2020年5月10日日曜日

“鉄路から想うこと”~石井隆の時空構成(1)~


 このところ嫌な夢を立て続けに見るのは、たぶんテレビジョンや新聞で険しい話ばかりを押しつけられるせいだ。厄介な重石を抱かされた上に密閉容器にぎゅうぎゅうに押し込まれる、かくも長くこんな毎日を続けては誰だって大なり小なり変になろう。少し前までは連日仕事の夢が続いて、さすがに頭も身体も妙な塩梅となった。

 それでも自分はまだ眠れているだけ幸せと思う。鳩尾(みぞおち)付近で鎮まっていたものが立ち上がり、夜な夜な手を引かれて見知らぬ城下町へといざなわれる、そんな程度の内容であって、ずいぶんと呑気坊主で恵まれている。現在の騒動の渦中にあっては、まんじりともせずに夜を過ごす人がたくさんいるはず。大変な世の中になったものだ。

 夢は未編集の映画みたいで、慣れ親しんだ日常へと帰還していく事をいっこうに妨げない。どんなに酷い内容で目覚めがつらくても、やがて首のうらあたりで悲壮も恍惚もとろとろに溶けていく。私とすれば眉をしかめつつ洗面台の鏡と向き合い、あかんべえして舌を磨いたり髪を撫でつけたりの身支度をしながら、未練たらたら、もぐもぐと反芻をするぐらいの至って気楽な毎朝だ。

 石畳の細道に面した古い門を潜って玄関に至る、日本料亭の湿った質感をそなえた構え。その奥、狭く急な階段やうねうねとした廊下をさまよい、障子戸越しに見え隠れする布張りの椅子や沈重な顔付きの黒漆(こくしつ)の机をただ黙って眺めている、そんな場景が目玉の裏側に点々と粘りついて来る。あんなに歩きながら誰とも行き当たらないのは妙なことだ、不思議な柄と色の壁紙だった、あれはいったい何処かしらなんて他愛なく考える。今朝はそんな静かな景色に連なり、珍しく駅のプラットフォームを歩む様子が繋がっていた。

 山田洋次の喜劇か山田太一のホームドラマに触発された気配がどうやら濃厚であるけれど、それ程大きな駅ではないようだった。身体と心がそろって気軽な外出や小旅行を欲しているのだな、そりゃそうであろう。やはり本編前に流れた映画予告編みたいに受け止めて了解し、そこで振り返るのはもうお終いとした。

 芸術家ならまだしも、凡人である市井のわたしが涯ての見えない夢と四つに組んで格闘したところで得るものはたぶん何もない。気持ちを切り換えて、それからはひとしきり石井隆の劇中に現われる鉄路やプラットフォームについて考えた。精神衛生上、その方がはるかに健全と思われる。

 今どきの若い男女はどう捉えるものか知らないが、ある程度の年齢以上の人にとって鉄道とプラットフォームは恋愛における王道であり聖域であり、出逢いと別れを象徴する装置となってそれぞれの人生観において君臨しつづける。もちろん人によっては駅ではなく、もしかしたら空港の待合室で何度か涙にむせんだかもしれないし、もしかしたら幹線道路脇のドライヴインや燃料スタンドに鮮明な記憶を刻んだ人がいるのだろうが、多くの人にとって魂の拠り所は何と言っても鉄路ではなかろうか。

 それ程の堅牢かつ寛容な器であるところの駅や列車という仕組みは、だから映画と相性が良いのは当然である。これまで『旅情』(1955)や『男と女』(1966)、『逢いびき』(1974)といった無数の人情劇で涙を誘い、圧倒する名場面を裏から支えてきた。まとまった直線移動を可能としフィルムにとてつもない躍動感をもたらし、茫洋としてゴールの見えぬ消失点へとまなざしを導き、見る者の情動をいくども後押しする。

 石井の劇画や映画でも鉄道車両や駅が登用されており、たとえば『死んでもいい』(1992)や『ヌードの夜』(1993)の幾つかの場面はいまだに生き生きと胸に刺さる。レール酸っぱい粉塵と機械油の粗い粒子がプラットフォームでのたうつ中、そこに混じって薄っすらしたおんなの香水が艶やかに明滅する。官能の芳香が鼻腔のとば口に幻嗅されて、観る者の胸をひとしきり騒がせるのだが、駅の構造物や列車の登用それ自体は決して珍しいものではなく至極一般的な道具立てに過ぎない。

 自動車ではなく鉄道に依存した日常を送る人物なのだ、そういう一生なのだ。造形にこだわり、彼らの暮らしと人格に肉薄する目的から、そして物語を前へ前へと回す必要から、また絵的にも好ましく思われて、プラットフォームを踏みしめるおんなの姿態がたまたま両作で登用されたに過ぎない。そう解釈するのが自然だし、それで一向に構わないだろう。

 ただ、石井隆の世界を拡大鏡で覗き、加えて鳥瞰して眺めることを長く重ねるうちに、事はそう単純ではないと感じられるようになった。鉄路とプラットフォームをめぐって石井の内部に持続する一定の想いがあり、その発展と収縮を飽くことなく行なって来た実験的な創作の経緯を実感する。駅や鉄道車両といった場景ひとつひとつの裏側に、石井のまなざしが確かに息づいている。

 作り手がそっと注ぎ込んだ真意を探り出し、よく汲まなければ十分に消化し切れない箇所が石井の劇世界には点々と横たわる。人知れず行なわれたその試行がやがて更なる時空の発展を呼び寄せて、「石井世界」の軸芯へと太くたくましく育っていった過程を夢想している。

(*1):『旅情』 Summertime 1955 監督デヴィッド・リーン 
(*2):『男と女』 Un homme et une femme 1966 監督クロード・ルルーシュ
(*3):『逢いびき』 Brief Encounter 1974 監督アラン・ブリッジス