2019年11月18日月曜日

“憑かれたように”『人が人を愛することのどうしようもなさ』~生死に触れる言葉(3)~


 石井隆の『人が人を愛することのどうしようもなさ』(2007)は複数の夫婦関係の終焉を描いている。石井は2000年以降の映画制作において、物語空間でのあからさまな「奇蹟の顕現」を封印、もしくは極力目立たなくしようと決めた節があるのだが、『人が人を愛することのどうしようもなさ』でもこれを堅守しつつ、離別の顛末と翻弄される周囲のさまを淡淡とフレームに収めていく。

 特に俳優業を共にいとなむ主人公とその夫をめぐる結婚生活の凋落は、至極丁寧に描写されており、カメラは独特の粘度を持って主人公のおんなの動静に寄り添っていく。男の横暴がおんなの自尊心を粉微塵に砕き、急速に瓦解へと至る一部始終を、目をそらさず、むしろ極端な接写さえ挿し入れて記録する。奈落に墜ちつづける感覚と終幕を覆う血しぶきはもはや「六道絵」や「地獄絵」を想起させるし、大写しとなって銀幕を占領するおんなの顔貌は観るものすべてを震え上がらせるに十分だった。初見の際の劇場では、茫然としてゆらめき出た観客で廊下が溢れた。

 私たちはフィクションや現実の報道映像で、美しいフォルムを宿した建築物が地震や爆発により無惨にひしゃげて圧壊していく様を幾つも目撃して来たが、石井は人間も同様に潰されて瓦礫となる一個の建造物であると告げている。俳優の演技と撮影技術を統合して、「廃墟となる人間」を余すことなく表現してみせる。

 ざっと振り返っても次々と鮮烈な場面が脳裏に蘇える。特に主演を演じた喜多嶋舞(きたじままい)と、彼女を役柄としても映画の彩りとしても両義的に支える津田寛治(つだかんじ)の、血気迫るふたりの演技は圧巻のひと言であって、表現者の臨界点がどれだけ高い尺度で置かれているか、その値は一般人の想像や能力から遙かに隔たった域にあると見せつけられた気分になった。娯楽の様相を越えて、何か生きて活動する上で課題を託されたように感じる。宿る熱量は半端なものではない。

 それにしても、どのような演技指導を施せば役者というのはここまで化けられるのだろう。人が人を使って仕事に邁進させる上で、どのような言葉を掛ければ勢いよく発火し、めらめらと音立てて燃えてくれるのか。畑違いの場処で暮らす身ではあるが、人心の統率の秘訣は何なのか、石井の劇で毎度毎度見られる役者の燃焼の烈しさがいったい何処から来るのか、ずっと気になっていた。

 今回、石井の脚本をまとまって読み直す機会を得て『人が人を愛することのどうしようもなさ』にもあらためて目を通したところ、ト書きに印象的な語句の反復が見つかった。石井は都合三度に渡り「憑(つ)かれたように」という表現を組み込んでいる。人の表層が妖しく硬化していく様子を指すこの語句が、役者を奮い立たせる起爆剤として働いたと思われる。

 最初はこのように描かれる。夫の気持ちが若い女優へと移って自分をないがしろにしだし、酷く打ち負かされたおんなは深夜の町に飛び出して電車に飛び乗るや否や、素顔が分からなくなる程の厚化粧に耽っていく。

「乗り合わせた客がじろじろと見ている中で、鏡子はまるで悪魔にとり憑かれたような態度で化粧をしている。」(*1)

 日頃の常態からひどく逸脱し、魂が飛翔するのか、それとも錐揉み状態になるのか、いずれにしても大きく変容する道程をこれから刻むのだ、と役者に向けて強調してみせたのだった。さらに終幕近くのおんなの描写においても、きわめて人工的な記述が連なるのである。

「名美が、何かに取り憑かれたように一点を凝視ながら諳(そら)んじて語る。」(*2)

 もちろん「憑かれたように」という比喩は目新しいものではない。「僕はへとへとになりながら、時間を忘れ、ものに憑かれたように、あちこち探し歩いた」(原民喜「夢と人生」)、「ところが、憑かれたように、バッハのフーガを繰りかえして弾いているうちに、さすがに寿子の眼は血走って来た」(織田作之助「道なき道」)という具合に、比喩としてはありふれた表現だろう。しかし、一篇の物語中に幾度も繰り返されると、さすがに作者の企てが詰まった意識的な登用と気付かされる。

 いつものとち狂った深読みであろうか。熱狂や忘我の時間は誰の身にも訪れるもので、そこに「憑かれたような」時間が育っていく。私にもあるし、あなたにだってあるに違いない。のめり込む対象はそれぞれである。仕事に自ら埋もれていく人もいるだろう。恋情や性行為かもしれない。薬物や賭博にはまる者も少しはいるかもしれない。何もかも振るい落として没入する瞬間は皆にある訳だから、石井の記述もことさら難しい意味合いを含むのではなく、いわゆるファナティックな演技、めりはりと勢いのある発声や所作を俳優に求めている点を暗に示したかっただけなのだと解釈したって構うまい。

 それにしても「憑かれたよう、憑かれたよう」と繰り返す文法は、あまりに物怖ろしい面持ちではないか。単純なシナリオ技法と割り切り、さらさらと読み流すのは危険と感じる。

 『人が人を愛することのどうしようもなさ』の点在するこれ等「憑かれたような」場面をどう解釈すべきか、手詰まり感を覚えて「憑依研究」の専門書にすがったところ、以下のような文面に突き当たった。石井が同様の研究書を参考にして筆をふるった訳では勿論ないのだろうが、照合することで急速に映画は深度を増し、陰影を深めて感じらたのは確かだし、その程度の宗教知識の蓄積は石井ならば有って不思議はない。そ知らぬ顔で台本に怪しい記号を組み込むことは、いかにもしそうではないか。

 すなわち、単純な比喩の類いではなく、もう半歩踏み込んで霊的で森厳な空間づくりを手探ったのではないか、憑かれたように何事かに没入する様子ではなくて、状況に追いつめられ何事かに実際に「憑依された人間」の実相こそを映像として定着させようと目論んだのではないか。

 宗教学者の斎藤英喜(さいとうひでき)の以下の文章に、まず明瞭な磁場を感じた。「シャーマニズムとは何か エリアーデからネオ・シャーマニズムへ」と題した文のなかでミルチア・エリアーデの見解に触れ、彼のシャーマニズム研究における「脱魂型(エクスタシー型)」と「憑依型(ポゼション型)」の区分が「憑依」をめぐる現代の学術の根幹になっていると紹介すると共に、後者の「憑依型(ポゼション型)」を軽視する傾向を批判している。(*3)

 物の怪や先祖霊による「憑依」現象を念入りに調査し、西洋の識見に敢然と歯向かう学者の存在にまず単純に驚かされる。学究というのはまったく恐ろしい、彼らも十分に「憑かれた人たち」と思う。そうして目を丸くしたのは「憑かれ方」にもタイプもあるという部分だ。『人が人を愛することのどうしようもなさ』の喜多嶋の演技、石井が定着させた「憑かれた」姿が「脱魂型(エクスタシー型)」と「憑依型(ポゼション型)」のどちらだろう、なんて考えた事もなかった。

 私は斎藤の意見を肯定も否定も出来る立場にないが、あえて言うなら、いくら「悪魔」という文字が添えられようが、喜多嶋の形相は「脱魂型(エクスタシー型)」に入るように思われる。唇をぱっくりと開き、尖った犬歯を剥き出しにしながらも、狐や河童といった動物神に侵され、言動が甚だしく異化した訳ではないからだ。おんなは野獣になるのではなく、己の化粧にただただ酩酊していくばかりである。それにつれて、核(コア)が剥き出しになるだけである。(ここで石井隆という作家を考える上で極めて大事と思われるのは、石井の「憑かれる」というイメージがきわめて洋風であって土着的な日本の信仰に染まっていない点だろう。後日このあたりに触れていきたい。)

 斎藤は別の文章で紫式部「源氏物語」を引き、憑依という現象が実は単相ではなく、複雑な重層構造を為していることに光を当てている。これもずい分とこころに停泊した。

「注目したいのは、死霊に取り憑かれた瞬間が、浮舟自身には「いときよげなる男」が近づいてきたと見えるところだ。この「きよげなる」という表現は、たとえば『更級日記』では、夢に現れる神仏やその使いをあらわしている。とすれば、浮舟自身にとって悪霊が取り憑く瞬間は、神仏と見まがう、聖なるものとの接触=ヴィジョンでもあったということになる。悪霊に憑かれることは、超越的なもの、聖なるものにもっとも近づく一瞬でもあったのだ。魔性と聖性が触れ合う際どい霊域である。」(*4)

 石井は善と悪、美と醜をゆるやかに往還するまなざしを常に手離さずに物語を編んでいくのだが、「憑かれる」という行為に対しても異常、不健康、悪行、汚穢といった負のイメージを与えることなく、聖性をどこか信じる風である。人間ってそういうものだろ、狂気や性愛が汚いって、そういう二元論で追いやれるものじゃないよね、と囁いている。

 『人が人を愛することのどうしようもなさ』の女優にどこか宗教画の面持ちを垣間見るひとは多いように思われるが、その根底には「魔性と聖性が触れ合う際どい霊域」としての憑依描写が貢献している。私たちはもしかしたら、実はとんでもない次元の物を見せられているのじゃなかろうか。

 さらに斎藤は同文のなかで、文化史家の竹下節子(たけしたせつこ)の著書『バロックの聖女』(工作社 1996)に触れて自説を補強している。

「十七世紀のバロック時代に、修道院で神秘体験をした修道女たちを論じるのだが、「神」なるものを知覚し、交流したという「聖女」は同時に「悪魔憑き」として排除される存在であったこと、彼女たちにとって「神」は「性的な幻想を誘う存在」であったことが論じられていて、たいへん興味深い」(*5)

 この辺りにも映画『人が人を愛することのどうしようもなさ』を鑑賞した後に、私たち観客が長く引きずる感動の正体が見え隠れするように思われる。性描写の激しさばかりが取り沙汰され、狂人屋敷の戯言と笑い、あの女優はかなり狂ってるよね、神経が普通じゃないよ、と優越心にひたる道筋も用意されてはいるし、身も蓋もなくダークで救いのない話と嫌厭する見かたも一部あるだろうが、「悪魔憑き」という道を突き詰めた涯てに「脱魂」し、終には「聖女」へ至る様子が描かれていた、それこそが石井の示すテーマであった、と、劇の本質を看取る方が歓びも学びも遥かに大きくはないか。

 劇の中盤では「憑かれる」という表現が、遂に主人公を支える男へと伝染している。

  「岡野が憑かれたように、
岡野「オオ、オッケーです……!」
   鏡子がニコリと微笑んで溜息をつく。」(*6)

 筆が滑って重複したものではなく、石井は意図して「憑かれる」という語句を組み込んでいる。道を突き詰めた涯てに「聖性」に至りつつあるおんなに対し、分かった、共に歩もう、殉じよう、と腹が据わった瞬間だ。状況に絡めとられて殺人を犯し、やがて血だらけで死んでいく男の姿は一種の殉教像と捉えるのが至極妥当と思われる。魂をリレーする行為は宗教じみたものであって、憑依にも似たおどろおどろした恋着が必須であり、時に血の祝祭さえ準備すべきという石井の解釈が刻まれている。

 私たち人間は救いようのない欠陥品であって、汚泥にみたされた夜と清浄な空との境界面にほんのりと横たわる暁闇にかろうじて張り付いて暮らす存在である。新聞の社会面を広げれば別れ話をめぐっての刃傷沙汰が次々に起きていて、無抵抗の者が切り裂かれ、悲鳴が木霊する様子が散見されてなんとも陰鬱になる。

 刃物が飛び出さないだけで、殴る、蹴る、罵る事態は半径数キロメートル圏内にいくらでも転がっているのであって、未来永劫ひとの世は流血を避け難い場処であるのだが、その救いがたい状況を石井は映画という枠内で「浄玻璃鏡(じょうはりのかがみ)」のようにつぶさに再現しながら、懸命に当事者に寄り添って光明を探そうと骨折って見える。

 カメラは諦観と哀惜の入り混じった醒めた視線を保持して見えるが、実は全然諦めてなどいない。君たちは馬鹿者だ、人生の無駄遣いをしている、俺は知った事じゃないから勝手に殺し合え、堕ちるのは自業自得で当然と背中を向けることなく、堕ちて、堕ちて、さらに堕ちぬいた場処で何とか「救い」の手段は無いものだろうか、と懸命に悶えている。

(*1):『人が人を愛することのどうしようもなさ』決定稿 シーン28 終電車の電車の中は(『レフトアローン』の続き、零時過ぎ)48頁
(*2):同 シーン84 インタビューの部屋(現在のつづき) 126頁
(*3):「シャーマニズムの文化学 日本文化の隠れた水脈[改訂版]」 森和社 2009所載 斎藤英喜 「シャーマニズムとは何か エリアーデからネオ・シャーマニズムへ」18頁
(*4):「『源氏物語』のスピリチュアリティ 描かれた霊異」161頁
(*5):同 但し書き 161頁
(*6):『人が人を愛することのどうしようもなさ』決定稿 シーン56 廃墟ビルの続き、外は雨(『レフトアローン』の続き)88頁