2013年3月31日日曜日

“人形譚”



  “人形”を題材とする小編が古今東西の書物には見つかるが、これを抜き出し一冊にまとめたもの(*1)を先日読んだ。大変面白かった。不勉強を恥じるしかないが、この年齢にして初めて目にしたものもあった。収録からもれた数篇を別に探し求め、こちらもおおよそ目を通し終えたところである。

  「マルスリーヌ」(アンリ・ド・レニエ)、「彫像の呪い」(トマス・ハーディ)、「女王人形」(カルロス・フエンテス)、「悪魔の創造」(渋澤龍彦)、「砂男」(E.T.A. ホフマン)(*2)、「人でなしの恋」(江戸川乱歩)などなど──  波長が合わず睡魔に襲われ、つい頁を閉じた作品も中にはあったが、多くは胸躍らせる仕掛けと淫靡さ、残虐さを内在させており、読んでいて手綱を放せなかった。

 自ずと屋内空間に舞台を限るためなのだろう、現世をジオラマのように俯瞰して見せる豪胆な構図は皆無だが、その分手持ちカメラで足音もなく侵入するというか、窃視に近しい妖しさと烈しさを秘めている。人形の多くが女性や美しい若者を写し取ったものになっているから、色彩は艶やかであり、纏う衣装の描写は華美を極めて文節に縫いつけられる。ひどく官能的で読んでいてどこか後ろめたい、ざわざわと急迫するところがあり、鼓動はついつい高まるのだった。人形を描くこと、観ること、読むことはなんと物狂おしく、なんと甘美なことであろう。

  石井隆の『フィギュアなあなた』(2013)は、原作や公式サイトに当る限りでは若者が人形に懸想する奇談であり、ああ、よくある話と思い込まれがちだ。(私の頭にも二、三の映画作品が浮かんでくる。)けれど石井隆という男は、何しろ息の恐ろしく続く、稀有な作り手である。どこと何とどう繋がっていくか、どれほどの想いをこめているか、底知れぬ結線がある。安直に断じると置いてけぼりを喰らいかねない。上記の著名な作家たちや過去の様ざまな記憶に連なって自分なりの人形譚をつむぐことは、創作を担う身としてさぞ嬉しい機会に違いないから、私たちも顔を上げ視線を遥か遠い過去まで投げて良いのだ。予備知識として、一篇でも二篇でも良いから目を通しておくのは損にならないと思う。この辺りを丸ごと理解してかかるとかからないでは、まるで景色が違って見えてくる。


 何故わたしたちは人形に惹かれるのか、どうして人形を作るのか、買うのか、棚や寝室に飾るのか、その答えは十分に出ておらず、今この時にも次々に彼ら彼女らはこの世に産み落とされているのだし、私の背後の飾り棚にも人形が鎮座し、またたくことがない瞳をこちらに向けている。私たちと人形とのずるずるとした同棲というか腐れ縁は、思えばずいぶんと根深いものがある。いま一度その辺りの不思議に想いを凝らして、つまりは自分自身の事として石井の劇を観返していくことも、もしかしたら大事じゃないか、なんて思っている。

 人工知能の発達にともない、最近の創作劇では義体やレプリカントと名称を転じてはいるけれど、あれだって精巧な人形の一種に違いはなく、これまで同様、虜(とりこ)と成り果てた者たちの迷宮譚の亜種であろう。ひとを模した人形が放つ芳香はいつまでも衰えることはなく、視線を縛ったり、所有欲を延々と煽って、私たちの凡庸な日常に風波を立てるのである。人形を探ること、想うことに古いも新しいもない。石井の執念と自分自身に潜行する魂の弾みをすり合わせながら、銀幕に描かれるだろう百鬼夜行を今からとても楽しみにしている。


(*1):「書物の王国-7 人形」 国書刊行会  1997
(*2):「思いがけない話 ちくま文学の森5」 筑摩書房 2010 所載

2013年3月23日土曜日

“定義”



  石井隆の【魔奴】(1978)、【黒の天使】(1981)、【夜が冷たい】(1985)、【魔樂】(1986)、【眠れない夜のあなたに】(1987)といった劇画作品や一部映像作品には、男性器や性具をこえた鋭利なもの、硬いものが突如として襲いかかる凄絶この上ない景色が描かれている。人目をはばかる描写に若い頃のわたしは慌ておののき、これを家人なり知人に見られては誤解される、一巻の終わりではないかと本棚の前で大いにうろたえた事だった。戸棚をごっそりと引き抜いた後に覗き見える背板との狭い隙間、地下空間めいた棚の底面といった日の差さぬ暗がりに急遽隠したのだったが、けれど正直言って、その行為にこそ何か後ろめたい気持ちを強く持ったのが本当のところである。

  石井の作品を背徳に満たされたもの、狂人の戯言、忌避すべき悪書と捉えることは毛頭なかったからだ。強引に衣服を剥ぎ取った上で人体を拘束し、傷付け、刺し貫いて死に至らしめる酷烈な描写が連綿とかき連ねてはあるが、そこには傷付けられ、貫かれることの不快さと怯え、苦痛が強く寄り添って離れなかった。石井隆の作風を称して世間が(また、インタビュウにおいて石井自らがなかば捨て鉢に)使うカタカナの卑俗な形容とは隔絶した、揺らぐことのない地平を石井の物語に感じていた。上手く言い表わす自信がないから苦しまぎれに隠しもしたが、作者の倫理観に対して絶対的な信頼を置くところがあったのだ。

 先日、精神と肉体を粉砕せしむ現実世界の性暴力に関して、もう少し実態に則した知識を得たくて図書館まで足を運び、幾冊かと向き合う時間をもった。その中に興味引かれる記述があった。アメリカの弁護士で法律学者でもあるキャサリン・マッキノンCatharine MacKinnonが1984年に起草した規制条例に関する内容である。(*1)

  マッキノンは「ポルノとは“映像や言葉を通じて女性を従属させるような性的にあからさまな素材”である」と捉え、性犯罪、性暴力を助長するポルノを社会から根絶することが悲劇を減殺(げんさい)する近道と考えた。その見地からインディアナポリス市の条例(*2)を起草したのだった。根絶すべき“ポルノ”とはいかなるものか、彼女なりに定義したのが次の6つの条件である。

①、女性が苦痛や屈辱を楽しんでいる性的対象物として表現されている。
②、女性が強姦されることで性的快楽を味わっている性的対象物として表現されている。
③、女性が縛りあげられ、切り刻まれ、切断され、青あざを作られ、肉体的に傷つけられ、あるいは、手足をもぎ取られ、頭部を切り取られ、肉片にされ、身体の部分に切り離される性的対象物として表現されている。
④、女性が物や動物で貫かれているものとして表現されている。
⑤、女性が侮辱され、傷つけられ、低級なものとされ、拷問される筋書きの中で、みだらなものとして、卑しいものとして、血を流しているものとして、あるいは青あざだらけのものとして描かれ、あるいは、これらのことをセクシーにする文脈のなかで傷つけられるものとして表現されている。
⑥、女性が支配され、征服され、侵害され、略奪され、所有され、利用されるための性的対象物として表現され、あるいは奴隷状態や従属状態におかれ陳列される物として表現されている。(なお、これらの条件は女性のみならず、男性にも子どもにも同じ状態があれば適用される。)

 石井隆の作画には③、④、⑤、⑥に該当する箇所があるから“ポルノ”ということになってしまうのであり、彼女の目線にたてば自然と規制の対象ともなって世間から締め出されてしまうのだろう。しかし、読んでいてどうしても腑に落ちない。石井世界を“ポルノ”と呼ぶことには抵抗を覚えてしまう。マッキノンの条項を一部流用し、石井世界の実状にあわせて改めればこんな具合だろうか。

①、性的対象物として表現されるが、そのことに女性が苦痛や屈辱を感じている。
②、女性が強姦される性的対象物として表現されているが、そこで性的快楽を味わえない。
③、女性が傷付けられ、物で貫かれていることに理不尽、哀憫、憤怒を見い出している。
⑤、侮辱され、傷つけられ、低級なものとされ、拷問される文脈のなかで蠱惑的な姿態を女性が見せるとき、それは危機を回避する緊急避難策として立ち上がっている。
⑥、女性が支配、征服、侵害、略奪、所有、利用されるための性的対象物、あるいは奴隷状態や従属状態におかれ陳列される物からの離脱や闘争を描いていく。

  これが石井世界の一貫した流れとなっている。裸体の乱舞する舞台だけれども、そこから立ち上がる面差しはやや異なる光を放つように思う。快楽とは数歩距離があって、日本において地にまみれた感のある“ポルノ”や“エロ”とは当然ながら立ち位置がずれている。暴力の荒野からの救済にこそ力点が置かれ、男の抱え込む情動に対してやり切れぬ思いが重たい霧のように漂っている。(書棚の奥に仕舞っておくべき類いのものとは性格が異なっているのであって、むしろ大いに読まれてしかるべき、観てしかるべき作品も含まれると思う。)



  劇画家から映画監督に転進し年数を重ねた石井であるが、スクリーンに向かっていると、きついだろう、と思える一瞬が間間ある。嚥下し得ない異物を呑み下すようで、苦しくどうにもやり切れない、そんな厳しい時間である。きついのは私たち観客も確かにそうではあるのだけれど、それ以上にメガホンをとっている石井隆が内心どうだろうかと慮ってしまう。

  映画『夜がまた来る』(1994)の中に暴力組織に潜入した刑事(根津甚八)が出てくるが、わたしは石井の作劇全般に対してあの村木という男の傷ましい背中を想起してしまう。殲滅をもくろみ虎穴に踏み入るが、さらに中枢に溶け込んでいくために背中一面に刺青(しせい)を入れねばならなかった生真面目な男の後ろ姿である。“女性の救済”を描く上で、作劇上どうしても不可避な“受難の景色”を自らの手で産み落とす必要に迫られる石井の立場、作風というのは、どこか注射針を腕に突き立て、ときに殺人にすら手を染めていく、そんな村木の修羅と重ならないものだろうか。

 
(*1):「性差別と暴力 続・性の法律学」角田由紀子 ゆうひかく選書 2001 ポルノへの法的対応への試案 152-154頁
(*2):後日、出版社や書店が条例は憲法違反であると訴えを起こし、連邦最高裁判所もその判断を支持した。このために条例は、実際の施行には至らなかったようだ。