーズ・ミー』はわたしの奥で成長している。初見の印象が後日、大きく転換していくのが石井作品の特徴でもあり、色彩を変え、味わいを倍化させて今に至っているのだ。例えば、劇の冒頭はこんな場面で始まっている。

────1、東北のとある町・冬の夜の水銀灯(五年前)

(F・I)見上げれば、ポツンと立つ水銀灯の辺りだけが闇空
から湧いて出るように降りしきる雪を白く浮び上がらせている。
それを見上げる短大生のちひろがいる。
(辺りの実景は不要)雪、ますます吹雪いて来る。闇空にポツンと立つ

水銀灯と見上げるちひろのカットバック。
ちひろの見た目の吹雪の水銀灯に。

T「5年前・東北のとある町」

見上げるちひろの悲しげな顔が徐々に白く掻き消されて行って

(吹雪の白の上に)、メインタイトルが入る。

「フリーズ・ミー」(*4)


 抒情を煽り、観客を現実の季節から引き剥がして劇空間に取り込むことを目的とした意味薄いカットに見えなくもない。けれど、少女の“顔”が“悲しげ”であるということは、この少女が修羅を負って後(のち)の放心状態にあって、石井の劇の通例に従えば“自死”という選択も含めた重大な局面に置かれていると解釈して構わない。また、開幕の “こちら向きに上空を仰ぎ見る” この少女の姿と、終幕の“後ろ向きで階下を見下ろす”おんなの姿は100分近い物語を挟んで対(つい)になっており、石井らしい鏡像を見事に形成している。

 私たちは『花と蛇』(2004)と『人が人を愛することのどうしようもなさ』(2007)を目撃してしまい、スクリーンを朱に染める石井の劇が時に徹頭徹尾ひとりのおんなの内奥に巣食う妄念、哀切な調べを帯びた夢や願望を“仮設”したものに過ぎない事を今では学んでいる。(二作の構造と同様に)五年前の少女の傷心がもたらした“白昼夢”とする想定はさすがに荒唐無稽でありえないにしても、観賞する者のこころに“堂々めぐり”を強いる構造が『フリーズ・ミー』にはあり、そこに石井らしい気迫が充溢しているのを感じる。冒頭のカットからしてこうなのである。

 また、引越しにともなうだらだらと間延びした横移動を経て、(“高層”と言えるほどの急激な上昇はないにしても)投身を可能とする上階を強調してみせた石井の演出は『死んでもいい』(1992)、『夜がまた来る』(1994)、『GONIN2』(1996)、『黒の天使 Vol.1』(1998)の各々のラストシーンと尾根を連ねてもいる。深甚なる想い、恐るべき多層を各カットに託さんとしており、石井世界を語る上で『フリーズ・ミー』は無視できない仕上がりとなっている。表層雪崩のごとき性急な展開、捨て鉢で捉えどころなく見える人物造形──そのように侮(あなど)った経緯がいまは恥ずかしい。

 ここで小泉八雲にようやくにして立ち返る。少女の見上げた“降りしきる雪”と男たちを凍結する“冷気”といったものが結びつき、タイトルの由来になっているのは当然として、劇中点在するそれら冷気には酷薄さ、攻撃性がどこか寄り添わないため“非常に恐ろしい物にならず”、“寒い事が好きであること、愛すべきこと”を告白して見える。

 凍った男たちの横面(つら)を美しいと喜び、日々狭い空間で添い寝していくことに嫌悪感や恐怖を一切滲ませない“ちひろ”というキャラクターには複雑にたくし込まれたものがあって、これは石井の創る女性像の一面をはっきりと浮き彫りにしているように思うのだが、それを補強するものとして石井独特の、そして私たち日本人の共振をあえかに誘う“冷凍”の様相とその解釈がここでは盛り込まれているように思う。埋める、刻む、沈める、投げ捨てる──そんな始末とは違う階層に“凍結”はあって、何事か語っているのではないか。

 霜這わせ凍結していく男たちは、『ヌードの夜』(1993)で白い煙をなびかせドライアイスを身に纏った根津甚八と思えばそっくりであって、彼らが“体現”してみせるのは共に男の多くが抱えがちな恋情への執心、愛着、未練がましさだ。現状に惑い足踏みを続けてしまう男の思考はおんなから見れば随分と“凍って”見えることだろう。井上晴美の側からは過去に捨て去ったはずの性愛の執拗なる追尾が(旅行用バッグから冷蔵庫に替われども)重たい容れものという“かたち”となって出現しており、やはり『ヌードの夜』の名美(余貴美子)を取り巻く状況と面影を交えている。


 竹中直人、鶴見辰吾、北村一輝という“村木級”の役者を揃えたことだって理由があろう。獣欲だけをもって女性を玩(もてあそ)ぶ、深度のない単層な悪党であるならば、何もここまで芸達者な役者を集合させる理由はない。『ヌードの夜』に付随する情念や騒動を三乗する、そんなもくろみが石井にあったと想像するのは難しいことではない。

 ここで今度は(上記に紹介した)石田瑞麿の言葉も借りるならば、『ヌードの夜』と『フリーズ・ミー』を貫くおんなから男へのまなざしが如何なるものか、それも薄っすらと伝導してようやく手のひらに馴染むのである。
 
寒さの苛責(かしゃく)の絵を一つも見ない──
寒地獄での寿命にしても、語るものは少ない──


 男の罪業に対する容赦(ゆるし)、そして、記憶の永久(とわ)なる延命が“凍結”を通じて示されている。名美とちひろが男たちに抱く感情は劇中に台詞も少なく、また常識からいって真逆に思われるかもしれないが、まさにこの二つに集束なっているように思う。これは『ヌードの夜』と『フリーズ・ミー』の二作品に限ったことではなく、基本色となって石井世界を蒼く染め抜いている。

 本日、各地に初雪、こころ癒す雪でありますように──


(*1): Glimpses of Unfamiliar Japan(知られぬ日本の面影)「第25章 幽霊と化け物について」 小泉八雲 1894 落合貞三郎 大谷正信 田部隆次訳 全集(1926-1927)第3巻 821-822頁
(*2):「日本人と地獄」 石田瑞麿 1998 春秋社
(*3): Rope アルフレッド・ヒッチコック 1948
(*4):台本(決定稿)より抜粋

2011年11月4日金曜日

“蝿のはなし”



 軟らかな面紗(めんしゃ)のような霧が早朝の街路を覆うようになった。風のなかに枯れ草の甘重い匂いを感じ、夜毎奏でられた虫の音もいつしか絶えた。庭木に張られた女郎蜘蛛の巣には艶が失われ、寄り添っていた小さな雄の姿も見当たらない。季節の端境を越えてしまったことを知る。

 先刻から一匹の黒い蝿が纏わり付くように飛んでまわって、とっても煩わしい。この小さな蝿にしても早晩寒さにこごえ、寿命を閉じるにちがいないのだ。そう思うといささか哀れを感じる。ちょうど石井隆の物語にこつ然と現われる“怪異”について、と、言うよりも『GONIN』(1995)の中の“蝿たち”について考えていたところだった。

 事業が立ち行かなくなる、はたまた、リストラの対象となり職を失う。ロック歌手に憧れ上京してみたはいいが寄る辺なく、その日の糧にも事欠いて恐喝まがいの悪事に手を染めねばならぬ。そんな行き詰まった男たちが、何の導きによるものか偶然に出会ってしまうのだった。苦境を脱け出す算段をさっそく始めたはいいが、誰の顔にも焦燥や疲労の色がうすく滲み、肺腑の奥ではぼんやりした諦観が渦巻いている。もう疲れちゃったよ、この辺でひと暴れしたら俺の人生、幕を引いちゃってもいいのじゃないか、みたいな心棒の変質を吐息や紫煙とともに吐き出して見える。

 奇想というべきか捨て鉢と呼ぶべきか、あろうことか暴力団の事務所にある金庫に目をつけ、目出し帽被って男たちは急襲する。まんまと現金強奪に成功してしまうのだったが、怒った組織は凶暴この上ない二人組の追っ手を雇い、やがて死体の山が累々と築かれていく。血と反吐のすえた臭いに惹かれたか、羽音をぶんぶんと唸らせ蝿が寄りたかる。石井隆の映画『GONIN』は豪華キャストに彩られ、色香あふれた外貌が魅力この上ないけれど、正直言えばお話はそんな下降線をたどる陰惨な内容である。

 荻原(竹中直人)と三屋(本木雅弘)の鼻先に蝿は飛翔を繰り返し、観客の嫌悪感をぱんぱんに膨張させていく。遺体から発せられる腐臭やどろり濁った運河のヘドロ臭がつんつんと幻嗅されて、逆撫でされた神経が危険や不安を訴える。緊迫を煽る常套手段として時計の秒針のカチカチと刻まれる音がよくあるように、男たちの惨めな逃避行を醸し出す小道具として“蝿の羽音”がここでは登用されたと誰もが思う。の、であるが、石井はかつての対談(*1)のなかで、この蝿が死者の転生した姿であると言い切っている。

 何ら思わせぶりなカットなり台詞を劇中に挟むことなく、映画雑誌の対談でそっと秘めた思いを吐露してみせた石井の言葉に心底から驚愕し、以来頭の隅からその事が消えずにいる。手塚治虫の【火の鳥】や南米の未開人の死生観を引いて、自分なりに咀嚼した想いを以前mixiにも書いているがいまだにすっきりしない。(*2)

 この春の震災とそれに続く原子力災害が落とす影の色は黒々として、生きることや死ぬことについて考えさせられる瞬間が幾度となく巡って来る。死して後、誰であれ輪廻転生の定めに則(のっと)り“何ものか”に生まれ変わらざるを得ないにしても、『GONIN』のような“蝿”になるという選択は在り得ないように感じられて身悶えしてしまう。どうにも落ち着かぬ。

 自分の内部でなぜかくも頑固な抵抗を感じるかといえば、一匹の蝿ごときに変身するのが万物の霊長たる人間さまとして耐えられない、という驕りでは決してなく、だいたいが自分に託された役割や使命など人類史の悠久たる流れの中ではささやかなもので、“芥(あくた)もくた”の存在に過ぎない。蝿になるならそれでも仕方ない。

 つまり感じるのはこういうことだ。一向に色褪せることなく逆巻きつづく思慕──、悔恨や慙愧と呼び表される重石の大きさと冷たさ──、果てなくさえずる欲心、欲念──、暗き土中からむくり芽を起こし蔦をのばし、我が身を縛っていく飢えと渇き──そういった手に余って仕方ない煩悩たちの堆(うずたか)く積まれて多層となったものが、あんなコンパクトな羽虫の頭なり身体に収まるとは到底思えない、その疑念が転生のイメージを撥ねつける。

 総じて石井隆の劇は観客に消化不良を残すというか、胃液で溶かしきれぬ塊(かたまり──これが魅力なんだけど)を含んでいるものであるが、石井の『GONIN』は私のなかで解決せず、残光がずっと尾を引いてしまい記憶にとどまった。

 ところが先日、往時の食文化を調べるつもりで購入した小泉八雲(こいずみやくも)の作品集のなかに『GONIN』の現象に通じるくだりを見つけてしまった。京都の商人、飾屋久兵衛(かざりやきゅうべえ)の屋敷に雇われていた若狭の国生れの下女“たま”が急に病気で亡くなり、それから十日後に大きな蝿となって再訪するくだりがある。(*3) 仰天するというよりもただただ不勉強を恥じ入るばかりであるが、我が国の先人にとって死者の“蝿”への転生は面妖不思議なことなれど、拒絶したくなるほど不自然とは思わなかったようである。

 石井の戦歴を振り返って見ると『ヌードの夜』(1993)の同年にテレビドラマ用の脚本を書いており、それは『怪談 KWAIDAN Ⅱ』と銘打ったオムニバスであって、石井は『ろくろ首』を担当した。原作はもちろん八雲である。(*4)

 処女作『天使のはらわた 赤い眩暈』(1988)でも、また、この二年ほど前に発表された『月下の蘭』(1991)においても魂の飛翔する様が描かれているわけだし、画集「死場処」(1973)においても現世と幽冥との壁が剥がれた昏い情景が目白押しであった訳だから、元々石井のなかにある体質として霊魂なり転生は活きている。
 
 活きているけれども、こうして八雲を読み終えてみれば『ヌードの夜』のあの名美(余貴美子)も、あの行方(なめかた 根津甚八)も、『GONIN』のあの蝿も地続きになって峰を連ねるように思える。真摯に仕事をこなし、その都度に貪欲に吸収して綾を増しながら成長を重ねていく石井世界。その硬軟自在の体質に舌を巻くしかない。八雲を呑み、あやかしを懐中に入れて“日本人の情念”の創出に挑む石井の姿が夢想され、さらに奥行きが増して今は感じられる。恐るべき多層が石井には巣食うように思う。

 盛んに飛んでいた蝿が見当たらない。感化されやすい性質(たち)だから、何者かの化身、自分の見知った先人の生まれ変わりであったらどうしようと心配になり、誰なの、どうしたのよ、と声出して尋ねたりもしたのだった。傍から見たらもう立派な狂人である。励ましに来たか、叱りに来たかと見下ろしてみたが、当然ながら返答などなかった。どこか部屋の隅で凍えているものか、それとも黄泉の国帰ったものか。

 連絡の絶えてひさしい友人を想う。元気でいてもらいたい、そう願うばかりでいる。

(*1): 「映画芸術 通巻377号」編集プロダクション映芸(映画芸術新社) 平成8年 (1996)1月発行 石井隆vs山根貞男「GONIN」  本木雅弘演ずる若者が恋慕っていた佐藤浩市を喪い、途方に暮れ、哀しみに沈んで運河の浮桟橋に係留なった廃船に独り隠れ潜んでいる。自死を試みるものの踏み越えられずに蒼白い夜を悶々と明かしていく抒情あふれる名場面なのだけど、若者の傾斜していく思いを遮るように飛翔する蠅の羽音がそこでは幾度かインサートされ、それはてっきり運河なり廃船の汚れ具合を強調しているものと普通の観客ならそのように読み取る、そんな描写だったのだけど、石井はこの蠅こそが竹中直人の転生した姿なのだと山根の前でさも当たり前のように話している。

──例えば、本木君が自殺しようとしたところで、ブーンと殺された竹中さんから生れた蠅が飛んで来て思い止まらせる、とか(笑)

(*2): http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1554536726&owner_id=3993869
(*3):「蝿のはなし」 小泉八雲 「骨董」(1902)所載 手元にあるのは上田和夫訳の「小泉八雲集」 新潮社 55刷
(*4): 『怪談 KWAIDAN』(1992)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%AA%E8%AB%87_KWAIDAN
『怪談 KWAIDAN Ⅱ』(1993)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%AA%E8%AB%87_KWAIDAN_II