2015年4月5日日曜日

“夢の否定の映画”~『甘い鞭』に覗く石井世界の原型~


 相似する影ふたつから、【夜の深海魚】(1975)と『甘い鞭』(2013)との連環を先に書いたが、もしかしたらそれは私の早合点かもしれない。映画で木下と名付けられた裏町の住人を演じたのは屋敷紘子(やしきひろこ)で、元々が端正な顔立ちであって、石井隆がかつて描いた劇画のなかの女伊達と無理なく被っていく。しかし、整った面相というのはある意味、没個性へと漂着する。

 屋敷がそうと言っている訳ではないのだ。押し味のある独特の存在感を示す女優だから、むしろ興味深く見守っているくらいだ。没個性とはあくまでも【夜の深海魚】と『甘い鞭』双方のキャラクターの風貌を指して今は言うのであって、たとえば口がひどく曲がっているとか、頬に傷があるといった際立った特性は与えられておらない。役を担った屋敷も、悪戯に力んで表情を崩すような下手な鉄砲は撃たない。その為に両者が意図的に似せられたかどうかの糸口がつかめない。服装は全身を黒皮であつらえたいわゆる女王様ファッションだから、その点だって突飛なものではないのだ。唯一無二の奇抜な造形とは共に呼べず、スマートで定番化した役どころと称することが妥当だろう。

 映画の屋敷は眉毛がなくて怖いし、相当きわどくはあるのだけど、正攻法の姿勢をほどいてはいない。肩越しに重量感が匂うと言うか、ゆらめきつつも平均台にはちゃんと乗っているというか。その硬質のところも次の連想を誘うのだ。手本となる切り抜きを示され、鏡の横にクリップか何かで留めて、それを見ながら懸命に作り込んだ訳ではないのであって、屋敷だけの孤高の想像力で我が身を妖しく装ったのではなかったか。脇座をどう染め上げるべきかを熟考した上で、模範的な絵姿を世に送り出したのではなかったか。

 『GONIN2』(1996)の衣小合わせの際に、鶴見辰吾が奇抜な髪型で現れて石井を仰天させた事は周知の事だが、切れ長の目を強調した屋敷のどぎつい化粧にしてもボブカットの髪型にしても、鶴見と同様に台本を読み込んだ末に行なった役作りの範疇に含まれるかもしれず、また、石井はこの提案を面白がり、心底愉しみながら起用したのだったかもしれぬ。【夜の深海魚】という過去の景色を撮影現場に持ち出すのは土台からして“不自然”だし、スタッフなり役者がそれに踊らされたという情報は全くないのだ。両者を重ねて透かし見るのは、わたしだけの狂った妄想ではなかろうか──。

 そのように思考を鈍らせ、足踏みする夜を重ねたのだったが、ゆっくりと時間を置くことで蒸留され、行き着く思いがある。石井隆のぶれない体質からして、役者屋敷の創ったこの容姿に自身の嗜好を重ねたのはきっと違いなく、拒絶反応が生じるはずがないということがまずひとつ。おんなの面影が石井の指示によって作られたかどうかはこの際問題ではなく、大事なのは木下景子という痩身のおんなのシルエットが石井隆の世界に至極馴染んで、確かな鼓動を刻んでいる、この点こそが大切な点ではないかという思いが、次に固まっていった。

 石井好みの容貌である以上、現場での順応は程なく進んだのは違いない事であろうし、暗闇に包まれた秘密の部屋にぬっくと立つ猛々しいおんなの影を連結器と為し、映画『甘い鞭』は劇画【夜の深海魚】と年数を越えて通底していくのもまた、石井世界に於いては自然の理だ。

 食と壁、さらには重要な役どころのおんなまで入れ替えて、こうまで徹底して変幻した『甘い鞭』を私たちは今、どう捉えるべきか。石井世界の大伽藍に溶け込む段階にようやく来たと感じられるし、明瞭なレリーフとなって神話を謳う、新たな役割を得たと言えはしまいか。石井という絵師の筆致が至るところに確認できる、やはり石井世界の産物のように映画『甘い鞭』を思う。

 
 単行本未収録の【夜の深海魚】について、ここで筋や詳細を取り上げてもほとんどの人は皆目わからず迷惑至極だろう。代わってここでは映画監督の実相寺昭雄(じっそうじあきお)が、この掌編ついて語った言葉を添え書きしたい。実相寺は別冊新評の石井隆特集号(*1)において、「幻私物語 石井隆の色」(*2)という評釈を寄稿している。「私は石井隆さんの熱烈なファンであり、コレクターでもあった」(*3)と書くだけあって、初期の劇画作品をいくつも引きながら熱い調子で綴るのだった。

 やや情感に流れた文章ながら、石井の執筆活動の早い時期から着目して丹念な渉猟を続けただけあって、世界全体の輪郭というか、軸心、実相寺自身の言葉では「原型」のようなものを探し当てたと感じさせる文章が並んでいる。私たちが既に了解している通り、石井世界という同じ潮流に属するということは、一方を語る言葉は自ずと反響して他方を解する助けとなるのであって、実際、ちょっと引用するだけでも心の内に、石井の映画作品を含む物語の諸相がきらきらと舞い踊り、切なさそうな顔でこちらを見やって来る。

 たとえば以下のくだりなどは【夜の深海魚】を含む初期作品に対し語られたものであるが、『甘い鞭』という物語でさまよう奈緒子というおんなの、引いては石井作品でぽつねんと佇立する男たちの、さらには二時間弱の短い間だけ劇場の椅子に身をゆだね、その後静かに眉をよせながら日常へと帰還する私たち受け手を含む優しき人間たち全般をモデルとした素描を髣髴(ほうふつ)させ、頷かせるものがいちいちある。

 「“夢の否定の劇画”という一点で、深く夢とかかわっている」、「夢への通路を渡ろうとした物語」、「夢にも見離された状態、即ち夢の拒否を、彼は一本の線に仮託したのである」と実相寺は書いている。さらに続けて、「夢のさめた果てには、どこを探しても、現(うつつ)はない」、「夢の対極にある日常は恢復しない」、「残されたものは、時間も、空間も定かではなくなった混沌と朦朧。恐らくは何もない。何ものも産み出さない時間だけが空しく過ぎている世界なのだ」(*4)と、石井が描く物語の末路を総束して見せる。

 渡ろうとした道は閉ざされ、夢の続きも現実への戻り路も『甘い鞭』の奈緒子(壇蜜)は見失うのだったが、思えば『死んでもいい』(1992)にしても、『ヌードの夜』(1993)や『人が人を愛することのどうしようもなさ』(2007)にしても、どれもが“夢の否定の物語”ではなかったか。避難先を探しあぐねて瓦礫のなかに立ちすくむ、そのような寂寂たる道程が描かれていた。

 「その恐ろしい迄の、回帰する場所を失った男たちの現在の神話が、石井隆の描く“夢の否定”のオデッセイなのだ」、「無明の世界があるばかり、なのだ。但し、この世界を諦観と呼ぶのは、ためらわれる」、「そう、もっと恐ろしいもの、畏怖して近寄り難い妖艶な闇の色、というべきであろう。」(*5)

  『天使のはらわた 赤い眩暈』(1988)の村木や『GONIN』(1995)の荒ぶる男たち、そして『フィギュアなあなた』(2013)の黄泉路(よみじ)の旅人を想うとき、実相寺の上の言葉は見事に的を射抜いて感じられる。“夢”という言葉に翻弄され続け、伸ばす手指にも這い進む足先にもそろそろ疲労が溜まって動きが止まりがちな私たちの身にも、ゆるり滞留して束の間なれど黒い渦を巻く。

 石井世界を「何と残酷で哀しいもの」(*6)と、実相寺は持論を結んでいたのだったが、確かにそうと想う。特に近年の映画づくりはまさにそれだろう。夢の世界に息づく住人が懸命に力をあわせて作っているのが、徹底して“夢の否定”であるとは。それを凝視し続けて、生命の輝きに触れるとは。切実な荒野が身近に在ることを強く感じている。


(*1):「別冊新評 青年劇画の熱風!石井隆の世界」新評社 1979
(*2):「夜ごとの円盤 怪獣夢幻館」実相寺昭雄 大和書房 1988 に再録
(*3):「闇への憧れ 所詮、死ぬまでの《ヒマツブシ》 創世記 1977 あとがき
(*4):「石井隆の世界」 176頁、177頁
(*5): 同 177頁、179頁
(*6): 同 179頁「石井隆の劇画(陰画)とは、何と残酷なものか。」



2015年4月2日木曜日

“木下景子”~『甘い鞭』の深海流~


 石井隆の近作『甘い鞭』(2013)は大石圭の小説を原作としており、筋を追う限りにおいては極端な脚色なり逸脱はあまり目に付かない。

 主人公の奈緒子は高校生の時分に隣家の男に強引にひきずり込まれ、地下室に幽閉されてしまう。そこで一ヶ月に渡って暴行を受けるのだが、隙をついて脱出に成功する。長じて後は婦人科の医者となり、受け持ちの患者に献身的に尽くすのだったが、その一方で夜な夜な化粧をどぎつく変え、扇情的な衣服をまとって秘密クラブの接待役を担うのだった。背中や臀部を打たれ、さまざまな陵辱を耐え忍びながら何をしているかといえば、記憶の底によどむ監禁事件のディテールを脳裏に再生し、魂の安息を懸命に手探っているという内容だった。

 幕引き間際には忌まわしい過去の景色と、風俗業に手を染めて以来の乱痴気騒ぎの数々が急速に収斂されていき、それに反して主人公の意識は分裂を加速し、やがて一気に崩壊へと至る。この尋常ならざる末尾部分だけが原作から大きく飛翔した演出上のハイライトになっていて、多くの観客はそこに石井隆という作家の怖ろしさを垣間見て、唸ってみたり涙してしまうわけだが、それでは、映画『甘い鞭』のラストシーンではなくその全身像において、石井世界の花弁がそこかしこで咲き匂って見えるかどうか、その識別にはかなりの眼力が求められそうだ。馴染みの名美や村木を識別し得ないこともあり、急変して荒れ狂う終幕にてようやく石井世界から高潮が押し寄せ、波の花がぷんと薫ったと受け止める人も多かったろう。それぐらい話の筋は原作に一見忠実であった。

 しかし、実際のところの映画『甘い鞭』は徹頭徹尾、相当くどく手が加えられた作品であって、以前、その面白さを説く目的から小説内の記述と銀幕の表装とを比較し、石井隆が原作「甘い鞭」の映画化を委ねられていったい何をしたか、何をしなかったかをこの場処で後追いしている。

 ひどく偏執的で余計なことと思わなくもなかったが、食の景色がどのように消失したのか、地下の秘密部屋がどれほど荒涼としたものへと転換されたかを精査照合する行為を経て確認されたいちいちに、石井隆という作家の、女性という存在に向けられた独特で真摯なまなざしを感じたのだったし、また、体温を含んだ膨大な深慮が指先まで届くような具合であった。

 原作を換骨奪胎することを自ら禁じながらも自らの内面世界に溶け込ませた縫合の痕跡をいくつも認めて、その巧みさに舌を巻くと共に、石井隆という作家の倫理観の頑強であることに驚かされた。『甘い鞭』は、だから、全篇に渡って石井世界より移植されたひかりごけに覆われ、霊光にぼうっと浮き立つような具合であるのが嘘のない実相であるだろう。

 
 食事と部屋の創り込みのほかに、実はもう一点、石井という彫刻家が腕をふるった秘かな鑿(のみ)痕をわたしは見ていた。木下景子というおんなの造形だ。裏表のある時間を過ごす主人公が身を預ける秘密クラブの女主人の、その体型の異変なのだが、当初はそんな事を口にしても『甘い鞭』という物語の観方が大きく変わるようには思われず、瑣末な点に触れ騒いでいると本質から外れてしまいそうにも恐れて黙っていたのだった。けれど、この木下景子というおんなの変貌というのは、よくよく考えればかなり石井隆的な色彩のひとつであって、一切触れぬままで『甘い鞭』を愉しんだ、堪能したと言っては片手落ちじゃないかと最近は考えを百八十度転換している。

 大石圭の原作において木下というおんなは、他を圧倒する個性を賦与された存在となっている。書き写してみればこんな具合だ。括弧[ ]内の数字は例によって手元の文庫本(*1)の頁数を表わしている。

 木下という「大柄な中年女は、ボディビルダーのような逞(たくま)しい体つきをしている。筋肉の鎧(よろい)に覆われた肉体には、皮下脂肪がまったくない。明るく染められた髪は、男のように短く刈りこまれている」[6]。「目付きがとても鋭くて、雰囲気はかなり怖かったけれど、彫りの深い整った顔立ちをしていた。年齢は50代になっているらしかったが、スポーツクラブで毎日のようにマシントレーニングをしているという肉体は、筋肉質で逞しく、引き締まっていて、ボディビルダーか女子プロレスラーのように見えた」[205]

 この“ボディビルダー”を思わせる体格を大石は幾度も繰り返して説き、わたしたち読者の心にごつごつしたシルエットを明瞭に印象付けていく。「ボディビルダーのような体をした」[9]、「ボディビルダーのような木下景子の体が痙攣(けいれん)するかのように震え」[219]、「ボディビルダーのような肉体をもったこの同性愛者を」[221]、といった具合である。これの変奏として「木下景子の筋肉質な体」[215]、「筋肉に覆われた逞しい肉体」[216]といった表現も数多く出没する。

 「ごつごつした筋肉が浮き上がった木下景子の背に、がっちりした肩に、逞しい腰に、余分な肉がまったくない尻に、わたしのウエストほどもある太腿(ふともも)に、そして、引き締まったふくら脛(はぎ)に」[222]、主人公はすっかり目を奪われていく。「がっちりとした木下景子の腕や腿(もも)やふくら脛(はぎ)に筋肉が逞しく浮き上がり」[215]、波打つ様子はさながら「筋肉の鎧(よろい)に包まれた肉体」[220]を連想されるのだった。

 「わたしはまた、筋肉の鎧(よろい)に包まれた彼女の逞しい肉体を思い浮かべた。そして、いつかまた、ボディビルダーのような彼女の体に力の限り」[253]鞭を振り下ろしてみたいと、美貌に恵まれながらも人並みの体躯を持った主人公は欲したのだったが、この倒錯したもわもわした希求の発露する根本にあるのは、「鞭を頭上に振り上げた。女の逞しい腕とふくら脛(はぎ)、そして逞しい太腿に、浮き上がった筋肉が陰影を作った」[7]その様子に目を瞠り、ひたすら陶酔する奈緒子という内向的なおんなの、湿った憧憬、恋情寸前のうずきで在ることは容易に想像がつく。

 「並んで立つと木下景子はわたしより5センチ近くも高かった。たぶん、体重はわたしより20キロ……いや、もっとあるのかもしれない。だが、その20キロは、ほとんどすべてが筋肉だろうと思われた」[206]のだったし、「筋肉が浮き上がった彼女の二の腕は、わたしのそれの3倍も太く、腿(もも)はわたしのウエストほども太かった。腹部にはまったく脂肪がなく、割れた筋肉が模様を作っていた。その男性的な肉体には乳房が不釣り合いに感じられもした」[207]のである。木下景子という女主人はここまで強烈な形であって、その前では主人公の美貌もうっすらと霞んでしまう程であるのだし、主人公奈緒子が単なる雇用や従属の関係を超えた、人間的な興味や探求の視線をこの木下というおんなに雨あられと注いでいればこそ、ここまで詳細な身体描写へと結びつくと捉えて構うまい。つまり、この木下景子というおんなは単なる脇役では納まらない、主人公の魂のふところに踏み入る特別な役割を担った人物として産み落とされた気配がある。

 これを石井は屋敷紘子(やしきひろこ)という細身の女優に割り当てて『甘い鞭』を構築し直している。屋敷は殺陣(たて)を果敢にこなす活劇肌の役者であるから、「毎日のようにマシントレーニングをしているという肉体は、筋肉質で逞しく、引き締まっていて」、小説の木下景子並みの「筋肉の鎧(よろい)に包まれた逞しい肉体」を衣服の陰に保持しているのは違いないのだが、その面立ちから受ける印象はむしろ繊細にして艶麗、女性的なやわらかな肢体をそなえた今様のおんなであって、原作を読んだ身からすれば読後の木下の残像、すなわち「男のように」さえ見える容姿があまりにも色濃く脳裏に粘っていたから、両者の輪郭が綺麗に合致せず、妙に胸苦しい違和感を覚えていた。

 「真っ黒なアイラインに縁取られた目」[8]で世界を睥睨し、「素顔がわからないほど濃く化粧した」[6]ところは小説通りであって、屋敷紘子は自身の整った面影を破壊するほどのメークを施して、『甘い鞭』という映画世界に身を捧げ尽くし見事とそれは思うのだけど、それにしても原作小説のキーとさえ呼べそうな木下恵子のビジュアルを一切捨てた石井の思惑と何だったろうか。

 『甘い鞭』と同時併行で製作された『フィギュアなあなた』(2013)には、元プロレスラーである風間ルミが“男装の同性愛者”役で登用されているから、もしかしたらスケジュールの都合等から大胆な入れ替えが為されたのではなかったかという推測も当然ながら湧いて出る。膨大な数のスタッフとキャストが入れ乱れる映画製作のリングではプレイヤーの交代は日常的に起こるであろうし、それについて後ろ向きにあれこれ邪推するのは益無く幼稚な行為とも思えて、この事につき触れることを控えたのだったが、果たして単純に大人の事情と割り切って、あの奇妙なキャスティングをこのまま嚥下してしまって良いものだろうか。

 再度、石井が小説「甘い鞭」の映画化を委ねられていったい何をしたか、何をしなかったかを振り返れば、短絡した表現となるけれども、それは引き算の連続であったように思う。小説世界はそれはそれで十分惨たらしいのだけど、さらに奪えるだけ奪っていく行程がこれでもかと示されていた。“美食”を奪われ、清潔な“白い壁”や快適な空調を奪うその流れの延長として、憧憬を誘ってやまない“男らしい同性愛者”を石井は奈緒子というおんなの面前から奪い去った、と解釈するのが存外正解ではなかろうか。容赦のない略奪が行なわれた形跡がある。

 奪いつつも石井は新たなおんなを主人公にあてがっている訳なのだけど、それではこの石井版木下景子は妥協の産物、さながら去勢され牙までも抜かれた猛犬の末路であったかと言えば、実はその逆であった可能性が高い。食の替わりに“嘔吐”を、白い壁の替わりに“黒かびに浸された亀裂”を入念に準備した石井であったわけだから、この新たな木下景子だって愉しんでこね上げ作った魔術人形であり、自国の領域を拡げるために送り込まれた黒い尖兵だったのじゃなかろうか。 

 今頃になってどうして屋敷紘子演じるところの華奢な、どちらかと言えばフェミニンな木下景子につき口角泡を飛ばしているのか、それも馬鹿みたいに誰もいない夜の公園然としたこんな空ろな場処で独り興奮して何を語っているかと笑われそうだけれど、それは前述の通りで、私が石井の掌編【夜の深海魚】(1975)が掲載された雑誌(*2)を入手し、その描画に虜(とりこ)となったせいだ。【夜の深海魚】に登場する秘密クラブの女社長の面立ちは、唖然とするほど映画のなかの木下景子と似ていたのだった。


(*1):「甘い鞭」 大石圭 角川ホラー文庫 平成25年3月5日 12版発行
(*2):「漫画エロチカ」 昭和50年3月1日号 淡路書房