2012年1月15日日曜日

“混沌とコントロール”



 先日台本(決定稿)を目にする機会があったものだから、それに合わせて『GONIN2』(1996)を観直している。公開からすでに15年以上経た作品にいまだに執着する様子は、よほど狂って見えるかもしれないけれど、新たに感じたことを中心に書き留めておきたい。

 ざっと端折(はしょ)れば『GONIN2』とは、だいたい次のような話の流れであった。ジュエリーショップに数名の賊が押し入り、大量の貴金属類を奪おうとする。“個人的な問題を抱える5人の女たちがたまたま居合わせて(*1)”おり、強盗団の虚を衝いてまんまとそれを横取りしてしまう。奪還を目指す男たちがその後を追い、さらには一個の宝石に魅入られた中年男も騒動に加わって、組んずほぐれつの死闘が開始される──

 公開当時の第一印象はと言えば、ずいぶんと“混沌”したものを感じ、また、上昇と下降を執拗に重ねる顛末には船酔いに似た眩暈と痺(しび)れを覚えたものだった。いや、正直言って“滅茶苦茶”とも思った。呉越同舟のおんなたちは経営に行き詰った者、それを慕って追いすがる者、家庭を破綻させた者、組織を裏切る者であるから、これは前作『GONIN』(1995)の枝葉(しよう)を接ぎ木して見えるし、冷酷なヤクザの金銭をあえて盗むという点(これは狙い通りであろうけれど)も同じであって、特段の目新しさはない。揚力をぼんやりと減じつつある飛行船をおんなたちのあでやかさ、小粋さで奮い立たせて、上手に高度を保たせているように見て取った。

 幻滅したとか、つまらぬという意味合いではもとよりない。想いを遺託される衣服、上層に待ち受ける地獄、自著(短編劇画)のシーケンスをそっと引いて綾織られる特殊な群像劇、互いを鏡像と成すおんなたち──作家石井隆を語る上で外せない事象が目白押しの作品であるから、一瞬たりとも気が抜けない。花と咲き婉美(えんび)を競う女優の取り合わせはこれもまた眼福であって、何度目かの観賞となった今回においても存分に堪能したし、ふんわり酩酊させてももらった。ゆらめく煙雨が闇を覆い、アスファルトを黒く濡らしてネオンの光を滲ませる。石井らしい透徹した空気がくまなく画面を満たして、肺腑に沁み入って涼しかった。

 やがて私みたいな純粋な受け手なんかにも、業界の特殊な事情が地響きのように伝わって来た。撮入直前だか直後に想像だにしなかった事件が制作社内に勃発し、そのあおりを喰って潤沢だったはずの予算が半分に削られたという話だ。時間も小道具も何もかもが次々にしぼり込まれてしまい、もう打つ手はほかになく、本番当日の台本にすら現場で直しを入れざるを得ない、そんな緊迫した事態だったと聞く。いかに勇猛秀逸な石井組であろうとも、それじゃ“滅茶苦茶”にもなろう、墜落気味ともなろうと納得するものがあった。

 最初に書いた通りDVDを観返すきっかけは“台本”を目にしたことであり、そこに予想外の印象を抱いたせいである。手つかずの“原形”がそこかしこに在って、面白く読んだのには違いないのだけれど、思いのほか完成なった映画との間に段差が見つからない。こんなはずでない、もっと違った風景が読めると思っていた。

 つまり『GONIN2』とは構想の段階からして相当に入り組んだお話であり、暴れまくる話なのであって、不意を襲った予算の枯渇が一瞬のエンストなり急旋回を余儀なくされたにせよ、それは瑣末な変更にしか過ぎず、だから錐(きり)もみ状態がもたらす歪みや亀裂で満身創痍のへろへろの体になっている訳では決してないのである。観る側でもしも混沌や無茶苦茶を覚えるとすれば、それは石井が当初から描こうとした曲線なり渦、色彩に私たちの生理が単に驚いてしまっているだけであり、もしかしたら、それこそが石井の狙いであったかもしれないのだ。

 台本と映画の双方を見比べて合点が行った箇所を列記すれば、それは自ずと石井が『GONIN2』という物語に託すものを浮き彫りにする。たとえば、最初に夏川結衣演じる“早紀”というむすめに視線を注いでみよう。少女時分に学校の構内で巻き込まれた悪しき体験にずるずると呪縛されているこの若いむすめは、夜ごと悪夢の底に堕ちてはおぞましい幻影に襲われ続ける。のしかかられ、着物を裂かれて悲鳴をあげるなか、枕の下に忍ばせていた護身用の警棒を引き出すと怪しい影に向けて振り下ろすのであった。

 連夜の夢で舞台となるのがアパートの自室であり、いつも身を横たえるベッドであるから始末が悪い。頭骨が砕ける鈍い音がして、血をぼたぼたと垂れ流しながら男がどっと倒れるところで毎回目を覚ます。蒼白な顔で寝間着を点検する様子がこれに続き、そこでようやく夢から覚め切ったと安堵するのだった。

 このとき“夢の相手”に向けて振りかざす金属製の警棒は、ジュエリーショップでも再登場している。ねっとりと濡れたような重い反射光を湛えた細くて硬そうな面持ちであって、夏川のきゃしゃな体躯と不思議に似合って私たちを蠱惑するのだけど、この携帯型の警棒ははてさてどこから現われたものだろう。考えるまでもなく早紀の抱えるバッグの奥に潜んでいたのだが、ならばこの警棒は、これまで昼となく夜となくこの不幸なむすめに寄り添っていたものだろうか。二度と我が主(あるじ)を恥辱にまみれさせてなるものかと、時には風を切り、ぶんと音を立てて夜道や公園で彼女を守り続けていたものだろうか。夜には枕の下に眠っていたものだろうか。

 畳みかける描写の凄まじさと速さから(それにこだわる観客もいないから)話題に上らないけれど、ジュエリーショップで賊のひとりに振り下ろされた瞬間こそが“使い初め”というのがどうやら本当らしい。つまり夢の中で“夢の警棒”を振るって逆襲を遂げる自身の奮戦ぶりに触発され、仕事帰りに防犯グッズ店にふらり立ち寄り、そこで猛禽類のごとき尖(とが)った色香を発散させるサングラスのおんな(蘭=余貴美子)が物怖じせずにスタンガンを買い求める姿にうっとりし、自らもそれにならって警棒をいそぎ買い求め、そのまま追尾して半地下のジュエリーショップに降り立ったのである。

 大声で店員と客を威嚇する賊に怯(おび)えて陳列ケースの後ろに猫の子のように隠れながら、再度忌まわしい記憶に苛(さいな)まれるむすめであったのだが、店内で展開されるある場景をきっかけとして豹変する。汗ばむ指先でバッグを探り、握り締めるやいなや駆け出し、満身の力をこめて警棒を打ち下ろしたのだった。ある場景とはなにかと言えば、先刻より気になり追いすがって来た蘭というおんなが、銃を突きつけ脅す賊(中山俊)をスタンガンの一撃で打ち倒した様子を指している。

 そもそもこのスタンガンを購入したおんなの当初の狙いや目的が何であったのか、物語をつぶさに追尾することで推理はおおよそ可能だろう。地下採石場のような半地下の店舗はがらんとして広く、客もそれに応対する店員もあちらこちらと散っている。“女性”店員を呼び止め、間近で見たいからと陳列ケースから高額の宝石を取り出させ、その直後に手首を電撃して失神に至らしめる。膝おり崩れ落ちる店員に(内心詫びを入れつつ)驚き介抱する振りをしながら、騒動にまぎれて宝石をポケットにそっと仕舞って店を後にしようと目論んだのだった。経営するスポーツジムが行き詰まり、日毎夜毎に返済に追われる身である。もしも拝借した宝石一個を例え半額になろうと現金化出来れば、その場しのぎにしかならぬけれど矢の催促をかわすだけの時間稼ぎにはなるだろう。

 売り子である若い娘を(万引きのため仕方なく)襲うつもりだったおんなが、銃を片手に咆哮する賊に対して爪を突き立てた理由は何だったか。単純な自己防衛のためではなかった。(結果的に獲物の横取りに発展したが、それは二次的な事であって実際は)自身の外貌に向けられたふざけた嘲弄(ちょうろう)に心底怒ったからである。おんなであることだけで強いられる理不尽この上ない侮蔑に、完全にキレたためである。これまでは天井からブラ下がったサンドバックに憤懣をぶつけるだけだったおんなが、“生身の男”に向かって高圧電流を叩き込んだ瞬間であり、それが引き金となって夢の中だけで逆襲を果たしてきたむすめが、初めて“生身の男”に向かって鉄槌を下(くだ)している。

 大竹しのぶが演ずる娼婦サユリの面立ちと付随する挿話は、石井の劇画【爛(ただ)れ】(1976)に沿っている。客の男に年齢詐称がばれてずいぶんと酷い言葉を浴びせられるのだったが、映画でのサユリは夜空を仰ぎ嘆息するにとどまっている。石井を見守る息の長いファンならば、原形である【爛れ】における終幕を今でも鮮烈に思い出せるのではなかろうか。酷い言葉に完全にキレたおんなは恨み言をつぶやくだけでは済まさなかった。客室の備品を高々とかかげ、男の頭頂部に向かって真一文字に打ち下ろしてその命を奪っている。映画『GONIN2』(および台本)にそんな陰惨な情景は描かれてはおらなかったが、かえってこれが示唆することは何かと言えば、サユリというおんなはかろうじて“殺意”を寸止めにした状態にあり、茫漠たる思いに沈みながら一段二段とふらふらの体で宝石店の階段を降り至ったという見えざる内奥だろう。

 志保(西山由海)というおんなの来店目的は抜けずに血だらけになった結婚指輪に困り果ててのことだったが、開口一番“切る”ことを願い出ている。事情を慮(おもんばか)った店員がベビーオイルを使ってたくみに滑らせ抜き取ると、今度はすかさず売却を願い出ており、こちらも“男”に対する憎悪と結婚に対する破壊願望に満ち満ちた風情であった。

 つまり、『GONIN2』のおんなたちは“たまたま居合わせて”いたのではなかった。ケースに陳列され、やがて眼前にぶちまけられる貴金属にも大して興味を抱いていない。沸沸とたぎる男への憎悪を抱えて、靴裏にその醜悪な顔なり声を思い返し、のっそりと踏みしだいているのである。可燃性のガスを吐く剣呑この上ない淀みの中に、何も知らぬのんきな賊がそれこそ逆に“たまたま”来てしまい、一服する構図である。これまで一度として男に手を上げたことのないおんながあれよあれよという間に誘爆していく。覚醒して、宝石ではなく生々しい“暴力”をこそ、嬉々として手中にしていく話であった。

 前作『GONIN』の男たちがやや捨て鉢な行為に没入しながらも、概しておのれへの愛着なり憐憫に染まっている分“建設的、創造的”な会話なり筋が展開されていたのに対し、投打と殺傷、破壊だけを純粋に目指そうとしたおんなたちの『GONIN2』が“滅茶苦茶”となるのは、だから道理に適っているのであって、観客が、特に男が“当惑”を覚えるのは正しい受け止め方と言えるのである。

 昨晩、カナダの天才ピアニスト、グレン・グールドGlenn Herbert Gouldのドキュメンタリーを観た。印象に刻まれた描写や言葉は多いのだが、納得のいくまで録音テープの編集作業に明け暮れる鬼気迫る姿が途中紹介されていて、これと共に“コントロールのひとだった”と往時の彼の気質や作風を偲んで語られる箇所がある。かたちは違えども石井隆もまた、コントロールのひとであろう。“当惑”や“滅茶苦茶”を描くのが正しければ、怖れず逃げずにそれを描けるひとである。

 これからも、常識の遙か先を行く描線と色調が私たちに示されるに違いない。慄然とさせられる瞬間をこころ待ちにしている。


(*1): http://movie.goo.ne.jp/movies/p28069/story.html