2015年7月26日日曜日

「POPEYE(ポパイ)」~僕の好きな映画~


 石井隆の『人が人を愛することのどうしようもなさ』(2007)に関して女優の橋本愛(はしもとあい)がコメントしていると知り、書店までいそいそと足を運んだ。年甲斐もなく「POPEYE(ポパイ)」を手に取る。二十代に読んだきりだから、数年ぶり、いや、何十年ぶりか。
 
 「僕の好きな映画。」と題打たれた特集号(*1)ではあったのだけど、中年男がわざわざ買い求める雑誌とは思えず、レジ脇に並ぶのがちょっとばかり照れ臭い。リバイバル上映の「白雪姫」(*2)を観たいばかりに、幼稚園児の歓声が飛び交う「まんがまつり」にまぎれ込んだことが昔あったが、あの時以来の居心地の悪さだ。顔が火照って仕方ない。でも、自宅に戻って頁をめくれば、思いのほか示唆される点がたくさん在って、代金に見合う内容なのだった。
 
 若い世代を代表する女優が石井の作品に、真摯なまなざしを注いでいることが何より嬉しい。「もうこれでもかというぐらい泣いてしまった」、「これは女優さんがすごいんだ、あの撮影が、照明がすごいんだと、物語だけじゃない映画の面白さに気づいた」という声には、偏見が露ほども認められず、もうそれだけで爽快この上ない。劇画上の光と闇の精巧なやぐらと、フィルムを凌駕する迫真的なコマ割りに呆然として声を失い、紙の裏側に潜む“絵描き”をつよく意識した少年時分の衝撃が、すんなりと橋本の言葉と重なって共振する。確かにその通りだ、石井隆とはそういう、奥ゆかしくも勃い創り手だ。

 これだけでも結構好い気分なのだけど、加えて“映画”という娯楽媒体につき考え直させられるところもあった。巻頭特集では、1934年生まれの田原総一朗から1996年生まれのモデルまで、老若男女が全部で百人、思い思いに好きな映画を一本だけ選び、これに短文を添えている。編集指針がこまかく働いたに違いないが、ほかの寄稿者とかぶらず、百人が百人とも別の映画を推しているのが印象深い。

 引き出しの豊かな才人才女が託されたテーマであるから不思議はないのだけれど、これだけの数の人間がわさわさと一箇所に集まった末に、百人百様の映画が群れなすのを見ると、なんというか現代日本のにぶい消費局面を無残にも見せ付けられた思いが正直する。彩りあふれている、との表現もありそうだが、あまりわくわくしない。大輪の花を実感しない。

 いや、ひとつひとつの文章を読み進めれば、人生の節目節目に介在する台詞なり場面が薫るのだし、其処かしこで偏愛が波動をなして伝わっても来る。柄本祐(えもとたすく)が『ロンゲストヤード』(*3)を選び、東出昌大(ひがしでまさひろ)は『アマデウス』(*4)に触れていて、スプリットスクリーンと制作費にそれぞれ言及しているあたりは味のある球筋であって、おおっ、君はそこを喋るのか、と嬉しく読んだのは違いないのだけれど、ここまで徹底して推薦作品がバラバラだと妙な鎮静効果がある。
 
 大衆不在というのか、熱狂の消失というべきか、欲望と興味が向う巨大なベクトルを欠いた、そんな私たち受け手の孤別化、砕片化した姿が鏡像となって見える感じだ。ジャンルこそ違えども消耗品の商いにたずさわる身として、何やらうら淋しく思われ、いささか萎えるものがあった。

 映画の記憶を共通言語となし、赤の他人だった者同士が互いに身を乗り出して、やがて意気投合して会話が弾んでいく、というような旧来のプロセスが完全に消滅したと言い切る身勝手さはないけれど、このところ職場の休憩時間に同僚たちが交わすお喋りのなかに、映画の話題が目立って減っているのは嘘のない話だ。まれに誰かがタイトルの一つを投げ寄越しても、話の糸をあざなう相手は誰もおらないから、テーブルの上から瞬く間に消えてしまう。その場にぽっかりと空洞が開いてしまっても、話を振られた側では悪びれる様子もない。

 映画体験が百人百様のものとなっており、大きなうねりに育ちにくい。追体験しようにも、あまりに過去の堆積は厚くなり、新作の数も多過ぎる。これが現実ではあるまいか。「POPEYE(ポパイ)」の百作品は、2015年の興行界をめぐる五里霧中の実態を暗に指し示しているように見えてしまうのだけど、例によって考え過ぎか───。

 石井の新作『GONINサーガ』(2015)は、そんな霧の只中に生まれ落ちる。ついつい思いは、その事へもおよんでしまう訳なのだ。父親たちの確執や生き死にといったものを背景に据え、第二世代、第三世代の因業めいた苦闘を描く『GONINサーガ』という物語は、交じり合い、息を合わせることを最初から強くは求めぬ孤絶した消費者にとっては、さぞかし奇妙で荒ぶる空間と目に映るのではないか。

 隣接する相手を巻き込み、騒動に騒動を上塗りしていく。台風か竜巻のごとく私欲と怨念の渦巻く『GONINサーガ』の世界観を、あえてこの乾いた世間に提示しようとするのが実に無鉄砲というか、勇猛果敢と評するべきか。映画人として既に三十五年以上のキャリアを持つ石井であるから、今が厄介この上ない世相である事は十分に承知だろうに、『GONINサーガ』の内容について知れば知るほど期待とは相反する想いは逆巻き、うなり声を漏らす自分がいる。部外者に他ならぬ一ファンに過ぎないのに、心細くてならない

 一方で因果律をこれでもかとばかりに描くことは石井世界として定番中の定番でもあるのだし、作家性が微塵も揺らいでいない事の証左でもある。昨今流行の一ヶ月刻みで公開される前・後編形式ではなく、十九年前の映画『GONIN』(1995)がそのまま尾を引いているのも化け物じみており、妖しくも愉快だ。この執着、この痛悔、この撞着なくしては石井世界とは言い難いのであって、その比類なき形態だけからも『GONINサーガ』とは、まぎれもなく石井隆独自の軌跡を描き、ありありとした弾着点の上に築かれている。(*5)

 先の言葉を借りれば、「物語だけじゃない映画の面白さ」に気づかされるのが石井作品だ。十九年という長い歳月に捕らえられた創り手の懊悩と、さらには同じ年数だけ囚われ続けてしまった受け手側の右往左往する現況も含め、改めて映画が内包する魔術の底知れぬ力を認識させられる訳であって、此処に“気付き”があるか無いかで、スクリーンの深度は違ってきそうだ。

 もちろん、石井世界の巡礼者は、とうの昔にこれに気付いている。時を経て散り散りとなり、それぞれが風圧に抗い、闘い、生き延びた、そんな“五人組事件”のかつての目撃者たち。そのひとりとして、十九年越しに事件現場への再訪が適うことに胸がざわつく。物語としても、また、興行のあり方としても、こんなにも突飛で執念深いものをリアルタイムで拝める自分は実際しあわせ者だろう。弧別の私たちは『GONINサーガ』をひとつ処(ところ)で語り合うことはこの先ないかもしれぬが、それぞれの想うところを抱いてあの闇夜に集えること、あの大粒の雨に共に濡れることは、それだけでも痛快無比な一期一会のときと思い、昂ぶりをやっぱり押さえられないでいる。


(*1):「POPEYE(ポパイ)」 2015年6月号  マガジンハウス
(*2): Snow White and the Seven Dwarfs 1937 監督デイヴィッド・ハンド 1980年に再公開
(*3): The Longest Yard  1974 監督ロバート・アルドリッチ
(*4): Amadeus 1984 監督ミロス・フォアマン
(*5):時期を置いて正統なる続編が当事者自らの手で製作されることは稀にあり、著名なところではクロード・ルルーシュによる『男と女Un homme et une femme』(1966)を引き継ぐかたちとして、『男と女II Un homme et une femme, 20 ans déjà』が、実に二十年後の1986年に公開されている。また、『ゴッドファーザー PART II  The Godfather Part II』(1974)から16年後の1990年、同作の後日談が公開されたのは記憶に新しい。探せばまだまだ見つかりそうだ。“比類なき形態”と書いたが、このようにかつての作品が突如時代を経て続編を連ねていくこと自体は特異なことではない。ただ、石井隆は劇画においても過去の作品との連結を重ねてきたし、近作『ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う』(2010)では『ヌードの夜』(1993)から17年後の村木哲郎を描いて見せているから、手法としてかなり馴染んだものとなっている。この過去を徹底して引きずり、振り切れぬままに新たな鼓動を刻み始めてしまう石井の物腰、まなざしは、“特別なもの”と言い表わして構わないように思う。