2012年8月6日月曜日

“石井隆の青”



 真綿のごとき熱風にくるまれて座っていると素肌と大気の境がぼんやりとなって、己を見失いかねない危うさである。外を行き交う鳥たち、虫たちも心なしか憔悴して見える。つがいで訪れていた鳩も今は一羽きりでいて、疲れた風情でベランダの柵を行き来する。いつもは一尺足らずしか伸びぬ雑草が群れなし腰高にまで育って、亡霊のようにたたずむ。なかなかの手ごわい夏になっている。

 何を書こうとしたのだったか。そうだ、石井隆の光や色、特に“青色”について少し触れてみたかった。炎熱の砂漠で水をもとめるように、あの青い光がひどく恋しい。

 解像度と明度を増した最近の日本映画は高熱にうなされるように赤だの緑だの、その他雑多な色ガラスを照明に咬ませたり、おどろおどろした壁紙に人物を抱かせてみたりして、さながら色彩の絨毯爆撃となっている。ひとの半身に鬱勃(うつぼつ)として煮え狂う妄執や劣情、残懐(ざんかい)なりをどぎつい配色で代弁し得ると考える作り手は多いのだが、年齢を経て感度が鈍ったせいなのか、そんなにぎにぎしい演出をどうも受け付けなくなってから久しい。戸惑いばかりが先に立って、そのうち役者の出演料や広告費、版権といった些事ばかりがもやもやと気になっていき、やがて座席の硬さに閉口するのが最近の流れである。

 一方、石井の劇といえば、これにしたって日常の安息を題材としない破壊と再生をともなう徹底した情念の物語であって、昨今の作品よりも遥かに執拗なるまなざしと熱帯びる吐息に充ち充ちた世界である訳なのに、その描写には以前からひどく抑制されたものがあるように思う。あれだけ過剰で突出した映像を脳裡に叩き込む石井作品であるのに、構成する色数は驚くほど限られている。むしろモノトーンの慎ましさすら視止められるのだが、これってよくよく振り返れば不思議な話ではなかろうか。

 天井より放たれる青白き光芒や青色の小道具、たとえばビニール傘などが時折り登場しては目を引くけれど、そこに際立った気負いは読み取れない。登場人物の想いをこっそりと孕(はら)ませてみたり、また、怨憎の念がまぎれて息とめ、出番をうかがいながら舌なめずりするような短調さ、押し出し(*1)は見られない。

 日常ではなかなか御目に掛からぬ光彩であって、これは舞台上にてピアニストを照らし出すライト、もしくはアトリエに置かれてモデルを染めていく灯りに余程近しいように思う。観客の視線は背後にぶれることがなく、だからおんなたち、男たちから興味が乖離しないのだ。匂い立つ官能や哀愁、痛みともなう諦観や滅私にもろとも圧倒され、心はいよいよ漂着して取り込まれていく。

 この“石井の青”が放つ凄味を実感するのは連続体(映画)の上ではなく、だから録り抜いた静止画とあらためて対峙した時である。ここも実に面白いところと思う。ぱらぱらと連なっては新たなコマに座を譲るしかないフィルムの特性ゆえ、劇場なりモニターを面前とした私たちは何が起っているのか思案するゆとりを与えられないでいるが、動きを休めた一コマをぽつんと置かれた時、そこでようやく絵画然とした息吹に触れ、思わず声失い、長々と見惚れるということが常となる。『花と蛇2 パリ/静子』(2005)、『人が人を愛することのどうしようもなさ』(2007)、そして『ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う』(2010)の近作三篇の公開に合わせ試みられている“写真集(という名目の画集)”に如実に現われているし、此処で紹介させてもらっているキャプチャでも一端はうかがえよう。

 映画としてあるときは役者を立て、物語を際立たせる。静止画としてあるときは一幅の絵画となって心を射抜く。挿絵家、劇画家を経て映画の道に入った石井ならではの、卓抜した構図と色彩に目がくらむ。私たちは一体全体何を目撃しているのだろう、映画なのか、絵画なのか、とんでもない物を見せられている気持ちになって来る。前面に置かれた人物が“青の力”を借りて強烈に放ち始める“神話性”についても、もっともっと盛んに語られ研究されて良いと思う───


 わたしの住まう町は列島を俯瞰して塗り絵様に色分けするいわゆる“汚染地図”によれば、無色透明ではなく薄っすらと色づけされた区域に取り込まれている。塗られたあの色は当然実感されない。今は夏の白い光に照らされるばかりだ。灼灼(しゃくしゃく)として変わらぬ景色を見渡せば、私たちの喉元や心筋を狙う凶悪な粒子が一体全体どこに潜むものか想像力がまるで働かない。健康やいのちに関わる話と重々知っているけれど、人間とはあくまで五感にしたがうものであって、予兆やざわめきといった第六感や知識だけでは軸足を移す訳にはなかなかいかないようだ。実際に可視できない“色”を相手に闘いを挑むことはどうしたって難しく出来ている。

 人間の知覚ほどあやふやなものはない。世界は見えるもの、匂うものが全てではなく、見えぬ色、香らぬ塵(ちり)に満ち満ちているのだ、懸命にそれと向き合っていかねばならぬのだ、と最近つくづく考えさせられている訳なのだが、そんな得体の知れぬカタカナのものでなく、どうせなら“石井隆の青”のような人間のこころや存在を引き立たせるものに埋もれたかったものだ、と、網戸越しに白昼夢のような緑の庭木を眺めながら、今更考えてもすっかり手遅れのことを汗みずくで反芻している。

(*1):インタビュウなど読むと、石井は色に託された寓意や狙いを多く語らない。設計家やエンジニアではなく、どこまでも画家の趣きがある。