2014年4月20日日曜日

“白い頁(ページ)”~『天使のはらわた 赤い教室』を巡って[1]~


 石井隆が世に出した本がまとまって手元に在るが、うち古い二冊に不具合が見とめられる。ひとつは印刷されておらない紙がまぎれ込んでおり、めくると絵が消えたり、見開きの左の半分が欠けてしまうのだった。(*1) 少年の時分に購入したものだ。石井の本は棚の最上段に隙間なく陳列され、私を黙って見下ろしていた。爪先立ちして引き抜き、精算するまでの店内の光の具合や温度なんかを今でもはっきり思い出す。確か最初に選んだのは「名美」(*2)だったから、その後の二冊目だったか三冊目に、白い頁を呑み込んだこの「赤い教室」と対面したのだった。

 乱丁(らんちょう)と落丁(らくちょう)、この場合はどちらに当たるのだろう。無地の紙が突き立った前後はおろか、どこを見渡しても本来あるべき頁が見当たらない。刷られた本の総てがそうではないのは確認済だから、私のところに来た分が偶然不良品だった訳である。

 時間軸をばっさりと断ち切っていて筋を追うのがむずかしい箇所もあるから、怒って返品するか廃棄するのが普通だろう。けれど、当時の私は余りがっかりはしなかった。恋情や懊悩、性愛の深層流をつづった石井世界と対峙して最初から見通しの利かない感じを抱いていたから、白紙(しろがみ)が閃光(せんこう)となって瞳を射り、それが数回重なったぐらいは何という事はないのだった。見えないものがほんの少しだけ余計見えづらくなった、という印象だった。

 石井隆に私をひき合わせたのが実相寺昭雄(じっそうじあきお)の本(*3)だったことも、この珍事を受容させた背景として大きいように思う。「闇への憧れ」と題されたそれには厚手の黒紙に刷られた石井の挿画が収まっており、脈絡なく現れては著者の饒舌をやんわりと押し返して独特の間合いを作っていた。眠りに落ちる刹那の浮遊感に近いだろうか、それとも、灯りのない蔵座敷に飛び込んだ際のねっとりと全身をくるむ闇の沈黙か。いずれにしても日常から隔絶した薄暗がりに迷い入ったうら淋しさがあって、眺める度に妙に気だるいのだった。上に書いたホワイトアウトとそれとは私の奥の方で連結してしまった。逆光を多用する実相寺の演出とも風合いが似ていたから、もしかしたら石井が意図して白い頁を配したのではないかと当初疑いさえした。

 書くまでもないが、この空隙(くうげき)は作意をいっさい反映していない。石井からすれば不本意で恥ずべきアクシデント以外の何ものでもなかろう。丹精こめて描いたコマの数々を、魂をこめた線の一本一本を奇妙な白塗りにつぶされてしまったのだ。そんなもの捨ててくれ、迷惑だよ、頼むから触れないでくれないかと石井はつぶやくかもしれない。そもそも落丁本を読者が黙って受け入れるなんてことは、作者と作品に対して非礼だろう。

 誤った捉えかたと判ってはいるが、“映画”の延長線上にわたしは“石井世界”を最初から置いてしまったものだから、意表をついた白紙の挿入が大胆不敵なカットバックに見えて面白かったのだ。後日、正しい顔かたちのものを入手してからもその奇妙な味わいが忘れられず、いまでも時折開いては、ぼうっと眺めたりするのである。

 これが私が初めて目にした【赤い教室】(1976)であり、【蒼い閃光】(1976)なのだった。両者はやがて石井の手でほかの数篇とあざなわれ、一冊の映画シナリオへと織り上げられる。題名は『天使のはらわた 赤い教室』(1979)(*4)といい、暴姦の果てにひたすら墜ちていくおんなを描いた作品だった。必死の想いでおんなを探し出し、手を差し延べて苦界から引き上げようと試みる男、村木哲郎を演じたのが蟹江敬三(かにえけいぞう)であり、三月の末に彼が亡くなって以来、この映画を取り上げる雑誌の記事やウェブの書き込みが多くなって、ついつい手を止めて注視することが増えている。

 自然と気持ちは過去へと翔んで、あの不思議な本と石井原作との出会い、そうして『赤い教室』について振り返る時間となっている。春霞の休日をぼんやりとそんな具合にやり過ごして、まるで自分こそが白い頁になって部屋の真ん中に座っている、そんな取りとめない気分が続いている。

(*1):「赤い教室―石井隆作品集」 立風書房 1978 
(*2):「名美―石井隆作品集」 立風書房 1977 
(*3):「闇への憧れ―所詮、死ぬまでの《ヒマツブシ》」 実相寺昭雄 創世記 1977 
(*4):『天使のはらわた 赤い教室』 監督曽根中生 1979



2014年4月7日月曜日

“娘たちの帰還”



 『ヌードの夜』正続二篇と『黒の天使』シリーズ第一作と二作が、共に高画質ブルーレイのボックス仕様で発売された。艶(あで)やかな光の綾、奈落より這い出づるがごとき音響、陰影ある役者の声を自宅に居ながらにして堪能できる。独特の匂ひ香に酔いつぶれる人はさぞかし多く、波紋は拡(ひろ)がってファンを増やし続けるに違いない。それにしても、こんなにも整った形で石井の旧作に見(まみ)える人はそれだけで果報者じゃなかろうか。

 つらつら考えてみるに、『ヌードの夜』の一作目の公開は1993年だからかれこれ二十年も前になる。『黒の天使vol.1』(1998)だって作られてからかなりの年数が経つ。そんな作品群が目を覚ましてむっくり身を起こし、再度市場に斬り込んで来るなんて以前は想像さえ出来なかった。だいたい映画は限定された場処でたのしむものであって、無尽蔵の性格を具(そな)えなかった。

 劇場という密室に映画はとらわれ続け、機会を失したら再会は望めないように思われた、いや、実際むずかしいのだった。今の人からすれば滑稽に聞こえるだろうが、楼上の姫君のように悩ましく、また、千本格子の奥に座る娼妓(しょうぎ)に似てひどく妖しいのが映画だったように思う。彼女らを舐めるがごとく凝視(みつ)めることは許された日時に限られ、劇場まで足を運ぶ行為は貯めた金子を懐にようやく登楼することにも等しく、荒々しい興奮を前の夜から引きずった。

 だから、“映画体験”は優越感や劣等感の温床とさえなったのであって、現に今でも都会に生まれ育った同世代の人がたいへん眩(まぶ)しく感じられ、自身が経験の足らない田舎者という気持ちから引け目を覚える始末だ。映画を観ることはそのぐらい一期一会のもの、奇蹟的な出逢いの産物だった。旧作ともなれば、眩暈が生じるぐらいの跳躍だった。粗悪なコピー品というのでなく、完璧な画質と音をそなえる好条件のそれらを個人が入手し、“初鑑賞”するという昨今の“常識”は私には凄いことと思える

 空(うつ)けて書き散らしたのは、多分、ボックス付属のブックレットに掲載なっていた石井の言葉に触発されたせいだ。公開から十五年、二十年という歳月を経てようやく当時の騒動や行き違いの仔細が唇にのぼり、創作の根源なり起点と呼んでも差し支えないだろう極私的な記憶の残影もシェアされている。石井世界を愛でる人には必読の文章なのだけど、それと共に石井の自作、とりわけ“映画”に注ぎ続ける思いの丈がいつも以上の調子で綴られているのだった。胸の奥に着水して繁吹(しぶ)いた。自身と映画との道程をひとしきり振り返るきっかけを作った。

 「映画を一本撮ることは一生分の苦労を背負うこと」(*1)、「記録に残して欲しい、とこの歳になって初めて思った。10年後、20年後の映画ファンに、この美しい女優たちを見てもらうために」(*2)──そんな言葉が列を成している。映画という媒体に己の人生を傾斜させ、飛び込み、挫折し、「呼び寄せられ」(*3)、連れ添い、復帰を果たして今に至った努力家の旅の重さを想う。これまで様々な場処で語られたものと重複するところもあるが、鎧を解いた生身の声が発せられている。映画を作るって何なんだろう、映画には何が写されているのだろう、と考えされられてしまった。

 食べるために、また、養うために日々生業と取っ組み合いを重ねているが、それが一生を賭するに値するかを時に疑い、迷いが泡立ち、重い荷物も背負い切れなくなって全放擲したい誘惑が思考を圧することがある。誰もがそういうものだと私は思っているのだが、隠棲したり、存在そのもののスイッチをオフにする妄念がむくむくと沸きあがってやり切れない一瞬が訪れる。それを蹴散らし、リセットする目的からひとは寺院や海辺へと寄り道をしたり、スポーツに興じたり、はたまた劇場という穴蔵に緊急避難して座席に沈んでいく。不思議と気持ちが整頓なる効用にすがっていくのだけれど、確かにいまの私には“映画”を頼りとする余白の時間が月に幾度か挿し込まれて有る。

 すり寄り、膝を借り枕にして二時間ばかり退行し、甘えて過ごす体たらくにあるけれど、そんな映画という仕組みに、逃げるのではなく、傷薬(しょうやく)なすり付けつつ四十年近い歳月を挑み続けている石井の、素通しの、いくらか痛々しい声と対峙していると、薄い銀幕の向うが急に広がって感じられ叱咤されているような気持ちにもなるのだった。僕は苦しくても投げていない、自作も消し去りたいとは思わない、と穏やかに説かれているようであり、萎えた心の張りを取り戻すところがあった。「めげるな、さあ、次」(*4)、と身体に鞭打って映画に向かって再度歩き出す石井を遠目にしながら、この世に石井隆と彼の映画がいてくれて本当に良かった、と心から思うのだ。

 加えて映画という媒体を、大切と信じる相手についつい重ねてしまう発想もあながち間違ってはいないのかなと思えてくる。人が全霊をかけて塑造する物語が生命を得て、そっと息づいていくのは自然なことだ。これまでずっと観つづけて来た石井の映画は、芝居の域を超えた何か刻印のような、痛みをともなう切実なものがこもっていて、どれもこれもが生きもがいていた。高画質となって十数年ぶりに見参した姿を喜び、「信じられない程の幸せ」(*5)と書く石井の口調には、留学を果たして心身ともに磨きをかけて戻ってきた年頃の娘を空港に迎え出た父親のような、厚みのある温もりが感じ取れる。映画を我が娘(こ)と思い、大切に送り出す堅実な親の面影をそこに垣間見て、これもまた実に格好がよいじゃないかと思わず笑みがこぼれてしまうのだ。


(*1):「黒の天使 特製ブックレット」KADOKAWA 角川書店 20頁 
(*2): 同 22頁
(*3):「ヌードの夜 特製ブックレット」KADOKAWA 角川書店 4頁
(*4):「黒の天使 特製ブックレット」 21頁
(*5): 同 22頁