2013年11月29日金曜日

“壁にうごめくもの”~『甘い鞭』の背景(1)~



 人物の台詞なり姿態だけでなく、同等の存在感を示して“背景”が語りかけて来る。石井隆の創作劇を貫くその特徴は、当然ながら最新作である『甘い鞭』(2013)にも視とめることが出来る。大石圭(おおいしけい)の同名原作を読むとその事がよく解かるから、映画を見て興味を覚えた人は是が非でも単行本を入手してもらい、風呂にでも浸かりながらひとり耽読するのが良いように思われる。

 思われるのだけれど、皆の読了するのをのんびりと待ち構えるゆとりが今の私には全然なくって、原作者には大変申し訳ないのだが、このまま勢いを弛めずに筆を走らせようと思う。ざわつく胸を一刻も早く落ち着かせたい、正直言えばそんなところがある。

 (注意/物語の結末に触れています。)これから具体的に引用していくが、原拠は平成25年10月15日発行の15版である。(*1) 改めて購入し直したものだ。以前買ったものは蔵書の奥に埋もれてしまい、どこに行ったか皆目分からない。括弧[  ]内の数字は頁数を表わしている。

 映画は現在と十五年前の記憶がカットバックする構成をとっており、それは大石の原作もほぼ同様である。少女が男に誘拐され、一ヶ月に渡って監禁される。性行為を強要され続けた末に犯人を殺害して脱出するが、出迎えた家族の反応には硬く冷えたものがあり、それがしこりとなって少女の心を侵し、長じて医師となったおんなの人生に妖しい影を落としていく、という内容だった。

 少女が閉じ込められた場処は「かつては男の父親だった勤務医がクラシック音楽を聴くために造らせた、防音整備の行き置いたものだった。だが、少女が連れ込まれた時には、窓のないその部屋は音楽室ではなく、座敷牢(ろう)のようになっていた」[23]のであるが、この部屋の色調が大石の原作と石井の映画ではひどく段差のあることを、私たちはまず何よりも強く意識せねばなるまい。原作者はこの部屋を“白い部屋”として設定し、その色をくどいほど強調していたのだった。

 「真っ白な天井と真っ白な壁と真っ白な床に囲まれたその部屋は、和室に換算すれば10畳か、12畳ほどの広さなのだろう。それほど高くない天井に埋め込まれたいくつかの照明灯が、部屋全体をまんべんなく、柔らかく照らしている」[68]のだったし、「真っ白な天井と真っ白な壁と真っ白な床とに囲まれたその部屋には、窓がひとつもない」[69]のだった。少女が「あの真っ白な地下室に閉じ込められていたのは約1ヶ月」[170]で、十五年後の現在から振り返るおんなが「自慰の時に思い浮かべるのは、いつもあの真っ白な地下室であの男に犯されている自分の姿」[185]なのであった。「あの日、あの真っ白な地下室で、あの男はわたしの体に、いったい何度、あの皮製のベルトを振り下ろしただろう?」[400]と自問する日々がうねうねと続いていく。

 「腹部にナイフを突き立てられた男は、両手でわたしの体を抱き締めるようにして何歩かふらふらと後ずさった。そして、背後にあった真っ白な壁に、背中を擦(こす)りつけるような姿勢で寄りかかった」[428]のだった。「床に崩れ落ちた男は、真っ白な壁に寄りかかるようにしたわたしを見上げていた。」[435]「そして……死んだ男を真っ白な地下室に残し、1ヶ月ぶりに自宅に戻るために、ゆっくりと」[440]立ち上がって少女は地上へ戻っていく。

 このように少女と男の、二人だけの地下室というのは全体がぼうっと発光したようであり、床から壁、そして壁から天井と瞳を転じていくと各々の境が曖昧となって分からないようなまばゆい空間なのであった。70年代に作られたSF映画(*2)のなかに、真っ白で虚無的な無限空間の牢獄が描かれていた事を思い出したりするけれど、あそこまで人工的で荒唐無稽ではないにしても、小説「甘い鞭」の地下室というのは徹底して白く輝いた場処だった。

 石井は映画『甘い鞭』において、この部屋の照明器具の数を極力減らしてしまい、終始暗く沈んだ調子で描いていくのであるが、それだけでは全然足らないと思ったものか、もやもやとした汚れでもって景色をさらにくすませている。ナレーションのおんなの声によれば、それは繁殖しまくりコロニーを次々に生み落とし、隙間無くひしめくに至った“黒かび”の群れなのであって、ベッドや簡易トイレ、オーディオセットなんかを起点として四方に放たれ、煮こごり状となって壁際に貼りついていく汚らしい影に加勢して、天井から床まで、どこも彼処(かしこ)も覆い尽くしているのだった。

 工法に何か問題が潜んでいたものか、コンクリート打ちっぱなしの壁には稲妻のような亀裂が何本も走っている。その中のひとつはナイフによる裂傷にも似た巨大な縦の割れ目となって、私たちの目を否応なく射抜いてしまうのだったが、原作の地下室はどうであったかといえば、先の引用にあるような描写ばかりであって、欠陥住宅じみた壁のひびなど何処にも見当たらないのだった。防音を兼ねた断熱素材で覆われ、その上には染みひとつない上張りが為されて品良く温かく仕上げられている。そんなイメージをほとんどの読者が受け止めたはずである。

 舞台で演じられる古典歌劇の大胆さ、奇抜さにも似て、“原作を持つ映画”を作ること、そして、観ることの醍醐味のひとつは意表を突く脚色や美術であろうから、地下室の明暗に関わるこの変調を悪戯にあげつらう行為は愚かしく目に映るかもしれない。何を言ってるのよ、原作は“ホラー文庫”の一冊じゃない、お化け屋敷の要領でしょ、観客をきゃーきゃー叫ばせたいだけよ。そう捉えるのが自然と感じる人が大半だろうが、石井隆という作家は“背景”と“前景”、ふたつ共に同等に重んじる画家である以上、事はそう単純ではないように思う。

 結果的に犯罪映画にままある、つまり、拉致と監禁、隷属と暴行、終には殺戮の闘技場へと発展していく物語の舞台に似つかわしい“もの怖ろしい様相の部屋”に、『甘い鞭』の地下空間は準じていき、その事実に確かに変りはないのだが、それはステレオタイプの安易な妥協点に担当美術がすり寄った訳では決してないのだし、与えられた原作を石井がおどろおどろしい紙芝居にしてみせた訳でもない。石井はあの手この手を使い、原作を彩る“白さ”を拒絶する事に尽力している。それは何故なのか、単なる好みなのか、それとも、何かをそっと囁いているのか。

 背景を丹念に凝視(みつ)めることが、石井の劇の深度と気圧を格段に増していく。それが結果的に、私たち観客のこころをより一層豊かなものにすると私は信じる。せわしい時間を縫いながら、粘り強く『甘い鞭』を考えてみたいと思う。


(*1):「甘い鞭」 大石圭 角川ホラー文庫 2009 平成25年10月15日 15版
(*2): THX 1138 監督・脚本 ジョージ・ルーカス 1971

2013年11月20日水曜日

“深淵を覗く者”


 
 遅い時間に夕食をしながら、録画しておいたテレビ番組を眺めた。幼少時に親しんだ犯罪ドラマのリメイクで、懐かしさと好奇心が背中を押したのだった。けれど、これが予想以上に生々しい殺人描写の連続であり、陰惨な感じの筋運びと画面づくりにほとほと閉口した。閉口しながらも茶碗を置いて、しばし見惚れてしまった。
 
 『深淵を覗く者』(*1)という題名であったのだが、登場する捜査員たちは死者の大量生産に嫌気が差しているのだったし、中のひとりは己の病的な探究心を持て余し、仕事も身体も何もかもを放擲(ほうてき)する寸前に追い込まれる。ぎりぎりで踏みとどまって生還を果たすものの、最後まで酷い“ぶれ”は続いていく。人の内奥で繰り返される異常な加圧と減圧が描かれていて、どこか石井隆の劇と通じる気配があった。

 大団円の場に選ばれたのが、石井の『ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う』(2010)で重要な役割を担う代行屋(竹中直人)の、住居兼仕事場とそっくりであるのも面白かった。今は使われておらない人気(ひとけ)のない工場であり、壁にはくたびれた外階段が蔦(つた)の張り付くようにして伸びている。その先の最上階は、かつては代行屋の仮寓(かぐう)だった訳なのだが、今度は犯人の隠棲する危険な巣穴と設定されていた。思わず食事をやめて見入った理由としては、実際のところ、こちらの方が大きい。

 そうして気付くのは、見捨てられて埃だらけの殺風景な部屋に、一方は無表情の犯罪者が居つき、夜な夜なおんなたちの殺害方法を試行錯誤するのに対し、石井の創った場処では寄る辺ない魂ふたつが出逢い、声を交わしてお互いを励ましていくのだったし、ついには身体を重ねる奇蹟さえ起きてしまう、その“柔和(やさし)さ”なのだった。

 殺人鬼の部屋には、華やかな舞台から引きずり降ろされ、今は実験台となって日々焼かれ、切り刻まれていくマネキン人形が何体も淋しげに置かれてあったのに対し、石井の最近作『フィギュアなあなた』(2013)ではそんな用済みのマネキン人形を慈しみ、守ろう、救おうと奮闘する男が描かれていた、その事の“寂しさ、切なさ”なのであった。

 逃げ場を失った犯人が怪光線を自らに向けて照射し、紅蓮の炎につつまれ死んでいったのに対し、石井の描く村木哲郎という、これもまた孤独な身の上の男は、寒々しい空間に置かれたテーブルにぽつねんと座り、涙ぐみながらも懸命に箸をあやつり、めしを口に運んでいった、その事の“強さと哀しさ”であった。

 廃墟となったビルや工場をロケーション先に選んだ場合、大概の創り手は悪鬼なり外道が跳梁跋扈する伏魔殿に変えてしまうものだが、石井隆という男はその逆に、いや、そのような“背景”にこそ、邂逅と恋情、救済と復活といった明明(あかあか)とした生命の焔を持ち込もうする。“地際(じぎわ)に近接した目線”が、堕ちた人間をおだやかに見守っていて、本当に特別と思う。

 冷えてしまった味噌汁の椀を唇に寄せ、のど奥に流し込みながら、石井の劇のこの世に存在することはつくづく有り難く、救われるような気がするのだった。


(*1):「怪奇大作戦 ミステリー・ファイル 第4話 深淵を覗く者」 脚本 小林弘利 演出 鶴田法男 美術 池谷仙克 2013





2013年11月14日木曜日

“森に溶ける”



  
  当時連載ものを託された雑誌の、その編集部による膳立てなのだろう、被虐性愛に主題をすえた専門書籍でつとに知られた写真家杉浦則夫(すぎうらのりお)の作品集(*1)に、石井隆は一枚の絵と短文とを寄せていた。

 面白いのは杉浦の特性を称(たた)えるために別の写真家を引き合いに出している点であり、それも一見場違いと思える相手を大胆に挿し挟むのだった。「けもの道 Animal Paths」(*2)という本を上梓したばかりの宮崎学(みやざきがく)がそれであった。少女やおんなを被写体に選んでぎりぎりの至近距離から凝視(みつ)め続ける杉浦の、体臭なり吐息が紙面から放散されるかのような本の末尾に、「けものみち」と題したもの(*3)をひょいと対置してみせる。石井という作家は、やはり目の付けどころが違うのだった。

  読んでみると回りまわって書いた当人、石井自身の嗜好なり体質を露わにする箇所が認められ、実はこの事こそが特筆に価する点である。「山道に赤外線感知装置付きのカメラを設置して、深夜人知れず行き来するけものたち演技なしの道行きを、ストロボで写し止めた写真集である」のだが、「偶然が生んだ快感に似た何か」に包まれた本なのだと熱く語っていた。林道からそれて草むらに分け入り、「道行きの素顔」を見たいばかりに森のかなたへゆっくりと溶暗していく写真家の孤高、そして、彼が切り取ってみせた数々の景色に対して明らかに石井は共振して見える。

 いや、単なる親近感を越えて、両者は表現者として歩み寄るように思う。 もちろん、宮崎のそれにはヒメネズミ、ニホンカモシカ、ノウサギ、テンといった動物ばかりが写されているのであって、人間はほとんど姿を見せない。気付かずにセンサー横切ったのだろう、登山靴のいかつい足元だけが二葉ほど息抜き程度に紛れ込んでいるだけであるから、石井が追い求めてきたおんなのおの字も見当たらない訳なのだが、漂う気配は石井の劇画をどこか連想させるのだった。「ストロボで停止された雨の線が暗闇をバックに写ってい」たりして、端的にはその辺りが強く印象を刻みはするのだけれど、決してそればかりではない。

  石井の撮った写真、たとえば「けもの道」と同時期に出された「石井隆写真集/ダークフィルム 名美を探して」(*4)の中から森や林を舞台にした画像を抜き取って両者を並べてみると、いよいよその感は強まっていくのだった。

  「ダークフィルム」の末尾を飾る座談会で、同席した編集者が極めて重要な発言をしている。「石井さんは、場所設定の注文ばかりで、モデルをあの女がいいとか、名美に似てる女を、とか注文よこした事はなかったですね。湖のある山奥とか、廃屋とか、屋上とか……それも夜で、雨が降ってなければダメとか」(*5) ──これに対して石井は、「ヌードを撮りたかったわけじゃない。」「ポツンと放置されているイメージを、この世の果てといったイメージを撮りたかった」(*6)と返していた。

  この会話ひとつからも石井隆の目指すもの、示されるものが“背景込み”であることが読み解けよう。宮崎の「けもの道」とも通底する点であるのだが、風景のパーツそれぞれが、同等に世界を支えていくのである。雨や土、草や枯葉といった“背景”と偶然そこにさ迷い入ったかと想像される“被写体”とが、同じ密度なり存在感をもって目前に迫る。互いに反撥したり拒絶することなく、より合わされて一体化していくのだったし、それら全体が私たちの内面をずぶずぶと侵していき、どうにも振り払い難い“ざわめき”を産み残していく。

 作品が醸(かも)し出す凄み、緊張、その逆の安堵、法悦といったものが人物の面差しなり台詞のみで表現されるのではなくって、背後から、地べたから、変幻する天空から、陽射しから、視界の一部を遮る草からさえも穏やかに示されていく。

 そういう独特の親密さ、もしくは騒々しさが石井世界には宿るように思う。


(*1):「早春譜 ヘイ!バディ12月号増刊 杉浦則夫写真集」 白夜書房 1980
(*2):「けもの道 Animal Paths」 宮崎学 共立出版 1979   
(*3):“女のけものみち” 絵と文 石井隆
(*4):「石井隆写真集/ダークフィルム 名美を探して」 白夜書房 1980
(*5): 同「あとがきにかえて スタッフ一同お疲れサマ座談会」157─158頁
(*6): 同 158頁