2015年5月31日日曜日

山根貞男 「劇画表現における〈ことば〉──石井隆を例に」を読んで


 卑近なたとえで恥ずかしいが、かりそめの恋に一晩の慰めを得て、翌朝にはきれいさっぱり忘れてしまう、そんな具合に映画なり小説、漫画を楽しむ人は多い。しかし、夢想家気質にとってはこれが存外むずかしい。わずかな会話に絡め取られ、想いがぱちぱちと明滅していく。記憶の荒れ野を何処までも、迷い歩いて帰れなくなる。中でも石井隆の差し出す世界は、決まって割り切れる相手とならない。切れ切れの景色を目の奥で再生しながら、一体全体なにに自分はこれ程まで執着させられているのか、と、自問自答を重ねる羽目になる。

 物語の輪郭にだろうか、沈んだ調子の台詞にだろうか、それとも空間の陰り具合のせいなのか────わたしが石井作品に取り憑かれ、朦朧の態でこの備忘録を書き連ねている理由は、端的に言えば石井世界の魅力なり構造を自身の言葉でうまく表現出来ずにいるからだ。

 他人の声にも耳を傾けていくのだが、もどかしくも甘い匂いのする思案のつむじ風にびゅうびゅうと巻かれるばかりだ。たとえば先日のツイッターに石井の映画作品への感想が寄せられており、「描写に関してはもう、”石井隆”としか言いようがない」と結んでいた。読んで思わず笑ってしまった。(*1) なるほど確かに石井は、“石井隆”というカテゴリーを創って見える。

 「”石井隆”としか言いようがない」とは言い得て妙だが、それでは話が前に進まない。いや、無理矢理に前に進める必要はないのであって、ああ、石井隆だ、やっぱり石井隆だ、と頷きながら劇場を後にするだけで本当は良いのかもしれない。しょうがないなあ、そりゃその通りなんだけど、私だって同じように思うんだけど、と、にこにこ微笑み、再度そわそわして別の書き込みを手繰っている自分の執着の方が余程どうかしているのだ。

 ともあれ、この石井作品を貫くマジック“石井隆”を自分なりに解こうと試み、あまりの風圧に悶々とする日常へと至っている訳である。作家性という便利な言葉で何となく整理はつくかもしれないが、具体的にどこがどう醸(かも)されて「”石井隆”としか言いようがないもの」へと熟成しているのか、それを立て板に水で語ることは容易いものではない。

 ヒントを求めて風にむけて伸ばした指先には、感激のあまり勢いよく宙を乱れ飛ぶ屋根板染みた意見とか、土壁の漆喰がはらはら涙を落とす具合に剥げて千切れた砕片状の楽しい囁きに混じって、時には思わず膝を打ちたくなるあざやかな花弁なり愛おしい雨滴が触れてくれるのが嬉しい。それをぎゅっと握った瞬間の愉悦といったらなく、そのご褒美にもしかしたら私は半ば中毒になっているのかもしれない。

 「短歌研究」という雑誌の今から三十七年程も前の古い号(*2)になるのだが、山根貞男が石井隆に触れた小文を寄稿している。これなどは正にそれであった。刺激をともなう読書となった。山根はそこで石井劇画の小編のひとつ(*3)を例に引きながら、劇画という表現手段の特徴を読み手である歌人たちに説いてみせるのだけど、石井隆を劇画の送り手の中でも「見事な」存在と強調していた

 山根がここで取り上げた石井の小編は静寂に包まれており、冒頭、高層ビルの展望台、独り住まいの木造アパート、繁華街の雑踏といった日常から切り取られた風景が無音で点点と配置された後に、今度は鉄筋コンクリートのマンション外観が描かれ、室内空間のおんなの姿態とそれを窓の外から見守る男の様子とがカットバックする構成となっている。両者はほとんど言葉を発せず、声らしき声といえば時折挿し込まれる男の独り言と、ベランダからの墜落に気付いた住人の警察への通報を求める叫びしかない。以下は山根の文の抜粋であるのだが、劇画の表現法を示すと共に当然ながら石井の小編の解説ともなっており、さらには石井隆の世界全体に通底する大事な一面を言い得ているように思う。

 「むしろ一見、絵がすべてのごとく見える劇画作家だからこそ、石井隆は、コトバに鋭く敏感である。見かけとは逆に、絵ではなくコトバのほうが作品の真の核心をになうことも多い」、「作品のラスト近くに出てくる数少ないコトバが、それまでほとんど無言劇のように展開されてきたきたものを一変させ、“有言劇”にしてしまう」

 見かけとは別の流れが石井作品の裏側には潜むことを山根は嗅ぎ取っていて、台詞がかぎ裂きを作って表層を破っていく特有の動作を見逃さない。さらには、裏の流れが表層世界を侵食して、石井の劇の日常風景をあえかに、ときには大胆に、変貌させることも見抜いている。

 「それまで描かれてきた女の姿態の一つ一つも、あるいは降る雨さえも、男の心情に染めあげられているかに思われてくる。すべての絵は、たんに外面描写であるばかりでなく、男の内面を表わすものだったのだ、というふうに」、「もはや明らかであろう。(引用者註:一般的な漫画の表現法としてあるような)絵が外面を、コトバが内面を表わすと先述したことが、ここでは、無効になっている」

 風景と心情が「役割を入れ替え、一つになる」という石井作品の壮絶なうねりを、山根は“無効”という烈しい表現を使って解いてみせる。石井世界の全域を括るには至らないにしても、寄り添い凝視める上での重要な糸口であるように感じさせる評論であって、これはなかなかに大切と感じる。


(*1):今日、この囁きが消えているのを知りました。もしかしたら誤解されてしまったか、説明が足りなかったかと反省しています。「石井作品を“石井隆”としか言いようがない」という想いは、実はほとんどの鑑賞者が抱いてしまう等しき感慨です。だから、これを書かれた方を揶揄する気持ちは毛頭ありませんでした。気分を悪くされておられたら本当に謝ります、ごめんなさい。もちろん私にしても日頃から、“石井世界”という言い方をして、「“石井隆”としか言いようがない」光景を見詰めているのであって、結局のところ、あなたの想うところとまるで一緒の、いわば“共振者”のひとりなのです。

(*2):「短歌研究」 短歌研究社 1980年7月号 50-51頁
      山根貞男 「劇画作者と〈ことば〉 劇画表現における〈ことば〉──石井隆を例に」
(*3):「ポルノPART1」 1979 「石井隆作品集 イルミネーション」立風書房 所収