2019年5月3日金曜日

“輪廻の酒”~歓喜に近い愉悦~(11)


 宮武外骨(みやたけがいこつ)の「小便考」という小文で知ったのだが、漢方薬には何と人尿が含まれる。「調合法は古来医家の秘伝となっていることだが、おおむねそのままで飲むのでは無く、よく日や風にあてて乾かした上、瓦で焼いてそれに生姜を入れて徐々(そろそろ)服用する」(*1)とあるから、どうやら粉末状であるらしい。工場直送の生ビールみたいにぐいぐい呑むのじゃないらしいけれど、さすがにちょっと驚いた。いくら加熱され香味を加えられても、どこの誰が出したか分からぬそれをよく口に出来たものだ。古来の中国人の探求心は底知れないし、病人が藁をつかむときの握力は凄まじい。

 さすがに人尿とか小便では響きが悪く売り物にならないから、「輪廻酒(りんねのさけ)」「還元湯(かんげんとう)」と名付けられた。言葉は魔術の一種であり、容易に人のこころを変えてしまう。名称だけ見れば、輪廻の酒とは実に壮大で酔い心地もすこぶる良さそうではないか。

 石井隆の世界にもしっくり来る気がする。昇天を許さず、この地上という煉獄にずっと縛られたままで「死」だけを絶えず繰り返す石井の劇であるから、宗教色の強い「生まれ変わり」を単純に描いている訳では当然ない。彼らは輪廻転生を易々とは信じない。生まれ変わればやり直しが利くとは一切考えず、だから宗教にすがらない。輪廻応報については時に疑ったりするのか、どうしてこうも自分はついていなのかと嘆息し、ちょっとだけ神の名をつぶやき祈ったりしながら暮らしていく。

 「輪廻」という響きが直接石井隆の創る男なりおんなを想起させることは全然ないのだけど、その劇中に登用された小水にはこれぐらい深甚な呼び名がふさわしいように思う。つまり人生と直結した私たちの一部という意味合いにおいて、そんな呼称が似合うのだ。人にだまされ、組織に揉まれて衝突し、慟哭し、すれ違う。彼らは時流に弄ばれ、乾いた現実と闘いながら、昼夜を問わず涙のようにとろとろと輪廻の酒を流し続ける。

 きざな麗辞は似合わないかな、小便は小便だ。繰り返しになるが石井隆の描く人生は華やいだものではなく、小便まで付いて回る低空飛行なんだけど、人間を人間として描く劇として至極まともじゃないか。我々は小便まみれの人生を送っているのだから、銀幕を眺めながら時には扉奥の小部屋までカメラに踏み込んでもらい、そこに生まれ落ちる素の表情と声がないと物足りないと思う。もういい、疲れた、全部リセットしちゃいたいな、そんな気分に襲われながらも、なにくそ、こん畜生め、と便座に座り直し、生きている証しである液体をほとばしらせる。そんな様子を映し出す等身大の劇を石井は創りつづける。だから信頼出来るのだし、つよく惹かれていく。石井のすっぴんの劇は表層ばかり重視する化粧まみれのクレバスを跨いで、悠然と時代を渡っていく。

(*1):「小便考」 宮武外骨 「滑稽新聞 第159号」滑稽新聞 1908 「厠と排泄の民俗学 歴史民俗学資料叢書 第二期」 礫川全次 編  批評社 2003所載 36-37頁 旧仮名遣いを一部現代のものに換えている