2014年2月27日木曜日

“最後に名美になる”~『甘い鞭』の涙~



 全身をどす黒い鮮血に染め上げ、身も世もなく慟哭するおんなのすがたが『甘い鞭』(2013)の終幕には収められている。これと似たものを、私たち石井隆の世界を注視する者はあまり知らない。石井の劇画に、そして映画に刃傷沙汰(にんじょうざた)は付き物であるから、紅蓮の景色をいくつか思い描くことはたやすいのだけど、あれ等は劇の途上に大概出現し、その後はバスルームのシャワーや雨に清められ、のっぺりして静かな白い空間に戻される流れだった。

 ぶしゅっと血が噴き上がり、肉体なり顔を飛びかかってべっとりと濡らして間もなく画面は暗転し、加害者には氷結した穴ぐらめいた時間が用意されたのではなかったか。ずるずると果てなく血をしたたらせて歩くおんなの様子は、それだけで衝撃があった。重い波となって押し寄せ、身体の芯をゆさゆさと揺らした。

 血のりの量にも大層驚いたが、なによりも抑えきれぬ嗚咽に腹をへこませ、背を丸め、唇を歪めて泣き続ける様子というのにどうしようもなく心が騒いだ。

 直前に刺して転がる死骸に対して申し訳なく感じるのか、壇蜜演じるおんなは前かがみとなり、鮮血に染まった床面に向けてわあわあと泣き沈みながら、一歩また一歩とかろうじて進んでいく。後悔の念にはげしく苛まれ、自己破壊を希求する方向へとどんどん押し出されていくおんなと銀幕越しに対峙して、すっかり伝染してもらい泣きしながらも、この泣き方は“名美泣き”ではない、とも感じたのだった。原作本(大石圭)とそこに描かれた奈緒子という存在を、演出者石井隆が解析した時間とも一瞬思った。

 号泣を許され“名美に成らざる者”の刻印を押された奈緒子は、現実と過去、正気と狂気を混濁させた妖しい時間を過ごしているのであるが、不意の出来事が彼女を襲い、針の振り切った時空へと連れ去っていくところで『甘い鞭』は幕を下ろす。留意すべきは、その刹那、強い衝撃がおんなと私たちを同時に震撼させる訳なのだが、それにより水音高く流れていた情動の川筋が爆砕され、生じた大量の岩石でぷっつりと堰き止められる点だろう。圧倒され、おんなは泣くことを忘れている。ここでも、やはり涙は隠蔽されるのである。

 『甘い鞭』は『死んでもいい』(1992)に似た構造を持ち、“名美に成らざる者”を“名美的な者”、つまりは周回を重ねた者へと導く過程を描く作品とも言えるだろう。名美として生きることは地獄そのものに他ならないのだが、石井は『甘い鞭』の奈緒子を名美に転生させてあえて地獄に引き込み、おそらくは“本来辿り着くべき地平”へと横滑りさせたのだ。涙を奪うことで、土壇場でのぎりぎりの救済を、緊急避難を石井は果たそうとする。

 生業と呼ばれる以上の、ひりつくような途方もない思念にあふれた仕事であり、畏怖という言葉はこういう時に使うのだろうかとぼんやりした頭で考えている。

“哀しみの果ての硬変”~石井世界の涙⑤~


 劇画制作の最終段階で石井隆は「カンタッレッラの匣(はこ)」(1991─92 )という幻想譚を編んだのだったが、あれに描かれていたマネキン人形、等身大の三次元CG映像、そして狂女といった各キャラクターの乾いた横顔というのは、思えば“名美泣き”から涙の筋を奪った面影であり、嬉しいのか、悲しいのか、それとも怒っているのかを読み解けないのだった。また、単行本でトリをつとめた傑作【主婦の一日】(1991)における名美は、夫と愛人の浮気現場を急襲し、包丁で滅多刺しして両者を殺害した挙句に自死の道を選ぶのだったが、そのような烈しい情動の時間をかいくぐっていながら一滴の涙も落とさず、嗚咽のひとつも漏らさない。

 雑誌の連載当事には、そんな“乾いたおんなたち”の出現が湿度あるこれまでの作品と容易に連結出来ず、特に人形やCGの跋扈(ばっこ)する展開に戸惑うところもあったのだが、こうして涙を熱視(みつ)める時間ばかりを経て思い至るのは、彼らこそが名美と呼ばれる存在の“最終局面”であったという厳かな感懐である。劇画制作の区切りの時期を迎えて、石井は意識して“その先の名美”を描いた可能性が高いように思うし、そうであれば合点の行くところが随分と多い。

 「カンタッレッラの匣(はこ)」の一篇【ジオラマ】(1991)にて石井は、性暴力の犠牲となり、以来十五年の長きにわたって悪夢に獲り込まれた狂女の症状を精神科の医師に解説させるのだが、その中で「彼女が本来辿り着くべき地平にあのショックで一足飛びに辿り着いてしまった」という深度のある言葉を添えていた。“本来辿り着くべき地平”という言い方は、誰でもが到達する地平という意味合いであって、異常であるとか、特別であるとかのニュアンスを含まない。他者との関係がきしみ歪んで双方をひどく傷つけ、大いに疲弊させた末に到達する一種の醸成された、寂れた境地をここでは指すように思う。

 舞台や物語の風合いをさまざまに工夫しながらも、石井隆という描き手は人間のこころの深層をこねくり出すことに勉めてきた。そんな男が“本来辿り着くべき地平”という段階が人の生にはあって、其処に降り立ったとき面体は硬変し、嬉しいのか、悲しいのか、それとも怒っているのかを読み解けない無表情に近付くと語っている。

 手も足も出ない状況に置かれた悔しさを世界に向けて発信し、自らに代わって復讐をしてくれ、力を貸してくれと訴えるとき、人は涙を道具に使うと言われている。これに応えてすぐさま同調し、団結して難敵に向かっていくことで私たちの先祖は生き永らえて来たのだったが、いくつも周回を重ねることで最終的に人は道具としての涙を置き、助けを求めぬ清冷の境地に分け入ってしまうとどうやら石井は捉えている。そもそもが人は人を助けられない、という諦観が根底に置かれてあるのだろう。涙は流れても、おうおうと声上げて泣くことはない、そういう域に飛び込んでいる。

 近作『フィギュアなあなた』(2013)は連作「カンタッレッラの匣(はこ)」の息吹きを色濃く反映させた内容であり、マネキン人形が突如生命を与えられて若者の危機を救い、同棲を始めるという奇想天外の御伽話(おとぎばなし)であった。当惑を隠せない観客も出て、こんな石井隆は観たくないと書く者もさえ現われる始末なのだが、それは視野角の微妙なずれのようなもので立ち位置を少し変えれば得心する話なのだ。私の目には『ヌードの夜』(1993)や『GONIN』(1995)といった峰々と稜線をなだらかに繋いで、神々しく光って見える。

 私たちはあの人形(佐々木心音)の乾いた瞳に、一周どころでなく何周も先を走ってひどく硬変してしまった名美の内実を探って良いのだし、どう足掻こうにもおんなに追いつけず、夢にも似た併走を一旦終わりにするしかなかった若者(柄本祐)の暗澹たる表情に、後追いする村木の変わらぬ純真を重ねるべきなのだ。

 近いうちに再度、香しき百花繚乱のドラマを編んでくれると信じるが、石井が映画雑誌のインタビュウで“遺作”とまで語ってみせるのは、おそらく人の情念の最終形態と解釈する姿をおのれの映画制作の最終段階で満を持して描いているからに相違なく、そういった意味でも迂闊なことは語れない底知れぬ作品が『フィギュアなあなた』のように思われる。
 


“陶磁器のように硬く”~石井世界の涙④~



 石井隆の描くおんなの泣き顔、そこには独特の風合いが宿っている。そこで、関連書籍(*1)を幾冊か手元に置いて、涙、そして、泣くこと、という側面から石井作品を眺め直そうと思い立つ。結果はどうだったかと言えば、宙ぶらりんの気分を今は味わっているところだ。どこかで接点は見つかるだろうと頁をめくってみたのだけれど、この“名美泣き”に符合する記述に出合うことはなかった。

 喜多嶋舞が渾身の演技で造形し、フィルムに焼き付けた『人が人を愛することのどうしようもなさ』(2007)での名美は、能面のように硬い表情で前を見据えたまま涙腺を決壊されていくのだったが、あれこそが“名美泣き”の典型だろう。(*2) 読者や観客は前後の流れからおんなが泣いている、と理解するのだけれど、そのコマなりカットだけを切り出してしまうと判然としなくなる。涙の筋をそこに見止めなければ、嬉しいのか、悲しいのか、それとも怒っているのかを読み解けないのが“名美泣き”である。

 我が身を振り返ってみて、あのような泣き方はしていない気がする。感情がばんばんに膨れ上がって泣く瞬間に人のほとんどは顔面の筋肉を収縮させるものだし、紅潮したり、歯を食いしばったりする。身体を海老のように曲げたり、腰が抜けたりする。映画館のスクリーン側にそっと立ち、呆然として紅涙を絞られる観客を仮に観察出来たとすれば、整然と彼らは座っているわけだから“名美泣き”に少しは近づくように思うが、さめざめと頬濡らす瞳の周りはぐわっと力んでいるのだし、眉だって多分八の字を作っているはずであって、やはり陶磁器のような硬く白い面立ちを維持し続けることは困難だろう。改めて考えれば、実に不思議な面相である。

 不思議と言えば、容貌だけでなく、その力や役割においても石井世界の劇中の涙は独特ではないか。涙には共振を誘い、復讐へと誘惑する力があるとも言う。エチオピアの軍事暫定政権は行方不明の息子の母親が泣くことを有罪にしたという逸話があるのだが、これは涙を見せられた他者が耳を傾け、酷(ひど)い仕打ちに怒り、そこから本格的な政治討論へと発展するのを恐れたためだ。涙は世界を変えようとする。現実であれ空想であれ、具体的な行動に駆り立てる魔術的な再創造の場へと目撃者を導く。そのように流麗に本の作者は語るのであったが、はたして石井隆の劇中に流れるおんなの涙はどうであろうか。

 私たちは傷心の名美と共に立ち上がり、男たちに刃(やいば)を向ける気にはならない。復讐を経てカタルシスを得ようとする段階はとうに過ぎた、外界に作用をおよぼす余白の無い、放り投げられた心持ちになるばかりだ。

 ある人は涙を流す五つの場合として、歓喜、悲観、安堵、感情移入、自己憐憫を上げるのだが、涙する名美というものは、単純に悲観や自己憐憫により泣き暮れているようには見えない。ここのところも通常のドラマとは隔たりがあるように思う。内心に渦巻くものをひとつの言葉で括ることを許さぬ、方向性を持たぬ泣き顔が展開される。

 本当はおいおいと声上げて泣きたいのだろうか。我慢に我慢を重ねているのだろうか。情炎の作家である石井の劇空間において、おんなが涙を流すことは決して珍しいことではないのだが、その泣き方は極めてストイックだ。ゆがんだ顔や嗚咽を回避したり、押しとどめる力が働いているのではないかと勘ぐってしまう。終戦の翌年に生を受けた石井が戦時中の教育や世相に引きずられ、廉恥心(れんちしん)の考えを叩き込まれた末に涙を抑圧する気質を育んだ可能性は否定出来ないから、それが石井世界の全篇に乾いた風を送りこんでいる、なんてことはないだろうか。

 いやいや、それは例によって私の馬鹿げた妄想だろう。石井ほど涙にこだわる作家もいない。それは先に書いた通りだ。結局のところ、よく分からない。おんなの涙にとことん弱い私は、背中のむこうの微かに震える気配に気を取られ、宙ぶらりんの心持ちのままいつまでも揺られ続けている。


(*1):参考文献「人はなぜ泣き、なぜ泣きやむのか?涙の百科全書」 トム・ルッツ 八坂書房 2003 「女の前で号泣する男たち 事例調査 現代日本ジェンダー考」 富澤豊 バジリコ 2008

(*2):私たちの涙は涙嚢(るいのう)や鼻涙管などを経て鼻腔へと流入するものだから、鼻水をすするという動作を意識的に差し挟まなければ鼻の穴からも大量の分泌物を溢れさせるはめになる。喜多嶋は名美という存在が避けて通れぬ“哀しみのフェーズ”を理解し、一切の表情を殺して臨んだのであったが、生物としての宿命ゆえに涙はおびただしい液体となって瞳に限らず彼女の顔全体を濡らした。わたしはその様子に惚れている。

美しさとか世間体に囚われて表層的な演技しか出来ない我が国の俳優の大概とは違い、昨今の欧米の役者と彼らを盛り立てる演出は豪胆さ、凄味を増している。ひとの魂と生理とがいかに密接に絡み合っているかを理解し、果敢に描写を続々と叩き込んで圧倒されるばかりだ。嘔吐や排泄についても論法上避けられないと思えば徹底的に見せてひるまないのだけど、喜多嶋の涙する名美は十分それに肉薄しており、見事としか言いようがない。

“名美に成らざる者” ~石井世界の涙③~


 『死んでもいい』(1992)の終盤に見られる大竹しのぶの、幼子(おさなご)にも似た大泣き。実はこれに似たものが石井隆の劇画に見つけることが出来る。【キリマンジャロをもう一杯】(1976)という題の中篇であった。仕事で悩みを抱える男は立ち寄ったレコード店で万引きの現場を目撃し、店員に見つかって窮地に立った女子高生を救ってやるのだった。礼も言わずに男を睨(ね)め付ける娘であったが、気分が悪くなったと下手な芝居を打って男をホテルに引きずり込み、その全身(からだ)を預けようとする。

 憤懣(ふんまん)を溜めまくった男に取っては渡りに船であるのだが、娘の言動の端々には幼さが露呈し、昏迷を極めてどうやら捨て鉢となっている様子である。事情を察した男は寸でのところで冷却し、娘に対してやさしく帰宅をうながすのだった。さて、このとき娘は唇をゆがめ、眉根を寄せる典型的な“泣き顔”を作り、涙を糸となしている。なんと合計5コマにも渡って泣いているのである。石井劇画では異例の動作だ。

 ここで注視すべきは過剰な涙もさることながら、感情の波が引いた後の娘のさっぱりした表情であって、誇張された天真爛漫そのものの笑顔は私たちの内側に妙に突っ張った違和感を築くのだった。目鼻立ちや均衡のとれた肢体、それに当初の不安げな瞳は私たちに馴染みのおんな“名美”そのものであったのに、今ではこのような名美はいない、という確信が湧いてくる。まったくの別人格を宿して見える。実際、石井は【キリマンジャロをもう一杯】の劇中、この娘の名前を明かす台詞なり小道具を配置しなかった。代わりに過剰な涙と嗚咽を付け足すことで、“名美に成らざる者”を産み落とそうと努めて見える。

 その事は、同じ制服姿の娘を主人公に据えた【爛れ】(1976)と比べれば明白だろう。石井は同じような目鼻立ちのこちらの娘に対し、住まうアパートの部屋の名札や新聞記事の一部を拡大してこのおんなが“土屋名美”という存在だとくどくどしく説明するのだったし、呼応するようにして涙をひとコマに限ってにじませるという細かい演出を施している。

 つまり石井隆の世界において、絶対的に涙や泣き顔が隠蔽されていくという訳ではないのであって、“名美”的な人格が付与された際にはじめて抑制なり遮断が起こって劇の様相、人物の面貌を変えていくという事なのだ。情動の白波に洗われる物語にありながら、魂の描写はことさら微細化する。見えるか見えないか分からぬひと筋の涙の背景には、作者の底知れぬ想いが積み上がって感じられる。

 “名美泣き”を付与された人格と、そうではない人格の間に何が横たわるかと言えば、感覚的な物言いになってしまうが“周回の違い”が在るだろう。並走しているつもりでいるふたつの魂の足元に見えざるラインが引かれており、一方が他方より既に何周分も余計に走っている。それが石井の劇によくある酷(むご)さであるし、名美という造形の中核となる圧倒的な重さだろう。

 ゴールは目前であるが、動悸は早鐘のよう、腱も悲鳴をあげて裂傷間近であり、地に伏してしまえば二度とそのまま起き上がれそうにない。それに気付かぬまま周回遅れの並走者は快活に微笑み、エールを送り続けてしまうのである。そんな酷薄さを含んだ時空を石井は飽くことなく描いてきた。石井の劇とは突き詰めれば、孤別に立ちゆらめく時間軸の酷さ、哀しさなのだと思う。ひるがえって見れば、それはそのまま私たち、個として暮らし集っていく人間(ひと)の宿痾である。

 涙の観点から映画『死んでもいい』を再度たどり直せば、これはひとりのおんなが“名美的な者”つまりは周回を重ねた者へと変貌する過程を描いていたとも言えるだろう。相愛の仲となることで天空へ飛翔し得ると信じたのに、世界がどのような黒い波に洗われても互いが神となり鬼となって加護し合うものと信じていたのに、男は自分を殴ると言い出し、実際に手を振り上げたのであった。売り家のがらんとした部屋で一方的に迫られた交接であったが、あの時はこころと身体を許し、愛を信じたおんなが今、ホテルの高層階の浴室で暴力の嵐に遭っている。結局のところ、強姦は強姦でしかなかったのだ。時空を経ておんなの心は漂流を止め、フィールドを再度駆け始める。周回を経てゆるゆると目覚めたおんなは、ようやく名美となって涙を一筋こぼしていく。


『死んでもいい』泣き顔の分裂~石井世界の涙②~


 石井隆の“涙”は隠蔽を基調とすると書いたが、熱心なファンからは異論が出るに違いない。映画『死んでもいい』(1992)では、大竹しのぶや室田日出男、そして永瀬正敏までもが泣きに泣く。涙を川とする印象を観る者全員に抱かせるのであって、描写を回避しようとする素振りは毛頭感じ取れない。これはどう捉えたら良いものだろう。元々石井のなかに涙に関するセオリーは存在しないのであって、先に述べたことは全くの妄念に過ぎないのだろうか。

 大竹しのぶが演じる名美は不動産業を営む室田の年齢(とし)の離れた妻であり、若い風来坊に魅入られた末に力ずくで犯され、そのままその若者と夫との境界で気持ちをゆらめかしていく。このように書くとありきたりの不倫劇に見えるが、それは劇の骨格が実際の事件に基づくせいもあるだろう。世間というものは繰り返しで出来ており、俯瞰すればいつでも堂々巡りで味気なく見えるものだ。『死んでもいい』で流される涙の雨は、そんな世知辛く無味乾燥の顛末をしっとりと濡らして私たちを銀幕に曳きこむのだけれど、同時に表面張力を生み出して、私たちの理性をぽんと弾き出そうとする。劇と密着するこころを突き放す瞬間がある。

 いくつか記憶に刻まれる泣き顔と涙があるが、特に鮮烈なのは終幕に流される二つだろう。ひとつは情人に夫を殺害された後、衝撃を受けて赤子のごとく泣きじゃくる大竹の姿である。事態の急激な展開が理解できずにへたり込む大竹に対して、情夫は偽装工作のためにおまえを殴らなければならぬ、と唐突に切り出すのだった。拳(こぶし)を高々と振り上げる若い男を仰ぎながら、大竹はわぁわぁと声を上げて泣き、何とも哀れでならない。

 もう一箇所は、劇の終幕を飾る静謐なひと滴(しずく)の涙であった。血へどまみれの浴室から引き出され、束の間の失神から覚めてみれば、広々とした寝台にその身体は横たわっており、かたわらには若者が黙座しているのだった。煙草に火を点けてくれた若者の前で、名美は音もなく涙を零(こぼ)していく。

 対照的な動作が連続して描かれる。激しい嗚咽(おえつ)をともない長々と続いていく前者と、一切の動きを排除して目尻に湧き上がり、落涙するその一瞬を切り取って静止画となり、やがて溶暗に至る後者とは、同じ泣くという生理現象であれ、誰の目にも段差が大きいものとして映る。そんな言葉があるかどうか知らないが、緻密な“泣き分け”が『死んでもいい』の劇中で為されている。いや、厳密に見れば、両者は隔たりが大き過ぎて完全に分裂して見える。別世界の様相を呈している。

 石井の手になるシナリオと照合することで、さらに興味は深まるのだった。後者のト書きを単行本「名美Returns」(*1)に所収されたシナリオから引けばこうだ。「信(まこと)、英樹の血のこびり付いたライターを差し出す。シュポッと点ける。名美、ライターを凝視(みつ)めている。涙が溢れ落ちる。(中略)その火を引き受ける様に、ゆっくりと深く喫う。とめどなく流れ落ちる涙」(*2)となっており、泣くことが、その涙が、この終焉の場に不可欠な事象であることを堅い調子で物語る。

 これに対して前者はどうであるかと言えば、「名美、気が動転して、何が何だか分からないまま、信を見ている。信、ためらいながら、名美の乱れた上衣を摑んで引き裂く。露出する名美の胸も返り血で赤い。(中略)信、殴る。しかし力が入らない」(*3)と書かれてあるだけで、泣きに関する示唆は一切ない。本読みや現場で思いがけず化学反応が起き、あのような悲愴極まる嗚咽がフィルムに写し取られたということであり、それも含めての『死んでもいい』であるのだし石井世界には違いないのだけれど、厳密に言えばあれは女優大竹しのぶの解釈が色濃く出た結果であり、石井の思惑からは逸脱した演技と想像出来なくもない。

 「名美の潤んだ目が信を睨む」(シーン25 居間)、「涙を浮かべて首を振り続ける名美」(シーン57 岩風呂・大浴場)、「コップをいじる手に、涙が落ちる」(シーン70 二階の小部屋)、「英樹、左手で名美の頬を張る。尚も張る!張る!髪をワシ摑む。泣いている名美」(シーン78 ランクルの中)、「「黄昏のビギン」が二人の間に静かに流れ、英樹、少しずつ鎮って行く。すすり泣く名美」(同)、「すすり泣きながら、首肯く、名美」(同)、「目を閉じる英樹。背で眠る、名美、泣いている」(シーン80 居間)──このように石井のト書きというものは、実に的確に細かいところまで織り上げるところがあって、劇画のリアリティをそのままシナリオへと移行し、演出意図を現場末端まで浸透させていく、そんな役割を担っている。涙の落とし処(どころ)について書き漏らすことなど、通常無いのだ。

 結果的に大竹の創り出したあの乳児のような、誰にも真似できそうにない嗚咽は、終幕で自死する破目に陥るおんなの無垢なる内面、純朴さ、読みの甘さや夢見がちな優しさをまざまざと浮き彫りにし、温かい血を頬に通わせ、劇に厚みを与えたのであるから賞賛に値するばかりなのだが、石井世界を考察する上で何ら抵抗なく連結するのは危険ではないかと考えている。名美の造形という一面に限って言えば、的の中心をやや外した感が無くはないのである。

 “石井泣き”、それとも“名美泣き”とでも称した方が良いのか、それは確かにあって、『死んでもいい』には該当するものとそうでないものが混合している。

(*1):「名美Returns」 ワイズ出版 1993
(*2): 同 319頁
(*3): 同 318頁 続く引用もすべて「名美Returns」所載のシナリオから

“たったひとりの物語”~石井世界の涙①~


 四半世紀ぶりにフランスの恋愛劇(*1)を観直す機会があったので、これに合わせて演出家のインタビュウ本(*2)を書棚から引っ張り出し、関連する箇所をたどって過ごした。

 かりそめの恋をかたくなに信じ、若い将校を追って海を渡り、集落から孤立した挙句に発狂した実在の女性を天才肌の女優が演じていた。幸いそんな時期を過ぎた身とすれば、ひたすらご愁傷様と思い、痛ましく感じるばかり。我ら人間という器の不完全さ、あまりの脆弱さ、その反面生まれ落ちる多様性、時に目を瞠るたおやかさと大跳躍に首を傾げたり共振したりの二時間だった。

 さて、作品について語る監督の言葉に乱反射する箇所があったので、書き写して思案の口火にしようと思う。恋慕の焔(ほむら)に焼き焦がされたおんなはわたし達に向けて二度、三度と落涙してみせるのだったが、トリュフォーはそんな景色にからめて以下のような発言をしていた。

「今回わたしが気に入ったのは、たったひとりの愛の物語を語ることができるということです。中尉などはほとんどどうでもよい存在です。アデルの愛は彼女の頭のなかだけの愛なのです。それはひとつの妄執(もうしゅう)です。今度だけは批評家も、わたしがなまぬるい映画を撮ったとは言わないでしょう。この映画には涙を流すシーンが多い。われわれはもう滑稽であることを恐れたりはしませんでした。」(*3)

 “滑稽であること”とは勢いのある言い様である。無遠慮ではあるが絶妙な投げ掛けで、あれやこれやと想いが湧いてくるのだった。涙を見せて泣くという行為自体をはしたないと感じるのか、それとも役者から台詞を奪う間を無駄な空隙と捉えての発言であったか、木づちの音がこつこつと聞こえるような颯爽たる話術を駆使する監督であったから、きっと後者なのだろう。嗚咽(おえつ)はリズムを裁ち切り、劇の停滞を招く。許されるとすれば、それは対人関係を持たない一人称の詩篇に限られるのではないか。アデルの狂気を描くことは徹底した独唱であるから涙や嗚咽(おえつ)は進行の邪魔をしない、そんな感じにきっと違いないのだが、それにしても泣くという行為がここまで表現者に“恐れ”を抱かせるものかと思うと、とても興味深くてしばし頭の奥で反響した。

 幼少時から今に至る自身のことや、あの映画はあの漫画はどうだったかしらと懐旧する中に、やがていつものように石井隆の世界を手探る時間となった。これまで意識して考えたことは無かったが、石井は涙の表現につき慎重であるのだし、トリュフォー並みに、いやそれ以上にこだわり抜いて来たことが解かってくる。

 同時代を席巻した他の作家、たとえば上村一夫(かみむらかずお)の劇画をどれでも良いから手元に置いてめくれば、程なくおんなの頬をはらはらと流れる涙を視止めるはずである。やがて一箇所で円(まる)く溜まって花弁と化し、蝶になり、世界を投影する銀色の球体になったりする。そこまで抒情的な技巧を凝らさぬまでも、多くの表現者は泣くという所作なり透明な分泌物を己の作中に前向きに、道具のひとつとして採り入れることに躊躇しない。(*4)

 石井の劇はそうではない。恋情や性愛を題材に選んだ劇が大半であるから、登壇する者は濁流に放られた小船のように揺さぶられ消耗していく。座礁して忍び泣きたい場面にだって突き当たるのだけど、石井のおんなも男も実に巧妙に涙を隠そうとするのだった。いや、そのように書くと泣き顔を滑稽と思い、落とす涙を恥と感じて虚勢を張るという意味合いが出てくるが、そうではなく、石井の劇空間自体がその瞬間にゆらめき、震動し、涙や嗚咽を隠す方向に動いていく。

 【女高生ナイトティーチャー】(1983)と【裸景の漂流】(1984)は同時期に発表された小編であるが、共にひとコマに限って涙は描かれている。あっ、泣いているんだ、と気付いた刹那、前者では飄々とした日常の雑音が、後者では一陣の風が紙面を覆っていき読者が、そして、おそらくは登場人物が感傷へと雪崩れることを食い止めるのだった。

 中篇【赤い微光線】(1984)の終盤においては、同棲している名美と村木が衝突し、背後からの怒声に反射した名美は生活の疲弊を嘆き、こころの磨耗を訴える声を迸(ほとばし)らせるのだったが、それを耳にするや否や聞き手は即座に背を向けて枠(わく)外へと退出する。そればかりか作者は、おんなの密度ある長い黒髪をうなだれる顔おもての前に簾(すだれ)のごとく垂らし、読者の視線を完全に遮るのだった。酔いと絶望から俯(うつぶ)していくおんなの右手にはアルミ缶が握られてあるのだが、徐々に傾き、飲み口から黄金色の液体が垂れてベッドを湿らせていくのは涙の隠喩に他ならないから、この時、明らかに泣いているはずなのに、石井はその状況描写を意識的に回避する。

 コマと頁を多く割きがちな涙顔(なみだがお)を様々に工夫して隠蔽することに注力して見える石井の話術は、劇画から映画へと連なる潮流においても一貫する。たとえば『夜がまた来る』(1994)で潜入捜査官の夫を殺されたおんな(夏川結衣)は、その後、復讐のため修羅の渦(うず)に身を投じていくが、局面ごとに苦痛に晒され絶叫することはあっても“泣くこと”を執拗に避ける。苛烈な大団円を迎えた夜明けの屋上で遂に身もこころも砕けて、あきらかな泣き声が朗々と響き渡るのであったが、その時、カメラはおんなの側からそっと離れて宙に浮き、天空をふり仰ぎ、尾を引いてたゆたうその声は紫の大気と楽曲に吸い込まれて消失(きえ)るのだった。涙はここでも隠蔽される。人物造形の点でも舞台造形の面でも極めて特徴的なものであり、これに目を凝らすことは石井隆の世界全体に想いを馳せる上で有効と感じている。


(*1): アデルの恋の物語 L'Histoire d'Adèle H.  監督フランソワ・トリュフォー 1975
(*2):「トリュフォーの映画術」 アンヌ・ジラン編 和泉涼一、二瓶恵訳 水声社 2006 
(*3): 同 362頁
(*4):参照画像は 離婚倶楽部 下巻 上村一夫 まんだらけより2013年12月に上梓されたもので、初出は1974‐75年。