2018年11月25日日曜日

“赤裸(あかはだか)”~隠しどころ~(10)


 眼球を通じて脳に映し出されるあなたの石井隆作品と私のそれは似た景色に違いないが、そこから先の受け取り方は各人に委ねられる。性別、年齢、家族構成、持って生まれた嗜好や感受性、体調と周辺環境といった諸々の条件で人の反応は千差万別となる。どう愛してどう嫌悪するか、百人百様の石井作品に分岐していく。しかし、それでは作家の実像に誰ひとりたどり着けない理屈となる。無理矢理押しつけるなよ、それはおまえの作家論とやらでしかないよ、勝手な事を書き散らすなよ。いくら言葉を尽くして魅力を説いてみても、そう言われてど突かれても仕方がない。

 そもそもが他のひとと石井隆の作品を観てどのように感じたものか、とことん夜を跨ぎ、朝を迎える程も語り尽くした経験がない。可能な限りの作品論に目を通し、ウェブでの囁きにも耳を澄ませているが、性愛と暴力が跋扈する石井作品について本音で語る者は少ない。劇中乱舞する白い肢体に人いったい何を想い、どのように読み解くものだろう。だいたい私の感性なり性的欲望の度量が他人とくらべて酷くお粗末であり、物が正しく見えていないという点はないだろうか。そっちの方が問題かもしれない。だって、石井隆の差し出す幾多の裸像を前にしても、昔からどうも煽られカッカすることがないんだ。生物学上、どこか重大な欠陥が私には潜んでいるのではないかしらん。

 年齢相応のありきたりの話でしかないのだが、このところ魂の器たる肉体につき、どうしても考えさせられる時間が増えてしまった。上に書いた萎える気持ちの根源には、いくらかそれが巣食っている。友人や親戚と家族、もちろん自分も含めて身体の故障を間近な距離で目撃したり戸惑う場面が列をつくる。靭帯が切れる、睡眠時に急に呼吸が止まる、光を失いかける、破壊的な決壊が生じて体液がだだ漏れ、息も絶え絶えとなる。次々と筋骨や内臓器官が消耗して悲鳴をあげていく。

 肉体の栄光など一瞬の瞬きであって、道のりのほとんどは険しい岩場か急斜面だ。悲鳴を上げ、ごろごろと墜ちてばかりいる。健康そうなすべすべした肌も均整のとれた体躯も、弾力を保つあちらこちらの部位も、艶めいて量のたしかな髪の毛も、澄んで玉のようにきらめく白目も何もかもが失われる。生殖能力もたちまち根尽きて色香を減じ、もはや相手の唇をどうやって吸ったものだったか、間合いもやり方も忘れてしまった。

 そのような無惨に瓦解しつつある肉体こそが実は常態であり、イコン化してメディアに取り上げられがちな旬のタレントや女優、はたまた若い男性アイドルなどがかえって不自然の極みで、非人間の紙芝居という実感が日に日に強まっている。綺麗な肉体を誉め讃えてばかりいて、どうして存在に迫れるのだろう。頂(いただき)はせいぜい数年間といったところだ。人間はひたすら壊れゆく存在だ。

 石井隆という作家は幼年時から喘息をわずらい、喉を押しつぶされる恐怖と闘いながら育っている。大概の男子は十歳ぐらいまで知恵熱や自家中毒、思春期特有のこころの不安定さを抱えてバタバタと過ごすが、それ以降しばらくは野太い成長を遂げて厚い胸板や逞しい腕を誇るようになるのだが、石井は物心ついてから今日まで持病に悩まされ、常に肉体を崩れるもの、頼りないものと視てきた。

 創作の題材や構成の総てが彼の病いから発しているとはもちろん言わない。しかし、若い肉体を描いても、彼女らは閉塞した状況に置かれて破壊や損耗の宿命を負わされていることや、男たちが揃いも揃って死に向かってひた走る姿というのは、彼なりに学び取った肉体に対する圧倒的な諦観とまったく無縁であるとは思えない。石井隆の描く裸体はつくづく切ない。面前にするとただただ哀しくなる。その憂愁にこそ私たちは惹かれ続け、黙々と後追いして現在に至っているのじゃないか。

 洋画を眺めていると、石井の描き方との通底する切実な裸体に出喰わすことがある。たとえばヴィスコンティの『イノセント』(1976)でのシャワー室での描写や、最近ではサラ・ポーリーの『テイク・ディス・ワルツ』(2011)でのそれは、石井と同じ目線で裸体が取り込まれており、作り手が果敢に人体に向き合って感じられる。トム・フォードの『ノクターナル・アニマルズ』(2016)やオリヴィエ・アサイヤスの『カルロス』(2010)の惜しげもない露出と石井のそれは、一体なにが違うものだろう。たとえ石井が登用する被写体がくびれのある魅力的な身体であっても、どことなく儚く淋しいものがべったりと付き従っている。妙に覚めたタッチが似ている。(*1)

 どれもが“赤裸(あかはだか)”な人間描写に挑んでいるという刻印であり、その迫力と意気に身震いさせられ、これは刮目に価すると暗がりの座席の上でのっそりと身を起こしていく。強面(こわもて)の映画群に石井の作品は連なっている。

 あの手の押印をよいしょ、よいしょと続けているのだ。邦画が観客動員とメディアミックスに血眼になり、赤裸々な性描写や生々しい肉体の排除にいそしんでいるその頃、肉色の実印をしかと掴んで手放さず、これが人間だろ、これが肉体だろ、これが人の死だろ、皆どうしたって壊れるんだ、苦しい道のりなんだ、それでも生きていくんだ、と床を染める鮮血を朱肉代わりにし、全体重をかけてうんうんと押し当てて見える。

(*1):
イノセント L'innocente  1976  監督 ルキノ・ヴィスコンティ
テイク・ディス・ワルツ Take This Waltz  2011  監督 サラ・ポーリー
ノクターナル・アニマルズ Nocturnal Animals  2016 監督 トム・フォード
カルロス CARLOS  2010 監督 オリヴィエ・アサイヤス





2018年11月21日水曜日

“反撥しながら絡み合う”~隠しどころ~(9)


 石井隆の劇において性器は他者との連結器具として必ずしも働かないばかりか、時に相手を退ける砲台や剣先の役割を担わされる。どうしたってもどかしい展開になり、画布のなかで“隠しどころ”は存在感を急速に減じて、言葉そのままに奥まった目立たぬ処に引き下がる。代わって皮膚の下の収まっていた骨格がごろごろと盛り上がり、筋肉や腱が軋むように伸縮を始める。

 やがてにゅっと肉色の棘(とげ)が生えてくる。緊迫した局面での接触の無理強いは自ずと肉弾戦の様相を呈していき、戦闘機能をそなえた男たちの身体が俄然際立っていく。映画においては『フリーズ・ミー』(2000)での北村一輝、『ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う』(2010)の竹中直人であるとか、『甘い鞭』(2013)の中野剛や伊藤洋三郎が脳裏にごわつく触覚をともなって百年杉のごとく林立する。

 よく練られた演出術に助けられ、肉体の隆起や陥没がもたらす陰影が銀幕に浮かび上がる。キリストの磔刑図のような構図もあるし、ベルニーニの「プロセルピナの略奪」(1621-22)、ジャンボローニャの「サビニの女たちの略奪」(1574-82)にも似た陰鬱でかなしい抱擁が繰り広げられる。反撥しながら絡み合って、見ていて胸が酸っぱくなるような、圧迫されるような怖い気分になっていく。特に最近の石井は、裸体を画面中央に長い時間配置する傾向が強まって感じられる。塑像に取り組む職人のまなざしにも似た、重たい空気に包まれながら、一個の、複数の裸体がたっぷりと記録されていく。

 筋肉や骨格はあんなにも泣き叫んでいる。動く悦びに溢れ、相手を羽交い絞めして自由を奪う歓喜に震えて笑いまくる、そんな一瞬もある。性器はぶらぶら、むにゃむにゃするばかりで結局のところ表情に乏しい小さな突起や袋口に過ぎない。あんな物で人間は描けないのだし、面倒で諸悪の根源でさえある。この世から無くなってしまえば良いのだ、と石井隆はひそかに祈っているものだろうか。霊肉一致の至高の抱擁などこの世には無いのだと絶望し、性器をないがしろにしているものだろうか。

 具体名をここで挙げるつもりは無いが、石井隆の劇画作品で書籍化なったうちの何篇かには性器が描かれている。それは栗本が妄想したような「恐しく偏執狂じみた細密さでもって、描きこまれて」いるものではなかった。「異様な執念」を無理矢理抑え込んで、悔し涙にくれながら間引いた線でもなかった。官憲に挑みかかるような露骨なものではなく、ごくごく控えめであっさりと墨が入っていた。拘泥するでもなく、疎外するでもなく、私たちの身体のひとつの器官として、素直に、ある意味「ちゃんと」線が引かれていた。

 石井劇画において世界を構成するものは総てが同等に在って、統一されたタッチで描かれる。背後を飾る日本家屋のうす汚れた壁紙も、狭いワンルームマンションに明るい未来を想って買い揃えられた小さなテーブルと本棚も、酒場のカウンターに並んだ涙壺のような幾多のガラス容器も、過剰に装われた恋人たちの集うホテルのベッドも、これから殺戮の湾岸に向かうスポーツカーの合成樹脂のシートも、それらはすべて石井にとって“風景”として大切に扱われ、緻密に描かれていった。

 前景に置かれた肉体もまた“風景”のひとつであり、おんなや男の服の風合いも、頭髪や目鼻といった露出した肉体のパーツも、石井隆にとっては同等に等しく置かれている。石井にとっての物語とは、それら総てを同等の熱意で描き切ることであった。

 私たちは【赤い教室】(1976)の白い空隙の向うにさまざまな夢想をすることになるが、そこに虚無ではなく、ましてや「何ともおぞましい、ぬめぬめしたなまこか、なめくじのたぐいの化け物」でもなく、手堅くもたおやかな実線でさらりと描き添えられた丘や襞(ひだ)を淡淡と思い描かねばならない。悪戯にこころ乱すのではなく、ひたすら人間という孤独な生き物と共に在る哀しい肉体を察知し、黙って凝っと向き合うべきである。



2018年11月16日金曜日

“切り返しの構図”~隠しどころ~(8)


 栗本薫が原型は石井隆とほのめかす小説「ナイトアンドデイ」(1982)で作中登場した一枚絵、「画面いっぱいに、女が大股をひろげていた」姿というのは、十中八九の確率で初期の作品【赤い教室】(1976)の最終頁に触発されたものだ。石井隆を発見して社会が騒然としていた頃、この頁は雑誌の特集記事にも紹介されていた。「生きたマンガ史」を自認する栗本が反復して瞳におさめ、記憶の貯水槽にざぶざぶと留め込んだ上で「ナイトアンドデイ」の構想を練ったことは想像に難くない。

 黒板前の教壇に座り、太腿をぐっとせり出したおんなの姿態は見るものをただただ圧倒し、石井劇画を代表する構図として大衆の胸に巣食った。誰だっておかしくもなる。硬く張ったこむら、はだけた衣服、顎から頬にかけての輪郭、半開きの唇、そこに覗いた歯、丁寧にひと筋ひと筋をペン入れされ、乱れ流れて肩をまさぐる厖大な量の髪の毛、そういった石井入魂のハイパーリアリズムが周りの空間を満たしているから、どうしたって妄想の背中は後押しされていく。

 股の付け根に気持ちを奪われ、若い肌と溶け合って輝く空域が最初から何も描かれていない虚空であったのか、それとも最初は“何か”の影がもっと克明に息づいていたのか。皆そろって新生児に戻ったかのように画面中央の白い亀裂に向かってのめり込む。これほど妖しくこころ掻き立てる絵はない。

 “この頁だけ”を瞳に焼き付けてしまえば確かにそうならざるを得ない。しかし、劇画は連続体である。いくら魅了される絵だからといって最後のコマのみを悪戯に取り上げ、そこに至る迄に作者が綾織ったものや読者に生じた感情を無視してはどうかと思う。ひとコマに拘泥して石井隆の幻影を築こうとした栗本の試みは、無謀を越えて正直愚かしい。

 見開きでぐんぐんと【赤い教室】の大股開きが迫って来るのだけれど、その直前の最後から2コマ目も同じく見開きという組み立てとなっている。ここは極めて大事な点だろう。同じ面積の、それも見開きで各々が揃って断ち切りされた極大値のコマが連続している。

 コマの面積は読者の共振を誘発する上で大切な道具のひとつであって、漫画界の名工は巧みに使い分ける術を持つ。同時代の作家に【同棲時代】(1972-73)の上村一夫がいたが、見開きを縦横無尽に駆使していて今も色褪せない頁がある。漫画界の匠(たくみ)によって挿し入れられる見開き頁に読者は言葉を失い、目を白黒させ、時に涙ぐみながら劇空間に突入していったが、石井隆は先駆者である彼らの技を観察し、独力で解析して自身のスタイルを開拓していったのだった。この【赤い教室】の二枚続きの見開きというのは上村に比肩する勇壮苛烈さであり、漫画史のなかでも特筆に価する秀抜な構成となっている。

 コマを自在にあやつる描き手の術策にまんまと捕り込まれるとどうなるかと言えば、「コマの大きさは読者の感情を吸いこむかのように次々と膨張し、いやがうえにもその期待を盛り立ててやまない」(*1)のであり、すっかり気持ちが持っていかれる。【赤い教室】の二枚連続の見開きは上の識者の表現を借りるなら、感情を総て吸い尽くす、または、骨も肉も砕けて消えるほども感情を一気に膨張させた極限の時空と言える。

 ラストカットとその前頁が同等の重さで胸にのしかかるように仕組まれていて、どちらが上とか下とか、どちらが前でどちらが後というのは意味がない。両者があってこそ強烈に押し出されるものがあり、別々に切り離して語るのは無意味だろう。

 両者は“切り返しの構図”となっており、おんなが股間を突き出しているその先の景色がはじめに示されていた。露出した性器を向けられているのは教室の机に並んで座る生徒たちであった。醜聞を耳にして口々にこれを囁き、階層上位にいる教師をからかい困窮する様を楽しんでいたのだった。同僚教師からも孤立し、忌まわしい記憶に嬲られつづけたおんなは正気とも狂気とも区別のつかぬ荒々しさでえいやと教壇に登り、下着をずり落として生徒たちに突き出すのだった。

 石井はその時の反応をひとりずつ丹念に描いている。戸惑いや羞恥する者がいくらか混じってはいるが、総じて重厚な気分が黒々と噴出している。「パプフィギエールの悪魔」さながらに目を剥き、唇をゆがめる。机にうつ伏して震える。立ち上がっておんなの狂態を茫然と見守る。烈しい表情や硬直した四肢からむらむらと発せられ、この場に充満しているのは恐慌と悲哀の叫びであった。

 紙面を破りかねない程の白い刻印である。二度と回復しないほど押しまくられ、少女たちの眼(まなこ)に安穏とした日常空間は大きく裂け墜ちた。生涯を縛るであろう無惨な記憶の傷痕が生徒たちの外貌に刻まれている。そのような痛ましい破壊の後に、あの「画面いっぱいに、女が大股をひろげていた」姿が置かれたのだった。誘惑や扇情のための裸身ではなく、抵抗を試み、退散を祈る姿なのである。石井隆という作家のまなざしと、彼が私たちに何を訴えているかを明確に語っている箇所であり、石井世界の真柱(しんばしら)が顔を覗かしているように思う。

 石井の【赤い教室】を土台として、おんなの大股開きは幾度か映像化されてきた。脚本作品である『天使のはらわた 名美』(1979 監督田中登)があり、『甘い鞭』(2013)がある。劇画にあった驚愕する生徒たちの役割を担うのは、前者にあっては主人公の会社の同僚たち、後者にあっては嗜虐プレイの虜になった中年男であって、どちらも銀幕のなかで咆哮し蠢いていた。

 でも、石井が狙いを定めて仕掛けている本当の相手、拒絶されるべき者とは、実は銀幕に映される男優たちではなく、幕前に並ぶ客席や自宅のソファに漫然と座る者ではあるまいか。きわめて狭い了見を世間の常識と信じ、無責任な言葉を絶え間なく放出してマウンティングにいそしむ私たちにこそ、石井は白くまばゆい光りを発信している。自分本位に世界を見ちゃいけない、常に切り返しのまなざしを維持しながら相手と接しなさい、と切々と語ってくれている。

(*1):「漫画原論」 四方田犬彦 筑摩書房 1994 38頁




2018年11月11日日曜日

“パプフィギエールの悪魔”~隠しどころ~(7)


 女性の性器に付随するさまざまな知識を蒐集した労作(*1)をめくっていたら、一枚のモノクロームの絵が目にとまった。17世紀フランスの詩人ジャン・ド・ラ・フォンテーヌの「小話(コント)」のために描かれたシャルル・エイサン(またはシャルル・エザン)の挿絵を紹介したものだ。

 悪魔を退散させる目的でスカートをたくし上げ、おんながおのれの性器をぐいと突き出している。蹄(ひづめ)の生えた脚と黒い羽を持った悪魔は不意討ちを喰らい、露出したおんなの下腹部に眼を凝らしておののき、気の毒なぐらい顔をゆがませている。姿勢はやや傾いでもはや退却の体をなしている。対するおんなの横顔は口を真一文字にして相手をきっと睨(ね)めつけており、毅然としてうつくしい。

 この本は古(いにしえ)から近代まで女性の裸身(性器)が共同体にどう関わって来たかをまとめた前段が素晴らしいのだが、ほかにも古今東西の神話や伝承をひもとき、女性器の露出が荒れ狂う海を鎮め、農作物の伸長を助け、時に悪鬼悪霊の類いの侵入を防ぐ役割を果たしていたのだと綴っている。どれもが強制されての上でなく、おんなたちの自発的な行ないによるものであった。女性主体のうねるような運動が時代や大陸を越えて認められる事に着目している。

 忘れられた歴史や習俗を通じて女性の裸体を穢れたもの、劣ったもの、卑猥なものという次元から解放に導き、近年の男尊女卑の抑圧を振り払おうとする。一族郎党の繁栄と継続をささえるのが出産であり、生殺与奪に関わる絶対的な行為なのだと理解し、その主幹たる役割を性器が担っていると自覚したおんなたちの誇りが伝わってくる。確かにこれを読むと、現行の商品化された女性裸体の在りかたがひどく片手落ちで表層的、刹那的なものとなって目に映る。

 先の挿画で悪魔が男の顔をそなえていた点が示唆する通り、蛮族なり悪魔の侵略を阻止する行為というのは、身勝手な男性の思惑を排除したり、もしくは破壊し弱体化させる働きと重なる。おんな対男の構図がある。ポルノグラフィの多くが担っている誘惑や身体の商品化、階層支配といった夢想のベクトルを徹底して拒否するものだ。つまり長い尺度でおんなの裸身を考えたならば、さながら磁石の物性のようであり、ひとつの肉の塊りのなかに強靭な反撥力と吸引力が同居している理屈である。

 振り返れば石井隆の描くおんなの裸身というものは、そのような両極を備えたものと言える気がする。たとえば『人が人を愛することのどうしようもなさ』(2007)の劇中で、男に裏切られたおんなが悄然とし、夜を長々と彷徨い、衆目におのれの下腹部を晒していく場面が描かれているが、なるほど見方によれば自分を捨てた夫への恋着がおんなの思考を奪い、あくまでも男恋しさ、肌恋しさに溺れ狂っている図であるけれど、ここで石井はもう一歩踏み込んだ本質めいたものを女優の演技に託して見える。そこには揺るぎない反発力や強靭な破壊力を見止めることが可能だ。おまえたち、謙虚に振る舞ったらどうよ、身の丈に合わぬ場処からさっさと降壇したらどうなの、というおんなの問い掛けが聞こえてくる。我々はこれを認め、静かに内省し、彼女たちにぬかずく刻(とき)の到来したことを了解すべきではなかろうか。

 石井隆の戦場(フィールド)は承知の通り、男性主体の読者や観客を意識した雑誌や映像媒体であり、作品が世に紹介される際には、市場の要望にこたえて週刊誌のグラビアを彩るし、添えられた文章も含めて旧来の男性型欲望の消化促進剤の役割を負うことが多い。おんなの裸体は結局のところは男の性欲の餌食となっているのだが、その商流自体は全否定することは出来ない。売れなければ商いにならない以上、そのような媒体への過度な露出は作品づくりの外せない一環であるから、否定する気持ちにはなれないけれど、石井隆の差し出すおんなの裸を深く捉えるに当たっては、見えざる頸木(くびき)を意識し、そっとこれに指を添えて外していく気構えが必要と思われる。

 石井は奔流に抗いながら、いや、抗う素振りを見せない工夫を図りながら、その実、男性を裏切る独立した人体としてのおんなを描こうとしている。裸身の目的をそ知らぬ顔ですり替えて、男と対等な、うむ、そうではないな、男を睥睨する族長としてのおんなを描いていく。この視座の転換は露骨なかたちで行なわれることはなく、読み手の気付きに任されている。

 ある程度この石井の文脈に親しんだ読み手の内部では、“往還”する視線が常に待機し、目を瞠り息を殺してその一瞬を待望する。絶えず内的な変貌が引き起こされ、世界ががらがらと転覆する音を聴きつづける。

(*1):「ヴァギナ 女性器の文化史」  キャサリン・ブラックリッジ  藤田 真利子 訳  河出書房新社 2005 この書籍の中ではフォンテーヌの「寓話」のためと書かれてあるが、これは誤りではないかと思われる。Le Diable de Papefiguièreという原題で、訳者により「パプフィギエールの悪魔」とか「教皇嘲弄国の悪魔」と呼ばれる「小話」にこの悪魔を追い払うおんなが紹介されている。 


2018年11月10日土曜日

“放冷を誘うもの”~隠しどころ~(6)


 『フィギュアなあなた』(2013)で人形を見つけた青年(柄本祐)は熱狂し、その独り言はけたたましさを増すのだったが、私たちはそんな反応にただ乗って気分を疾走させることが出来ない。文字通りの死体の山が築かれ、その上に横たわっているおんな(佐々木心音)の奇妙な様態を固唾呑んで見守るのがやっとである。

 一個の静物となって風景の断片となりながらも微温と違和感をにじませて横臥する様子は、振り返れば石井の初期の短篇【淫花地獄】(1976)の終幕近くに生き人形に加工された少女の姿に通じるし、抵抗する術も気力もなく、呼吸さえまるでしない様子で浴室に横たわる『夜がまた来る』(1994)での夏川結衣であるとか、一眼レフのカメラを携えて夕暮れや深夜、黒い木立の脇に半裸のモデルを横たえさせて撮った一連の写真作品にも通じるものがあり、石井が好んで採用するモティーフとなっている。

 そこでじわじわと這い上がってくる感慨は、欲情とは裏腹の速やかな“放冷”を誘うものだ。いずれも殺害や強姦といった性暴力の痕跡を彷彿させる構図と面持ちであって、熱狂とは無縁のしんしんとしてどこまでも昏い性質の絵柄となっている。今この瞬間にもどこかの密室や隔絶した場処で起こっている弱き者への暴力。人によっては最近見聞きしたニュースをまざまざと思い出し、脳内で結びつけるかもしれない。実際わたしは性暴力の被害者にしてその根絶を目指す活動者が著名な国際賞を受賞したことを紹介する報道に目を奪われ、一瞬後、石井が半生を賭して積み上げている物語世界の伽藍と彼らの闘争が完全に通底すると感じた。

 現実世界の酷薄さと自身の世界を直結させることを石井は嫌うだろうか。私はそうは思えないでいる。読者や観客の内側に醸成される新たな視点、ちょっと待てよと足踏みや振り返りをする時間を彼は本気で望んでいるように感じる。これまでのインタビュウなり単行本のあとがきを読むと石井が実際に起きた事件やこれを伝えるニュース映像に言及することが多く、自身の創作活動と世間が無縁でないことが分かるのだし、おのれの物語に対して複数の切り口を常に用意し、世間一般の読解とは異なる風を絶えず懸命に送り込んでいるのは察しがつく。その風に煽られて受け手がよろよろと体勢を崩し、日頃とは違った仰角で景色を見直すことを強く念じているし喜んでいる気配がある。

 時には鬱々とつづく内省を強いられる類いのものだが、物語が世間に果たす役割にはそういう重いものが有って良いはずだし、むしろそのような学びの時間を劇場で自分はもらえたのだ、陰惨な陽の射さないきびしい境遇を描いて何が悪いんだ、と、ヒール(悪役)を担う覚悟を決めて見える。つくづく男であることが厭になり、性欲という熱源を抱える身体を恨めしくなる。一時的であれ性能力を奪い、断種に導く負の圧力で満たされる。それが石井世界の激烈な薬効となっている。

 石井隆の劇には前景と背景があり、それが同一画面に混在すると先に書いたが、視座や価値観の“往還”が起こると言い替えても良い。私たちは石井の物語を前にしてしばしば道に迷い、時に逆転した場処へと招かれて自身の思い込みを粉々に砕かれ、茫然として過ごす羽目になる。

 そのとき、私たちの身に何が起きるかといえば、あれだけ性愛にまみれた描写を前にしながら、刺激や官能から距離を大きく取った、いくらか後退した、謙虚で不思議と乾いた、堅実な視線を託される気がする。単に私がある程度の年齢を経て性愛のビジュアルにすっかり飽いてしまい、生殖機能も落ちて、欲望の感度がいちじるしく鈍ったせいだろうか。いや、石井隆の作品とは最初からそうであった。血の池めいた地獄の淀みを潜りながら、なぜか汚臭を感じることなく、やがて透明度があがっていく。光は届かず先はまるで見えないが、指先や髪の毛を撫でる流れに濁りはいっさい無くなっていく。そんな水底のイメージがいつもしていた。

 劇画も漫画に限らず小説も絵画もそうだが、詰まるところ物象のすべてをどのように捉えるかは完全に個人に帰属しており、胸に飛び込んでから先はひとつとして同じものは無い。わたしの受け止める石井作品と、あなたのそれは見え方も感動の反射具合も少しずつ違っている。読者や観客の資質なり観賞にのぞんでの真剣度により段差が出るのは止むをえないが、それでも石井作品に触れて、多くの読み手の内部がかき乱され、女性観や道徳観といったそれまで抱え続けた一元的な主観を分裂させられた事は間違いない一定の事実と思う。


2018年11月4日日曜日

“陶酔から距離を置いた”~隠しどころ~(5)


 誰もが認めるように、石井隆の持ち駒のひとつは肉体の描写力だ。女優を撮らせたら光一(ぴかいち)という自負もあり、面貌や四肢をどの方向から撮れば良いか、ミリ単位での試行を重ね続けた。くねりや反りがたたえる淫靡さ、髪間から覗くわずかな表情の変化を飽かず追求し定着させてきた経緯がある。劇画であれ映画であれ、ひとたび発表された際の世間の反応は激しく社会現象となる事も少なくない。
 
 そのような作風にあっては、劇中で創り上げた人物が聖人君子然として目の前に露わとなった性器に一切の関心を寄せないという訳には当然いかない。いや、むしろ極度のこだわりさえ見せる場面が過去作に幾度も顔を覗かせた。蜘蛛の巣に捕らえられた羽虫のように、おんなの身体に吸い寄せられる男が数知れず描かれている。

 異常な、穢れた行為ではないように思う。わたしたちはそのように作られているからだ。時に性愛の波間に身をゆだね、皮膚や粘膜への接触を重ねてこの世の憂さや厳しさから逃避し、他者であれ自己であれ、愛する対象とともにより高い頂きに昇り詰めたいと願う。そうしなければどうにも淋しい、苦しい時間というのが面前に現われる。難局や課題を回避することは許されないけれど、ほんの少しだけ延期させて気持ちの平衡を保とうとする。性行為の本質に在るものは無垢な救済行為であると思う。

 性愛に埋没する時間のなかで私たちは互いの性器を間近にし、その湿りや温かさ、匂いというものに五感を奪われて思考を停止していく。この行為を愚かしいと侮蔑することは生きることそのものの否定となる。人間はすべからく性的であって良いし、むしろ真剣にそうあるべきなのだ。性を軽んじる事は大きな誤りであり、人生の密度を希薄にするという実感がある。栗本薫の小説「ナイトアンドデイ」(1982)に登場する漫画家がおんなの性器描写に囚われていくことはだから不自然ではないし、そういう人間がいてもそれはそれで普通であるとしか私は思わないけれど、栗本が創作したその漫画家が石井隆をモデルにしたと言われてしまうと、これは完全に間違いだと言いたくなる訳なのだ。

 石井隆があつらえる肉体との邂逅は、フィティッシュの陶酔からはやや距離を置いたものだからだ。そう書くと語弊があるか。桃色の柔らかい器官にのみ焦点が定まるのではなく、がっちりとした腰部に据えるおんなの生い立ちなり、それを公然に晒すに至った過酷な状況といった人生の総体に対して男が対峙する瞬間であって、ひとまわりもふたまわりも広い画角を保持している。周囲を観察することから逃げていない。さまざまな視覚情報が混在一体となった風景であり、のめり込む行為を冷静に、いくらか憐憫の情をたたえた目でいつも俯瞰しているのが石井の劇と言えるだろう。常に眼光紙背に徹すべく自らを追い立てるというか、熱狂よりも深慮や共鳴が先行している。

 たとえば『フィギュアなあなた』(2013)で死の狭間に置かれた青年(柄本祐)は、夢現の空間で一体の生きた人形(佐々木心音)と出会い、その局部の精巧な作りを確かめて感嘆の声を放つ。鼻先が触れるほども人形の股間に顔を寄せ、性器の色かたちに興味の先を集中させる青年の姿には「ナイトアンドデイ」で栗本が幻視した佐崎という漫画家の異常な執着がオーバーラップしないでもない。

 けれども『フィギュアなあなた』において私たちには、その局所的な視点と同時に妖しげな「背景」もしかと差し出されている。人形がどのような場処にどのような形で置かれているかを石井は丹念に、心血そそいでステージ上にあつらえ、わたしたち観客に無言で提示している。廃棄された人形が山積みにされ、蓮の花を模したランプが赤々と灯り、あたり一面を幽玄な光で照射している様子が否応なく網膜に焼き付き、どうしたって逃げおおせない。公開時に識者が綴っていたように、この景色は第二次世界大戦で独軍が設営し、終戦時に占領軍のカメラレンズの前に露呈してモノクロのフィルムに刻まれた強制収容所での凄惨な様子を間違いなく模している。(*1)  石井は死体の山を淡淡と差し出し、青年の一種のどかな恋着に観客が安易に同調する流れを阻止している。

 浮かれ調子の股間の検分と、骸(むくろ)のおぞましき堆積が同じ土俵に載っている。劇の奥に徹底して醒めきった硬質のものが陣取るから、それが顔を覗かせた瞬間に「ちょっと待てよ」という気持ちが舞い起きる。それは石井が創った登場人物にも生じるし、読者や観客側にも湧出するのだが、何より石井隆という作り手が逡巡と憂慮の人だからじゃないか。

 性愛の頂きで私たちは目をつぶり、脳幹をつらぬく閃光を垣間見るはげしい感覚を抱くのだけど、石井が作る物語においておんなは目を完全に閉じることがない。相手を冷静に観察し続ける。快楽をともなう短い死を許さず、物象を隙間なく観察し、記憶しようとするその体質は石井という絵師の画風にも当然ながら等しくあって、常に劇中の複数箇所に焦点が配され、併行する描写なり価値観がいつまでも瞬きつづける結果となる。調和の取れた完結は遂に訪れ得ない。なぜなら一点が完結しても他方は動き続け、観察し続けるからだ。

 人間の行為を操るものが何であるかを透徹した視線で観察し、人間って単相じゃないよね、時どき変なことをするよね、その動機が混濁して明瞭でなくてもそれは当然だよね、と考える。人間のこころを不確かで複数の層からなると捉えているから、自ずと物語が単純化しないし、従って分かりにくい結末にも往々にしてなるけれど、そういうのが本当の世の中じゃないかとどうやら捉えている。

 その二極化、作者の視点も加えれば三極化した混然一体の趣き、頁全体、銀幕全体が合奏するかのような厚みある構成は、背景が排除された極端なクローズアップでも変わらない。今度は人体が風景画となって前景と背景にゆるゆると分離し、肉体と魂、本音と虚勢、高揚と冷感が螺旋構造となってめまぐるしく立ち現われる。単純な春画では到底表現出来ない様ざまな反射光を放ち始め、紙芝居や手慰みの次元を超えて迫り来る。矛盾だらけの私たちの鏡像となってやがて機能し始めて、こちらの視線に対しあちらからもしっかりと見返すようになっていく。

 石井隆を語るときに前景に置かれた人体の艶かしさ、女優の白い裸身を際立たせる扇情的な照明や演出が取り上げられる事が大概であるから、多くの人は「人物画」の名人上手と彼を誉め讃えがちであるが、本質はやはり「風景画」の達人であり、前景と共に背景を同等に物語らせる、ある意味で至極饒舌な作家である。

(*1):キネマ旬報 2013年6月下旬号 No.1639 四方田犬彦「恐怖と恍惚、悪夢と淫夢」