2022年4月29日金曜日

幻覚ヲ見タルコト

 


 幻覚を見ることは恥じることではないと書いてはみたものの、実体験者にとっては口外し得えない困った事態だ。

 幻覚を見る側として、それが幻覚という領域の物であるのか、それとももっと深刻な狂気という域にいつしか踏み込んでしまったのか、その区別がつけられないという不安がある。精神病理学者の渡辺哲夫の本(*1)を最近読み終えたところだが、境界線を越えてしまった者の幻視する混沌世界は酷薄さを極め、幻聴の苦悩たるや想像以上の凄まじさであって、安易に要約できない複雑さと深度を持っている。幻覚の延長線上にそんな次元が舌なめずりして待っているのだとしたら、はてさて自分と家族はどうなってしまうのだろうか。どうしても口籠(くちご)もってしまうのは当然の成り行きだ。偏見を恐れ、万が一の強制入院や薬漬けをぜったいに回避したい、家族の愛情、友人との和やかな会話が遮断することを避けたい、それが人情というものだ。

 かつて我が身に起きた視覚異常についてだって匿名性に頼るかたちであればこそ、どうにか此の場に記せたのであって、身内にさえ見えてしまった光景を打ち明けぬままで終わっている。(*2) 油膜を帯びた薄い雲母状のものが空中に拡がっていったり、目の前の物体の右半分が溶解したりする光景に対し、あれは一時的な幻覚のたぐいだったのだな、今にして思えば珍妙で面白かったな、と落ち着きを徐々に取り戻してはいったけれど、そこに至るまでの道程は薄暗く、ぬかるみがだらだらと続いた。私の場合はそうだった。

 オリヴァー・サックスの「見てしまう人びと」(*3)なんかを読めば、幻覚は一種の救済として内部から湧き上がるものだと分かり、いっさいの後ろ向きな固定観念がたちまち融け落ちていくのだけれど、世間の誰もがこの種の本を手に取る訳ではない。無知な人たち(嘲っているのではなく、単に機会なく知らないでいる人たち)に混じって平穏な日常を送るためには、残念ながら多少の隠蔽なり仮面は必要だ。

 そんな次第であるから、世の幻覚のほとんどはきわめて個人的な事柄として記憶の淵に幽閉されていき、そのイメージや音色は滅多に口述されることなく、毎夜繰り返される睡眠時の他愛ない夢のようにしていつしか忘れられていく。

 稀に幻覚体験者が喜々としてそれを公言することがあるが、自らに落ち度なく、それが他人の手で一方的に為されたものであって、また、自らの肉体や精神が源になっていないと胸張って言える場合に限られていくというのも、だから至極当然な帰結となる。たとえば手術の際の麻酔薬の投与による現象は、医療の側にそのすべての責任を押し付けることが出来る。愉楽のために進んで薬剤を静脈注射なり吸引した場合と異なり、そこに漠然とした後ろめたさや世間の非難を予兆する暗い影は落ちてこないからだ。術後しばらくして快癒すれば、受け取った見舞いなり心配の声への返礼がわりの意味をいくらか含ませて、友人知人にくすくす笑いといっしょに耳打ちするだろうし、言動に翻弄された家族にしても、あなた大変だったのよ、びっくりしたわ、と、眉間に皺寄せて気軽に会話に上らせることが許される。

 澁澤龍彦は死去する直前の入院時に痛み止めの薬による幻視を体験し、それを「都心ノ病院ニテ幻覚ヲ見タルコト」という小文(*4)にまとめているが、これなども典型的な、無垢で天真爛漫な幻覚譚の好例であろう。「舞楽(ぶがく)の蘭陵王(らんりょうおう)そっくりのおそろしい顔」が天井から寝台に向ってゆるゆると降りて来るところなど実に見事な描写で、澁澤ならではの観察眼と記憶力にささえられた名文となっている。幻覚の体験者もまだそれに出逢えていない人も機会あれば読んでおいても損はないように思われる。やがて私たちの誰もが似たりよったり目撃をするだろう。その際には、どうせなら大いに愉しんだ方が得だと思うからだ。

(*1):「死と狂気 死者の発見」渡辺哲夫 筑摩書房 1991

(*2):https://grotta-birds.blogspot.com/2011/10/blog-post_22.html

(*3):「見てしまう人びと 幻覚の脳科学」オリヴァー・サックス 著 大田直子 翻訳 早川書房 2014

(*4):「都心ノ病院ニテ幻覚ヲ見タルコト」渋澤龍彦 1987 同名文庫(学研プラス 2002)に所載  ‎