2019年2月14日木曜日

“渇き” ~歓喜に近い愉悦~(1)


 若い時分に奇妙な強迫観念に囚われた。移動も儘ならないひどく乾いた場処に捨て置かれ、救助の気配の感じられぬままで悶々と過ごさなければならない。独りではなく、大事な人もいっしょに居るというおまけが付く。喉をひくひくさせて壁にもたれる疲労困憊のひとを前にして、何も為すすべがなく無力感にさいなまれる、こんな予感になぜかぐるぐる巻きにされたのだった。

 南米での飛行機墜落とその後の生還を題材にしたドキュメンタリー(*1)や、熱砂の荒野を横断するサスペンス映画に毒されたのか、それとも未来人に拉致され出口も窓もない白い小部屋で幽閉される不条理小説から連想したのだったか、今ではまるで経緯が分からないけれど、頭の奥で恐い映像がつぎつぎに浮んでは濃縮されていき、とぐろを巻いてどうにも追い払えなかった。

 家族なりいたいけな女性たちをどうにかして生き永らえさせねばならない、さて、どうしたら良いのか。熱風が吹き寄せ、やがて唇はかさかさにひび割れ始める。このままでは確実に死なせてしまう。手元には気の抜けた清涼飲料水が半分ほども残っているだろうか、小さなペット容器しかない。守るべき相手にこころよく譲ったとして、では自分の生体維持はどうするのか。

 考えるだけ時間の無駄だよ、超が付くほども凡庸な人生を歩んでいる貴方にそこまでかっこいい役目は絶対回って来ないから、とあなたは笑うかもしれない。でもね、かつて大津波で半壊して廃墟と化した海辺の校舎を訪れ、そのとき県外からやって来た大学の研究室だったか防災担当の役人だったかの小グループに居合わせて、案内役の町の職員に無理を請うて共に入らせてもらい、あの忌まわしき早春の午後の教師と子供たち、保護者たちが不安な夜を明かした暗い屋上の物置スペースに直にこの足で立ってしまうと、やはり九死に一生の出来事はいつ誰の身に起きてもおかしくないと信じられてしまい、夢物語と割り切ってやり過ごすことが叶わない。

 今から十五年程も前、妄想は膨張のピークを迎えて私をずいぶんと内側から圧迫した。米国の同時多発テロの爆風が不安を煽ったのだろうか。これはまずい、どうしようどうしようと焦るようになって、ドナー隊やエセックス号の受難を物語る本や映画が視界に入るとついつい読んでみたり、目を皿のようにして画面に見入った。今だってそうだ、どうしても目が離せなくなる、耳をそばだててしまう。(*2)

 あの折の妄想の絵面(えづら)に話を戻せば、これはもう観念するより仕方ない、体外へとほとばしる老廃物に頼る以外に生き残れないという思い込みがどんどん強くなっていき、スナック菓子のぺらぺらの空袋を携えて目につかぬコンクリート壁の裏側に隠れ、一物をズボンからまさぐり出して袋の口に差し入れる。えいや、とばかりにいきんで絞り出し、今よりいっさい頬ずりも口づけも拒絶されてしまうのだろうかと寂寥とした想いと生理現象がまぜこぜの身震いをぷるる、ぶるるんとしたところで、溜まった生温かい液体をいよいよ飲み干すべく顔の前まで持ち上げる。南無三、神よ許したまえ、これしかもう道は無いのだ。その辺りで映像はストップモーションとなり、やがて真っ白になっていくのだった。

 慌てて言い訳するとわたしは被虐嗜好の趣味を持たないし、糞尿愛好症の世界に惹かれることもない。いや、常人並みの関心は持つが、身を投じる勇気も機会もない。ごくごく平均的でつまらない人間であるので、その辺は最初に了解してもらいたいところだ。生死の端境に立つとき、人はそれを実行しなければならない、大人ならすべきだという密やかな覚悟が内部でそそり立つだけである。

 他人の語る夢の話は喋る本人が思う程には聴き手を熱狂させないから、わたしの馬鹿馬鹿しい妄言はそろそろ終わりにして本題に移ろう。妄執の只中にふと目に浮かんで来るのが石井隆の劇画だった。ハイパーリアリズムの手法で描かれた風景の数々は十分に映画であり、ときに私たち読者にとって現実体験そのものであった。琥珀色の体液のなれの果てをめぐって、幾つかの印象的な場面が築かれており、そこに居合わせた登場人物の感情があざやかに彫り込まれていた。

 石井の作品には狂人や暴力組織により暴行を果てなく加えられ、監禁の身となってとことん辛酸を味わう男女が描かれているが、完全な絶食を強いられる展開はあまり見ない。有ったかな、どうかな、無いように思うがどうだろう。わたしの脳裏に巣食った危機感はだから石井作品が原点ではないのだけれど、人間の体液をどう捉えるべきかの刺激なりヒントをもらい、なんとなく外堀を埋められたところはあったように思われる。

 良い機会だから石井隆の描く小水(しょうすい)に関して舵を切り、彼が何をどう描いて来たのかを読み解いてみたい。そんな瑣末な事柄を露悪的にずらずら並べて、君の選ぶ題材はあまりに偏り過ぎだよ、と石井が知ったら困惑するに決まっているし、眉をひそめ、はしたないと感じる人がほとんどかもしれないが、実は割合と大切なことを石井はコマの隙間に埋め込んでいると勝手ながら捉えている。

(*1): 『アンデスの聖餐(せいさん)』 La odisea de los muñecos 1975
(*2): 『シャイニング』 The Shining  1980  監督 スタンリー・キューブリック
「復讐する海 捕鯨船エセックス号の悲劇」 ナサニエル・フィルブリック  相原真理子 訳 集英社 2003