2013年12月23日月曜日

“入獄の日月(にちげつ)”~『甘い鞭』の背景(5)~



 視座をおんなの側から男へと移して、『甘い鞭』(2013)を眺め直すことも一興である。

 『甘い鞭』で語り手は、誘拐犯である男の家族が不協和音を奏でている、いや、譜表(ふひょう)に終止線を引くようにして断絶した事実を明かすのだった。大石圭(おおいしけい)の原作(*1)でも、それは変わらない。家族の分裂と崩壊を招いた一因が自身の不甲斐なさ、能力の欠如にあると長男は捉えており、終始自責の念に襲われている。幾つか抜き書きしてみれば、男がどれ程の深傷を負っていたか解かるだろう。状況説明の域を越えている。くどくどとしく連なって木霊(こだま)を成し、執拗に物語を覆っていくのだった。

 「かつて勤務医の夫妻が暮らしていた家で、数年前、母親が亡くなったあとは夫妻の長男がひとりで住んでいるはずだった。」(21-22)「勤務医だった彼の両親の仲はひどく悪く」[153]、長男は「3年連続で医大の試験に落ちてしまった。両親はひどく失望し、その直後に離婚した。」[173]「離婚によって夫が家を出て行き、残った妻が何年か前に病気で亡くなって」[106]いる。「外科の勤務医だった父が離婚によって家を出て行き、内科の勤務医だった母が病気で死んでから」[150-151]男は隣家の若い娘を誘拐し、地下室に監禁して自由にする邪まな夢を抱き、それを実行するのだったが、「眠るとすぐに夢を見た。もうとっくに死んだ母親の夢だった。」[372]

 石井は上の文言を直接描写することなく、ナレーションにも極力盛り込まず、かどわかされた少女に角度と焦点を絞ったシンプルな構成としたのだったが、先の通りで地下室の荒廃ぶりは建屋の主(あるじ)の精神の座礁を如実に語るのだったし、劇中の幾つかの描写からはこの藤田赴夫(中野剛 なかのつよし)という男に関して石井が軽々しく捉えておらないどころか、実に丁寧に差配して劇への定着を図っているのが読み取れる。終幕で私たちは、ああ、この男は『ヌードの夜』(1993)の行方(なめかた)(根津甚八)と似た膨らみと色相を担わされている、と唐突に気付かされもするのだ。

 何より中野剛という俳優の起用そのものが、石井隆という作家の柔らかな特性とまなざしを明瞭に示すのである。指こそ明瞭に差されてはいないが、『甘い鞭』をひも解く上で欠かせない最大の“異変”の横たわるのを見落としてはならない。


 『甘い鞭』は誘拐と密室での監禁、終わりの見えない性暴力という陰惨なパーツを内包する劇であるから、「15歳の高校一年生」[19]であった被害者を演じ得る女優はそうそう見つからない。設定を17歳に底上げした上で20歳の壁を超えた間宮夕貴(まみやゆき)に演じさせて突破した訳だが、ならば対峙する藤田という男の年齢も多少のかさ上げなり“ぶれ”があっても構わない道理だ。されど、「30歳の無職の男」(22)をプロフィールに従えば40代中盤に差し掛かった中野が演ずることは、いかにも“不自然”な登用だろう。本来ならば、前作『フィギュアなあなた』(2013)の主人公を演じた柄本祐(えもとたすく)あたりを使って良いのだ。

 武道で鍛え抜かれた中野の肢体はしなやかさと強靭さを纏い、実に見栄えのする外観を具えている。そこに惚れ込み、また、諸条件に照らして年齢には目をつぶったものだろうか。大石の原作の細かい部分を軽視して、結果的に「甘い鞭」という物語を石井は改悪したものだろうか。私たちは原作を同じく持つ『花と蛇』(2004)の“不自然さ”をここで思い返すべきだろう。あれだって原作では50代の田代一平が、映画では95歳という異常な設定となっていたではないか。

 私見ではあるが、原作から映画『花と蛇』へ移行するにあたって生じた40余歳という段差は、連載が開始された昭和37年(1962)当時から映画公開までの歳月を計算し、加算したものだ。“未完”の原作世界が今もずるずると続いていたら、あの誘拐犯はどうなっているかしら、という一点から発想を膨らませている。石井は原作への献辞の意を込めると共に、人が人に執着することの陶酔、情欲の奈落、恋慕の地獄を語っている。

 上梓されて数年しか経っていない大石の「甘い鞭」の場合、もちろん意味合いは違ってくるのだが、深慮が働いて地平が捩じ曲げられたのは違いない。「3年連続で医大の試験に落ちて、両親はその直後に離婚し」、「残った母が何年か前に病気で亡くなって」しまい、気付けば「30歳の無職」の身になっているのでなくって、なんと映画での藤田という男は40代の中盤まで幽閉に等しい酷(むご)い扱いを受けていた訳である。原作の時間軸は創り手のまなざしに応えて一気に軟らかさを増し、引き伸ばされ、十年以上の空白の歳月が真っ赤な口を開いて男を呑み込んでいる。

(だからこそ地下室は黒かびに覆い尽くされもしたのだ。だからこそ、貯金は底を尽き、原作にはいた家政婦も存在感を消し、娘のために差し出した一個の林檎も貧相な安物となったのだ。季節外れとはいえ、あんな果物を買い求めるしかなかった男の懐具合は推して知るべしだろう。籠城に限界が迫り来ている。)

 脱出の際に男を殺めてしまったことで17歳の奈緒子は呪縛され、家族はそれをきっかけに崩壊し、15年もの間ずっと迷走を続けている。背中や尻を何ら事情を知らぬ倶楽部の客に鞭打たせ、その中で自問自答して過ごすのだったが、その歳月と同じ厚みと長さの時間“15年もの間”が石井の手により藤田という男に付与され、彼を記憶に縛り付け、傷めつけている。修羅の坩堝(るつぼ)に蹴落とされたのは奈緒子というおんなだけでなくって、藤田も同様なのだった。どちらかと言えば添え物に近かった冷徹な男は息を吹き返して、“取り残された地獄”を延延と味わうのである。(壁の傷は母親の介護と死に耐え切れず、男が黙々と狂気の瞳で穿ったものではなかったか。その幻影を透視し得たとき、物語全体の色相は本来の石井らしいメロドラマへと転じるのではないか。)(*2)

 ひとを殺めて(ひとを失って)、15年近い年数を経てもなお幽閉は続いていく。もしかしたら自身の心拍が停止するまで喪失感は霞むことなく、ありありと遠い記憶は再現されて頭と心を責め苛むのではないか。人の誰もを“別れ”が襲うが、切れ目なくその後に連なる“入獄”の厳しさをこそ『甘い鞭』は訴えて見える。


(*1):「甘い鞭」 大石圭 角川ホラー文庫 2009 括弧内は引用頁数
(*2):地下室を支点として両翼に、ひとりのおんなとひとりの男は同等の比重で配置された。名美と村木にも似た内実をようやく蓄え、互いをどこか似た者同士と視止め合い、石井世界らしい微妙な間合いを形成するのだった。




2013年12月19日木曜日

“亀裂の向こう側”~『甘い鞭』の背景(4)~



 内藤昭(ないとうあきら)は大映の中軸を担った美術監督であるが、自身の仕事を総覧するインタビュウ本で次のような発言をしている。「リアルだけで作ってもしょうがない。ある観念上のポイントを見つけなきゃいけない。ポイントというのは雑多なリアルなものの中で何を核にするかを見つけるということでね。一見リアルに見えながら、観念的な要素が入っているとか、観念的でありながらリアリティがあるとか、両方ですね。」(*1)

 石井作品の背景とは、まさにこの一点を際立たせたものだ。リアルと観念の境界に築かれ、蜃気楼さながらにゆらめいては観客のまなざしを屈折させていく。また別の瞬間には霧となって澱(よど)み、本来在るべきものを視界から隠していく。不穏さと甘美さが入り混じった悪夢的な気性を具えている。

 『甘い鞭』(2013)の地下空間やひび割れは、上の内藤の言を借りれば脚本の“ポイント”なり“核”をスタッフが咀嚼し、腹におさめ、血肉に育てて観客に示した物だ。深思(しんし)に値する舞台と思う。気持ちをもう少しだけ馳せたいし、そこまで拘泥しなければ往々にして石井の劇の肝となる“見えざる場処”へと到達することは難しい、とも考える。


 少女(間宮夕貴)が引きずり込まれた際に、既に地下室の壁には異常がはっきりと見止められるのだった。十五年後には、それが壇蜜演じる主人公に憑依した夢魔のごとき物であるにせよ、崩壊が進んで漏水さえ起きている。ひび割れが側壁を貫通する程も生成なって、建築物として危険な水域に入ったことを暗に告げているのであったが、劇の当初からどう見ても“不自然”で硬い面持ちのへこみ様なのであった。一体全体、いかなる経緯をたどって“あれ”は産まれたものだろう。

 想像力を働かせた末に浮上するのは、以下の三通りの景色である。

1.建設に当たって施主が設計を無視して、あのような亀裂を強引に作らせたのではないか。刀傷(かたなきず)を模したか、それとも女陰なのかは判らないが、奇妙でかさばる木型をあつらえ、枠板(わくいた)の向こうに打ちつけ、コンクリートを流し込み、養生(ようじょう)の後で壁から型を抜き取って完成させた特殊な“装飾”じゃなかったのか。側壁の厚みが全く不足しており、周辺土壌からの漏水が始まってしまう。装飾だったものは、いつしか本物の亀裂へと育っていく。

2.斜め方向に走っている事から、あれは“剪断(せんだん)ひび割れ”が元々あの位置に生じたものと推察される。建屋全体の荷重を支え切れなかったものか、それとも地滑りのような外部からの大きな圧力によって壁面に剪断(せんだん)力が作用したのだった。損傷や漏水が危惧され、湿潤型のエキポシ樹脂や超微粒子セメントなどで早々に塞ぐつもりだったのだろう、ひび割れに沿って劣化したコンクリートの表面をU字型にえぐり取ったのがあの異様なへこみであった。いよいよ充填材を詰め込む段になって何故か作業が中断してしまい、勢いを得た漏水は鉄骨とコンクリート素材を次々に劣化と膨張に追い込み、亀裂を押し拡げて行ったのではなかったか。

3.それ程重大な異変が生じていなかった壁面に対し、何者かの手により穴が穿(うが)たれていったのではないか。がつがつと壁を貫通するまで掘り進められてしまい、当然ながら漏水を招き、亀裂の幅と深さが拡がっていったのではなかったか。

 いずれも身勝手な妄想に過ぎないが、仮定されるそれぞれの景色には共通点がある。「破壊」へと雪崩れ込む力だ。圧が高まり破裂寸前となった「狂おしさ、猛々しさ」だ。1.で思い描かれるのは戸主の常軌を逸した行動、内在する暴力志向、同居人を拒絶する暗黒願望といったもので、自身と家庭を内側から崩していく。2.で思い描かれるのは建物をねじ曲げ、ぺしゃんこにしようとする運命の潜在的且つ不可避な力である。住まう人間の心も身体も当然潰されていく。3.で思い描かれるのは孤立した魂が崩壊の際に発する雄叫びである。どれが正しいとか間違いではなくって、どれもが同じ色調で染め抜かれている点がここでは大事だろう。家屋と家庭の崩壊しつつあることを訴え、固く集束するところがある。

 私たちは荒んだ監禁部屋を被害者であるおんな(檀蜜、間宮夕貴)の胸奥に居座る洞窟と捉えがちであるのだが、こうして考えてみれば誘拐犯である男の心象風景としても十分に成り立つ訳である。おんなの側から男側へと視座を移動して、『甘い鞭』という物語を眺め直す時間に私たちは踏み入っていかねばならない。


(*1):「映画美術の情念」 内藤昭 聞き手・東陽一 リトル・モア 1992 102頁
参考書籍:「徹底指南 ひび割れのないコンクリートのつくり方」 岩瀬文夫 岩瀬泰己 日経BP 2008、「長寿命化時代のコンクリート補修講座」 日経BP社 2010、「図解 コンクリートがわかる本」 永井達也 日本実業出版社 2002 「コンクリート技術用語辞典」 依田彰彦 彰国社 2007

2013年12月14日土曜日

“在り続ける場処”~『甘い鞭』の背景(3)~


 石井隆は小説「甘い鞭」の映画化にあたって、“快適さ”の徹底的な排除に努めた。舞台となる地下室を無明の地獄に変えるために、石井と彼のスタッフは全方位に目を配り尽力したのだった。壁を“黒かび”だらけにし、“食べもの”をほとんど与えず、口にふくんだ“おじや”すら少女に嘔吐させ、鎖を付けて閉じ込め、歩行を制限し、湯浴みを禁じ、モニター脇に積み上げられたテープは笑いを誘うコメディ映画ではなく、暴行の顛末を写し取った無残この上ないものだった。

 ひときわ目をひく巨大な“ひび割れ”も、多分不快感を煽る目的から登用されたのだろう。原作の青年も映画での誘拐犯も体調を崩して悪寒に震える娘に果物を擂(す)ってその汁を与えたりするのだったが、大きく“ひび”の走った映画『甘い鞭』(2013)での壁は暴力的な印象をどこまでも強めて、男が発するかいがいしさや優しさを見止める心の流れを堰き止めるのだった。所詮は子供じみた偏愛じゃないか、捕えた虫を金魚鉢やプラスチックケースに押し込める行為、つまりはひと夏に限って愛でる程度の“飼い殺し”に過ぎない、と娘は勘付いたろうし、私たち観客にもそう予感させ導く力があの“ひび”の凶悪な面相にはあった。

 ウェブおよび誌面での論評では、女陰を形づくったものとの見方が多い。なるほど、歳月を経て横幅をひろげ奥行きも増している。崩れた部分はわさわさした細かい“ひだ”を生成しているし、地下水が滲(し)み出てじゅわんと湿った面持ちは確かに熟(う)れた女陰そのものであったから、丹念に模したものであることは否定しようがない。

 旬のおんなふたりを銀幕に引き込み、素裸にするエロティックな作品である。淫靡さや猥雑さをとことん匂わす仕掛けとして彫りこまれた面もあったろうが、十代の奈緒子(間宮夕貴)から三十代の奈緒子(壇蜜)への身体変化に呼応して壁の亀裂が“不自然に変貌した”ことは、現実と魂の境界を曖昧にし、分離と融合を繰り返す石井隆らしい背景描写と言えるだろう。破壊的な印象と官能的な面影を同居させる荒技(あらわざ)も石井らしいものであって、その勢いのある仕事ぶりにはただただ舌を巻くばかりだ。


 さて、この亀裂はさらに沢山の事を私たちに囁くように思う。穴が深まりひだひだが拡大しているのは空気中の酸素や塩素イオンが内部に浸透して、鉄筋などの鋼材の表面に届き、腐食し膨張すると共にコンクリート素材もまた膨張して剥離を起こしている事を表現している。血なまぐさい事件の発生から経過してしまった十五年という長い年数を、浸食が進んで傷口を広げた壁は雄弁に語ってみせる訳なのだが、よくよく考えればこれもまた“不自然”なことなのだ。

 私たちの国民性に限ったことではないかもしれないが、災いが身近に降りかかった際にその場処を清め、はたまた排除することに対して人は如才なく、実に迅速に動くものである。私の住まうところから歩いて五分もかからぬ住宅で火事があり、ふたりの幼子が可哀想に亡くなっている。半焼した建物は程なく解体処分され、無愛想な更地となって新たな利用者を待つようになり、確かそれから二年程を経て県外から来たらしい若い夫婦に買われたのではなかったか。今その前を通るとこじんまりした柔らかな風合の家が建っており、家庭の放つ暖かな波動をこちらに返して来る。こんな田舎町ですらこの調子であるから、都会の一等地ではその“無かったことにする流れ”は押し止めることなど出来はしないだろう。

 貪欲な商魂は禍(わざわい)にまみれた土地といえども躊躇せず、重機を押し込み、叩き砕き、掘り返して砂利を放り込み、平地にしてしまう。ほとぼりが冷めた頃を見計らって「売地」の看板が立てられ、不動産会社のネットワークに情報が駆け巡り、複数の買い手が現れて商談が重ねられ、やがてそのひとつが成立してしまうものだ。神主が呼ばれて祓(はら)い清められ、惨劇は遂に“無かったこと”になる。あの家だって、あの部屋だってそうなったはずである。

 亀裂が拡がるだけでなく、天井付近には蜘蛛が巣を張っているのが認められる十五年後の荒廃を極めた監禁部屋というものは、だから“物語上の光景”として有り得ないものではなかったか。漏水によって濡れた女陰状の“ひび”であったが、よくよく目を凝らせばこれも“不自然”な感じを与えていて、それはその艶(つや)に起因するのだった。コンクリート中の水酸化カルシウムが水とともに表面に溶け出し、空気中の炭酸ガスと化合して白華(エフロレッセンス)と呼ぶ白い結晶が生成されるものだが、それが一切見当たらない。現実感が微妙に損なわれている。


 存在するとすれば、それは主人公の内部にしかない。十五年の歳月を経て、さらに凶々(まがまが)しさを増長させた部屋が奈緒子というおんなの心に“だけ”、くっきりと像を成して在り続けていることを石井は教えているのである。私たちは着地点を見い出せずに浮遊し続ける被害者の内側にいつしか獲り込まれて、その魂の諸相に直に触れている。人が人を傷付ること、殺めることを“無かったことになど出来るはずがない”という石井の人生観と性犯罪に対する妥協ない憎悪が刻まれた秀抜なカットであったと捉えている。

2013年12月3日火曜日

“嚥下し得ぬもの”~『甘い鞭』の背景(2)~



 大石圭(おおいしけい)の原作小説と石井隆の手になる映画最新作。両者の間には当然ながら、異相がいくつも見つかるのだった。中でも興味を覚えたものは“食物”をめぐる描写である。小説と比して石井の脚本では、登場回数が極端にしぼり込まれていた。

 上映時間の制約で泣く泣く割愛したものだろうか。まさか、そんなはずはなかろう。刃先を入れ、皿に盛られて食卓に供されたものだけを私たちは観ているのであって、取捨選択の道程では石井独自のまなざしが注がれ、意味あって今の姿に落ち着いたはずなのだ。ナプキンを置きテーブルを離れ、思い切って厨房を覗いてみよう。まな板脇に取り残された食材にこそ、私たちは目を凝らす必要がありはしないか、そこまでしてようやくこの『甘い鞭』(2013)を存分に食したことになりはしないか。シェフ役の石井の手腕を推しはかるには、そんな無作法も時に大事かと思う。


 一ヶ月間に渡る監禁生活を描く上で、大石は実に多彩な“食べたいもの”を少女の元へと運ぶのだった。先日と同様に単行本「甘い鞭」第15版(*1)から引いていくと、「男は毎日、朝と夜に、トレイに載せた食事を地下室に運んで来た。朝はいつもトーストと、たくさんの野菜が入った透き通ったスープ、それにバナナやパイナップルなどの果物だった。夜はたいてい、男の手作りの料理だった」[172]とまず説明が為される。食材のテクスチャーが口腔に再現され、これだけでも膨満感を抱かせるのに十分だ

 続いて作者は夕食について、その具体名を次々に連ねて読者の鼻腔と胃袋を刺激する。「鰻重(うなじゅう)」[172]、「握り寿司」[同]、「とんかつ」[同]、「餃子(ギョーザ)と焼売(シューマイ)」[同]、「八宝菜」[245]、「ビーフシチュー」[246]、「石川精肉店のいちばん高いお肉」の「ステーキ」[267]、「冷たい(飲み)物」と「ポテトチップやポップコーン」[269]、「コーラ」[291]。客人をもてなす饗膳(きょうぜん)に等しい、過ぎた量目とカロリーになっている。少女が風邪をひいた際には、病人食が準備されもした。「擦り下ろしたリンゴをガーゼで絞り、その果汁をスプーンでわたしの口に運んだ。それはヒリヒリと喉に染みたけれど、よく冷えていて、とてもおいしかった。」[316]


 “とてもおいしかった”と、少女は思ったのである。日毎夜毎に繰り返される性暴力に満身創痍となりながら、驚いたことに“とてもおいしい”という感覚が湧き起こるのだった。いつしか細い身体の奥の方で、それはそれ、これはこれ、と男の言動がふるい分けられていくのが何とも不思議である。この手の事件にも小説にも決して明るくはないのだが、何冊かのレイプ被害を主題とするノンフィクションは読んでいる。以来、被害者の慟哭と怨嗟、そして底無しの惨痛(さんつう)とがゆらゆらと自分の周りを浮遊し続けてどうにも振り払えずにいて、それに照らせば、“よく冷えていて、とてもおいしかった”という「甘い鞭」の独白はずいぶんと呑気に感じられたものだった。

 あまつさえ原作では「少女のために映画やドラマやアニメのビデオ」が「たくさん借りて」[270]来られ、「音楽のCDもせっせと買い与え」[同]られるのだし、「家の中を毎日、散歩したいという少女の要求にも応じたし」[同]、「とても広くて、とても清潔」、「湯船もとても大きかったから、両脚をいっぱいに伸ばして湯に漬かることができた」[307]、そんな「浴室で入浴したいという要求にも応じた」[270]ことにより、最終的には「確かに不自由ではあったけれど、あの地下室で、わたしは観たいテレビやビデオを観、聴きたい音楽を聴き、読みたい雑誌や本やマンガを読み、食べたいものを食べ、眠りたいだけ眠り、性交の相手を務める以外には何もしないでいられた」[275]とまで、十五年後のおんなに述懐させてしまう。

 「観ていた映画がとてもバカバカしいコメディ」[330]で少女は“笑い声”さえ立てるのである。そうして、「甲斐甲斐しく掃除を続ける男の姿を眺めているうちに、さっきまでわたしの中に燃え盛っていた怒りと憎しみは、夏の朝の霧のように急速に薄れていった」[422]とまで言わせている。


 もちろん人の感情は複雑に入り組んだものであって、色画用紙のように平坦でもなければ単色でもない。たとえば先の震災で電気が完全に絶たれてしまったあの夜、空を埋め尽くした星々を見て美しく感じなかった人はおらないだろう。考えてみれば酷い話ではないか。何千もの命が波にさらわれたのだ。親しい者の名を声を限りに叫んでは夜通し歩いた人だっていたろうに、一時とはいえそれを忘れ、わたしは天河(てんが)を振り仰いでしまった。あの輝きに見惚れてしまった。

 胸の奥に多面体の魂を潜ませて共に歩む以上、時には紋切り型の反応とは違う、思いもよらぬ反射光をぎらつかせるのが人間だろうから、「甘い鞭」の原作世界で十五歳の少女が“とてもおいしかった”、“怒りと憎しみは霧散した”と語ったとしても、それを否定する術(すべ)を私たちは持たない。そういう事もあったかもしれないと目線を落とし、言に向けて掌(てのひら)を差し出すしか道はない。そもそも小説家という職業は、紋切り型の思考に囚われた読者にむけて予想を超えた筋や台詞をひり出して吃驚させる役回りであるから、この奇妙な回想だって実は作為的な混沌なり脱線である可能性が大いにある。いちいち考えては切りがないだろう。


 が、けれども、それをバトンリレーされた石井隆は果たしてどう受け止めたものだろう。残酷な性暴力の時間を最終的に享受してしまう少女にならい、自らもそれはそれ、これはこれと考え、混沌もろとも物語を嚥下(えんげ)して見せただろうか。

 高熱を発した末に「卵を溶き入れた熱いおじや」[316]を「母親から離乳食を与えられる子供のように、口の中に入れられ」[317]、それを呑み込んでいくのが原作の少女であったが、石井は少女役の間宮夕貴(まみやゆき)に対し、自身の細い指を口奥に突っ込み、上舌(うわじた)を強く刺激して呑みかけのおじやを嘔吐し、それを吐き散らすという無残この上ない演技を振ってみせたのだった。

 脱出の機会をうかがう少女が武器を入手する目的で為した捨て身の演技、という伏線が張られていたにせよ、原作で給された山盛りの“食べもの”のほとんど全てを捨て去り、わずかに選ばれたものすら一瞬後には吐瀉物に変えて押し返してみせた石井の演出と映画『甘い鞭』での奈緒子の造形には、明確な意志が添えられている。

 “食べもの”程度では人の罪はぬぐえるものではなく、隔たった魂の距離が縮まるはずはない。怒りと憎しみがそんなもので霧散などされてたまるものか、という石井らしい頑なな倫理観が噴出した瞬間だった。サボタージュの一環であるから、指を突っ込む少女は誘拐犯に対して背を向けており、銀幕越しにこちらに向かって、つまりは私たち観客に向けて嘔吐は実行されている。劇中の犯人への抵抗の意を示すに止まらず、苛烈きわまる飛沫(しぶき)をもろに浴びせ掛けることにより、強姦劇の顛末を興味本位で見守る私たち男の馬鹿げた夢想の芽をも、石井は叩き潰そうとして見える。


(*1):「甘い鞭」 大石圭 角川ホラー文庫 2009 括弧内は引用頁数