2017年2月27日月曜日

“陰翳を生ぜしめて、美を創造する”


 実相寺昭雄(じっそうじあきお)の追悼番組が収録され、NHKのBSチャンネルで放映されたのは2007年のことだ。(*1) ゆかりの俳優とスタッフ美術の池谷仙克(いけやのりよし)や撮影の中堀正夫、作曲家の冬木透らと今野勉と飯島敏広といった同時代の演出家が顔を揃え、選りすぐりの逸話を披露していく。心根とふかく結ばれた声々が贈られ、適度な湿り具合のまなざしがモニター画面を満たした。それを受けてスタジオのコメンテーターが纏める二段構えの構成だった。

 道筋は大きく三章に分けられ、それぞれが「視覚野ノ間」、「海馬ノ間」、「視床下部ノ間」と題されていた。独特のアングルや演出術が華々しく披露され、次は生い立ちと記憶への拘泥に触れる。最後に作品の端々に漏出しつづけた官能と音楽への傾倒について、解読が試みられた。ひとりの作家を前後左右から順繰りに眺めることで、隙間なく魅力を語っていこうという企みだったが、やや単調で性急な造りに陥ったのが正直言えば惜しかった。創作行為の深淵にまで潜航するには至らず、淡白な印象に終わっている

 さて、実はその際に石井隆も取材を受けており、追慕の言葉が茶の間に流れた。その登場を予想できた者はほんの僅かだったはずで、私もずいぶんと驚いた。後段の「視床下部ノ間」の冒頭だった。ときに凄寥な面差しをそなえた実相寺エロスに対する、いわば総括の役目を担わされた節がある。ATGの作品や『悪徳の栄え』(1988)、『アリエッタ』(1989)といった性愛を主題とする作品群にいよいよ言及さざるを得なくなり、そこで石井が招ばれた訳だ。自著の挿画を頼むほど石井の劇画に耽溺していた実相寺だったのだし、石井の初期の監督作品『月下の蘭』(1991)に題字も寄せているから、よくよく考慮した上の白羽の矢なのだった。

 今ではウェブでの視聴制限は皆無にひとしく、また撮影機材の格段の向上もあって克明な性描写がいくらでも散見できる。それと比べれば実相寺が掘り進めた性愛のディテールは穏やかで塑像めいた面影ですらあるのだけれど、かれこれ十年前の公共放送という舞台において実相寺作品の色香の本幹を探ろうとする行為は、猫の首に鈴を付けるかのごとき意味深な役回りだった。石井は知ってか知らずか、ころころと鳴る鈴をその手に託され、暗い夜道へと追いやられたのではなかったか。

 石井はインタビュアーに向けて穏やかに語るのだったが、ぼそぼそ喋るその声に耳を澄して発言内容を書き留めてみればおおよそ次の通りである。

「女性のヌードが寝ていたとしますよね。描(か)こうとした時にフラットに光が当たっている身体を見ても美しいと思わない。それで少しずつ、例えばライティングをいじったとして、手前にあったライトを向うへ向うへ、向うへ向うへと持っていって、少しずつ影が見えて来たときに少しずつ胸騒ぎがし始めてきて、もっともっと向こうに行って女性の身体の向こうに入った瞬間とかっていうのは、全く真っ暗の闇で隠れちゃっていて、それで輪郭だけがあって、それがかろうじて女性のヌードだって分かる。服を着ていても良いのですけども、その時の暗闇で、あ、うつくしい、と思うところで光をやめるというのですか、停める。そういうのが実相寺さんの映像だったのかな。」

 画面で流れたのはたったこれだけ。石井が他のどんな点に言及してどんな表現をしていたか、録画された全容は分からない。どれだけテープを回しても採用なる時間は削られるのが映像媒体の鉄則だろうから仕方ないにしても、え、それでお終いなの、と狐につままれた気分でモニターを眺めた。

 仮にあなたが実相寺作品に精通しており、性交場面やおんなの裸を映した部分を通じて彼の独自性を二言三言で表現してもらえないかと振られたとして、はたしてどんな風に答えるものだろう。もうちょっと野放図に喋り散らしはしないだろうか。

 樋口尚文(ひぐちなおふみ)の近著から再度引けば、実相寺の描くおんなは「痩せぎすで薄幸そうで、しかも低温の美しさがある」(*2)のだが、虚弱な観客目線から銀幕を見上げれば、その性交描写には過剰な生理的粘度と執拗さが感じられる瞬間があった。これでもかこれでもかとひたすら弄(なぶ)って、凍った吐息とガラスの悲鳴を上げさせる刹那にこそエロスの後光が燦然と瞬く、そのように信じている素振りがあり、とめどなく前戯を連ねるサディスティックな奉仕者、観察者の舌づかいが垣間見れた。

 総じて胸は薄いし、母性はあまり感じ取れない。身体をそらせばあばら骨が出っ張る。性感帯が未開拓で終始戸惑っているような、それとも冷感症であるのか、もしくは神々と交配するときだけ恍惚に至る巫女の領域に達したものか。表情が乏しくって頬骨あたりに硬さが宿っている。市井の男のおどおどした指先ではチューニングしにくい風情で、要するに手に余るおんなが多かった。

 映像の編まれ方も一極集中とはいかず、足元から唇、寝具から部屋の装飾へ、ゆらめく影とおんなの明るい肌の間をはげしく往還して、視線はひどく飛び回ってせわしい。精の漏れ落ちるのをどうにかして防ごうとする男の体質の反映なのか、それとも、肉ではなく日常から乖離した閨房にこそ烈しく扇情されるひとだったのか。いずれにしても性的空間に関してとことん演出を施すところがあった。

 普通は微に入り細にわたってフィルムやビデオテープ中のおんなの柔肌を懐旧し、物語の必然と演出家の嗜好を勝手な妄想でない混ぜにした、たとえば上のような滅茶苦茶なコメントをするものじゃなかろうか。そして、あの半熟たまごみたいな番組が求めていたのは、そういう卑俗な放言だったのじゃないか。けたけた笑って相槌を打ち、性の求道者として実相寺を祭り上げれば番組は大いに盛り上がる。

 しかし石井は「服を着ていても良いのですけども、その時の暗闇で、あ、うつくしい、と思うところで光を停める」という摩訶不思議な解析をしてみせたのだった。案の定、この発言に対しコメンテーターは話を継ぐことが出来ない。上手い合いの手をひり出せず、実相寺のエロスはようするに普通じゃないのだ、と何だかひどく曖昧な逃げ方をしていた。

 ならばこの発言は的外れ、空振りの指摘であったものか。ひさしぶりに番組の録画を見返して思うのは、これはひとりの映画監督が口にした職業人としての素の言葉であって、実はかなり本気度の高いものだった気がするのだし、同時に石井隆という作家に宿り続ける画家の本質と視点が読み取れるように思う。

 石井の求める女性美とは、おんなという存在を描くという事は、肉質の檻に囚われるのではなく、背景や周辺空間、そこにゆらめく光陰ふくめてのいわば“世界”そのものを創造する行為だ「陰翳礼讃」での谷崎の弁、「美は物体にあるのではなく、物体と物体との作り出す陰翳のあや、明暗にある」、「陰翳を生ぜしめて、美を創造する」、その果てにこそおんなの「幽鬼じみた美しさ」がむらむらと立ち昇るという考えとも重なる。

 演出の現場において徹底して照明にこだわり、その度にスタッフが呻吟を重ねる様子を私たちは映画雑誌のリポート記事で目にするのだが、実相寺の美学に言及した石井が何よりそのライティングに触れた事実はきわめて興味深く、おろそかに出来ない照り返しがある。

(*1):『肉眼夢記 ~実相寺昭雄・異界への招待』 NHK=コダイ2007
(*2):「実相寺昭雄 才気の伽藍 鬼才映画監督の生涯と作品」樋口尚文 アルファベータブックス 2016  209頁



2017年2月1日水曜日

「実相寺昭雄 才気の伽藍 鬼才映画監督の生涯と作品」 樋口尚文



 映像作家の実相寺昭雄(じっそうじあきお)が鬼籍に入って、はや十年が経過した。関連書籍が出されたり特集上映が行われたり、このところ一条のスポットライトに銀砂(ぎんしゃ)をまいたようなまばゆさがある。昨年末に上梓された「才気の伽藍 鬼才映画監督の生涯と作品」(*1)もそのひとつだけれど、頁を繰りながらあれこれの想いが湧いて出た

 もっともこれから綴る読後感は、石井隆とはまったく関係がない。仮にも“試論”と銘打った場処である訳だから節操がないし無礼とも思う。単行本「闇への憧れ」(*2)の著者と挿画提供者としてふたりは結び付くし、その本が石井世界という湿原へとわたしを手招きし、官能と暴力、男女間の拮抗や諦観いう暗い土手にむんずと押し倒して終生忘れぬ相手になっちゃった辺りは以前書いた通りなのだが(*3)、そんな事は極私的でとろけた感傷に過ぎないのだし、彼を敬愛する誰かがどこかの花花しい紙面で書評など綴れば十分という気がする。寄り道の許しを請い、頭を低くして進もう

 実相寺のドラマは日常の皮相をメスで裂いて白日に晒すような硬いアングルと、台詞の隙間に込められた死生観が強烈だった。『京都買います』(1968)を撮った実相寺はわずか三十歳ぐらいであったのだけど、あの頃からひどく抹香臭い作風があったから、なんだか歳月を越えた幽玄の存在と解釈され芸術家というより宗教家として自分のなかで血肉化されていった。

 なにより苗字が変わっていたし、外貌もどこか坊主めいていた。雑誌か何かで最初に見た実相寺の写真、円谷プロダクションで頭角を現わした若い時分のその姿からして妙に痩せこけていて、足はあんなに長くないようだったがジャコメッティの彫刻に似ていた。余計な脂肪の付いていない絞りに絞った体躯と顔立ちで、ガンジス川の修行僧みたいだった。

 だから亡くなったと報じられても生き仏がいよいよ大往生を遂げたような感覚があって、淋しくはあったけれど衝撃はなかった。静かに新聞記事を切り抜き、「闇への憧れ」にそっと挟んだ。振り返れば享年六十九歳というから、実際は随分と若かったのに

 どうしてそんな風にはるか年長と思い込んでいたのだろう。それは演出家として彼ほど執拗に人生に喰い込んできた者がいないからだ。子供向けの映像を提供し、それを観て育った為でもなかろうが斜め目線でへそ曲がりの学生となった時期、今度は倉本聡と武満徹を脇侍(きょうじ)にしてスペシャルドラマを立ち上げてみせた。神出鬼没とまでは思わなかったが、振幅がやたら大きい作り手と感じた。その癖に筆のタッチが均一で作家性はどこまでも色濃かった。

 やがて暗い目つきの工員となり、のたうち狂う鬱屈を一人前に持て余す頃には、ビデオ作品ながら成人映画専門館でその新作が唐突に上映されたりするのだった。休日の危険な真空を埋めてくれると共に、身もふたも無い物語展開で性欲の焔を吹き消した。家庭での居場所を奪われて薄茶色の郷愁に襲われる時期になると、真夜中の居間にひとり逃げ込んで録画しておいた怪獣ものを退嬰的に眺めるようになったのだけど、いつの間にか古巣に戻った実相寺から単発ながらも摩訶不思議な掌品が贈られてきた。メジャーなのかマイナーなのか、職人なのか芸術家なのか、こっちの視線が追いつけなかった。

 合間には池袋でATG作品オールナイト上映にも足を運んだし、コマーシャルで新進の女性タレントの唇にねっとりと紅を差し、羨望と怨嗟の交じる思いに苛まれて散散な正月もあった。『帝都物語』(1988)や『星の伝説』(1990)、『悪徳の栄え』(1988)はどこで観たのだったか、記憶はいずれも虚ろながら、手探れば肉感的な弾力をそなえて返ってくるものがある。存外、同じようなまなざしを実相寺に向ける同世代の人は多いのではないか。

 つまりは同時代的な存在だった。彼の後半生と私たちの前半生は重なってしまう。洟たれ小僧の前で炸裂したテレビジョンの閃光のなかに、青年時に立ち寄った銀幕のほこり臭い面(おもて)に、そして家庭人の前におぼろに灯る受像機に、実相寺はふらりと立ち現われては紫煙のようにその都度揺らめいた。石井隆が逢魔が時に現れる優しい顔した家庭教師だとすれば、実相寺はいつ校舎を訪れても気配が感じ取れる、はたまた進学した先になぜか転任されてくる年齢不詳の美術教師だった。

 「才気の伽藍」の著者である樋口尚文(ひぐちなおふみ)も妖しい匂いが薫る人だけれど、後付けを見れば同世代なのだと知れ、そう分かってみれば読中読後に盛んに頷くところが有ったのも自然なことと思われた。樋口の驚きや溜め息はわたし自身の驚きと溜め息を代弁してくれており、ほとんど乖離するところはなかった。こういう歳月を内在させて、しっくり腹におさまる実相寺関連本は初めてではなかろうか。

 作品に憑かれたようになり、やがて気持ちを侵されていく愛好者は数多いのだけど、その魅力が何たるかを実際に言葉にして綴ることは思いのほか難しい。樋口はこれに挑んで最後まで投げ出さず、見事な額装を仕上げている。単なる資料本ではなく、また、やけに筆圧の高い追悼文でもなく、長年に渡るひとりの観客の内なる感懐を肌の温かみと弾性のそなわった皮膚感覚で表し、最後の頁まで焦らず編んでみせる。表現に奥行きがある。少し抜き出すとこんな具合だ。括弧内は記載頁を表わす。

実相寺の美学は、つくづくそういう光と電気、聖と俗といったものの「あわい」「租界」「中陰」といった地帯を好み、そこに棲んでいたかったのだろう(24) その作り手の位置をとりわけユニークにしているのは、映画とテレビの技術のアマルガムであるテレビ映画独特の手法を一貫して作家性としたことだ(99) 

実相寺の技術的漂泊は、滅びし旧き世界のオーラをいかに新鋭の電子技術のなかに降臨させられるかという「霊気と電子」の主題への傾倒が炙り出されてくる(132) 

高踏的にして確信犯的な「官能と美の殉教者」そのものであったに違いない。しかしその実相寺ごのみの世界は高踏的であれど権威的ではない(159) おおかたの実相寺作品を観る愉しみといえば、ふやけた共感や感動を許してくれない「異物」感との出会いにこそあるのではないか(162) 

 樋口が内部で結晶化させた流麗にして緻密なこれら装飾文の数々は、評論家ならではの長年の蓄積と鍛錬が産み出したものであり、私たち庶民は到底紡げない玄人の手わざなのだけれど、誰もがなかなか口にし得ないでいた実相寺作品のなぞめいた魅惑に対する私的な解答となっていて、感心することしきりだった。「いかに強烈な情交の場面であろうとも低温で鋭角的な技法づくしの実相寺調に乱れはないので、驚くべきほどに扇情的な印象は濾過されている(152)」「実相寺ごのみの女優は痩せぎすで薄幸そうで、しかも低温の美しさがあるタイプが多い(209)」なんて、読んでいて知恵の輪が解けた瞬間みたいな悦びが背筋を走った。明瞭なピリオドが打たれたような清清しさがあった。

 一個の男が濁流に揉まれながらも与えられた生を完遂し切った姿が挿し込まれてあり、伝記という性格もそなわっている。天才は天才なりに、技巧者は技巧者なりに足をすくわれる事もあり、錯乱を必死に押さえ込み、泥を舐めながら組織の渦を懸命に泳ぎつづけ、やがて灼熱の恋をし呼吸を乱し、病と天命を自覚してひとり旅をする、そんな等身大の歩みを私たちは樋口の肩越しに目撃する。

 半ば神格化して見えた美術教師の背中をするすると回り込み、顔に刻まれた皺の深さと瞳の寂しさを再確認してしまった気分でじんわりと胸に充ちてくるものがある。人生ヒマツブシなんて言ってるけど、ヒマをつぶすのもなかなかしんどいよ、おまえも徐々にそうなるけど頑張れや、そう言われている。とんでもない書物が時どき現われては自分を励ますけれど、「才気の伽藍」もそれだった。

 樋口の文章からは真剣なものが絶えず放射されており、副作用が無くはない。実相寺作品を観たその時どきへと時間旅行を連ねたせいだろう、お陰でこのところ有り得ない回想(フラッシュバック)が頭の中を去来してひどく戸惑っている。職場に実相寺が突然現われ、近在の史蹟への道順を尋ねたという狂った記憶であり、その際に迂闊なことに彼であることに気付かないという落ちがつく。どこかで仕入れた偽の思い出なんだろうけど、あまりにも鮮明で困惑している。

(*1):「実相寺昭雄 才気の伽藍 鬼才映画監督の生涯と作品」樋口尚文 アルファベータブックス 2016 
(*2):「闇への憧れ 所詮、死ぬまでの《ヒマツブシ》」 実相寺昭雄 創世記 1977
(*3): http://mixi.jp/view_diary.pl?id=281446280&owner_id=3993869
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=283751284&owner_id=3993869