2019年9月16日月曜日

“桜の実”


 法事や彼岸参りが近づくと、本番当日に慌ただしくなるのが厭で、前もって墓所におもむき、入念に清掃をしないでおられない。やり過ぎの感が湧かぬでもないけれど、するべき事を終えておき、その分悠々と「魂のこと」をしたい気持ちがある。暦を眺めていよいよ間近となれば急にそわそわして、軍手や雑巾を片手に飛んで行く。

 そんな妙な癖が付けてから随分と経つのだけれど、数世代前の人びとが納まる内は特段考えることもなく、ただただ早く済ませようとあくせくする時間だったのに、さすがに同じ屋根の下で暮らしてきた家族の骨を納めて以来、ちょっと性質が変わってきた。記憶の湖水にずぶずぶはまり、かつての己の言動のいちいちをひどく後悔したりもして、茫然と、時に憤然として立ちすくむ事が増えている。

 たたずむ時間は観察の機会も与えてくれ、枯れ葉の種類や苔の生育が急に気になり、墓石の隅から這い出てくる虫に対してもいちいち気持ちが向かうようになった。馬陸(やすで)や蛞蝓(なめくじ)のたぐいが大概だけど、もしかしたら彼らは死者の魂を引き継ぐ存在なのだろうかなんて夢想する。そんな大そうなものじゃなく、石室の単なる居候だったとして、今や白骨となって地中に居を移した我が家族にとって彼ら小さな生命体は愛しく、また、おもしろく映るのか、それとも憎々しく感じるものであろうか。考え出すと自然と動作は虚ろとなっていき、以前と比べたら倍の時間がかかっている。

 そう言えば箒(ほうき)を操る最中に目が止まったのだけど、なんだか光沢のある硬そうな種があちこちに散らばっていて不思議に思う。鈍感なわたしはしばらく考え、ようやく桜の種と分かったのだった。寺庭のやや離れたところに老木が二本寄り添うようにして立っており、春ともなれば懸命に咲いては辺り一面を桃色に染めるのであって、あれの成れの果ての、過ぎ去りし季節の痕跡なのだった。毎年ここに足を運び、幾数回も同じ場所を清めているのに、いっさい目に留めず、意識したことがまるで無かったのが可笑しい。人間って心ここに在らずの状態だと手元にあるものさえ見えなくなって、存在しない物だらけになる。

 畳ほどの面積にこれだけの実を毎年蒔(ま)きながら、それも百年単位でこころみながら、結局のところ新たな樹は一本も増やせないでいる。自然の実態というのは冷淡で過酷な場処であるのだし、そのような成就しにくさ、厖大な失敗の繰り返しは、私たちの生活にも当てはまるように思う。花咲かせても形を成さず、瞬く間に消えることがいかに多いことか。

 墓所の脇の柳(やなぎ)の大木は数年前に朽ち落ちて、根っ子だけのぎざぎざした無惨な切り口を陽に晒されている。帰り際、黒々としたそんな骸(むくろ)の真ん中にひょろりと一本だけ芽が伸びており、先端に明るい色の双葉を広げているのを見つけた。これは柳の根がかろうじて生きていて自力で再生しつつあるものか、それともまったく別の植物の種子が芽吹いたのか。可愛らしい、まさか桜だろうか。家族の転生を願う気持ちが湧き水のように盛り上がって、まあ何というか、どうしようもなく感傷的になっている。