2016年9月9日金曜日

“無私の情熱”


 人づてに水木しげる特集の評論誌が出たことを聞き、ウェブで取り寄せて読み終えたところだ。「貸本マンガ史研究」という160頁ほどの冊子なのだけど、各執筆者が丹念に記憶をたぐり、また、強い敬慕の念をもって水木の創作世界と切り結んでいて読み応えがあった。(*1) 石井隆の読者には馴染みの梶井純や権藤晋(ごんどうすすむ)といった論客が集って作家性を存分に紐解いているから、その点でも興味深い内容となっている。

 水木が逝ってからこの半年、似たような企画の雑誌が書棚に出ては消えていったが、多くが妖怪草紙と玉砕戦の上辺だけを撫で回すのに終始していた。この本は一頁ごとに質量が宿り、趣きがずいぶん違っている。羨望すら覚える読書だった。ひとりの絵描きの死に際して、ここまで深慮にあふれた弔辞はそうそう編まれない。

 彼らは戦後すぐの貸本時代からの熱心な読者であり、特に権藤は編集者として至近距離から水木とその周辺を見つめ続けた訳だから、自ずとまなざしは紙背に透っていき、作品の核たるものを浮き彫りにする。混迷の歳月を生きぬいた男、武良茂(むらしげる)という一個人を凝視し、その体内に溶け込むようにして想いを巡らしていく。ベタ塗りされた墨の向こうに潜むささやかな希望や怨嗟をありありと誌面に定着させる筆力があって、これを読むと読まないでは作家像はかなり違ってくるように思われた。

 私が水木しげるにこだわっているのは、石井隆を読み進める上で避けては通れない作家と思うからなのだけど、その辺りの詳細は権藤もしくは山根貞男がいずれ世間に紹介してくれると信じるから、今は読者ならびに観客の目線に戻ってこの冊子「貸本マンガ史研究」の読後感を綴るにとどめようと思う。

 水木について語られる文章を目で追いつつ、不安というか恍惚というか、ちかちかと瞬いて首を絞めにくる諦観が入り混じった気持ちになった。執筆者のずっと下の世代にわたしは属しており、彼らの経験したものの何分の一しか記憶の蓄えがない。昭和二十年代や三十年代の空気をよく知らず、四十年代も地上付近の匂いをようやく嗅いだ程度であるから、こんな自分に水木しげるを、いや、他の先達をふくめて何か語る資格はないという気持ちを引きずっている。本音を言えば、年長者にはどうしたって敵わないという気持ちが常にある。

 権藤や梶井たちから少し遅れて生を受け、同じ政治の季節を過ごした作家が石井隆だ。その時代性を正しく理解し、分かりやすい言葉に転換し得るのは、もしかしたら彼ら世代以外には在り得ないのではないか、という思いがしこりのように育ってしまう。中でも権藤によってこれまで発表された石井劇画と映画に対する言及はまったくもって適確と感じるし、文節のひとつひとつが真っ直ぐな実弾となって射出され、おまえは全然見えてないよね、その目は節穴だなと胸を貫く。もっとも毎度毎度の被弾が心地好いからこそ、こうしてその名を書き綴っている次第なのだけれど。

 銃創に怖々と、いや、幾らか嬉々として触れて頭に浮ぶのは、単に時代認識だけでなく、石井隆とその作品を語るスタンスというのは彼らのそれこそが正解であって、ここまで熟考し、粘り腰で磨きに磨かなければ、厚く層の堆積なった石井隆という稀人を“知ること”には至らない、という思いだ。

 指先でプラスチックの部品を押し叩けば、こうしてモニター上には即座に言葉らしきものが連なる昨今、光の粒の集積と明滅を頼りにして、世界中の誰もが割合と気ままに、それほどの資金を投じることもなく文章を開示することが可能となっているけれど、その電気的な現象と作家の真の評価というのは天と地ほども開きがあって、両者の隔たりは容易には埋まりそうにない。
 
 以下はこの号で水木作品を考究するにあたり、権藤が半ば出版業界に半ば読者に向けて説いている評論の心得なのだけど、これなどはまさに私のような半可通に対する銃弾として機能していて、読んでいて相当に痛かった。

「(他者の作品を)発想のヒントにしたらしいという指摘もあるが、何々にヒントを得た、何々に触発されて、何々から剽窃したといった、マニアの間のざわめきは、現実の作品を論ずる場合、いかなる意味ももたない。」(*2)

「今日まで数多くの“水木しげる論”を目にしてきたけれど、石子順造、梶井純、左右田本多、宮岡蓮二らの論考を除いて価値のあるものはひとつとしてなかった。右にあげた人々の論考がなにゆえに価値あるものであったかといえば、作品の本質に、あるいは作者の思想にどれだけ迫れるか、に力点が置かれているからである。そこでは、手前勝手な、恣意的な読み込みは極力排除され、批評にとって最も大切な“無私の情熱”が感得された。それは、作品や作家を第一等に尊重するという姿勢に貫かれていたことを意味するだろう。」(*3)

「手前勝手な、恣意的な“水木しげる論”の大多数は、ひたすら〈私性〉を露わにしているにすぎない。一見、マンガに即して語られながら、その実、己の〈好み〉が披瀝されたにとどまる。(中略)作品にとって本質はただひとつであり、従って、手前勝手な、恣意的な解釈は余分の価値以外ではあり得ない。なにゆえに、私がこうした事柄に言及するかといえば、水木しげるの作品が無限に拡大解釈されているからに他ならない。だからといって、石子や梶井らの論考が〈絶対〉であるといっているのではない。水木しげるの作品もまた、つげ義春の作品と同等に緻密に、注意深く検討されねばならないと思うのである。」(*4)
 
 私性と好みを慎重に排除した上で情熱をもって作品に接し、作家の私性や好みこそを第一に読み解いていく。真の評論におけるその絶対性が語られている。私などはもう悲鳴を上げて詫びるしかない。「感想」レベルの駄文とはぜんぜん次元が違うものだと論されている。

 だからこそあれだけ美しい作品解説が産まれるのだな、見習わなければならないと考えつつも、御覧のとおり、私性と好みという二本の櫂でようやく進んでいる小船のごとき有様であるから、さてどうしたものかと首をかしげてしまうのだった。水木作品をつげ義春の作品と同等に緻密に、注意深く検討されねばならないというのは異存がないし、石井隆の世界をやはりつげ義春と同じ地平に置き、その本質を探る姿勢もおそらく正しいだろう。方位だけはしかと定まるところでもあるので、今はギコギコとそこに向かって、漕げるだけ漕いで行ってみようと考えている。

(*1): 「貸本マンガ史研究」 第2期04号(通巻26号) 貸本マンガ史研究会 2016年8月15日発行
(*2):「家、ムラ、天皇制のもとで」 権藤晋  同 53頁
(*3):「水木マンガを読むために」 権藤晋 同 103頁
(*4): 同 103-104頁