2021年9月13日月曜日

“バーズ”  ~石井隆の鳥たち(終)~


  『GONIN』(1995)で準備稿においては「グロッタ」と呼ばれていた店が、「バーズ(鳥たち)」に変わった理由を私は知らない。『天使のはらわた 赤い淫画』(1981 監督 池田敏春)で石井隆が指定した喫茶店が同じく「グロッタ」であったから、相当の執着がある単語なのは確かだが、大概の人の耳に馴染まず連想を阻み、波紋を生む効果が足らないと感じたのではなかったか。その点「バーズ(バード)」なら誰でもスイッチが入る。響きの良さ、鋭利で洗練されたイメージが求められての転進なのだろう。(*1)

 「バーズ」は英語の“Birds”となり、ネオン管がその音を形づくって入り口に掲げられた。闇に浮かび上がる虹色の文字は色香をにじませ、その下を潜る男女を妖しく染めて、それだけで血を酩酊させるに十分だったが、こうして石井の「鳥」に関する思索の道のりを辿ってみれば、自ずとネオン管の色合いも違って見える。

 四半世紀が過ぎ、最近作『GONIN サーガ』(2015)でダンスホールは無数の銃弾を受け、スプリンクラーからの散水で足元はことごとく濡れしょぼたれた。今あの建物はすっかり壊され、更地になり、新たな建物がそびえているのだろうか。それとも、廃墟となりながら、音もなく誰かを待ち続けるものだろうか。

 言い知れない想いがさざなみとなって寄せてくる。足を踏み入れてみたい。怖いもの見たさというのではなく、多分そこに至れば少しだけ救われる気持ちになるのではなかろうか。未来の不安に押し潰され、今日の苦悩に胃を痛め、なにくそ、と唇を動かすも吐息まじりの声はマスクに行く手を遮られ、虚しくどこかに揮発していく。そんな私の弱い魂をあの廃墟が待ち続ける。

 雨霧の漂う闇の奥に、羽ばたく白いものが見える。導かれるまま無心に歩めば、いつしか鳥はかたちを変え、懐かしい声、あの瞳でこちらを振り返る。私たちはその場処を探し続ける。かならず其処に立つ、立たざるをえないのである。

(*1):“グロッタの集中的表現”~【魔奴】と【魔楽】への途(みち)~(12) http://grotta-birds.blogspot.com/2017/10/12.html

2021年9月12日日曜日

“分かり合えぬもの”  ~石井隆の鳥たち(7)~

 【赤い眩暈】(1980)から『フィギュアなあなた』(2013)までをいわば「鳥物語」が刺し貫いている事が分かった。それとはやや足場を違えるが、最後に池田敏春(いけだとしはる)に石井が提供した映画脚本『ちぎれた愛の殺人』(1993)に触れ、この節を閉じようと思う。

 『ちぎれた愛の殺人』は、石井隆と池田が公言するように、紆余曲折を経て産み落とされたいわく付きの作品である。最初に原作としてとあるミステリー小説に白羽の矢が立てられ、これに添って脚本が練られ、ロケハンとキャスティングも済み、撮入寸前に至った段階で原作者から映画化は一切ならない、自分の名前も出すなと完全拒絶されてしまった。入念なスケジュールはもう既に組まれており、いまさら俳優の日程変更など到底出来ない土壇場である。それまで部外者で居た石井は池田に頼まれ、ロケ先とキャスト等をそのまま引き継いだオリジナルストーリーを急遽組み立てるよう求められる。(*1)

 普通なら匙を投げる仕事であるけれど、『天使のはらわた 赤い淫画』 (1981)、『魔性の香り』(1985)、『死霊の罠』(1988)の脚本も提供して盟友と呼べる間柄の池田であったから、石井はその危機をなんとか救おうと考えた。

 本来石井隆の物語の舞台は新宿、川崎、上野、中野近辺といった都心部が主であり、実在する街並みや店舗、住居を取り込んでハイパーリアルな劇画を多作した。その手法は実際に足を運んでの思案と厖大な作画用写真の撮影が不可欠であった。それが石井劇画の凄味にもなり足枷にもなった事は否めない。上のような諸般の事情であれば、石井世界には珍しい地方都市の登場も了解出来るところだ。出雲の地名と景勝地が劇中に並び、私たちの視線は寂びれた町並を歩き、近接する断崖を目撃し、灯台を駆け上がる。

 池田から最初に示されたロケ資料はいかなるものであったか分からない。石井はそれ等を睨(ね)め回しながら、決められた役者、決められた日程でどんな物語が組めるかを夢想していったのだが、それぞれのロケ地に足を運ぶことなく破綻のない話を編むことの苦労は一体どれほどだったろう。

 結果はご承知の通り、異様な肉体損壊のつるべ撃ちと池田が得意とする硬質の映像美が重なる怪作となり、海外では『死霊の罠』の第三弾と位置付けられて今も時折ウェブを賑わしている。よく乗り切れたものと感心する。

 喩えとして適切かどうか分からないが、この度の新型コロナウイルスの騒動に対して即座に製造配布されたm(メッセンジャー)RNAワクチンと雰囲気が似ているように思う。ドイツのビオンテック社をはじめとする研究所で開発が佳境を迎えていた正にその時期にパンデミックが起こり、直ぐに工業生産に移せたことでワクチンが行き渡ったことは僥倖であったが、同じようなことが一本の映画にも起こったのだ。

 石井は既に『天使のはらわた 赤い眩暈』(1988)、『月下の蘭』(1991)を発表して監督業に手を染めており、劇画を脱して本格的に映画をやりたいという気合が漲(みなぎ)っていた。銀幕を飾るまだ見ぬ己の作品につき沸々と脳裏に浮上しては膨らみ、肺腑は極彩色の光景に染まっていた。息をすれば美しく哀しいシーンがいくらでも吐き出された。つまり、準備万端なったところに救命信号が出されたのだ。友人と思う者に対して懸命に手を差し出し、どうにか撮入の道筋を作ったものはまさしく石井の映画愛であったと感じられる。

 実際、映画は石井世界に大きく舵を切った。物語は一組の夫婦、村木哲郎と名美の怨恋(うらみこい)の惨劇となって蘇生を果たしてすこぶる玄妙であり、さらに劇中の狂女の造形はヴィジュアル面で【20世紀伝説】(1995 たなか亜希夫画)と二重写しとなり、延(ひ)いては石井自身の手になる傑作『人が人を愛することのどうしようもなさ』(2007)へとやがて結実していく訳であるから、石井世界を俯瞰する上で一定の評価を得てしかるべき居住まいとなっている。

 さて、そろそろ『ちぎれた愛の殺人』の「鳥」について触れよう。劇の冒頭は地方都市の海辺に遺棄された人間の胴体部分の発見で始まる。鋭利な刃物で頭部と手足を切り離された女性の遺体が消波ブロックの上に打ち上げられていて、地元の警察が来て大騒ぎになる。現場の目と鼻の先には小島が浮び、其処を無数のウミネコがうじゃうじゃと飛び交っている。

 これは石井の脚本に従ったカットであるのだけど、鳥の扱いについてはやや異なっている。シナリオ誌に掲載された脚本を書き写すとこんな具合である。


2 出雲・経島(ふみしま)(早朝)

空を飛ぶウミネコ、ミャアミャアと波打ち際の岩場に

大量のウミネコが群がっていて白い肉を啄んでいる。

白い肉、女性の腐乱した胴体。(*2)


 完成画面ではウミネコは作り物のおんなの胴体を警戒してさっぱり寄りつかず、残念ながら石井のたくらみ通りにはならなかった。「ウミネコがエサを漁る早朝に(撮影を)敢行。経島に群れる鳥たちに演技指導はできない」と撮影日記にあるけれど、これは思惑通りに行かなかった事を打ち明けているように思われる。(*3)

 そもそも経島(ふみしま)にウミネコが大群を成して集結するのは営巣と産卵、育雛(いくすう)のためであり、これは周辺の海に餌となる魚が豊富だからだ。(*4) ウミネコは腐肉食を行なう習性はあるが、何もリスクを負ってまでしてどう見ても不自然極まりない、彼らからしたら巨大過ぎる胴体を格好の餌と捉えるはずもなく、いくらスタッフがカメラの死角に美味しそうな餌を置こうが飛んで来なかったのは道理であった。

 これを書いている理由は『ちぎれた愛の殺人』の撮り損ねたところを面白おかしく論(あげつら)っている訳ではなくて、石井隆の鳥に対する生理的距離感がここで透けて見えるように思うからだ。実現ならなかった脚本のト書きを再度ゆっくりと読み直し、目を閉じてどんな絵柄が浮んで来るか想像をめぐらしてみると、極めて陰惨な風景が瞼の裏に展開される。ああ、石井隆だな、と思う。

 人によっては人喰い鮫を題材にしたアメリカ映画(*5)の冒頭、砂浜に散乱するおんなの手首とその周りに群がる蟹のカットを思い出すかもしれないが、私の想像と近似するものをあえて選べば、つげ義春(よしはる)の【海辺の叙景】(1967)の中盤に描かれる海鳥のカットである。そぼふる雨の砂浜にぽつねんと佇む男の目前に、白い海鳥の群れが見える。彼らは汀(みぎわ)に出来た中洲のような狭い場所に集まり、雨の止むのを待っているだけの気配なのだが、屈託を抱えた男には自分を笑っているように見えるのか、不吉を感じるのか、その群れに傘差して近寄るとやにわに小石をつかみ投げるのだった。鳥たちは一斉に飛び立っていく。(*6)

 石井が【海辺の叙景】にいくら心酔した時期を持っていたとしても、『ちぎれた愛の殺人』で当該カットを再現させようとした訳ではなく、両者は直接に結びつくものではない。「大量のウミネコが群がっている」光景とはこんな景色ではないか、という個人的な連想である。だが、石井はこの出雲の実在するウミネコの繁殖地を写真で見て、これだけ無数の鳥がいるところに細かくバラバラにした人体を放り投げれば、たちまちにして彼らは群れ寄って来るだろう、そうして鋭い嘴でつつかれてあっという間に骨になり、それも細片となって海の藻屑となって消えるに違いないと考えたのはまず間違いない。

 だからこそ劇中の人物は足繁くバラバラにした死体を海辺へと持参し、崖下に投棄し続けたのである。あれは証拠隠滅の遺棄である以上にチベットの鳥葬にも似た死者に対する儀式であった。鳥をそのように使おうとした訳である。まさかウミネコたちが住むのが豊饒なる海原であり、自らの腹を充たすだけでなく、半消化のものを嘴に吐き出して雛にも与えても余りある程もイワシ、アジ、ブリが大量に回遊している場処とは思わなかったのだろう。

 石井隆が鳥を見る目というのはここまで厳しく、容赦がないという点が分かるように思う。鳥と人間はかけ離れていて、感情の交流というのはなかなか行なえないのだし、両者共にその境遇なり寿命に対してなすすべもないのである。

 鳥を宗教的イコンとして採用しながら、それについて懐疑的でいる。信じようとして信じ切れず、助けようとして助け切れないと思う。基本的に人間は救えないのだし、聖邪は入り乱れるのが常であるから、時には情無用に弱き者に群れなして襲いかかる。純粋な聖性などこの世にもあの世にも無いのではないか、という「見切り」が点滅する。

 それは鳥に限ったことでなく、石井隆という画家が描く対象すべてに言及される距離や次元ではあるまいか。信じようとして信じ切れず、助けようとして助け切れない存在がこの世には溢れかえっている。希望と諦観、誠意と無関心、救出と不幸への後押し、両極をめまぐるしく往還するのが石井隆のまなざしであり、絵画である。その厳しさゆえに、その淋しさゆえに、石井が紡ぎ出す世界は切実で「本当の顔をしている」と思わされ、見る者の心を捕らえて離さないところがある。

(*1):「キネマ旬報 1993年7月上旬号」 「特別対談 「ちぎれた愛の殺人」で俺たちが再びコンビを組んだ理由  池田敏春 石井隆」65-69頁

「シナリオ」 1993年7月号 「腐れ縁に賭けて 石井隆」 71-72頁

(*2):「シナリオ」 1993年7月号 「シナリオ ちぎれた愛の殺人」 74頁

(*3):「キネマ旬報 1993年7月上旬号」 「撮影日記抄」 66頁

(*4):「シマネスク 島根PR情報誌」 1999年春№31 「特集 島根の野生動物」 4-5頁

(*5):『ジョーズ JAWS』(1975)監督 スティーヴン・スピルバーグ

(*6):そこに至るまでの展開で男が劇中口にする内容は、今いる海辺で昔、親子の水死体が上がったが、子供の方は無数の蛸に肉を食われて半分白骨化していたという何とも禍々しい記憶である。夏の盛りで海水浴に賑わうこの浜辺を二十年ぶりに訪れた男は、実はそんな暗い記憶に苛まれているのであってまるで元気がない。中洲に群れる白い鳥の様子は直前のその会話、蛸の巣、白骨化と共振して、読者に忌まわしき想像を促すところがある。鳥たちは茫洋として雨に耐えているだけなのか、それとも、やつらの足元に「何か」が横たわって在るのではないのか、だから群れているのではないのか。そんな不安を誘うところがある。


2021年9月11日土曜日

“人のかたち”  ~石井隆の鳥たち(6)~

 2021年現在、石井の鳥はどのような変化を遂げているか。『フィギュアなあなた』(2013)の人形少女がそれである。

 道路を横断中に車のヘッドライトを間近で浴びて以来、何が何だか分からないけれど記憶が錯綜し、理路整然とした景色を保てなくなった男(柄本祐)が主人公である。廃墟ビルの奥の部屋で人形少女(佐々木心音)と彼は出逢う。人形は十万馬力の鉄腕を奮って悪鬼を次々に蹴倒し、超然とした様子で男を危機から救っていく。観客はなんだか狐につままれた気分を味わいながら、なんとか石井の意図を探ろうとするのだったが、やがて冒頭のタイトルバックに挿入されたポール・ギュスターヴ・ドレの版画から連想を広げ、ダンテ・アリギエーリの「神曲」におけるウェルギリウスに着想を得た黄泉の国の住人と彼女を位置付ける。少なくとも私はそのように解釈した。(*1)

 螺旋階段の脇を地上めがけて飛び降り、その後、重力に逆らって悠々と階上へと飛んで行く奇妙な動きに呆気に取られながらも、これはウェルギリウスであるから可能であるのだ、と何だか居心地の悪さを覚えつつ成り行きを見守った。人間にあらざる者だから何でもありなのだ、と考えて荒唐無稽の連続する展開を楽しんだ。

 しかし、程なくして石井はそんな私たちに向けて、例によってぼそぼそと声を潜めて、種明かしをするのだった。人形少女は唐突に純白のベル型チュチュを身に纏って現われ、主人公の目前で再度地面を蹴って舞い上がり、夜空をくるくると飛翔してみせる。黄泉の世界で先回りして待っている存在で、且つ、暗い天空を浮遊し、孤独な越境者を導いていく。つまり、人形少女は鳥の化身であったのだ。

 当初は誰もその事には気付かないし、過去の石井作品を読んだ者、観た者でなければ、おんなが白鳥を模した衣装で飛び回ることが何を物語っているか理解出来ないだろう。分かる読み手には分かってもらいたいが、分からないならそのままでも良い、おんなの白い裸身と光と影の織り成す夢幻のタペストリーに圧倒されればそれはそれで娯楽映画の愉しみ方としてまったく構わない。いつも通りのスタンスで石井はいるが、自作【赤い眩暈】の映像化をいよいよ図った結果だった、というのが『フィギュアなあなた』の真相である。

 「鳥」に関して石井隆の作品を幾つか取り上げてきたが、それぞれの発表年に再度目を凝らせば、そこに独特の歩幅が認められて興味深い。【赤い陰画】1977年、【赤い眩暈】1980年、『GONIN2』が1996年であった。ボンと飛んで『ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う』が2010年、『フィギュアなあなた』が2013年だ。七十年代、八十年代、九十年代、そして二千年を跨いで羽音をばたばたと響かせている。頭上を横切る特異な影を誌面と銀幕に定着させている。

 独立した物語がほとんどで、実際、上の五篇は傍目には直結しては見えない。少なくとも一般的な目線では完全に個別の話であるのだが、石井の「鳥」をめぐる描写が背骨のように貫かれているのだし、徐々にそんな鳥の外観が変化していく様子が視止められる。三十年を越える長い期間、石井は黙々と模索しながらちょこちょこと描き足していたのだ。理解者は皆無に等しく、文化人はそこまで掘り下げた密度ある評論を展開せず、だからひたすら孤高を保ちながら、絵筆をカメラに替えてまでして実は「鳥」を描いている。

 己が描いた事象につき、これを終わったものと捨て置くことなく反芻し、表現を変えながら再度描いて納得するまで止めようとしない。これは体質的に「絵描き」のもので、流行を追うばかりの作り手とは趣きを異にしている。石井の美学と作家性がそれを強く促がすのだろう。その特質に気付いた読み手の思考の中では、縦断的、間欠的な作品解析が往々にして起こっていく。

 「鳥」が「何か」に変わり、「少女」へと移ろいながらも、まだそこに温かい血は通わない。人間ではないこと、をまだ放棄していない。ひんやりと冷たい手足の物体となって、静かに誰かを待ち続ける。這いずるようにして辿り来し者を見定め、その彷徨を遠目に見守っていく様子がいつまでも連なっていく。石井隆の内部に宿る哲学、揺るがないものを感じる。凝視める先の日常の諸相に対する、一種恐るべき冷酷さと諦観の重く横たわるのを私はついつい想ってしまう。

(*1):“森を歩くもの” https://grotta-birds.blogspot.com/2013/06/blog-post_23.html

2021年9月7日火曜日

“そのとき何を見るのか”  ~石井隆の鳥たち(5)~

  さまざまな体験を通じて人は成熟するけれど、間近で臨終を見るぐらい鮮烈で考えさせられる出来事は無いように思われる。どれだけスペクタキュラーな舞台や映画を見ても、胸に刺さる深度は敵わない。人によっては赤ん坊が誕生する景色こそ別格と捉えるかもしれないが、凡庸な私などはどちらかと言えば死に重たい衝撃を受けるし、ついつい色んな事を想像する。

 いずれ越境は避けがたい訳だが、その時、いったい何に出逢うのだろう。救世主や阿弥陀が突如来迎して、がしっと手首を握ってくれ、その先の時空へと導いてくれるだろうか。まさかまさか、こんな信心薄い奴の枕元に誰が舞い降りてくれるものか。不意に真っ暗になって一切見えなくなるか、それとも瞳孔がめらっと開いて、猛烈な光の進入に目が眩んでほとんど何も見えないか、そのどちらかで幕切れとなるように思える。激痛と不安、哀しみに塗れて逝くのだけは勘弁して欲しい。唐突な闇か、隙間なき圧倒的な光に包まれ、吃驚させられて思案する暇(いとま)なく、ひょいと軽妙に飛び越えたいと願う。

 世の中には死の瞬間に執着し、徹底的にこれを掘り下げる者がいて、石井隆はまさにそういったタイプの作家である。よく知られるように石井は幼少時分から気管支が弱く、呼吸困難と薬の作用で朦朧となる自身の意識につき、早い時期から客観視する時間を持った。生理機能がどんな仕組みで幻視を誘うものか、多様な怪異をありありと目撃しながら過ごしている。それらの不思議を勘違いだ、錯覚だ、と切り捨てず、人間はそういう“何か”を実際に見てしまうし、刹那それらは確かに現実空間に侵入して目前に在ったと捉える。

 そんな石井が己の作品で臨死を繰り返し再現し、記憶の錯綜ともろもろの怪異を盛り込んでいくのは至極自然な行為と思われる。映画『ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う』(2010)の終幕で魂の限界点を振り切った若いおんな、れん(佐藤寛子)が、天井方向に何物かの発する騒々しい音を感じ取って絶叫しているが、あれなどは石井の体質と直結した切実な場面であろう。傍らに立つ男女には一切感じ取れない何かが、ざわざわと群れを成して一個の魂に襲いかかっている。


112 樹海のドォオーモ

   コウモリなのか、何かがギャアギャアと鳴きながら飛んで行き、

   石切り場がざわめき始める。四階建てのビルほどの天井の高さから

   何かがれんとちひろと次郎の修羅場を見下ろしている。

れん「?」

   と、急に怯えた顔をして、洞窟の高い天井を見上げる。

れん「なんかいる! なんかいるう!」

   れんが絶叫して銃を持つ手を緩める。(*1)


 台本から書き写したものだが、石井の筆は「何かが」「なんか」の計三箇所に強調を表わす圏点(けんてん)を打っている。これは先に紹介した石井脚本の「独特の言い回し」のひとつである。コウモリではないと示したいのだし、「何か」が尋常ならざる存在であって、どうやら翼を持って「飛んで行く」のだと語っているのだが、もうお気付きの通りで、これは【赤い眩暈】(1980)と『GONIN2』(1996)に連結する「鳥」の顕現である。

 臨死の場面で出現する「鳥」が、まだ無傷に近しいおんなの五感を激しく責めているのは、おんなが狂い死にの瀬戸際に立ってしまったと石井は示したいからだ。狂死(きょうし)に追い詰められた人間の深淵なる苦悩を、冥境に飛翔する鳥らしきものの出現を通じて補強している。

 ここで我々が理解しなければならないのは、鳥が実像を失い、異形化している点だろう。「鳥がいる!鳥がいるう!」と叫んでも十分に悲しみが高波となって客席を濡らしたであろうに、石井は鳥の輪郭をあえて崩して見せる。石井の作歴を見て「同じものを描いている」と評する言葉が稀に発せられるが、それは正しくない。石井は読者や観客に知らせぬまま、見えない物を描いてみせる恐るべき作家であるけれど、『ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う』では馴染みのカードをそ知らぬ顔で別の絵柄のものと取り替え、さらりとテーブルに差し出して明後日の方角を見ているのだ。

 「鳩」ではない「何か」はおんなを導くでも慰めるでもなく、ただただ頭上から圧迫し、崖っぷちへと追い詰めていく。次の段階では仏教儀式にて行なわれる散華(さんげ)にも似た「雨なのか露なのかキラキラと水滴が舞い降りて」(*2)、おんなは一時的に正気を取り戻すけれど、「何か」が「水滴」に変現したとは思えない。仮に両者の根っこが同じであれば、「鳩」は「何か」となり、さらに「何か」が「水滴」へと移ろった事になり、責める者と救う者が瞬時に裏返ったことを同時に示すから、まったく目まぐるしく壮絶な事象である。

 元々石井の劇には二極化した単純な割当はなく、聖邪は入り乱れ、時に男女の役割も交替していくのだけれど、その混迷を実に象徴的に顕現してみせた瞬間であった。


(*1):『ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う』 準備稿 147-148頁

(*2):『ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う』 準備稿 150頁

2021年9月5日日曜日

“何処から来たのか、何時から居たのか”  ~石井隆の鳥たち(4)~


  映画『GONIN2』(1996)は複数の登場人物がぐねぐねと絡み合う構造で、「あらすじ」という題目で縮約するのは難しい。夜空を彩る花火が様ざまな元素から成り立っているのと似ている。リチウム、ナトリウム、カルシウム、銅、リンといった物質が盛んに燃えながら放射状に広がっていく様子を見て、私たちは一輪の花を連想するのであるが、内実はばらばらで、悲鳴を上げながら散り散りとなって燃え朽ちる物質の群れなす姿である。明滅する発光体には石井隆のドラマが繊細な面持ちで宿っていて、狂おしいそれぞれの胸中が切々と描かれている。

 ここではあえて物語の詳細には触れず、劇中に描かれた「鳩」だけを見ていこう。一組の夫婦が登場する。外山正道(緒形拳)とその妻陽子(多岐川裕美)は川に面した鉄工所を営んでいたが、経営的に行き詰ってしまい街の金融業に救いを求める。しかし、それは暴力組織の運営による悪辣なもので、瞬く間に借金は山と膨らんでしまう。あげく夜間に急襲されて、夫婦が飼っていた鳩が何羽か撃ち殺され、肉体的な暴行と酷い脅迫を受けた末に妻は自死を選んでしまうのだった。台本には見当たらないのだが、完成された物には死に臨んでおんなが檻の扉を開き、彼らを夜空へと解放する様子が挿入されている。

 伴侶の仇討ちに逸(はや)るというより、事態を上手く受け入れられずに半ば朦朧の呈となった男は、急造の日本刀もどきを持って街を彷徨う。先日ふたりして立ち寄った宝石店で妻が食い入るように眺めていた大振りの指輪をふと思い出し、これを探し求めるのだった。結果的に夫婦を追い詰め愚弄した組織組員を次々に惨殺することになり、最後にたどり着いた場処が閉鎖されて久しいディスコテークである。死闘で深傷を負ってしまった男は、紫煙と埃で煤けた壁に寄り掛かって息も絶え絶えとなる。

 一羽の鳩がぱたぱたと其処に舞い降り、旧知の間柄のように男に近づいてくる。人の気配のしないディスコテークの天井あたりに、いつしか野鳩が侵入して居着いたらしい。男はにんまりと笑顔を返し、どうにか立ち上がると銃火と硝煙の只中に飛び込んでいく。男のそんな最期を目撃して圧倒されたほかの主人公のおんなたち(余貴美子、喜多嶋舞、夏川結衣)は、それぞれ短銃を握り締め、眦(まなじり)を決して組員の群れに突撃し、死中に活を求めるのだった。無数の銃声に怯えたのか、それともおんなたちに共振したものか、鳩たちがばたばたと飛び交って闇を切り裂いていく。

 私たち観客は夫婦の飼い慣らしていた鳩が集団してディスコテークに引っ越して来たのだ、と、当然ながら考える。劇の冒頭で解放された者たちが飼い主を心配し、先回りしてその最後のあがきを見届ける、そんな場面と認識して憐憫の情がどっと湧き上がってくるのだった。ペットが人間以上の深い愛情を主人に抱き、その闘病や臨終に前後してぴたりと寄り添って離れなくなるという場面を私たちは過去幾度も物語空間に見い出し、また、スマート端末で記録された同様映像にもらい泣きしているから、ごくごく自然な反応として『GONIN2』にもそれが起きたのだと解釈する。

 だが、台本を読むとどうも事はそんな単純ではないようで、石井隆という作家の思考が盛られたこの劇は別の一面を抱えることが窺い知れるのである。夫婦の飼っていた鳩の小屋を組員が襲い、夫婦を絶望の淵に追い込む冒頭の場面は次のように説明されている。

7 同・裏

工場の裏は枯れ草が生える河の土手の裾になっていて、事務所の裏側に当たる処に外山夫婦が飼っている鳩小屋が造ってあり、20羽程の鳩が棲んでいる。その小屋の中に向って組員の小島が滅茶苦茶に拳銃を撃ち込んでいる。(*1)

 これに対し、最終局面で死んだ男と特攻をかけるおんなたちの周辺を飛び狂う鳩の群れを石井は次のように描写するのだった。

112 同・バーコーナー

天井に巣食っていた数百羽の鳩が一斉にバサバサバサと飛び立ち、正道、そして蘭、早紀、ちひろの回りを激しく飛び交う。飛び交う鳩の群れ。それを縫って、蘭、早紀、ちひろが、銃を撃ちながら一歩もひるまず進む。(*2)

 石井の台本を幾篇か読み込んでいくと独特の言い回しが随所に見つかり、それは何種類かに分類されるのだが、その中のひとつに“不自然”で念入りなト書きがある。これはその一環である。20羽程と数百羽の段差はどうだろう。石井はこの数字の大差を示すことで、鳩小屋に飼われていた者たちとディスコテークに出現した者たちが明らかに「違う」と告げている訳である。

 そのようにして見れば、息も絶え絶えとなっている男は床をよちよちと近寄ってくる一羽に対して無言で微笑むだけで、ああ、自分たちの飼っていたチーコじゃないか、おまえは俺のことを天井から見守ってくれていたのか、どうもありがとうな、といった、ありがちな目線の交換や温い言葉を投げてはいない。現実世界での個体識別というしがらみが溶け落ちている点をそれとなく示しながら、石井は「別のこと」を物語ろうとしている。

 すなわち、劇画【赤い眩暈】(1980)の「鳥」と同じ性質のものが彼ら劇中人物の瞳にまざまざと映ってしまっている事を伝えたいのである。鳩小屋の扉を開放するという描写をいわば隠れ蓑にして、生と死の境界にて道案内をする存在を実際はあからさまに描いていて、つまりは、人間たちが揃って発狂の域、臨死の荒野に踏み入ったことを知らせたがっているのだ。娯楽映画の様相を維持しながら、その実、凄絶で無情な精神崩壊の顛末を裏打ちしている。

(*1):『GONIN2』台本(決定稿) 7-8頁 ちなみに準備稿での鳩の数は「十数羽」

(*2):『GONIN2』台本(決定稿) 139頁 ちなみに準備稿での鳩の数は「何百羽」