2019年6月30日日曜日

“断崖”~萩原健一、内田裕也追悼扉絵(6)~


 「波立ち荒れて、高さ三十町にも立ちあが」って罪人を呑み込んでいく「長宝寺よみかへりの草紙」の三途の川の件を読むと、千尋の谷を細い吊り橋でよろめきつつ越えていく様子が容易に想像される。一町はおよそ百十メートルである。怒り狂った波がいきなり富士の峰ほども鎌首をもたげると言っている訳だから、逆算すれば川底まで相当の深さがなければ辻褄が合わない。大蛇の棲む川面が目と鼻の先にひろがるという他の記述と明らかに矛盾するのだけど、まあ、古い伝承にいちいち突っ込みを入れても仕方なかろう。ここで大事なのは石井の絵に川とその水の気配が感じられない点である。渓流や波しぶきといった一連の現象が見当たらない事である。

 読者の目から死角となったところに滔々と水は流れ、生き生きと波が躍動するのだろうか。なぜそれを隠す必要がある。血をしぶかせると同じ要領で白い飛沫をパラパラとブラシで落とせば良いではないか。乳のごとき白き霧を段差の隙間にゆらゆらと横断させれば良いではないか。

 西洋の宗教画に造詣が深い石井の内部に渦巻いているのは、最初から我が国の地獄極楽図に垣間見る三途の川の面影ではない可能性もある。アケロン川 Acherōn が原形かしら、そう思って急いでポール・ギュスターヴ・ドレ Paul Gustave Doré などの「神曲」を観直してみたが、確かに画家たちは岩肌が露出する険しい形相の河岸を好んで描いてはいるけれど、いずれも冥界の住人や亡者の足元を水はたぷたぷと流れていくのであって、あくまでも川が川らしい風情で目に迫り来る。

 石井隆の扉絵に刻まれた独特の段差はどこから生まれたもので、何を私たちに言いたいのか。そもそもが川などなく、ちょっとした縁(へり)や淵がある程度であって、わたしの思い過ごしなのだろうか。一枚の絵をそれ単体で見るならば、見ての通りこれは縁や淵であるのだし、そこに水が流れていてもいなくても誰が困る話でもない。世界は完結するからだ。萩原健一と内田裕也の夢の共演、それも石井隆が演出するこの世に生まれ損ねた活劇の一場面であり、惜別の念をこめて粛々と眺めればもう十分である。波止場なのか冷凍庫の立ち並ぶ工業地帯の一角なのか、そこで幻のカメラが回り、幻の給水車から吐き出された幻の雨がふたりの俳優の頭上にぼたぼたと撒かれていく。

 しかし、石井隆という特殊な作家のこれまでの作歴を見ていけば、一幅の掛け軸と思われたものが実は連作の一部であったり、ひとつのモティーフを愛着持って再度描き直し、その執拗に繰り返される表現行為を総覧してようやくそれが歳月を超えた長い物語を編んでいることに気付かされて慄然とする瞬間が多々あった訳である。読者や観客がそれに気付いて泡を食う様子を眺めても、平然と完黙を押し通して次の作品づくりに入っていく、孤高をまるで恐れない精密時計の職人然としたところが石井にはある。

 見立て違いの可能性がゼロではないが、わたしはこの扉絵に【赤い暴行】(1980)を秘かに重ねている。薬で朦朧としたおんなが森を越えていき、終にたどり着いてしまった垂直の崖である。一方は凹凸の少ない硬い外貌、もう一方は木の根や枝にみっしりと覆われているのでそっくりではないのだが、死出の道筋に現れた事、コート姿のおんなを添わせる等、相似する点が複数認められるからだ。「風景の分裂」や「鏡面作用」といったものが此処でも生じて、見るものの視線を裏返そうと立ち騒いでいる。



2019年6月28日金曜日

“水なし川”~萩原健一、内田裕也追悼扉絵(5)~


 石井隆の筆による扉絵の載った「キネマ旬報 2019年6月上旬特別号」が店頭に並んで間もなく、さまざまな反応がウェブ上に起きたことは先述のとおりである。中にはさらに一歩踏み込んで絵を構成する要素に細かく言及する人もあった。「ショーケンの肩から腕に見える箇所は、コートの裾あたりで雨の流れるタッチが変わっている…右側にはドラム缶のようなものが見える」(*1) 

 教わるまでドラム缶の存ること、まるで判らなかった。てっきりトレンチコートの肩章(エポレット)もしくは袖飾り(スリーブストラップ)かと思ったのだ。違和感を覚えながらも多分そんなものかと勝手に決め付け、思念からきれいに捨て置いて中央に立つおんなの腰辺りばかりを睨んでいた。私の目は節穴だ。

 さて、よくよく見れば確かにドラム缶なのだけど、それがわざわざ男たちの肩や腕のラインと見紛(まが)う傾斜で配置されており、これは意図的な混迷を目論んで見える。石井の一枚絵の中には時折、視座を換えることでまるで違った風合いを帯びてくる作品があるのだけど、この扉絵には独特のそんな筆遣いが明らかだ。特殊な想いを託しているぞ、どの程度まで貴方は感じ取れるかな、と、我々に向け奇才が挑発している。江戸時代の判じ絵ともジュゼッペ・アルチンボルド Giuseppe Arcimboldo の寄せ絵にもどこか似た前傾の闘志をそなえていて、観る者の目を愉しませる。

 ドラム缶をわざわざ置いたのは「男たちの肩や腕」と「おんなの立つ足元」との二重映しに気付かせる工夫だろうか。先のウェブ上での記述者も触れているのだが、「雨の流れるタッチが変わっている」ことから地面の形状や質感につきこの絵は意識的にこっそりと語ってみせ、石井はそこ見ろよ、変だろう、ちゃんと気付けよ、と告げている訳である。溜まった雨水が流れ落ちる垂直に近い傾斜を繊細なタッチが物語っており、役者ふたりの追悼特集である点からしてここで私たちが想起すべきは何かと言えば、階段でもなければ波止場の桟橋でもなく、死者が渡るとされる三途の川と相成る。

 それが一体どうしたんだよ、いちいち五月蝿いやつだな、と思うかもしれないが、私のなかには「垂直の縁(へり)」と三途の川がどうにも連結しにくく、これが石井の内部で無理なく成立し、また、それを衆人環視のもとで具現化されていくのが愉快に感じてしまう。こんな三途の川ってあるのだろうか。

 これを読む貴方の想い描く三途の川は、果たしてどのような顔付きだろう。おお、あれがそうか、なるほどなるほど、と目の前にゆらゆらと見えてくる黄泉路の出発点はどんな景色か。水の面(おもて)との高低差はどうだろう。私の夢想するのは角の取れた丸い石がごろごろした岸辺であり、その脇には音も無く暗い川面(かわも)がのっそりと横たわっている。そこに段差は感じられない。中川信夫の『地獄』(1960)に代表される映像作品の影響もあるだろうが、草木の生えていない、起伏なくべろんと広がる空間が目に浮かんでくる。自分だけの想像の姿を計尺棒に使って話を先に進めるのはすこぶる危険と承知しているのだけど、直角にちろちろと漆(うるし)の汁ごとく雨水の垂れつづける川辺というのが不思議に見えて仕方がない。

 宗教書では三途の川をどのように活写しているのか。石井は持ち前の探求心から地獄極楽絵を調査し、その再現に努めたものだろうか。貼り付けた画像は京都の西福寺に伝わる「熊野観心十界曼陀羅(くまのかんしんじっかいまんだら)」(16-17世紀)の一部で、死者が川辺に到着し、下穿き一枚以外の衣服をすべて奪衣婆(だつえば)に手渡す様子が描かれている。信仰心の厚い者は、さあさあ、服は脱がずに結構ですよ、どうぞそのまま前にお進みください、と、極楽に至る橋をガイド付きで渡れるのだが、そうでない者は水に飛び込み、泳いで向こう岸まで渡らねばならない。川には凶暴な龍や大蛇が巣食っていて、自由の利かない亡者を次々に襲っていく。引用元は先に取り上げた「HELL 地獄」(パイインターナショナル 2017)であり、他に収録された絵もほぼ似たような構図と内容になっている。

 この絵と同様の文章表現が「長宝寺よみかへりの草紙」にあり、それを仏教学者の石田瑞麿(いしだみずまろ)が「日本人と地獄」という本でかみ砕いて説明しているのだが、書き写せば次の通りである。永亨十一年(1439)年に突然意識を失った慶心房という者がいて、蘇生を果たして後、あちら側で見聞きした事を克明に語るようになった。その一部を記録したとの由来である。

「死出の山を過ぎると、大きな三つの川があり、これが三途の川だと見せられる。黄金(こがね)・銅(あかがね)・銀(しろがね)の三つの橋がかかっている。黄金の橋は仏の橋で、極めて尊い方の渡るところ、銀と銅の二つは善人がわたる橋という。蓮華が咲き、波も静かな川にかかる黄金の橋にひきかえ、遥か下流には鉄(くろがね)の橋が一つ見える。細い金鎖(かなぐさり)の橋で、獄卒は罪人に渡れ渡れと責めつけ、さいなむ。渡ろうとしても足も身も支え切れず、手足でとりついても、炎が金鎖に燃えとおって、たまらずあお向けになるさまは蜘蛛の巣にかかった虫のようである。また巧みに渡り切ろうとすると、河は波立ち荒れて、高さ三十町にも立ちあがるから、波にさらわれて落ちて行く罪人の立てる音は千万の雷鳴の響きに似て、肝・魂も奪われるほどの恐ろしさである。しかも、波間には高く角をはやした大蛇が眼を爛爛(らんらん)と輝かせ、口を開けて呑もうと待ちかまえ、河底には剣が隙間なく林立している。」(*2)

 石田は他の伝承も紹介する。「天狗の内裏」と呼ばれる室町期のものは牛若丸が大天狗に導かれて地獄を覗く話というから、かなり創作めいて感じられ、上の体験記とは色彩が異なるのだが、古き日本人が抱いてきた三途の川のイメージをより補強するように思う。

(三途の川とは)「上の瀬、下の瀬、中の瀬の三つの総称で、上の瀬に「ばんみん鳥」という(中略)黒い鳥が罪人の脳をくだこうと待ちかまえている所、下の瀬は「千筋のつるぎ」を「ひれ(鰭カ)」にさしはさんで「紅の舌をまき出し」た大蛇が罪人をとって呑もうと待ちかまえている所で、これらに引きかえ、中の瀬は「金の橋」がかかっていて、善人の通る時は、橋巾が広がるといい、罪人が通ろうとしても、橋は髪の毛よりも細くなって渡るすべはないとする。これをみて、菩薩たちが、あわれみ、「あまの羽衣」をまとわせて渡そうととしても、橋は罪の重さに真ん中から折れ、奈落へ落ちる、とある」(*3)

 このような東宝特撮映画(死語だろうか)のごとき三途の川を、現代人の多くはもはや信じない。どころか、想像すらしていない可能性が高い。知り合い数名にどんな姿を心に抱いているかを問うてみたが、結局は誰もが穏やかな川辺を思い描くのだった。上の伝承を伝えると、え、蛇がいるんだ、襲ってくるの、やだなあ、困るなあ、とたじろぎ、目を白黒させるのが大概である。

 地獄絵と古文書に共通するのは「橋」であり、「魔物の襲撃」であり、「波」や「瀬」といった水の気配であるが、石井隆の三途の川に目を凝らすと「橋」は見当たらず、雨こそさめざめと降りしきれどまとまった水流はなく、とうぜん白波も立たず霧も湧かず、厳然と包丁で断ち切られたかの如き「垂直の縁(へり)」が覗くばかりである。萩原健一と内田裕也への手向けとして、描いた絵に三途の川が出現してもそれ自体に不思議はないのだが、その思念上の様相を「断崖」を連想させる「垂直の壁」として描く絵描きは極めて少ないように思われる。

(*1):twitterより 三久真空@mickmac70  2019年5月23日 引用については事前に了承をいただいております。ご快諾ありがとうございました。
(*2):「日本人と地獄」 石田瑞磨 春秋社 1998  162-163頁
(*3): 同 182頁


2019年6月19日水曜日

“地獄絵”~萩原健一、内田裕也追悼扉絵(4)~


 「消失点」は遠近法で用いられる技巧に過ぎない。聖性とか後光とも距離を置く。しかし、やはりこの石井隆の扉絵は想いをこめて中央に点を穿ち、人を愛することのまなざしと、消えていくより他ない宿命(さだめ)を描いて見えるのだし、“あの世”の入口を表しているのは間違いない。

 さて、そこで考えるのだが、私たちは“あの世”とその関所についてどの程度知っているだろう。肝胆相照らす相手と話していると、若い時分の過酷な体験を聞かされ仰天するときがある。登校中に大型貨物車の下敷きになってみたり、高所から落ちて身体を傷めて何ヶ月間も病床に伏した話を聞かされると、こちらは青ざめて声を失い、ひたすら目を丸くして拝聴するばかりだ。多くの人が既に何度も生死の汀(みぎわ)に足を踏み入れている。

 対する私にはまるで実感がないのだ。救急車の世話にならず、長期入院も全身麻酔の手術も、痛み止めの座薬すら経験がなく、せいぜい高熱を出して奇妙な夢に悩まされた程度の記憶しかない。“あの世”についてわずかな触感も持たずに来れたのは幸いとは思う反面、どうしても気後れを感じる。作家が全霊かけて紡いだ創作に対して、目線が定まらず、脇が自然とゆるくなる。何をどのように綴っても言葉が足らない、未熟を恥じる心持ちになる。

 そんな次第であるから、映画専門誌「キネマ旬報」の追悼特集を飾ったこの扉絵をさらに読み解く上では、どこか他から冥土の知識を補ってくるしかないと考えた。“あの世”関連の本を幾冊か手元に引き寄せ、週末に黙々と読んで過ごした。どれもが興味深かったが、中でもあざやかにイメージを移植されたのは「HELL 地獄」というやや大ぶりの美術書であり、寺院や博物館に保管されている地獄絵を舐めるが如く撮影し、一部は極大化して収めたものだった。(*1) 

 仏教の伝播と庶民への定着を狙って、この国の津々浦々で極彩色の地獄絵が繰り返し描かれてきた。黄泉の国に墜ちた亡者の群れを、醜悪な面構えの極卒が責めまくる。阿鼻叫喚の様相をこの本は異様な熱意で蒐集して展開しているのだけど、こちらとしては上の目的もあって頁をめくる手も自然と遅くなるものだから、その分ひたひたと体内への浸潤を許すものがあって、正直悪寒を覚えて何度か頁を閉じている。

 宗教画を観ることは嫌いな性質(たち)ではないから、機会を探ってこの手の絵を面前にすることはあるのだけど、ここまで延延と責め苦を見せられるとさすがに気分が悪くなる。潰し尽くす、斬り尽くす、食い尽くす光景の連続で、亡者たちの悲鳴や苦痛がじくじくと伝染してしまい、脳髄の奥の血管が腫れ上がる感じだ。事態が呑み込めないでいる嬰子(えいじ)さえも図版の片隅にぽんと捨て置かれていて、その徹底ぶりが何とも怖ろしい。信じたらもう終わりだな、と思う。

 真宗系の菩提寺に季節ごと詣でても、廊下や本堂の隅に地獄や幽霊の絵が掲げてあるのを終ぞ見たことがない。面と向かって説かれはしないが、信心さえ深ければ地獄には行かずに済む、念仏を唱えれば浄土にお迎えいただけます、地獄なぞ無いに等しいのだからどうか安心してください、という事だろう。弱虫の自分にはぴったりの感じながらも、こころの奥のどこかで地獄を信じ、その上で必死になって否定したがっている。

 信心がわずかでも揺らげば、肉親や縁者の御霊(みたま)はたちまち惨たらしい地の底にどしんと着地し、物音に気付いて目を剥く鬼たちの咆哮に心底怯えて右往左往しかねない。駄目だ駄目だ、信じちゃダメだ、想像の産物なのだ、これは寺院の策略だ、宣伝なのだと懸命に綱引きしながら黙々と頁を繰り続ける羽目になった。

 そんなこんなで眺めた地獄絵図の主たる色彩は、圧倒的に業火の放つ赤色であるのが印象深かった。地獄は巨大な炎が束となってうねり狂う、ひどく赤赤とした場処なのだ。石井隆は映画作りを「地獄めぐり」によく喩えるし、実際の性犯罪や暴力事件の被害者に触れて男性社会のなかで女性がどれ程の地獄を負っているかを切々と語り、その実態をフィルムに定着すべく骨を折っている。地獄は他界ではなくいくらでも現世に潜んでいて、淀んだその存在を無視して現代劇は作れないのだと考える。そんな石井の「境界上の生き地獄」を振り返ると、巨大な炎を焚きあげる展開の実に少ないことに驚く。

 乗用車が大型貨物車両や停泊中のタンカーに激突したり、栓がひねられてシューシューと可燃ガスが充満する部屋で電燈のスイッチが入れられて火花が瞬時に拡大したり、はたまた爆弾を着装した男がそれへ電気を自ら走らせて威勢よく砕け散っていく。過去の石井劇画にそんな炎に染まる場面を探し出すことは出来るのだし、『死霊の罠』(1988)や『黒の天使 vol.1』(1998)には激しい炎上が盛り込まれてあるにはあるのだけど、いずれも派手な跳躍をともない、どこか娯楽活劇の風貌があった。焼かれるのは自分側ではなく、手前勝手で非人情などこまでも粗野な男たちであって、彼らを焼く行為と風景にはどちらかと言えば「浄火」の趣きさえあった。

 石井が本気で描こうとする「生き地獄」には炎はそそり立たず、湿度の高い陰鬱な背景にこそ酷薄な行為が集中する。たとえば『GONIN』(1995)や『夜がまた来る』(1994)での湿度と暴力の融和していく場景がすぐに思い出される。近作『GONINサーガ』(2015)においては土壇場での爆発炎上の回避であり、あれはどんな意図が在ったのだろうかとしばしば考えるのだが、一種の「地獄づくり」が為されたのではないかと今は捉える。家族を喪った病身の男(竹中直人)が、劇終間際になって吸引用の酸素ボンベに向けて銃弾を撃ちまくり、その場の主たる登場人物と自分自身をすべて灰燼に帰すべく、まさに決死の覚悟で爆発炎上を目論んだのに対して、石井は何故か一発も被弾させずに無傷のままでボンベを温存し、その代わりに天井のスプリンクラーを起動させて室内を土砂降りにしている。

 日本の映画づくりの現場を絶えず脅かす予算の制約があったものかしらと当初は勘ぐったのだけど、どうもそれだけではないようだ。夢と慚悔の藻屑となり果てつつある「バーズ」をめぐる長い道程の終幕に、悪魔の哄笑めいた爆発音と炎の祝祭をあっさりと回避して雨をざぶざぶと降らせる背景には、あれは石井のなかで辿りついた一種の宣言だったのじゃないか。「地獄」というものと炎の明るさがどうしても馴染まないと結論づけたのだ。執念の作者たる石井の、いわば土台石が露出した瞬間でなかったろうか。

 煩悩の業火の勢いをせめて弱めようとする慈雨なのか、それとも滝のごとく降り止むことなくやがて窒息に至らしめる拷問か。ざんざん降りの雨のなか、男がおんなを、おんなが男を極卒の魔物と化して盛んに追い立て、互いを刀葉林へと誘い込む。血が雨と混じってまだらの渦を作って流れていく。生きているのか死んでいるのか判然としない濡れ鼠となった人間の胴体が、あちらにもこちらにも累々と転がるばかりだ。それが石井の中のぶれることのない地獄の実景なのだ。

 嗜虐愛好誌で当初連載され、後年加筆されて青年誌「漫画タッチ」に再登場した【魔奴】(*2)という劇画作品は、改訂の際に『GONINサーガ』同様の火焔の回避運動が起きている。郊外の森の奥に位置する、空に向けて尖塔を突き上げた装飾屋根が特徴的なモーテルを舞台に選び、大量殺戮に取り憑かれた管理人とそのモーテルにさ迷い入ってしまった娘との奇妙な共棲の時間を描いていくのだったが、劇の終幕で次々と室内に火が燃え移り、轟々と赤い光に建屋全体が染まっていったオリジナルの最期に対し、再構成された「漫画タッチ」版では大団円の舞台を暗く湿った地下空間に求め、火を起こさず、「生き地獄」の温存を図っている。

 簡単に地獄が消えるはずがないじゃないか、燃え尽きるわけがないじゃないか、周りを見てみろよ、この世の中をこの毎日をご覧よ、人間の住まう場処総て地獄じゃないか。その地獄を苦いつばを呑み込むようにして認め、その中でどう生き尽くすか、そういう事じゃないのかな。そんな声が聞こえるようだ。

 萩原健一と内田裕也両名の彼岸への出立を石井は彼なりに演出し、映画の一場面に模して描いてみせたのだが、この絵に取り込まれている死出の情景は萩原のものでも内田のものではない、まぎれもなく石井隆のそれである。追悼特集の扉絵という役割を超えて、石井世界の広大な裾野に連なっている点をこそ読み手は理解し、新作映画の予告を目撃したつもりで玩読せねば勿体なく、どうにもこうにも淋しい。

 消失点の先には雨が煙るばかりであり、地獄極楽絵にありがちな赤い炎の瞬きも金色の雲もたなびくことなく、妙にうら悲しい街灯(まちあかり)風の儚いものがぼんやり遠くに浮ぶだけである。手向けの場であるのに甘ったるい弔辞を口にせず、最期の最期まで役者を追いつめている。映画作りは「地獄めぐり」であり、映画で見送るということはこういう事だろうと容赦なく雨をざんざんと降らして、そんな酷い環境にだけ奇蹟的に花ひらく生涯忘れ得ない表情を渾身の力で切り取っていく。求めても詮無いことだが、こういう映画と表情、石井にほんとうに撮ってもらいたかったと切実に思う。

(*1):「HELL 地獄-地獄をみる-」 梶谷亮治、西田直樹、アートディレクター 高岡一弥 パイインターナショナル 2017
(*2):【魔奴】 「SMセレクト」 東京三世社 1978、「漫画タッチ」 白夜書房 再連載 1979



2019年6月15日土曜日

“消失点”~萩原健一、内田裕也追悼扉絵(3)~


 【図3】は銀幕の位置をそのままにして、それ以外の人物を残らず左へ幾らか移動した結果である。銀幕を斜めに切り裂く対角線および縦の中心軸と横の中心軸とが交差するところに仮に「中心点」と呼ぶものを置いてみれば、それはおんなの頭部と重なっているのが分かる。その「中心点」から放射状に線を引けば、おんなの髪や肩、コートの裾の膨らみと線の流れが一致すると共に、銀幕に投影された男たちの瞳の位置までもが見事に線上に配置されていると解かってきて、手前に佇む男たちと銀幕のバランスもすこぶる綺麗で申し分ないから、この一枚絵が当初はこのような明確な構図ありきであったと推測され、たぶんその想像は間違っていないという確信も湧くのである。

 皆さんのなかには美術学校を出られた人もいれば、現在も日々の魂の糧として画布に向かう人も交じると思うから、釈迦に説法と笑われるかもしれないけれど、私はこの「中心点」と放射線を見た瞬間にレオナルド・ダ・ヴィンチ Leonardo da Vinciの「最後の晩餐 Ultima Cena」(1495-98)を連想している。言わずと知れた傑作であるのだけど、あの壁画が中央に座る聖人の「こめかみあたりに打った釘に紐をつけて、その「点」からあちこちに引いた線に沿って、画面のあれこれを配置していった」(*1)ことはあまり知られていないように思う。「その制作の光景を想像してみると、絵を描いているというより、ほとんど機械を設計しているようにすら思えます。とにかくダ・ヴィンチは、そのようにして天井や壁や、壁に掛かった四角いタピスリー(?)などを遠近法の法則に基づいて描きました。」(*2)

 上に引いたのは遠近法をテーマにした布施英利(ふせひでと)の書籍であり、図版もこの本から借りている。リアリズムを重視した天才画家は「最後の晩餐」を「一点遠近法」もしくは「一点透視図法」と呼ばれる技法を駆使して丹念に描いたのだが、単に画家は建屋含めた背景の迫真性を増す目的だけで一点透視図法を採用したものだったか。布施の言葉に誘われるようにして古(いにしえ)の製作現場に想像の翼をはばたかせ、画家の背後に降り立って壁に張られた放射状に広がる糸を眺めていると、そこに単なる技法をこえた祈りや聖性を誰もが嗅ぎ取ってしまうのじゃないか。

 家族であれ組織であれ、人が人をそっと見守る行為において、視線(まなざし)は可視化されることなく、空虚だけが間を隔てるばかりであるのだが、もしも人の視線を実線にして表わすことが叶ったならば私たちの住まう世界は一体全体どうなるだろう。おびただしく熱い実線がつぎつぎに空間を横断し、想いの豊かさと烈しさに胸が締め付けられるのではあるまいか。また、光背(こうはい)、後光、頭光(ずこう)、ヘイローと名付けられた人智を超越した放射光を私たちは古今東西の宗教画に目撃するが、その存在を「最後の晩餐」の画家はまったく意識しなかっただろうか。構図と技法という最終的にはあまり目に触れにくい「不可視の形」にてそれ等を刷り込む意図はなかったろうか。

 そんな「最後の晩餐」と石井のこの度の扉絵を結びつけ、祈りと聖性の付随することを共に了解することはあながち見当違いではないように思われる。 

 「最後の晩餐」において、「聖者のこめかみに置かれた点」は技法上の呼び方では「消失点」と言う。手向けの絵として描かれた石井隆のこの不思議な絵の当初の構想において、石井は「消失点」をど真ん中に設定し、そこにおんなの頭部を置き、そのおんなを一直線に見つめる位置に男の両の瞳を並べている。雑誌の挿絵、たかがイラスト、たかが芸能人の似顔絵で終わることなく、真情をこめた宗教画を石井は贈ったのである。ここに聖人はいないが、人が人を愛することにともない直線的に相手へと放たれ空間を貫かれていく情愛の強さと、消失点にむけて真っ直ぐに歩むより他に道がない私たち人間という生命体ひとりひとりの宿命が説かれている。

 本来そのように設計された聖画が、右へ右へとずれてしまった事情は何であったのか。題字を組み込む編集者の意図を汲んだ結果なのか、中心軸に立つおんなの後ろ姿が雑誌の「のど」にすっかり呑まれて見えなくなるのを回避するためであったのか、その辺はまるで分からない。石井隆という繊細過ぎる作家のおそるべき深慮が最後の最後になって働き、鈍重な構図の安定を嫌い、消失点への道行きに抗い、もしかしたら型にはまらぬふたりの役者の昇天なのか消滅なのか、その行く末を製図上許さない事で、一種の「永遠」を刻印した可能性だってある。石井隆なら本気でそういう事をやりかねない。彼もまた天才であり、往々にして「不可視の形」で想いを刷り込むからだ。

(*1):「遠近法(パース)がわかれば絵画がわかる」 布施英利 光文社 2016 183頁
(*2):  同


“ずれて見えること”~萩原健一、内田裕也追悼扉絵(2)~


 妄想癖が強いわたしが何をそのとき想ったかと言えば、すなわちおんなのスカートが作る三角形が一種の道標(みちしるべ)となって、男たちを手招く役割を担って見えたのだし、端的にその膨らみ具合が矢印「↑」の山型の部分「∧」を露骨に表しているとしか見えなかった。おんなのよく張った臀部をいわば山頂標識とでも捉え、其処に目とこころを奪われ、ふたりの精悍なクライマーはひたすら登攀を重ねていく。この「絵物語」をそのようにまず仮定した。

 実際に対面したこともなく映像や誌面越しに眺めるだけの庶民が何を言っても的はずれになりそうだけど、萩原健一と内田裕也、ふたりの男を振り返るとき、誰もが甘い香りを幻嗅(げんきゅう)する。加齢臭など絶対にさせるものか、見栄を張らずにだらけ切って、そんなので生きているって言えるかよ、と人前での身なりにとことん注意し、適度な量と質の香水をそっと着けたのではなかったか。「色男」としての自覚を崩さなかった彼らがおんなの尻を追いかけて行く追悼特集の扉絵は、微笑ましくも本質を突いて感じられたし、そのような人が人に恋いすがることを主軸とした幾つかの主演映画が思い出されて、ああ、確かに彼らはそんな感じだったよな、と納得させられもした。

 さて、ここから先は相当に狂った自身の行ないの、半ばやけくそになっての吐露になるのだけど、構図上この絵がどうなっているかを徹底して吟味したくて矢も盾もたまらず、直接に定規をあてがったり採寸をすることを遂に止められなくなってしまった。すなわち山型「∧」を形成するおんなの腰がこの絵の中心に置かれていると勝手に想像し、そこに石井の秘匿された想いを予感したわけだ。雑誌の挿絵をそんな風にして調べる読者など一人もいないに違いないから、さすがに自分でも常軌を逸した振る舞いと感じる。他人から見たら随分と心配になるのではないか、いちど医者に診てもらった方が良い、君は物事に執着し過ぎだよ、たかがイラスト、たかが芸能人の似顔絵ではないか。

 絵画に造詣が深い人は薄々気付いていると思うが、要するにこの扉絵に私は綿密に組み込まれた構図線があると考え、たとえば「受胎告知Annunciazione」といった宗教絵画同様の深い意図に浸っていると信じた。世に知られたウフィツィ美術館所蔵のレオナルド・ダ・ヴィンチ Leonardo da Vinciとアンドレア・デル・ヴェロッキオ Andrea del Verrocchioとの共作(1472-75頃)ではなく、ルーブル美術館に収められているロレンツォ・ディ・クレディLorenzo di Crediの「受胎告知(1478頃)を想起したのだけど、あの絵の“不自然さ”と結びつくものを感じたのだった。

「一層様式的に完璧であり、神学的解釈も深まった、というべきであろう。ここでみごとなのは、遠近法的に引かれた線が、地平線に消失する際に、完全な二等辺三角形を作り、その横長の平面上に、天使と、マリアが等しい高さをもって、しかも、両者がともに敬虔にひざまずきあっているために、完全な左右相称形ができ上がっているということである。ここには、真に古典的なフォルムのバランス、合理的構成、遠近法的整合性がみられる。」(*1)

 美術史学者の若桑みどりが書く通り、マリアは天使に対して頭(こうべ)をたれ、そのうつむき加減がいじらしく、天使との厳かな時間を醸成すべく協力している様子が実に健気だ。しかし、立ち膝で安定した姿勢でいる左側の天使と比べ、マリアは両膝を地面にぴったりと揃えており、そのまま大きく膝から上の半身をぐっと前傾している姿には“不自然さ”が際立っていて、その分かえって印象に刻まれてしまう。マリアはやさしく微笑んでいるのだけど、こんな姿勢を続けていたら大概の人間はたちまち筋肉痛を訴え、形相は醜く歪んで、やがてばたりと前倒しになるに違いない。構図の安定を図るためにリアリズムに裂け目が生じているのであって、それと等しい壊れ方がこの度の萩原健一と内田裕也、両者の追悼特集で石井隆が描いた扉絵には点在するとにらんだのである。

 入手したばかりの本なので、インク臭も溌剌と匂い立ってすこぶる嬉しい。ちょっと可哀相にも感じたけれど仕方がない、力を入れて頁をめりめりと押し開く。さて、手を加えて実証に入らねばならないのだが、そうは言っても、いくら印刷物とはいえ石井の作品に直接線を引くことは大いに躊躇われたものだから、まずはコピー機で複写したその上に実線を引くことにした。これが【図1】である。本当は石井の絵をそのままにして油性のペンで線を引いてみたのだったが、ここではそのままを載せないことにした。石井のこの素晴らしい一枚絵は実際に当該雑誌(*2)を手に取り、ゆったりと眺めてこそ価値ある時間となる。縮写されたものであっても興味を萎ませ、本来の観る愉しみを奪うことはどうしても避けたい。下手で申し訳ないけれどトレースした輪郭線に変換し、ここでは思案を先に進めていく。


 見れば一目瞭然で、おんなの腰部分は右ページにあり、全然中心に置かれていないことが分かる。なんだよ、何が「受胎告知」と同じ神学的解釈、完全な左右相称形だよ、結局はいつもの思い過ごしじゃないか、おまえは本当に無駄な事ばかりをしているよね、リアルな別な愉しみをもっと探したらいいんじゃないの、夜の巷をさまよい歩いて実際の女性の背中でも追いかけちゃどうよ、と自分で自分を責め笑いつつ、でも諦め切れずに今度はトレース画を右に左に動かしていき、おんなのスカートの「∧」を無理矢理に中心部に置き直してみたのが【図2】であるが、どうやっても構図は安定せず、石井の絵の特徴である重心の低さともかけ離れていくばかりだ。

 そうする内に、もう一箇所不自然なところに気が付いてしまった。「映画」を投射された銀幕を前にして俳優ふたりが両脇にたたずむ形をとっているが、左の萩原健一の全身像と比して内田裕也のそれは“不自然に”右の縁(へり)に寄り過ぎている。誌面に収まり切れないアウトロー、はみ出し者を表現しているのだろうか。誌面に対してほぼ相似形の銀幕が中央にどんと陣取っているのに、どうして内田はここまでずれているのか。あれ、左の萩原もよくよく見れば妙である。銀幕側にかなり割り込んで立ってる。

 そこでようやく合点がいった。銀幕に映された要素、おんなの背中や男たちのアップといったもの、そして、その前で阿形(あぎょう)と吽形(うんぎょう)の二体の金剛力士像よろしく左右にひかえた俳優ふたりの立ち姿のいずれもが誌面の中心軸から揃いも揃って何故かずれているのだった。

(*1):「マニエリスム芸術論」 若桑みどり 岩崎美術社 1980 242頁
(*2):「キネマ旬報 2019年6月上旬特別号 No.1811」 キネマ旬報社  ASIN: B07QLB7H9F 2019



“二等辺三角形”~萩原健一、内田裕也追悼扉絵(1)~


 萩原健一と内田裕也、強烈な個性に彩られたふたりの俳優が相次いで亡くなったことを受け、映画専門誌「キネマ旬報」が追悼特集を組んだ。(*1) その扉絵を石井隆が描いていることを知ってファンはざわめき、書店に走って対峙する時間を持った次第である。雨に濡れた情感あふれる絵、見た瞬間に石井隆の絵だと分かる、度肝を抜かれた、そのものがまるで映画のよう、拓かれたのは正にスクリーン、二人をスクリーンに甦らせるなんて何て痺れる弔いか(*2)。そのような反響がすぐにウェブ上にきらめき、はげしく瞬いた。

 わたしもその一人であったのだが、同時に石井隆のひさしぶりの「一枚絵」に強い関心を惹かれ、しばしの時間、思索にたゆたう成り行きだった。ここ数年、過去作のDVD再発売の際に、石井はパッケージ画の提供を要請された。雨雲を呼び込み、濡れた絵画を幾つも描いている。無数の滴(しずく)と、とぐろ巻いてもわもわ漂う硝煙が紙面を埋め、濡れた肌と髪が妖しく照り光った。むせび泣くがごとき秀抜なこれ等“役者絵”に遭遇してその都度戦慄の時間を持った訳なのだが、今回の扉絵ほどは考え込むことはなかった。

 役者の表情を定着させている点において、ここ数年来石井が挑んでいる肖像画や劇中場面のコラージュと似た面持ちではあるのだけれど、そこに留まらない真剣味が染み出て感じられた。創作活動の初期段階で石井は、どう受け止めて良いか分からない摩訶不思議な一枚絵を射出することが度々あったが、あれとどこか通底していて、軽々しく頁を閉じ日常に舞い戻る訳にいかなかった。

 何よりも瞳が吸い寄せられたのは、涙をひと筋流している色香あふれる萩原の顔でもなく、あぶら汗なのか雨なのかそれともその両方が混じったものなのか、たっぷりとした液体の筋が額に溜まる様子がいかにも剣呑な内田の顔でもなくって、その両人に挟まれて立つおんなの背中、いや、もっと絞り込んで言えば彼女が装着しているコートの下半分、腰のあたりがヨットの帆みたいに風をはらんで膨らんでいる様子である。

 はたしてここまでコートの裾(すそ)は鮮やかに広がるものであろうか。服装に無頓着な私はトレンチコートを購入したことがない。大概がベルト辺りまでのジャンバーであるのだし、冬の盛りに厚めのロングコートを着ても、戸外ではボタンやジッパーをあらかじめすべて締めて完全防備し、ああ、いやだ、寒いのはいやだ、雪の降らない街に引っ越したい、と恨み言をつぶやきながら背中を丸め、厭々と、のそのそと歩むばかりだ。薄手のお洒落な外套(がいとう)を羽織り、肩で風切って街路を突き進む場面など皆無だから、その辺の衣服の特性がまるで分からない。

 トレンチが一世を風靡した時期の外国映画を懸命に思い出そうとするが、こんなに綺麗に広がる様子を思い出せない。確かにゆらゆら、さわさわと裾が舞い踊ることは普通にあるだろう。たとえば、石井が脚本を担い盟友池田敏春が監督した『天使のはらわた 赤い淫画』(1981)は凍てつく季節を舞台としており、観賞中に頬のあたりが涼しくなる具合だったけれど、そのなかで主演女優がコートの裾を揺らめかせ、寒気に抗して歩く場面がとても印象深かった。それでもこの絵のようには決して広がらなかったように思うが、はたして記憶違いだろうか。単にわたしの経験値の低さがそんな連想に誘うものだろうか。

 ここには絵描き石井隆の自由で大胆な筆の運びが認められるし、読み手である私たちに無言のうちに伝えようとするものが潜んでいる。つまり、良い意味での“不自然さ”があって、活発な思索と創造の痕跡としてどうやら提示されている。

 思えば一枚絵だけでなく、劇画についても常に“不自然さ”は在りつづけた。石井劇画の作風はこれまで何度か変化を遂げているが、初期作であれ中期の作品であれ、独特の“不自然さ”が時にハイパーリアリズムの劇中に出現して私たち読者の目と感情を深々と貫いた。何だろう、変だぞ、何て描写だと息を呑ませ、コマの上での滞空時間を引き延ばされ、さらなる凝視を余儀なくされるのだった。胸の奥にいつまでも貼り付いて煮こごる具合となり、反芻と咀嚼を何度もうながした。安易に読み捨てることを躊躇わせ、他の扇情主体の劇画群とは別次元の解釈を強いてくるのが常だった。

 たとえば【紫陽花の咲く頃】(1976)で夜道を急ぐおんなが急襲され、背後から男に抱きつかれた一瞬におんなのスカートが不自然なぐらいに裾を延ばす様子であるとか、【闇が降る】(1983)で暴行を受けた後のおんなが気落ちする自分自身を奮い立たせるべく激しく頭(かぶり)を振り、髪を直線状にたなびかせる仕草であるとか、石井の劇には物性を超越してひどく歪んだり広がる物が散見されるのであって、今回の極端に広がって二等辺三角形を綺麗に形作るコートも、たぶん、その特徴的な現象の一環に置かれている。

(*1): 内田裕也 2019年3月17日死去、萩原健一  2019年3月26日死去
「キネマ旬報 2019年6月上旬特別号 No.1811」 キネマ旬報社  ASIN: B07QLB7H9F 2019
(*2):いずれもtwitterより