2018年7月16日月曜日

“おんなを描けない”~隠しどころ~(1)


 喜多川歌麿(きたがわうたまろ)は浮世絵の首座を占める巨人だが、彼を題材にした映画に実相寺昭雄(じっそうじあきお)の『歌麿 夢と知りせば』(1977)(*1)がある。ずいぶん昔に観賞したのだけど、冒頭から間もない場面で身を乗り出した記憶がある。

 香が焚かれ行灯のあかりが揺らめき、衣ずれの音がくぐもる寝屋ではなかった。また、人目忍んで密会する恋びとが互いをまさぐる川べりの茶屋でもなかった。吉原の景色をモザイク状に散りばめた娯楽作だから、艶っぽい映像がこれでもか、これでもかと飛翔乱舞するのだけれど、私が面白いと最初に感じたのは喧騒渦まく白昼の通りから扉を潜ってすぐの、さっぱりと乾いた屋内の景色だった。

 版元 蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)の店の奥座敷であり、当時あれこれと面倒をかけてもらっていた歌麿は主人の前に畏まって座り、浴衣姿の女人の立ち姿などを描いた習作を幾枚もひろげては意見を聞いている最中なのである。蔦屋は開口一番にそれらの絵に駄目出しをして、もう少しおんなの実相に踏み入らないと売り物にはならないと告げる。ちょうど其処に絵入りの狂歌本「画本虫撰(えほんむしえらみ)」(1788)の試し刷りが届けられ、竜胆(りんどう)の紫の花が咲き誇り、傍らに蜻蛉(とんぼ)の羽を休める様子が緻密且つ優雅に描かれているのが屋敷の主人とわたしたち観客にそっと示されるのだった。

 これを見た蔦屋はこらえ切れずに言葉を迸(ほとばし)らせ、眼前の歌麿を叱りつける。虫や花はこんなに微細に描き上げるのに何故おまえはおんなを描けないのか、そんな性根ならこちらから縁を切ってもよい。蒼ざめた歌麿は表へと飛び出してしまう。

 狂歌仲間で歌麿の取り巻きのひとりである平賀源内らが慌てて背中を追う。肩を叩いて引き止め、陽気な口調でなだめにかかるのだった。杉田玄白が「解体新書」(1774)を世に出したことに触れると共に、懐にしていた怪しげな本をぺらぺらとめくって歌麿に押し示し、所詮おんなというのは肉塊なのだ、ここに描かれた挿絵をご覧よ、股を開いて化け物染みた赤々とした亀裂を示すこんな絵づらと同様であるのだから、おまえさんもそれを在りのままに描けば良いのだ、おんなを描くことに妙な意識を持つ必要はさらさらないと説くのである。歌麿は無言のまま、雑踏のなかに消えていく。

 解体新書の出現を先日の出来事と語る点からも察せられるように、台本上の時間構成は自在に組まれており、二時間二十分の枠に十年前後の世相をてんこ盛りしている。風俗の爛熟、為政者の交代と表現弾圧、庶民のこころに巣食う諦観と反骨。歴史の狭間で翻弄される創作者たちの群像を詰められるだけ詰め込んでいるのだけれど、肝心な部分は歌麿という絵描きのわずか一年間における迷走のさまであって、私が惹かれたのも実はその天才らしからぬ煩悶だった。

 「画本虫撰(えほんむしえらみ)」発表の同年、春画の世界に新風を吹かせた彩色摺艶本「歌まくら」を歌麿は完成させるのだが、手を染める寸前の迷いに迷う真面目すぎる男の逡巡をずるずると描いてみせるところがたいそう面白く、とても新鮮に目に映った。思うままに筆を走らせ、世間から求められるままになんでも器用に描いてみせる、そんな風にわたしたちは才気あふれる画家を捉えがちであるが、監督(脚本も)の実相寺は創り手だって人間である以上、自身の美意識やら技量に悶え苦しみながら匍匐(ほふく)前進しているのだと訴えている。

 絵筆を持てぬまま枯れ野を放浪する様子さえ描いており、その点でも世間の抱くイメージを砕こうと創意が噴出している。テレビジョンの歌謡ショーで極端なカメラアングルに固執して波紋を起こし、仕事を干され、その後さまざま分野で暗中模索を続けた演出家が劇中の歌麿の迷走に自身のまなざしを重ねていたのは間違いなく、表現者の生々しい胸奥を覗いている気持ちになる。

 あるノンフィクション作家は「幼い頃の歌麿は、虫を愛し、ひたすら絵に没頭する少年だった」(*2)と想像をめぐらせるのだったが、そんな純真無垢な描き手が版元の要望で生臭い体臭に満ち満ちた春画に挑まざるを得なくなるところに劇のハイライトを当てたのだった。描きたくないからどうしても描けない、好きなものを描いても誰も振り向いてくれない、自らが欲しないのに不思議と人気が出てしまってそのジャンルから逃げられない、出版元や制作会社の懐事情で描きたくても描かせてもらえない。古今東西の創り手を襲うさまざまな束縛や素の不安が時代絵巻の体裁で映し出されていて、等身大の懊悩に直に触れることが出来る。大切なことを教わったように感じられ、ときどき思い返す瞬間がある。

(*1):『歌麿 夢と知りせば』 監督 実相寺昭雄、主演 岸田森 太陽社 1977 
(*2):「歌麿 抵抗の美人画」近藤史人 朝日新書 2009 112頁