2017年12月31日日曜日

”森への帰還”

 宅地造成や護岸壁の組み換え工事の最中に、砂礫や土を突き割るようにして古代の樹根群が見つかることがある。学者に調べてもらうと1万8千年とか2万年前のものと分かり、工事は急遽中断されて責任者は悲鳴を上げ、教育機関は色めき立ち、自治体は対応に苦慮してうろたえる。先日足を延ばした河原もそのひとつだった。外気との接触で急速に退色してみたりカビが生えて取り返しがつかなくなる壁画や墓所といった遺跡とは違い、木の根っ子なんて少しぐらいどうなろうと見た目に大差ないという事か、発見後も無造作に捨て置かれたままとなり、一般人が立ち入って直接手に触れることも自由なのだった。

 身体に例えれば手足が失われ、脛や足首ばかりが残された状態だ。黒ずんで皺の寄った肌は醜悪でさえあるのだが、曲がりくねった黒い根茎の露わとなって点在する奇妙で異質の景色は不思議と目を惹きつけ、強烈な「生命」さえ誇示して見える。人間の、生き物の誕生から死、生活とか暮らしとか、それにともなう感情の最期の行きつく果てを暗示するようにも思え、やるせなく、淋しい気分にずぶずぶに浸ってしまう。朝霧で乳白色に染まった中洲に独りたたずんで、人間の悩みとか苦痛なんて瞬く間のものでしかなく、あっという間に喜びも悲しみも何もかも失われていくのだ、と虚ろな想いに苛まれていく。

 鬱屈した気分に押し潰されるだけではなく、見る喜び、嗅ぐ愉しさが現場には満ちてもいる。剥き出しになった土が発する香ばしい匂いは鼻腔を刺激し、根曲がり、一部はらせんを描いて空を蹴るその姿は、ときに人間のシルエットと相似し、四肢なり胴体なりを連想させて面白い。

 以前、ある人から石井劇画の鉛筆による下描き(複写した端切れ)を見せてもらったことがあり、それは【魔樂】(1986)だとその人は言うのであるが、近似する頁がどれか思い出せない。とにかくそれは二頁に渡る「森」の見開きであって、膨大な数の大小の樹木が押し合いへし合いする風景であり、場面の中央部分には裸のおんなが縛られている、確かそんな絵柄であった。

 信頼の厚いアシスタントに背景のペン入れを依頼し、そのための指示書であるのは違いないのだが、印象に刻まれているのは右手にやや大きめの太い幹がそそり立っていて、そこに線がさっと引かれ、達筆な石井の注意書きが短めに添えられている。樹幹を「男性器のように」仕上げて欲しいと書かれてあって、その直接的な表現に驚愕したのだった。

 森の樹影が彷徨い入った若い女性や子供を脅かし、不安が妄想を煽って、洞(うろ)が牙の生えた口に、枝葉が爪の伸びた気色の悪い指先と変幻して襲いかかるという描写は珍しいものではない。自殺者が樹木となってひしめく森を詩人は夢想し、道に迷ったお姫さまをにゅるにゅると伸びた枝が捕獲にかかる。人の目と頭はそのように出来ているのだし、絵画や映画のそんな演出に私たちは無理なく共感していく。

 しかしながら、原画なのかネームなのか正確には分からないその石井の鉛筆画においては、おんなと問題の木の間には距離が置かれ、両者の間に直接の関係性はないのだったし、前後のコマが無い一枚きりであったので正確には言えないけれど、おんなはその「男性器のように」描かれねばならない巨きい木をまるで意識する素振りはないのだ。そもそも石井の鉛筆は周囲の木々とともにその太い幹に対してもしっかりした主線(おもせん)を刻んでいるのであるが、どこをどうみても男性器らしいくびれも反りも見当たらない。石井の主線に素直にペンを入れてみても、また、そこに幾分なんらかの微細な皺を加えた上でスクリーントーンを貼り付けたとしても、一本の直立した樹幹としての面立ちを崩すことはないように思われた。そこにこそ私はひどく驚かされたのだった。

 どう見ても普通の森のなかの一本の木にしか見えないのだが、それでも石井はこの木の性格に「特殊なもの」を滑り込ませようとしている。その不可視性に言葉を失ってしまうのだ。私たちが流し見する石井世界の背景のさまざまな箇所に、実は作者のもろもろの意識が託されている。石井の劇画や映画とは、そういう化け物じみた場処なのだ、作者の思惑や熱情が無数に植樹された油断ならない思念の森なのだ、そう学んだ一瞬だった。

 白雪姫のように走りぬける体力はもう無いが、妖(あやかし)の石井の森がひどく懐かしく、あの奥に再度帰りたいと願っている。そろそろ訪問はかなうものだろうか。

2017年11月25日土曜日

背景(バック)から風景へ~つげ義春と石井隆~(4)


 古書店を回遊していたところ、日に焼けた評論誌が目に留まった。めくってみると石井隆に対する寸評が載っていて、二度三度と繰り返し読んでみたのだが、どうにも呑み込めない。大友克洋(おおともかつひろ)と石井を比較した上で評者は「時代とずれている」「しばらく出番はないような気がしてしまう」と断じており、その語調にまるで容赦がないのだった。そこまで書かれてしまう義務があるのか、何か石井は悪いことをしでかしたものだろうかと無性に悲しくなる。

 抜粋するとこんな具合だ。「石井隆はドラマを語り始めた。ただ、残念だったのは、石井隆がやろうとした方法論を、大友克洋が、いかにも今風に、しかも巧みに、読者の嗜好にあうところでやってしまったことだ。その差は、叙情と叙事の差であり、人への愛情の持ち方の差であり、邦画と洋画の差であるといったことになるのかもしれない。」(*1) この後に先の激甚でいささか頓狂な裁断、「時代とずれている」等の一文がつながっていく。

 別のところでも当の評論家は大友に触れており、「背景(バック)」ではなく「風景」に進化していると説いている。どうやら評者は緻密に描写された建築物や街路のつぎつぎに崩壊する様で耳目を驚かせた【AKIRA】(1982-90)背景画から刺激を受け、いつしか石井劇画のそれと比較を始めてしまったようだ。確かに【気分はもう戦争】(1982)、【童夢】(1983)から【AKIRA】に至る大友作品は当時の若者の興味を引きつけ、あたかも密書か預言書のように手から手へと伝わって読まれていた。そんな大友の出現により、石井の劇画はみるみる影を失ったものだろうか、本当に「時代とずれて」しまったものだろうか。

 60年代や70年代初めの世相については年齢的に口を閉ざすのが筋だけど、1987年当時、石井と大友双方について熱心に眺めていた私には多少なりとも出しゃばる権利がそなわるように思う。寸評が書かれた1987年というのは石井にとって【魔楽】(1986)執筆の頃であり、その後には【雨の慕情】(1988)、【雨物語】(同)、【赤いアンブレラ】(同)といった佳作小編の発表が相次いだ時期だ。描線に艶がより増し、コマ割りも的確で、読者の視線と思考をなめらかに誘導して完成の域に到達していた。ひとつの場面に時には数頁を割き、長回し風の構成を恐れなく描き切って、自由自在に時間を操る術は堂々たる大家のそれだった。対する大友の方はと言えば、【AKIRA】連載時に相当する。それにしても、なんだか資格試験の引っ掛け問題みたいな感じでちんぷんかんぷんだ。

 私見に過ぎないが、大友の背景画は一見して複数の、もしかしたら相当の数のスタッフを採用しなければ表現し得ない次元と私には思われたから、そこに作家性を強く見い出すことは最初から無かった。前景と後景のタッチをここまで均一化することのこだわりには既存の漫画技法からの脱皮や貫通の感覚があったのは確かだが、衝撃はなかったのだ物語うんぬんではなく、人物描写でもなく、小道具、つまり近未来を彩るハイテク機器と石井劇画での場末の酒場、ひしめく酒器やおんなのドレスとの比較でもなくって、あくまでも街並みや建築物といった背景処理に限った一面なのだけど、衝撃という程の目覚しさはなかった。大友がやろうとした漫画表現の一部は、石井の到達した世界の片翼に過ぎないのではないかと感じられた。

 大友の出現以前から、石井隆の劇画世界とは「風景」に真向かう時間に他ならなかった。人物との密接性、感情や思考との連結、世界観(タッチ)の統一を石井は既に為し遂げていた。日毎夜毎にそのハイパーリアリズムに舌鼓を打ち、全身すっぽり浸かっていた当時の私は、大友漫画の出現を割合と冷静に捉えていた。大友の背景画はどれだけ線を重ね頁を連ねても、“一種の現象”として目に映った。愉しんではいたのだが、異郷ではなく、革新でもなかった。

 そもそも、あの当時読者を牽引した大友漫画の持ち味、魅力とは、設計集団に君臨する建築士並みのすぐれた統率力で開花したものであり、その力量こそがただただ眩しかった。プロダクションシステムを構築し直し、背景描画から積極的に“個性”というものを奪い、その上で独自の世界を創造していた。粘性を同居させたその妥協なき一種の冷徹さこそがずっと斬新に思えたし、若い目には驚異であり刺激だったように思う。

 評論家の文章をもしもあの当時に目にしていても、そんなに懸命になって同じ土俵に載せなくてもいいのに、と、きっと首をかしげたように思う。両者は同じ漫画というフィールドに立つ者同士だったが、まったく違う競技種目のアスリートだった。うまく言葉を操れず、あの時の心象をきちんと表せなくて悔しいけれど、よい意味でも悪い意味でも衝突する事はなく、感動の芽を育てる場処がちょっと違っていたのだった。

 そう思うならそのまま受け流しちゃえばいいのに、なんでわざわざ古い本を買って来てまでして過去の話をほじくったりするのよ、と他人は思うだろうが、こうして行をつないで咀嚼し、なんとか呑み込もうとする理由は、他者の見地もまた石井の多層宇宙を読み解く上で大切と思えるからだ。どんな言葉もヒントになる。無碍には扱えない。

 「人への愛情の持ち方の差」という箇所はいまひとつ要領を得ないけれど、石井と大友のどちらかの手法が「叙情的、邦画スタイル」であり、もう一方が「叙事的、洋画スタイル」と言いたいのはどうやら確かだ。そして、おそらく評者は石井を「叙情的、邦画スタイル」と受け止めた上で、「今風ではなく、巧みでもなく、読者の嗜好に合わない」と言い切っている。誤った解釈とはもちろん思うが、発行から三十年が経過したからこそ、誌面に刻まれてしまったこの言葉は俄然深みを増してくると感じられる。

 言をそのまま借りるなら、石井は劇画と映画の垣根をこえて「叙情的、邦画スタイル」を堅持しながら、この三十年間ずっと活躍して来たことになる。此処にこそ作家という存在の本分がかえって隠れ潜むのではないか。「しばらく出番はない」どころか、映画監督としてコンスタントに作品を送り出し、青い雨に煙る「風景」を海外にまで贈り届けている。「今風、読者の嗜好」は絶え間なく変転するが、石井は己のタッチを守り抜いたのである。

 つげ義春を師表と仰ぎ、叙情をとことん突き詰めていく。邦画の鼓動と息吹を胸中にしかと温存し、一個の人間への愛情を永続的に持ち続ける。それの何処が劣ったものと思うのか。決して後ろ向きでもなければ、弱さでもないだろう。むしろ強靭と思う。時代に翻弄され、大事なものを見失っていたのは残念ながら評者の方であり、悪罵に耐え抜いて石井は千山を踏破し、最終的に勝ち残って今に至っている。ほかの作家や評者に勝ったということではなく、時代という濁流を泳ぎ抜いたという点で圧倒的な勝利者と思う。

 列車に揺られながら読み進め、漠然とそんな事ばかりを考えた。あれから既に一ヶ月が経っている。雨に湿って重くなった銀杏の葉をゴミ袋に押し込みながら、秋空の下、ひとりの作家の暗闘の歳月に今も気持ちを馳せている。

(*1): 「ユリイカ」1987年2月号 特集マンガ王国日本! 青土社
「現在マンガの50人」 米澤嘉博(よねざわよしひろ) 198頁

2017年11月24日金曜日

招かれた者~つげ義春と石井隆~(3)


 劇画家としての石井隆は、これまでに三十冊近い単行本を上梓している。自作だけをまとめた雑誌の増刊号も加えれば相当の冊数に上っていて、機会に恵まれずに消えた無数の絵描きたちと比べれば、やはり確固たる地盤を築いた作家と言えるだろう。それ等をざっと総覧した上で石井隆という作家を最もよく表すのはどれかと問われれば、以下の5冊を迷いなく選ぶ。

「石井隆自選劇画集」 創樹社 1985
「名美Returns―石井隆傑作集」 ワイズ出版 1993

「黒の天使 Ⅰ (石井隆コレクション (1))」 まんだらけ 1998
「黒の天使 Ⅱ (石井隆コレクション (2))」 まんだらけ 1998
「曼珠沙華 (石井隆コレクション (3))」まんだらけ 1998

 作品論的な視線にもとづいての抽出ではない。石井の絵なり物語は、たとえそれが風俗誌に寄せられた題名さえ持たぬ小さなカットでも、また、頁数の限られた事件物であっても、往時の世相との関わりや創作歴での立ち位置を知る上で貴重である。絵画の世界では若描きが後年の重要作品と連結することは間々あるのだし、特に石井の場合、かつての作品群と現在の取り組みが還流するのが常だ。世の中には「後ろには夢がない」、未来のみを見やることが活路につながるという言葉もあるけれど、石井世界においては過去にも夢があり未来はある。郷愁や自己模倣に溺れるのではなく、徹底して自作の精錬を行なうのが石井の作家性のたしかな一面と思う。

 天上へ向かって“より高く”なのか、底なしの淵に向かって“より深く”なのか、見方は読み手によって変わるけれど、新旧の作品が合わさって奔流となり、渦を産んで、劇的空間へと我々を導いていく。これまでにもそんな独特の技法が露わとなっている訳だから、過去のどの物語、どのコマも一つとしておろそかに出来ない。そもそもが若い時分の作品からして繊細を極め、どれもこれもが魂の糸で紡がれている。見ていて無性に愉しくって、どの本が良いとかあの作品は悪いとかの甲乙はつけ難い。総てが石井隆という宇宙の現在(いま)を構成して見える。

 それでは上に名を上げた数冊にが宿るかといえば、石井隆というひとりの人間の嗜好が浮き彫りになっているのであって、魂の核(コア)が透視され、創作の原動力が読み取れる点が秀逸なのだ。日常からの逃避や鬱憤の処理装置といった役どころを担うのが石井劇画の寛容さであり、濃厚な色香がときに読み手を煽ることを否定するつもりはさらさら無いけれど、もう一歩踏み込んで作家本人に興味を抱き、共にこの時代を生きる者として凝視め直すとき、上記の数冊は譲れない関所となってくる。

 「黒の天使 Ⅰ、Ⅱ」および「曼珠沙華」に収まった異例のインタビュウ、幼少年時から青年時に至るまでの映画遍歴を問われるままに答え続ける「記憶の映画」(聞き手 権藤晋)と題された頁については再三この場で取り上げている。ひたすら映画世界への没入を夢に見つづけ、生業にしてからは全霊を捧げてきた石井の素養がどこで醸成されたのか、読んでいて愉快に無理なく了解されていく。ただただ映画の話に興じるばかりで軌道を逸脱する変化球と見せて、実は剛速球の作家研究リポートであり巧みな企画と思う。

 「石井隆自選劇画集」と「名美Returns―石井隆傑作集」については何をもって選んだかと言えば、これは石井隆の漫画家つげ義春への深い敬愛がほとばしり、見ていて熱くこころに沁み入る点である。厖大な日本映画と共に石井の核(コア)につげ漫画が在り、どれほど激しく降り注ぎどれほど強く結合したかを示すものとなっている。

 「名美Returns―石井隆傑作集」において石井は最良の理解者である編集者高野慎三に相談し、つげ義春との対談を実現しているのだが、その内容は完全に熱狂的なファンが憧れの作家を前にして話すような具合であって、微笑ましいぐらい丁重誠実であり、表情豊かなやり取りになっている。わたしが石井の【赤い眩暈(めまい)】(1980)をはじめとする数篇につげ作品【ねじ式】の写し絵を見てしまうのは、なにも病的な妄想癖に因るのでなく、石井がつげへの愛情をまったく隠そうとしないからだ。

 「石井隆自選劇画集」は書名から解かる通り、全編に渡って石井の美学を感じさせる造りとなっている。自作劇画の選定から装丁、付録の小型写真集といった何から何までもが石井の美意識を感じさせる一冊に仕上がった。書の冒頭で石井は、三枚のモノクロームの写真を載せている。よくある著者近影なのだが、どれもが肩の力が脱けていて興味深い。

 当然ながら“自撰集”という書物は作家生活のなかでも特別に気合が入るものであって、自身の影像を貼り付けるに当たっては念入りに選り分けるものではあるまいか。机に向かい眉をひそめ、深遠な目つきで筆を握る仕事場の姿であったり、糊の効いた着物を纏ったり洒落た帽子を被って庭に降り立ち、泰然としてカメラをちょっと睨んでみたり、自己演出に余念がないのが通例である。石井が選んだ三枚の写真はどれもが構図、照明に人の手が加わっていない自然なスナップ写真の域にある。

 それぞれに説明が添えられている。「東京・東中野の仕事場で。(中略)壁の油絵は片山健画伯の作。愛蔵品である。」「山根貞男さんの『手塚治虫とつげ義春』(北冬書房)の出版記念会で、つげ義春さんにお会いした夜。」「著者のシナリオ最新作『ラブホテル』のロケ現場で。左から監督の相米慎二さん、照明の熊谷秀夫さん、〈村木〉の寺田農さん、〈名美〉の速水典子さん」とあり、三枚目の映画撮影の現場は緊張と疲労を匂わすもので、相米の横に座る石井の表情は硬いのだが、前の二枚は歯こそ見せないが破顔一笑の風情がある。ゆったりとした気持ちがこちらにも伝わる。もともと石井の笑顔には人を魅了してやまない力があるのだけれど、ここでの表情はまったくの自然体であり、等身大の人柄がそのまま印画紙に定着して見える。

 「自選劇画集」の出された1985年というのは『ラブホテル』以外にも『魔性の香り』(監督池田敏春)に脚本を提供してみたり、劇画家としても掌編の佳作を連発していた時期だ。さすがに“劇画界のドストエフスキー”という美称は誰も用いることはなくなったが、死とエロスの作家という異名を冠する点に揺らぎはなく、本の購入者のほとんどがこれを確認するために手に取ったはずである。そんな石井の自選集の冒頭を飾るにしてはあまりにも平穏な、あまりにも暖かな色彩に満ちた写真たちであった。

 説明文を読んで明らかなように、これら写真の光軸上に立つ主役は石井ではない。三人の作家、片山健、つげ義春、相米慎二を自身の本へと招待し、敬愛の念を刻んで見せている。彼らを最上級のゲストとして扱い、祝宴の始まる間際に壇上に立って献辞を贈っているのである。創作の起点をそっと打ち明ける、密かな読者への目配せでもあるだろう。

 躍進目覚ましい作家が自撰集の編纂を任されたとき、往往にしてこの手の招聘が起こる。ゲストの入場が瞳に留まって会場がどよめく。自分なんかよりも彼らを見てよ、ねっ、凄いよね、嬉しいよね、と視線をうながし、ほかの客たち(読者)のざわめく様子に微笑んでみせるホストの境地が見え隠れする。ゲストの方が燦然と輝いてしまって、主催者たる己の影を薄くしても一向に苦にならないのだ。

 話がそれてばかりで申し訳ないが、たとえば、映画監督の実相寺昭雄(じっそうじあきお)が1977年に出した評論本「闇への憧れ」(*1)においては、同業者である加藤泰(かとうたい)、詩人の大岡信(おおおかまこと)、それに石井隆が招かれている。これだって上と同様の一種の献辞であろう。

 実相寺はあとがきで「私の書き散らした原稿だけで一興行打てるとは思っていない」と語って、自身の文脈や文体の硬さを気にする余り、「退屈と思う人の為に」、「嘘でも良いから」、「色々な粉飾を考え」た、と続けて、あたかも余興役として三人を登用したに過ぎないような書き方をしているが、実際はそんな単純なものではない。謙遜を字面どおりに受け取ってはいけない。ゲストの登場する頁には実相寺の真(まこと)は無いなどと早合点してはならないのだ。彼らこそが真であり核だ。作家という存在に向き合う研究者は招待者のリストに入念に目を凝らし、ホストたる作家と彼らとを結ぶ線が何であるかを真摯に見定める必要があるのだし、この挿画は本人の筆ではないから、赤の他人との対談だからと軽視する乱暴な思考の分断があってはならない。

 人の素の部分を明瞭にするのは、絵画でも、絵でも、芸能でもスポーツでも何でも良いが、突き詰めれば“何を愛するか”に尽きる。どんな生い立ちの、どんな容姿の、どんな精神的堆積をもった人物に対して愛情と笑顔を注ぐのか。敬愛の向かう先を知ることは、人物理解の最速にして誤りのない里程標だ。

 石井隆の内部にはつげを筆頭に幾人もの愛情の対象者が同居し、彼らの目に応えるべく創意を凝らすところが少なからずある。「石井隆自選劇画集」と「名美Returns―石井隆傑作集」のどちらにも【赤い眩暈】が収まっているのも偶然ではなかろう。石井劇画の代表作のひとつには違いないが、ゲストとして招んだつげ義春に対する深慮が働き、あのような造本となったと捉えてもあながち間違っていないと思われる。

(*1):「闇への憧れ―所詮、死ぬまでの《ヒマツブシ》」 実相寺昭雄 創世記 1977 最近になって復刊されたが、頁数と価格設定のかね合いから上記の石井ほか三人の記述はそっくり別冊へと振り分けられている。故人の魂をあたかも“腑分け”するかの如き乱暴この上ない編集方針と思えなくもない。別冊がどう仕上がるか、いまは固唾を呑んで待つばかりだ。



2017年11月18日土曜日

面影の連結~つげ義春と石井隆~(2)


 石井隆の劇画群には、他の漫画家の作品と面影を連ねるものが幾つか交じっている。わたしの思い過ごしでなければ、中でもつげ義春(よしはる)と相貌を近しくする短編が多い。石井の劇づくりの工程を推察する上で、つげの存在に思いを馳せることは極めて重要と考える。この件は過去何度も書いているから重複箇所もあるけれど、こころ向くまま泳いでみよう。(*1)

 【ねじ式】(1968) はつげの代表作であると共に、日本漫画史におけるエポックとしてつとに知られている。波しずかな海辺にて得体の知れぬ海月(くらげ)に腕を噛まれた男が、もう一方の手で傷口を押さえながら浜に上がり来る場面から【ねじ式】は幕を開く。おそらくはまだ齢若いその男は、上半身は裸であり、お世辞にも筋骨隆々とは言えず、むしろ貧相な体躯からは物悲しさが漂う。

 腰から下は黒っぽいズボンを着用していて、靴は履かずに裸足のままだ。身体と比べて頭でっかちであり、海水に濡れた髪は額にゆらりだらりと柳の枝葉のようにのし掛かる。手当してくれる場処を探し求め、若い男は幻想とも夢とも判らぬ町、もしかしたら冥界かもしれぬ路地裏をとぼとぼと歩き回るのだった。

 石井は【赤い蜉蝣(かげろう)】(1980)、【赤い眩暈(めまい)】(同)、【真夜中へのドア】(同)と生死の境を往還するおんなの話を立て続けに発表するが、これ等の劇中に忽然と現われ、おんなの傍らにたたずむ奇妙な風体の男がひとり居り、その見目形は【ねじ式】の青年のそれと酷似している。村木的な骨格や鼻髭を時にたくわえ、サングラスや靴を着けたりもして、具体的な人相なり服装は微かに違ったりはするのだけれど、上半身が裸で柄のないズボンを着用し、回によっては眉薄く、頭頂部の平らな辺りは随分と似ているように思う。

 【赤い蜉蝣】や【赤い眩暈】は、幽明の境を歩んでみたものの、結局は生還を果たせないままに終わる薄暗く厳しい物語だ。一貫して同じ男が登用される思想的背景には、冥府案内の役回りはこのキャラクター以外にはあり得ない、という石井の確固たるこだわりが有る。身体機能の損耗が極まり、こと切れる直前となっていよいよ正気を失っていく。思念がはげしく断裂し、記憶が錯綜していく。そんな精神の崩壊する様になぞらえてか、次々と脈絡なく変幻していく舞台背景についても【ねじ式】と石井の数篇は極めて似た風合いがあって、両方を読み終えてみれば、意図的に繋がれたもの同士と捉えることに異論を挟む者はいないはずだ。つげ作品の空気と設定を石井は十年経てから借用し、己の劇にせっせと輸血している。

 上記の例ほど鮮烈ではないけれど、【真夜中へのドア】の別の場面にも共振を覚える箇所がある。主人公の若いおんなはモノクロームの古い欧州映画さながらの寂寂たる黄泉空間をさ迷うのだが、やがて水族館風の洞穴に至る。例の半裸男と行き着いたのだけど、通路側面の巨大水槽のガラスが急にぶわぶわと膨らんできておんなを仰天させるのだった。水圧に耐え切れなくなったのか、それとも、自ら崩壊すべき時が満ちてそうなったのか、遂にガラス板は轟音とともに砕き散って、大量の水しぶきがおんなの頭上から降りかかる。

 このくだりなどは、つげの作品【外のふくらみ】(1979)と実際よく似ている。窓ガラスや鏡面が割れるショッキングな描写というのは映画や漫画では常套であり、珍しいものでは決してない。しかし、硬質のそれが急速に軟らかさを増していき、モワモワと風船のように膨張してこちら側に迫って来るという発想なり描写は珍しく、ずっと私は探し続けているのだけど他には見つけられないでいる。(*2)

 死線を扱ったもの以外にも連結を匂わせる作品があって、たとえば本好きの少年と書店のおんなとの淡い交信を描いた石井の【白い反撥】(1977)は、取り扱うのが新刊書と古書の違いはあるけれど、やはり小さな本屋が舞台のつげの作品【古本と少女】(1966)と共振する。書店を主要な劇空間に設定することは石井作品においては他に見当たらないことから、ほのかな“不自然さ”が見止められる。

 つげの【古本と少女】の終盤にて、少年と店番の少女との間には体温のある交信が成就する。恋情とは到底呼べぬ、ようやく挨拶を交わす程度のささやかな結線ではあったが、幸せな幕引きであったのは間違いない。それに引き換え、年長のおんなに対して一方的に想いを募らせた挙句、呆気なく踏みにじられた形となった少年の失恋劇【白い反撥】の終盤は、そぼ降る雨が加わって一気に湿度が増している。可愛さ余って憎さが十倍の言葉同様、やりきれない気持ちを少年は鬱積させ、書店のおんなを犯し、さらには鋭利な刃物で傷つける過激な幻影へと取り込まれて悶々と過ごす羽目となる。

 顛末の表層のみに限って言えば、両者は光と影ほども対象的である。しかし、石井はその決着の付け方に彼らしからぬ乾いた風を送り込み、温かな余韻を持たせることに成功しているのだった。一種清々しい、毒気のない青春劇として【白い反撥】を締めくくっている。港の防波堤を少年はひとり訪れ、ざわつく気持ちを鎮めようとするのだったが、彼が力任せに投げ放った小石がコンクリートの厚い岸壁に当たって、カッツーンと高く乾いた音を響かせて一直線に彼方へと飛んでいく。石井は風景画を駆使して登場人物の懊悩を代弁させる術に巧みだが、一頁を三等分に割り、小石の護岸との衝突から飛翔を丁寧に描く展開は石井世界のなかでは異質な挿入と言えるだろう。

 少年の内部に寂寥と憤激が逆巻いていたのが、小石の三コマで見事に吹っ切れている。ひとは他人との接点を激しく求めながらも、他者の担う生活や責任、それに魂の内奥に巣食う思念や感情といったもろもろを支え合うことはなかなか出来ない。人が人を前にした時にはどうしようもない事ばかりなのだ、結ばれない事の方が圧倒的に多いのだ、と、少年のこころは悟るものがあったに違いない。妄想の中ではおんなを切り裂くばかりであったが、刃先は結局のところは自身の甘い想いを裁つ為に振り下ろされていたのだ。物狂おしい腕先の上下運動と狂恋の情をそのまま小石に託して、少年は思い切り遠くへと投げ捨てている。静謐な描画ながらも読み手のこころは濡れふるえてしまう絶妙なカットだ。

 これなどはつげの作品、【沼】(1968)のやはり終幕で放たれる沼岸でのズドーンという猟銃の号砲と間合いに相通じるものがある。石井世界らしからぬ、と書くと𠮟られてしまいそうだが、実際、陰鬱でやり切れない雨音を裂いてまったく爽やかな拍子が刻まれていて、この転調と異相はなんだろうかと読んだ当初から大層驚かされたものだった。

 これ等を先達からの“影響”とか“登用”と単純に捉えてはなるまい。石井がつげに積極的に歩み寄っている証しであり、一種の恋文、ひそやかな告白であったように思われる。

(*1): http://mixi.jp/view_diary.pl?id=275969168&owner_id=3993869
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=336561051&owner_id=3993869
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=429129480&owner_id=3993869
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=722581098&owner_id=3993869
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=717425802&owner_id=3993869
(*2):つげ義春の「外のふくらみ」は、1976から77年に書かれた【夢日記】(「つげ義春とぼく」 昌文社 所載)を原型としている。厳密に言えばこの【夢日記】の挿画と合わせて三点がイメージを共有する。





2017年11月4日土曜日

逢魔が時~つげ義春と石井隆~(1)


 交通事故に出くわした。いや、事故とは呼べない程度の軽い接触であり、深刻な話ではない。帰宅ラッシュの時間を迎えて幹線道路は混み合い、歩道はサラリーマンや学生の姿で溢れかえっている。一日の課題を何とか終えた各人の顔には安堵と弛緩が同居しており、和やかな空気が通りに漂っていた。路地のような薄暗いところから徐々に夜へと移ろって、周辺の照明看板が活き活きとし出した頃だった。

 白いハイブリッド車が大通りから脇道に左折しようとして、ハンドルを切りながらじんわりと減速した。私を含む人間の群れをやり過ごそうとしている。ぱたぱた、こつこつと靴音を立てて、その鼻面を列を成して穏やかな顔の人たちが行き交うのだが、一台の自転車が音もなくそんな歩行者を追い抜いて、停止寸前の車の前へと突進した。

 がちゃんと音を立てて自転車は横倒しとなり、後ろの車輪は自動車のバンパーの下に潜り込んだ形となった。乗用車と舗装路面との隙間が狭まっていて、自転車の車輪はそこにぎゅっとはまった具合だ。よくよく見ればハイブリッド車の前輪タイヤが自転車の車輪をほんの少し踏みつけており、水草を食んだばかりの河馬みたいな顔つきだった。いずれにしてもそれがかえって幸いし、自転車は反対方向に跳ね飛ばされることなく、ゆるゆると時間をかけて斜めになっていったのであって、それにともない男性の身体もあれあれという感じでのんびりと倒れていき、頭を強く打つことなくて済んだのだ。

 その人は最初自転車の下から脱けるのに苦労していたが、程なく人垣の真ん中でやや恥ずかしそうに立ち上がって、次に自分の手で自転車を数秒かけて車の下から引きずり出した。一連の出来事がまさに目の前で起きたものだから、「大丈夫ですか、足は(抜けますか)」と最初にこの私がおずおずと声を掛け、その後で数名の男女が駆け寄って、口々に怪我はないか、どこか痛いところはないかと尋ね、中には110番へ連絡を取ろうとする勤め人風のふたり組もいて、都会でもこうして温かい人情が花ひらくのかと内心驚き、当事者ふたりには誠に申し訳ないけれど、ちょっと優しい気分になれた。

 警察を呼んでしまったので正式な事故の扱いとなってしまうが、停止する寸前に勢い込んで自転車が走り入っており、どちらにも責任があるような無いような状況だった。怪我も損害も大した事はないようだったので、双方ともに頭を下げて終わりになるケースかもしれない。アクシデントではなくハプニングに仕分けられる出来事だった。それなればこそ、呑気に今こうして綴ってもいられるのだが。

 携帯電話から石井隆ゆかりの古書店に連絡して道案内を乞うたばかりであり、直ぐにも顔を出しておきたかった。座席を予約済みの列車の時刻も迫っていたから、警察を呼んだ親切な勤め人にはすまないけれど、その場を彼らに任せて人の輪からそっと離れた。少し卑怯だったかな、男らしくなかったかな、と、落ち着かない気分が正直言えば今も胸に残響する。

 不謹慎ながらあの時、石井の劇画【おんなの街 赤い眩暈】(1980)のラストカットに紛れ込んだような錯覚を覚えた。交通事故で頭部をしたたか打って血を流し、路上に横たわるおんなの話だ。朦朧とした意識の中で黄泉を旅する幻想譚なのだったが、宙を見つめて痙攣するおんなの身体を通り掛かった男女数名が取り囲んで、一部は屈み込んで顔を覗きながら、大丈夫か、救急車を呼んだからね、と、心配そうに声掛けしたりする様子が描かれていた。あんな深刻な場面ではもちろんなかったけれど、魔の刻は誰に予兆を与えることもなく突如現れて、人を非日常へと強引に連れ去っていくことは再確認させられた。

 目的の店で主人に電話の礼を言い、あらためて挨拶を交わしたところ、寡作で知られる漫画家つげ義春に会話内容が飛びもして予想外の充実があった。石井の【赤い眩暈】とつげ義春の作品とは水面下で交信するものがあると勝手ながら私は解釈しているので、妙に濃厚な時の流れを感じてしまう。

 狭い階段を下りて外に出たら、もうすっかり暗くなっていた。今更ながら調べると逢魔が時は大禍時とも書き、魑魅魍魎に出会う禍々しい時間帯と書かれている。あの時、私たちの側にいたのは何者だったのか。高速度撮影に獲り込まれた具合に倒れゆく自転車の様子を思えば、“善き存在”が傍に居てくれたのではなかったか。自転車と車の接触事故がいかに重症化して手に負えないものになるか、わたしは嫌というほど身近で体験している。不幸中の幸いとはまさにあの瞬間であり、ささやかな奇蹟だった。そのときからずっと【赤い眩暈】とつげ義春へと意識が引きずられてもいて、ともすると夕暮れのT字路に舞い戻っている。

2017年10月14日土曜日

“グロッタの集中的表現”~【魔奴】と【魔楽】への途(みち)~(12)



 世の中には違和感を抱かせる妙な看板がある。ある夜、裏通りを歩いていたら英語で“悪夢”という意味合いの酒場があってひとはどんな気持ちで其処に集うのかと首を傾げた。どうにでもしてくれ、べろべろにして俺を奈落の底に突き落としてくれ、と、ひどく思い詰めた人があの扉を叩くものか。

 あんな名前で商売になるのだろうか。酒に弱い私は店名を見ただけで宿酔い必至だ。絶対足を踏み入れない。尤もまるで由来の分からぬ店名が仮にあったとして、誰が困るわけでもなかろう。客とは至っていい加減な存在であるのだし、また、実際それで構わない。名前に惹かれて暖簾をくぐる者などひと握りだから、あれこれ執着して考えるだけ野暮だ。

 確かにそれはその通り
なのだ。店名などの意味や由来にとらわれる事はそんなに大事とは思われない。が、こと石井隆の命名とあっては簡単に放り出せないところがある。『GONIN』(1995)の準備稿において、舞台の主軸となるディスコの名前は“バーズ”ではなく“グロッタ”だった。鳥たち、とか、洞窟とか、ざらついた手触りがあって胸騒ぎを覚えるが、どちらも正体不明の感じがあってよく分からない。不思議と思い、否応なく妄想が膨らんでいく。

 黒澤明の『野良犬』(1949)を鑑賞した折りに、夕空を背景に「Bird」(正式にはBlue Birdなのだけど、)という劇場のネオン看板が点いたり消えたりしているのを見ると、そこに何かしらの接点はないかと勘ぐってしまう。確か石井の“記憶の映画”に『野良犬』も入っていたはずだ。でも、BirdsとBlue Birdでは大きな開きがあるしなあ、
看板ネオンが映るのはどっちも一瞬でしかない。どうかしている、と自分でも思う。両者を結束させ、何かしらの意味を託されたなんて考えるのは気狂い沙汰だ。

 こうして堂々巡りをつづける毎日なのだが、準備稿の方の“グロッタ”という単語にはより強い磁力があってきつく縛られて来た。どこから石井の脳内に忍び込み、どんな想いでそれを使用するに至ったのかをずるずると考えた。


 もちろん私たちは、石井が名付けを行なう際のスタンスが緊迫をはらんだ理詰めのものではなく、割合としんなりと柔らかな思考でもって進行する点を学んでいる。映画や雑誌、実在する知人から借りてくる手法を石井はおしなべて隠さない。
石井世界のイコンである“土屋名美”や、『GONIN』のディスコ経営者“万代樹彦”などの命名の経緯がそうだ。だから、こうして悶々と書き綴ることの全てが勘違い、思い込みである可能性は否定できない。馬鹿だなあ、深読みのし過ぎだよ、と石井だって笑うかもしれない。

 それでもグロッタに立ち戻って書棚の前に陣取れば、この語は「グロテスク」
という芸術様式と対で語られる傾向がある事が分かってくる。澁澤龍彥(しぶさわたつひこ)の書物をまさぐったときも、グロテスクを生成する上での通過点という捉え方だったように思う。イタリアやスペインの貴族たちが庭の一角に築いた「人口の洞窟」を一般には指していて、彫刻がうじゃうじゃと内壁を覆い尽くしてこの世の物とは思われない。黒雲から降り立った魔物が幾たりも侵入して、幽冥との境界線を曖昧にしていく、そんな妖しい雰囲気の風貌である。往時の貴族たちは呪術的な大きなもくろみを抱き、昼でも薄暗い回廊の建築に熱中したのだ。

 石井は港近くにそびえる白い建屋に、この宗教的魔窟のイメージを投射しようとしたものだろうか。欧州の暗い空の下、庭木を押し掃(はら)うようにして醜貌を晒す人口洞窟の写真を見つめながら、『GONIN』という劇はここまでは乾いていないし、こんなに大人しくまとまってもいないように思えた。“グロッタ”の文字と響きを登用した、その精神的高揚にまではたどり着けない。創作の上で跳躍を誘うような、ぐっと背中を押されるような際立った異相が見当たらず、少なくとも私の中では両者は結線を果たさない。


 たとえば先に引いた東野芳明(とうのよしあき)の「グロッタの画家」も、実はその一環から手にした本なのだけど、その中で東野は庭園芸術から思案を切り離し、より根源的な穴倉への耽溺、人がどうしてもふり解けない闇への憧憬といった視点からグロッタを語っている。「メドゥサにしても、キクロプスにしても、洞穴の中に住んでいた」と古の伝承に書かれる怪物の存在に触れていき、「厳重に封をして洞穴へととじこめておくべき危険な代物だった」と続けて、グロッタに宿る空気の質を原初的で荒々しいものへと導いていくのだったが、こちらの凶暴で不安を醸す連想の方がずっと『GONIN』の世界には近しい気がする。


「これらの洞穴の住人どもは、単なるひよわな偶像でなくて、れっきとした化けものという生き物であり、その視線にあえば、なよなよした肉体は、一瞬に峨々たる岩石と化し、また、その煌々と輝く眼差しは、天をもふきとばす火山の大爆発を起し、全世界の座標の原点を、人間からたちきって、一きょに物質のあらあらしい息吹きの中に移してしまう、はなはだ壮烈な化けものなのだ。」(*1)


 石井は肉弾戦をもって現世を活写することを劇の根本としているから、目から怪光を発して人間を石に変えたりはしないし、どろどろの溶岩流も出現しない。おんなの視線は一瞬に男たちの魂を凍結させ、その首や胸からは天井にしぶく血の噴出を起こす程度なのだが、そのようにして赤々とフロアを染め、輪になって踊り狂うサバトの夜さながらに次々と周辺で人が倒れ、ひどい酩酊状態に陥って銃口に身を晒していく『GONIN』や『
GONIN2』(1996)の勢いのある姿とは、つくづく神話的な苛烈さ、極端さが内在すると思う。貴族の庭園で闇にまぎれてのっそりと潜んでいる芸術作品ではなく、予測が付かず、常識も通じない怪物と遭遇する場処としての洞窟が描かれ、そこに踏み込んだ人間の絶望と発狂、地獄巡りの情景が彫り込まれている。

 ほかに“グロッタ”という表現をグロテスクから分離して語る書物はないかと探してみたところ、次のような文章に突き当たった。


「大蘇芳年の飽くなき血の嗜慾(しよく)は、有名な「英名二十八衆句」の血みどろ絵において絶頂に達するが、ここには、幕末動乱期を生き抜いてきた人間に投影した、苛烈な時代が物語られてゐる。これらには化政度以後の末期歌舞伎劇から、あとあとまでのこつた招魂社の見世物にいたる、グロッタの集中的表現があり、おのれの生理と、時代の末梢神経の昂奮との幸福な一致にをののく魂が見られる。それは、頽廃芸術が、あるデモーニッシュな力を包懐するにいたる唯一の隘路(あいろ)である」


 三島由紀夫の書いたもので、
画集「血の晩餐」(*2)の冒頭を飾るものだ。出版前年に三島は自決を遂げているから、これは生前に書かれたエッセイが元となっている。もっと具体的に言えば、一部だけが切り抜かれて使われている。本来は「デカダンス美術」と題された小文で、竹下夢二、モンス・デジデリオ Monsù Desiderio、オーブリー・ヴィンセント・ビアズリー Aubrey Vincent Beardsleyらと共に、あの“月岡芳年”に触れていた。(*3)

 四人の画家を並列した文章は焦点を絞り切れぬ曖昧さがのたうつのだが、こうして前段と後段をざっくりと斬り落とし、芳年への言及だけを紙面に叩き付けるようにして飾り直すと、映画が始まった直後に強烈な導入部をいきなり見せられたような驚きと慄きがあって相当の衝撃がある。「血の嗜慾、絶頂、生き抜いてきた、苛烈な時代、見世物、昂奮、おののく魂、デモーニッシュな力、隘路」と烈しい言葉が速射されて、腹わたに突き刺さり、硬い震動がじんじんと響いてくる。


 芳年を「グロッタの集中的表現」と呼んだ三島も凄いが、この形容を導いた芳年の表現世界に絶対的な高度を感じる。そうして思うのは、仮にこの文章を芳年の画集で目にし、いや、その確率は芳年を熱く語る
石井の口調からすれば我々が思う以上にずっと高いと考えるのだが、これを読み進めて瞳に刻んだ石井隆という男がおのれの創造する舞台『GONIN』にて「グロッタの集中的表現」を極めようとしたのだとしたら。

 人目から隠されたその想いを今更ながらこうして後追いするだけでも息が止まるような緊迫を覚えるのだし、読者や観客の知り得ぬところで為される想いの丈の深さや厚み、その不可視性は、石井世界をつらぬく画風と完全に合致もしていて連想に破綻がない。

 芳年の大回顧展以降の時期に世に問うた【魔奴】(1978)を起点とし、【魔樂】(1986)への隘路(あいろ)を経て、
『GONIN』のグロッタが描かれた。石井が映画世界においても、同一の地平で揺れることなく歩み続けたことを示している。ひとりの絵描きが人生を賭して「無惨絵」の後継を担おうとする、その真紅の証印となっている。

(*1):「グロッタの画家」 東野芳明 美術出版社 1957  引用は1665年再版のものから 「ルドンの眼玉」79頁

(*2):「血の晩餐―大蘇芳年の芸術」1971 番町書房 
(*3):「デカダンス芸術」 初出 「批評」1968年6月 引用元は「決定版 三島由紀夫全集 35」 新潮社 2003 116頁





2017年10月8日日曜日

“褥(しとね)の作家”~【魔樂】推想(4)~


 劇中登場する殺人鬼の特異な装束、すなわち真っ黒な全頭マスクの中央部に居座る四つ目のゴーグルは、「見るとはなにか」「愛するとはどういうことなのか」という問い掛けを妖しく放射しており、それは【魔樂】(1986)の主題を顕現させた石井隆の発明であった、と先に書いた。この点において【魔樂】は、極めて社会的な活劇と言える。特定の狂人を扱った話ではなく、相互理解と「見るとはなにか」を通じて苦悩し彷徨う人間全般の肖像なのだ。酸鼻を極める殺人儀式を目の当たりにして読者は圧倒され、思考をぼんやりと停止してしまいがちだけれど、石井は私たちを取り巻く現実世界の宿痾を浮き彫りにしようと試みる。

 相手に共感することに無理を覚えて消沈してみたり、はたまた、まだ見ぬ分身を追い求めてひどく煩悶する。誤解や反撥は日常茶飯に起きていき、そこに派生する哀しみや苦痛を私たちは常に感じているが、そんな原初的な苦悩が【魔樂】には巣食っている。発表から三十年を経ていながら今もって力があるのは、状況がまったく好転していないからだ。携帯端末が普及した訳だけれど、物狂おしい希求ばかりが体内に膨張して、折り合いをつけたり捨て場を探すのにいつも困っている。私たちは死ぬまで、この渋滞感なり迷路めく気分から脱することは難しいかもしれない。

 【魔樂】がいかに社会的な物語を目指したかは、その生成過程を振り返れば容易に理解出来る。山奥のモーテルで管理人の男が殺害を繰り返す先述の【魔奴】(1978)のスタイルが【魔樂】の下敷きとなっているのは確かだが、単に【魔奴】の浮世離れした世界観のみを鍛錬して仕上げた訳ではない。1983年前後に石井は目線を家庭の主婦に据えた短篇をまとめて世に送り出しているのだが、この一群の舞台となる住宅が【魔樂】の主人公家族のそれと同一である点は、同作の生い立ちと方向性につき熟考する上でまな板から外せない。

 たとえばその中の一篇【見知らぬわたし】(1983)では、子供とサラリーマンの夫を朝送り出した主婦が突然に侵入した賊に襲われてしまう。抵抗むなしく身体を奪われた上、後日電話で脅迫を受け呼び出され、幾度か求めに応じるうちに気持ちのなかに微かな変調を来たしていくのだった。朝食の席での夫や子供の声が遠くに、曇った背景へと急激に後退していき、日常光景に亀裂が生じている。「見るとはなにか」「愛するとはどういうことなのか」という疑問が主婦を縛りはじめる。

 もちろん【魔樂】と【見知らぬわたし】とはまったく別々の物語であるのだけれど、同一の住宅、ほぼ同じアングルでの朝食の風景、極めて似た家族構成、毎日なんだか分からぬ理由で遅く帰ってくる夫、面貌をひとつにするおんなの存在という設定が両者をつよく共振させ、合わせ鏡となって起動するところがある。

 【魔樂】においては視座をおんなから男に替えている。同じ一軒屋の玄関から毎朝出て行く側に作者の思念は組み込まれる。ばたんと扉が締まり、妻が鼻歌をうたいながら掃除機を使い出す気配を背後に感じながら、男は会社にむけて歩き出すのだが、もしもそこに【魔奴】並みの途轍もない孤独や膨張した希求、「見るとはなにか」を追い求める烈しい関心が宿ってしまったら、果たして男はどこまで突き進むのだろうかと石井は考えた。

 結果「ひとつ家」と「住宅」が並行して置かれた。それが【魔樂】という世界の茫漠たる地平線なのだ。映画『天使のはらわた』シリーズのシナリオ作りにも似た石井らしい柔軟なエピソードの連結が為されており、一気に物語のすそ野が広がった。作品と作品を別個に羅列するのではなく、各作品から無数の繊維を四方八方へと拡げて銘々を結んでいくのが石井の作劇の基本である以上、そんな作劇の経緯なり発展を想像することに一切の無理を感じない。

 さて、【見知らぬわたし】が愛情をもとめる家庭人の衝迫を描いていたのだとしたら、【魔樂】も同じ性質を抱かされた作品と捉えるべきだが、家庭人の住み処となるあの家に何が描かれていたものだろうか。【魔樂】を読むとき、どうしても殺戮の舞台となる廃屋ばかりを取り上げてしまうけれど、もしかしたら肝心なのは住まいの方ではなかろうか。

 目を凝らして見ていくとこれがなかなか面白い。長年石井作品を読み解く愉悦にひたって来た者にとって、【魔樂】というのは実は“不自然”に次ぐ“不自然”、奇妙な顔立ちばかりの作品なのだけど、そこが分からないままで整理がつかないでいる読者も多いだろう。

 たとえば朝食の場で夫婦間にて為される会話やその表情を追うカットバックというのは、一見安穏とした日常が描かれて見えるが実はそうではない。いきなり小津安二郎の映画が誤って編集されたような頓狂な風合いがある。石井の世界観との統一が取れず、きな臭い不穏は空気が漂ってくる。文法が意図的に乱されている。

 極めつけは夫婦の寝室の場面であり、これは何度か強調されて描かれてもいるのだが、揃って天井を向いて眠りについていく男女の姿というのは石井劇画的にはやはり“不自然”な形となっている。

 表面上の夫婦仲は決して悪くはなく、身体を重ねる夜もあるのだけれど、このふたりして仰向けに眠る夫婦像というのは途轍もない衝撃があり、見過ごせない不自然な絵柄となっている。フランスのサン・ドニにある聖堂には往時の貴族たちの墓が在るが、その石づくりの棺の蓋には彼ら死者たちの生前の姿が実物大の全身像としてそれぞれ彫刻されている。多くが礼儀正しく真っ直ぐに仰向けになり、夫婦の場合は棺が並行に置かれて揃って天を向いて横たわる。【魔樂】の寝室の場景はまさにあれとそっくりであり、夫婦の関係が石のように硬直しつつある事を私たちに指し示している。

 何を言ってやがる、それが普通だろ、我が家だって「おやすみ」って電気スタンド消してふたりして天井向いてぐーすか寝てるよ、おまえ考え過ぎだよ、と笑う人もいるだろうが、いまは石井隆の劇づくりに絞り込んで話している。

 たとえば、会社の後輩と一夜を共にすることになるレズビアンのおんなの孤愁をスケッチ風に描いた【赤い夜】(1985)のコマをここで並べ置けば、単に眠りにつくという簡単な行為にさえ石井が想像を絶する集中力で気を配り、カップルの身体の向きや傾け具合を微調整していることが読み取れるだろう。石井隆を“褥(しとね)の作家”と呼び表わすことが出来るようにわたしは考えるが、そこで描かれるのは単なる肉体の接合図ではなく、魂の交接やその逆の離反が主体であって、単純な春画とはなっていない。ミリ単位の闘いが続けられている。【魔樂】の寝室の場景はその点、静謐と安穏を表面上装いながらも、その実はさながら自家中毒で瀕死の体であって、かなり深刻な局面である。

 非言語的コミュニケーションを駆使する術を怠り、器だけが残されて形骸化した挙句にグループを形成する個としての人間が軋み出す構図が【魔樂】と【見知らぬわたし】に代表される女性視点の一群の劇に共通する。【魔樂】が中断せずにあのまま連載が続いていけば、もしかしたら陽子と名付けられた殺人鬼の妻の身にも魔の刻が訪れていたかもしれないのだし、そこまで露骨な展開はされなかったにしても、先行する劇を含めたその総体をもって、石井隆は彼なりのスタイル、死に臨む“ホームドラマ”を立ち上げて世に問うているのは間違いない。

 後年石井は寝室や寝具を大量の血で染める映画をいくつも送り出し、世界を驚嘆させていくことになるのだが、それらと【魔樂】とは根茎を同じくする幹であり花であるのであって、乱暴に切り分けることは誤りだと思う。石井世界に興味惹かれる人は勇気を出して書棚に手を伸ばし、その血みどろの向うにある「救い」を感じ取ってもらいたいと願う。





2017年10月4日水曜日

“四つ目”~【魔樂】推想(3)~


 石井隆は徹底して“物”のディテールにこだわる。傍目からは不要と思われる程も取材を重ね、その後で紙面に独り立ち向かっていたことは先に述べた。(*1) ロケ先で写真を撮りまくり、劇にからむ小道具は買うなり借りて手元に置く。模造拳銃やバイク用ヘルメットの裏側まで研究するなど執拗を極めた。それが二次元のページに唯一無二の滑空感を与えたのだし、劇中に汗ばむような臨場感を醸成して読み手の目と魂を奪った。

 石井のハイパーリアリズムの絵を雨あられと浴びた読者のこころに何が起きたかと言えば、物語への没入感とは別のところで、冷静というか熱狂というか自分でもよく区別出来ないのだが、劇中に登場する“物”への関心がずしりと増したように思う。

 ここで言う“物”には廃墟や酒場、高層ホテルといった建築物や街並みは当然として、屋上の金網、ベッドルームの寝具や浴室の湯船、ちょっと疲れたタイル壁といった設備や装飾、林野、洞窟、川原といった自然物、それに男女の肉体までが広く含まれる。カウンター脇に貼られたフラメンコのポスターや花瓶に生けた白百合、踊り子がまとう網タイツ、角ばったライター、旧型のぼってりしたガス給湯機、パーマをかけられうねり香るおんなの髪、男の柔らかそうな口ひげ、そんな“物”について気持ちがはまってしまい、好奇心が湧いて止まらなかった。

 この世の何処かにそれ等は在る、彼らは実際に居るのではないか、という夢想というか希望のようなものがふわりと湧いてきて、あと一歩二歩だけ踏み出して真相を確かめたくなる。探し歩きたくなる、こっそり見つめたくなる、指先で触りたくなる。この疼くような感覚、切実で烈しい羨望のようなものは、やはり石井の劇画独特の煽り立てと言えるだろう。

 【魔樂】(1986)という劇においても読み手を蠱惑する“物”が溢れており、筆頭は林道の果てで犠牲者を待ち受ける廃屋なのだけど、同じくらい気持ちが引かれたのは殺人鬼の奇妙な装束だった。廃屋の暗い地下室で行なわれる殺人儀式を犯人は終始ビデオカメラで記録するのだけれど、自身が写り込んでも正体がばれぬよう用心したのか、顔にはラテックス製らしい黒々としたマスクを被っている。

 特徴的なのは目であって、丸い水中ゴーグル状のものがそれぞれ左右の眼を覆っている。通常ならば眼鏡みたいに平たくなっているはずの表面には4つの複眼めいた丸い円が描かれてあって、一体これは何だろうと不自然を感じ、ずっと正体がつかめないままに悶々と過ごした。

 ボンテージの通販ページなどで検索すれば、なんとなく似たものは見つかる。柑橘系の果物を輪切りにした風に小さな穴が等間隔に、円を描いて並んでいる。視界を遮ることで嗜虐的性向を盛り立てる、おそらくそんな類いの性具だろうと考えてはみたのだが、なんとなく気持ちに馴染まない。

 怪しげな宗教本によれば、古代シリア語で五世紀に書かれた書物の中でアンチキリストの容貌が紹介されており、左目に暗青色の瞳がふたつあると綴られている。いや、違うよな、石井は左右両方に四つも複眼風のものを並べる。そもそも悪魔を髣髴させる顔付きではないのだ。もっと冷めた感じ、硬い印象を受ける。

 近年開発され、軍関係で使用され始めた化け物じみた四眼式の暗視ゴーグルがあるが、あの手の光を増幅する道具かとも考えてみた。太陽光の届かない暗室という設定では有り得る姿だ。しかし、【魔樂】のそれはあまりに小型であって、そんなコンパクトな暗視装置があるなんて聞いたことがない。世の中に本当にあるのだろうかと訝りながら、月日だけが無闇に過ぎた。

 マスクについて石井は最近言うか書くかをしており、どこでだったかは失念してしまったけれど、話の主旨は次の通りであった。【魔樂】においては目出し帽のような覆面で正体を単に隠すだけではなく、一切意思や感情を読み取れないような覆い方をする必要があった。あれは自分の発明である。確かそんな風な発言かと思う。

 知ってみればいろいろと合点がいく。殺人者の厚味のある靴をけたたましく線を連ねて活写し、物憂げな性具には照明のぬるりとした反射を再現して素材や硬度を伝える。物が密度を持って次々に迫り来て、読者をひどく威圧したりするのだけど、反面、石井は黒い全頭マスクについては詳細を描かない。物語の進行上、そのマスク顔をコマのいくつかに割り当てる必要が出てきた時でも、ことさら小さく、読者の視線が滞空することのないように配置した。ハイパーリアリズムの筆さばきを回避することで、ディテールを意図的にすっ飛ばしている。実在しない物であればこそ、あれ以上は細かく描きようがなかったのだ。

 いや、むしろ描くわけにはいかなかったのかもしれない。私たちは石井の劇で目出し帽や仮面が登場すると、その後どのような感情の起伏が周囲の人物に生じるかを学習している。恐怖におののきながらも必死に目を覗き込み、眉の形状やまぶたのたるみ具合に特徴は無いか、虹彩に滲み出す感情の起伏を丹念に探った。わずかの露出に人間のすべてを垣間見ようとした。あの手のまなざしを【魔樂】にて石井は他の登場人物に、そして、私たち読み手にも徹底して封じるべく技巧を凝らしている。【魔樂】という物語の軸芯がそこにこそ在るからだ。

 美術評論家がオディロン・ルドンOdilon Redonの描く目玉の化け物を論じた小文のなかに、こんなくだりがある。

「『見るとはなにか』──それは、いつでも見られることだ。はげしく、新しく見ようとする意識の裏側には、つねに、なにものかによって、たえず外から見つめられている、という恐怖がある。それがなにか、と見きわめようとすればするほど、それは、ますます厖大な不可視的なものに変じておそろしくこちらを見かえす。目に見え、名前をつけられるものは、すでに人間の手の中のおとなしい猫にすぎない。だが、その背後の魔は、どうすればよいのか。見えてくるものは、一切とるに足らぬときめこんだ心が、恐怖におびえ、押しかえすように凝視そのものに化する。こんな、凝視と恐怖とが交錯する地点に、眼玉イマージュが空をにらんでもだえるように浮びあがってくるのだ。」(*2)

 立体感がまるでない、覗き穴ともレンズとも分からない四つ目の生成過程というのは上の評論家の言葉に似た経緯なり深慮が作者の内部にあったものと思われる。石井が創った【魔樂】の主人公がルドンに魅入られていた訳ではないけれど、「見るとはなにか」という自己問答に憑かれた男であるのは間違いなく、それに没頭する余り、見られることに異常な怯えを抱いてしまっている。五円玉ほどの小さな穴越しに、はたまた、でこぼこのレンズ越しに瞳を透かし見られ、驚愕や不安、喜悦といった心情を読み取られることを極度に恐れているのであって、それが造形を歪め、この世にない顔立ちへと発展させたのだ。迷彩服やTシャツ、斧といった実在の物に“観念そのもの”が形を得て継ぎ足されている。

 この異常でアンバランスな外貌は【魔樂】の主題に則した姿だった。「見るとはなにか」に捕縛された男は、おそらく暗がりで今さっき殺めたばかりのおんなをひたすら解体して凝視する、そんな酷い行為に熱中しているに相違ないのだけれど、修羅の光景の只中にある男の頭に去来するのは、かならずしも喜びばかりでないのは劇中彼が繰り返し見る悪夢が能弁に告げている。究極の「見る」ことで得られるはずの幸福が、どうしても実感できない事態である。一体なにを間違えたのか。

 顔の表情、顔色、視線、身振り、手振り、体の姿勢、相手との物理的な距離の置き方といった非言語的コミュニケーションは石井隆のドラマがもっとも得意とするところで、他者から何頭身も抜きん出たところだが、それらは全て「見ること」に集中する時間を物語上約束していた。その上で感情や思考の伝達、意志の疎通と相互理解といったものが萌芽する。「見ること」を起点とする切ないほどの希求と恋情が、画面に満ち満ちていくのが石井の持ち味だろう。

 【魔樂】ではこの約束を(表面上)封印している。部厚いマスクに指先を立て、血だらけにしてそれをようやくこじ開け、細いわずかな隙間から「見るとはなにか」を探し求めてしまい、暴走を始め、男は自己崩壊に至ったのである。視線はいつしか行き場を失い、悲鳴を上げたのだ。それこそが石井が描きたかった【魔樂】の劇が懐中する本音ではなかったか。

 お互いにであれ一方的であれ「見る」という行為を表層に現わすことを禁じられた男の顛末を描いた点で、石井ドラマの主流に対する完全な陰画に位置づけられる。そのように読み解けば何とも哀れで悲しい話と思われてくるのだし、この上もなく石井隆の劇なのだと了解されていく。

(*1): http://grotta-birds.blogspot.jp/2011/03/blog-post_21.html
http://grotta-birds.blogspot.jp/2011/03/blog-post_6894.html
http://grotta-birds.blogspot.jp/2011/03/blog-post_6221.html
(*2):「グロッタの画家」 東野芳明 美術出版社 1957  引用は1665年再版のものから 「ルドンの眼玉」87頁



2017年9月20日水曜日

“救助者”~【魔樂】推想(2)~


 【魔樂】(1986)で人体めがけて振り下ろされ、肌を割り裂いていく斧。単なる小道具を越えた作者の執着が感じ取れるのだけど、これを“趣味”のふた文字で了解して良いのだろうか。

 確かに石井隆は斧を好んで使う。【黒の天使】(1981)のエピソードで狂った元傭兵がびゅんびゅんと振り回すし、脚本を提供した『ちぎれた愛の殺人』(監督 池田敏春1993)での名美(余貴美子)も斧をぶらさげて姿を現わし、最後は夫の村木(佐野史郎)も大上段にこれを構えて人生の幕引きをしたのじゃなかったか。そういえば、【デッド・ニュー・レイコ】(1990)にも大斧を携える屈強な女アンドロイドが登場する。

 なるほど、重量感のある斧は視覚的によく映える。日本刀や小銃の扱いは武芸者なり殺し屋の技量や年季に左右されてしまい、勝敗の予想を狂わせてしまうけれど、斧というやつは誰が振り回しても当たればただでは済まないと思われ、ぶんぶんという風を切る音だけで相手は目を丸くしてたじたじとなる。観客の恐怖を煽り、娯楽色を強める。その辺をわきまえた差配と考えることも出来よう。

 でも、【魔樂】において殺生の対象となるのは、睡眠薬で朦朧状態に陥ったか、当身(あてみ)で気絶させられ、その挙句に手足を縄で縛られて完全に自由を奪われたおんなたちだ。そんな無抵抗の者に向けて鋭利な万能斧を真一文字に振り下ろす行為というのは、武芸とか決闘とは無縁の局面だろう。ここでの斧は武器の範疇には含まれず、端的に言って処刑の道具、もしくは一撃必殺で打ち倒す屠畜用の器具になっている。争いを前提としない一方方向の仕組みとして万能斧は採用され、【魔樂】という劇中で荒い息を吐いている。

 「おんなに打ち込まれる斧」という図柄だけを取り出して視線を注ぐとき、即座にフョードル・ドストエフスキーの「罪と罰」(1866)を想起する人もいるだろう。おいおい、勘弁してくれよ、まさか本気で言っているのかよ、【魔樂】は単なる人殺しの話であって中身なんか皆無の猥本に過ぎないだろう、と、失笑交じりのざわめきが耳に届くようだけど、一時は「劇画界のドストエフスキー」の異名をとった石井だ。簡単に連結をほどいて良いのかどうか、時間を割いても悪くないように思う。

 ドストエフスキーの「罪と罰」は承知の通り妄想癖の強いロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフという男が質屋を営む老女を殺害し、その死体を目撃して硬直した老女の義妹を続けざまに殺して金品を奪うことに端を発する魂の遍歴を描く。ここまで縮約すると𠮟られそうだが、いまは何より殺害場面の熾烈さこそが大事だ。

 老女アリョーナ・イワーノヴの殺害方法は背後から忍び寄り、斧の背部分で後頭部を連打し、頭蓋骨を陥没させて死に至らしめるものだったけれど、主人公ラスコーリニコフを当惑させ、その後ずっと魂を揺さぶり続けるのはこの老女の撲殺ではない。隣室を物色するうち、入り口の方で音がする。惨劇について何も知らずに帰宅した義妹リザヴェータ・イワーノヴナが、血の海を前に立ちすくんでいるのだった。手の平をこちらにかざすだけで顔面を守ろうとさえしないおんなに、真正面から歩み寄り、その頭頂部に斧の刃先を思い切り打ちこんでこめかみの辺りまで深々と叩き割った二度目の行ないに対し、主人公は心底戦き、いつまでも打ち震える羽目になる。このリザヴェータ殺害の場景の切迫した描写というのは相手が無抵抗であるがゆえに、また、斧の刃先が肉体を幹竹割りする惨たらしさゆえに、石井の【魔樂】と重い共振を為している。

 石井の【魔樂】「罪と罰」に触発され、下敷きにした訳では勿論ない。見える限りにおいては、血だらけの斧以外に共通するところは無い。しかし、石井が「劇画界のドストエフスキー」といつしか呼ばれたその理由に思いを馳せるとき、両者間に共通するものとして、描写の熾烈さ、人物相関の緻密さ、グロテスク・リアリズム、内観の深さという点があったのは間違いない。当時の読書好きの文学青年たちが石井劇画と文豪の小説に通底するものを確かに視止めた、その結果こそがあの譬(たと)えなのだ。だとしたら、【魔樂】だって「罪と罰」並みの重層構造と最初から捉えるのが正しかろう。斧から放射される重奏する面持ち以上に、私たちが留意すべきは実は其処のところなのだ。
 
 連載誌の都合によって中断の憂き目に遭い、単行本化にあたり「かたちばかり書き足してラストらしく繕って」(*1)なんとか物語の体裁を保ったと石井は書く。殺人鬼がさらなる獲物を手にしたという至極簡単な説明であり、それも、第一話の冒頭と酷似したものだった。つまり、物語はふり出しに戻された形にされており、要するに阿鼻叫喚の地獄図は永劫に続くという解釈を読者は強いられた訳である。どこか状況に倦んだ気配が石井にはあって、もうそれで構わないと登場人物たちの一切を棄て置いてしまった。倦んだというのは言い過ぎかもしれないけれど、【魔樂】は撮影半ばに制作を中断させられた映画にも似た状態にあるのは十分意識して良いところだ。

 振り返れば石井の劇は激しい終幕を特徴とする。たとえ主人公が精神を病んで現実から乖離し、魂がきりもみ状態に陥っても、そこに至るまでにはきわめて苛烈で積極性をそなえた(映画的と言ってもいい)境界面の破壊行動がともなうのが普通だ。『花と蛇』(2004)や『人が人を愛することのどうしようもなさ』(2007)が典型だろう。ループ直前には愛する者、愛してくれる者の犠牲が生じてしまう。現状そのままに揺動もまるで無くするすると閉塞していく、そんな平坦な顛末を石井は好まない。昔と同様の生活を送ろうとする者、送らざるを得ない者には壮絶な痛みをともなう欠損が雷となって襲い掛かる。

 この定型に倣うのであれば、【魔樂】の殺人鬼が「日常」(誘拐と殺害を繰り返す行為ながら、彼にとっては十分に慣れ親しんだもの)を続けるには、“愛着ある何らかの者”の欠損が在らねばならない。【魔樂】という物語はそこまで至っていない。その意味でいまだに幕は閉じられていないし、単行本の内容をもって石井の構想はおおよそ形を成したと捉えるのは見当違いと言わねばならない。劇はまだ序番を終えたところである。

 読者はいかに困難であってもさまざまに想像をめぐらし、石井の過去作や近作と照らし合わせ、また、石井が読んだ、もしくは読んだかもしれない古今東西の名作の残照を手懸かりとし、登場人物の「その後」をどうにか見定めなければならない。【魔樂】という物語は其処を経て、ようやく私たちのこころの入り江に漂着するように思う。

 ふたたびロシアの小説に戻れば、ソフィヤ・セミョーノヴナ・マルメラードワ (ソーニャ)という娘が筆先から産み落とされる。家族を飢餓から救うため、街頭に立つ決意をした若いおんなだ。地獄を描くことによって「救い」を描く芳年の絵さながらに血まみれの小説世界に着地している。識者が「救助者」(*2)と表現する存在であるけれど、【魔樂】においてこれと同じ役割を担わされたのが第5章の末尾から登場する「山部明香」と名付けられたおんなだったはずである。【魔樂】は先行する【魔奴】(1978)を発展させたものと呼べるから、【魔奴】にて“語り手、目撃者”に選ばれた「愛」という名の少女と同程度、またはそれ以上の厚みなり重さで物語に食い込んだはずだ。

 これまでの石井の作風からして、既に大勢の女性を殺めてしまった男の罪(*3)を司法の手にゆだねるはずはなく、おそらくは血と雨と青白い光に染まった大団円が闇の奥に待ち受けたはずである。当然ながら森の奥の廃屋が背景幕となり、息を呑み呻くしかない終焉が描かれたことだろう。身じろぎ出来ぬまま「救い」について延延と深省する、そんな夜がきっと在ったと考える。

(*1):「魔樂」 石井隆 ぺヨトル工房 1990 あとがき
(*2):「ドストエフスキー人物事典」 中村健之介 朝日新聞社 1990  218頁
(*3):「魔樂」第4章「悪魔のしづく」にて、男の前に被害者の断末魔の影が同時に出現する。数えてみると14人もいる。





2017年9月18日月曜日

“戦争の惨禍”~【魔樂】推想(1)~


 靴を履こうとしていたら、携帯電話が急にけたたましい警告音を発した。カバンを置いて居間に戻り、開いていた窓に手を伸ばして雨戸をがたがたと閉め直す。カーテンを引き、薄オレンジ色の電燈を灯し、隣りの台所との間にある仕切りの小窓も閉める。同居する者たちが口々に不安を訴えながら集まってきて、ソファに皆が座ったところでテレビジョンのスイッチを入れて飛翔体の通過するのを待った。

 迷惑な事とは思うが、これが本当の世界の実相なのであって、今までがどうかしていたのだとも感じる。地中海では何千もの移民が溺れて海底に沈み、産油国での紛争は日々絶えない。特にウェブを介して中東シリアやイラクでの民族浄化を目的とする殺戮の場景、そのあまりにも絶望的な現場をこれまで沢山見てしまったのがいけない。平和なんて束の間の幻影に過ぎないという、ごりごりした固いしこりに頭が侵されている。

 夏の終戦特集で放映されたインパール、満州国、樺太、広島、ベルリン、ポーランドでの、人体を挽き肉用のチョッパーに無理矢理かけるような棄民と処刑の伝承、人身御供にされた犠牲者の証言なり再現映像を見ていると平和な生活が磐石などとは到底信じられない。残念ながらいつか卵は割れ、どろどろの黄身が床に流れ落ち、あっという間に腐臭で周囲は満たされるに決まっている。のんびりしていられるのも今だけだ。

 石井隆の【魔樂】(1986)の頁をめくるたびに似たような臭いが立ち昇り、鼻腔を突かれた具合になってつい怯えてしまう。性犯罪の域を大幅に越えて、石井は「戦場」に近しい荒ぶる場処を描いているのではないか。殺人鬼の男がわざわざ迷彩のほどこされたズボンに履き替え、偽物ながら重火器を携えて被害者に最初迫ったところも、何かしらの作者の意図が込められている気がする。

 【魔樂】の前身となった【魔奴】(1978)が、連載誌の性格(嗜虐的性向をテーマに絞った編集)を越え、極限の愛を誌面に刻んでいったように、続く【魔樂】だって表面を流し見するだけでは透視し得ないものが付帯されていて当然だろう。そもそも石井隆とはそんな霞掛かった作り手であって、大概の読者は走り去ろうとする彼の背中をかろうじて凝視めるのが精一杯だ。表情なり眼光を覗うことがなかなか難しい。

 戦場を想起させる理由は他にもあり、実は【魔樂】を眺める時どきに常に思い出されてならない連作版画がある。石井が一度も言及したことがないから妄想でしか多分ないのだけど、フランシスコ・デ・ゴヤ Francisco de Goyaの「戦争の惨禍 Los desastres de la guerra」(1810-20)とイメージの連環がある。

 欲望に裏打ちされた異常犯罪の画像や書物をいくら探して眺めても結線しないのだが、このフランス軍によるスペイン掌握に前後して起きた衝突や民族蜂起といった大混乱を題材とした連作を眺めていると、いつしか石井の描く無惨絵と頭のなかで重なり、地平がきれいに連なってしまう。衣服を剥がされた裸の男の両脚が左右に強引に押し開かれ、股間の一物をめがけて兵士がサーベルを突き立てている場面や、手のひらを差し出し制止を訴える兵士に対して斧を高々と振り上げる男の姿を見ると、【魔樂】のあれこれの場面が二重写しとなる。

 無情、諦観、武器を振りかざす者への嫌悪感がむらむらと、鼠の死骸の下から湧いてくる赤い蛆みたいに際限なく、どこまでもどこまでも噴きこぼれる。公平と言われる世の中でありながら、草むらや都市の死角に引きずり込まれ、救けを必死に求めながらも誰も応じてくれず、苦痛と悲鳴にまみれて傷つき死んで行く弱き存在の今この瞬間にも大勢居ること。その現実を見ようとせず、語ろうとせずに、空々しい歌や笑いに逃避するばかりの世相に対して、ただただ暗然として深くうな垂れてしまう。

 こんなおぞましい人殺しはフィクションだと君は思うだろうけどさ、ひと皮剥けばそれが普通なんだよね、素顔の世界ってそういうものだよ、と、遠くを駆けていく石井の背中が小声で語っているように思う。






2017年9月17日日曜日

“讃美者でない真の理解者”~【魔奴】と【魔楽】への途(みち)~(11)



 石井隆が【魔奴】(1978)に挑んだ契機として、1977年に西武美術館で開催された「月岡芳年の全貌展」がさまざまな形でかかわっているとする想像はどうだろう、あまりに奇抜過ぎるだろうか。パンフレットの中には、芳年と“劇画”とを紐づけした一文も見える。

「文学史を少し遡って、明治二、三十年代迄に幼少年期を送った近代作家達にとって芳年は、彼らの日常と切り離せぬ、生活と密着した絵師であったと考えられるのである。いや絵師などという時代がかった肩書きを用いる以前に、新聞、草双紙の挿絵画家であった彼は、流行のイラストレーターや、今だポンチ絵が普及していなかった当時の少年達にロマンを与える劇画家、つまり現代の横尾忠則や白土三平(しらとさんぺい)にも通ずる存在であったということが出来るだろう。」(*1)

 ここでいう近代作家とは谷崎潤一郎や芥川龍之介を指す。芳年を当時隆盛を誇った劇画とくっつける点が世相を反映して見えるけれど、白土の名がぴょこんと挙がるだけでそのまま収束してしまったのは実に惜しい。さらにこの寄稿中には、現在(70年末)への影響と継承をめぐって次のような件もある。

「我々が現在、浮世絵師芳年の名を耳にする機会が稀であるのと同様の理由で、三島を除いた「現代作家」と呼ばれる人々の間に、芳年の影響を問うことは、かなり難しい課題といえよう。」(*2) 「近代の先駆となり、無惨な礎ともなったこの近世の末路を振り返ることから芳年の存在を見つめ直す時、そこには、三島由紀夫の如き特殊な意味での讃美者でない真の芳年理解者が生まれ、そこから芥川と芳年の如き現代作家と彼との関係が成り立ち、新しい現代文学の可能性が開かれてくるのではなかろうか。」(*3)

 このパンフレットを石井が手にしていたとしたら、相当に気持ちはざわめいて血圧は乱れたことだろう。時代を彩る劇画界の巨星として自他共に認める自身の影に一切触れられないだけでなく、芳年の後継たる“新しい文学”の出現を強く希求して文章は閉じられている。日本文学の研究者が寄せたものだから仕方ないのだが、絵の後継は本来、文学ではなく絵ではないか、芳年が幕末から明治にかけてイラストレーターや劇画家として君臨したのなら、跡を襲う役割は当然ながら劇画家たちであるのが筋だろう。

 もちろん絵画は時代を越えて発光し続け、後世の人たちの感懐を誘って何がしかの力を及ぼすものだから、芳年が文芸の進む方位を変える事は起こり得る。それは了解されるが、芳年は唯一無二であり、継承する劇画家やイラストレーターは生まれ得ないとも受け止め得る文末はもどかしさを覚えるところだ。

 石井は1986年、【魔奴】の製作後およそ八年を経て【魔樂】を発表する。例によって独特の多層世界となっており、一筋縄で行かない作品ではあるけれど、月岡芳年の諸作品を受け止めた石井が自分なりに真摯に取り組んだ「無惨絵」を中軸に捉えている。

 舞台は不規則に客が入退出を重ねるモーテルではなくなり、「東京の街から高速で北に二時間、さらにそこから一時間余りオフロードを入った山奥に」ある一軒の廃屋となった。つまりは周辺に人影ない、樹海の海に浮かぶ孤島めいた“ひとつ家”の性格を“不自然に”強めている。男は次々に女性をさらっては遠路はるばるこの廃屋まで苦労して連れていき、そこで無残で血みどろの殺害を繰り返すのだった。

 殺害の手法はいくつかあるが、最も象徴的に使われるのが斧だ。刃先の形状からすると「万能斧」と呼ばれる65cmから70cmほどの物のようだが、緊縛して自由を奪った女性の身体に向けて、思い切り振りかぶって容赦無く撃ち下ろす。卓越した筆さばきで延々とコマを連続させ、おんなたちの絶命に至る様子をこと細かに描いて見せるのだったが、時折挟み込まれる二頁にまたがる見開きでは万能斧が衝撃音と共に肉体に食い込んで血がしぶき、事もあろうに赤インクも使った二色刷りの誌面さえ提供している。無抵抗の白い肌から鮮血がぶしゅっと噴き上がり、天井方向にまではね飛ぶ。読み手のこっちまで息が止まり、斧で殴られ脳震とうを起こした具合になった。

 石井の作歴やインタビュウでの映画愛、絵画愛、役者への憧憬といった言動を知らずにこの列を為す常軌を逸した殺戮の図だけ見たら、十中八九の確率で誤解を生じるのは間違いない。実際この【魔樂】についての識者や読者からのコメントは少なく、内容も言葉少なで要領を得ない。触らぬ神に祟りなしと決め込んでしまったか、熱心な石井の読者でさえも沈黙しがちである。暗渠を流れる水銀のような、冷たく硬質の面持ちで劇画世界に【魔樂】は潜行していく

 単行本となった際に石井が巻末に記したあとがきも混沌を後押ししたように思う。作品を覆う気分をいくらか“盛って”綴った文章であり、それを真に受けた読者は石井が(*4)重い躁鬱病に罹ったのではないか、頭がどうかしている、【魔樂】は狂気と悪魔崇拝が支配した相当にやばい作品と思うだろう。石井の作歴を俯瞰すればそんなことは決して無いのであって、直ぐその後にロマンティックな【雨の慕情】、【雨物語】、【赤いアンブレラ】(共に1988)などが甘い雨滴をともなって描かれ、『月下の蘭』(1991)、『死んでもいい』(1992)といった監督業にも乗り出している。

 無惨絵を会得した石井がこれを強調し、計算を尽くして描いてみせたのであって、渦巻く狂気に翻弄されて勝手に筆が走った訳ではない。先人芳年が敷いた鉄路を正当な若き理解者として名乗りを上げた石井が、意識的、ある意味、露悪的に綱渡りの要領で歩いてみせ、無言ながらも闘志を剥き出しにして取り組んだ作品である。

 上の研究者は白土三平の名を上げた際、そこに白土の忍術ものに散見される残酷描写の連想があったのだろう。血みどろの絵であることの共通性をもって両者を繋げた訳だけれど、芳年の無残絵の後継に白土劇画が立たないのは明らかだ。【忍者武芸帳 影丸伝】(1959-62)における死闘で手足を徐々にもぎ取られ、四肢を完全に飛散させて息絶えていくおんな忍者、明美や蛍火の末期の様子は芳年と似て胸に迫るけれど、紙面に充溢する風景が違う。複数の忍者が罠を張り取り囲み、孤立した相手を襲撃するなぶり殺しの図であって、芳年が描き、石井が継承した“個”対“個”の破壊劇であるとか、逃げ場のない“ひとつ家”感であるとか、“地獄を描くことによって「救い」を描く”という部分が欠落している。

 年少の時分に理容店で順番を待ちながら読んだ絵に心臓を射抜かれ、網膜に焼き付いて頭から振り払えなくなり、その理由を自らに問い続けながら人生を賭して血みどろ絵に向き合っていく。もの凄い集中力と勇気と思う。人の世の裏側には血脈以上に濃厚な系譜がある。血しぶきを浴びた者のみが辿ることを許される、長く冷たい鉄路がある。

(*1):「大蘇芳年と近代文学」 神田由美子 「月岡芳年の全貌展 最後の浮世絵師 最初の劇画家」 西武美術館 1977 
(*2): 同
(*3): 同
(*4):芳年のように!



2017年9月12日火曜日

“最後の浮世絵師 最初の劇画家”~【魔奴】と【魔楽】への途(みち)~(10)


 【魔奴】(1978)の制作にあたって芳年の絵、特にその無惨絵の継承が図られたと考える根拠は、芳年の再評価と個展開催の時期と【魔奴】の発表が重なる点だ。以下は「月岡芳年画集」巻末にある略年譜から拾った。

昭和四十八年(一九七三) 七月、高橋誠一郎コレクションによる「明治浮世絵展」がリッカー美術館で開催され、清親、芳年、国周が展示される。
昭和五十一年(一九七六) 二月、幔幕絵発見記念の「一魁斎芳年展」が東京の大阪フォルム画廊で開催される。九月、「月岡芳年展」が京都新聞社主催で、京都大丸で開催される。
昭和五十二年(一九七七) 七月、「月岡芳年の全貌展」が西武美術館で開催される。(*1)

 芳年ひとりに絞り込んだ展示会は1976年より始まり、400点もの秀作を集めた翌年の全貌展において世間の反応は沸騰している。そもそもこちらの画集自体が西武美術館での個展の反響を経て出版されたものだし、先述の横尾忠則の小文を載せた古い美術誌の特集にしたって全貌展の開催に合わせて編まれたものだ。石井隆の【魔奴】はこの盛り上がりの直後に描かれている。

 全貌展のパンフレットの墨色に染まった幽玄な顔付きの表紙をめくれば、最初に目に飛び込むのが「最後の浮世絵師 最初の劇画家」(*2)という副題である。これを手にした石井の衝撃とその後の発奮というのは、考えてみれば至極当然なことではあるまいか。前年1976年に【おんなの顔】、【街の底で】、【紫陽花の咲く頃】、【水銀灯】、【赤い教室】、【蒼い閃光】、【白い汚点】と傑作を次々に発表し、長期連載の【天使のはらわた】をいよいよ始めた劇画界の寵児たる石井の眼前に、芳年が“最初の劇画家”として紹介されたわけである。彼の存在を身近に感じると共に、劇画とは何かを考えさせられる契機となっただろう。

 以前書いたように石井と芳年の遭遇はずっと早い段階にあって、おそらく1950年代の終わりか60年代のごくごく浅い時期であり、馴染みの理髪店に置かれていた今風に言えばパートワークに当たる「傳説と奇談  日本六十余州」に使われた「奥州安達ヶ原ひとつ家の図」が最初であった。以来、芳年は石井にとって興味ひかれる絵師となっていく(*3)  全貌展で石井が実際に目にしただろう幾つか、妖魔や武者を描いたものは既に「傳説と奇談」の中で見ていたはずだが、血生臭い無惨絵をまざまざと瞳に焼き付けたのは多分この時期に集中しただろう。石井世界にあって“不自然”さを付随させた【魔奴】という中篇は、石井の内部に黒い波が押し寄せて走った一種の亀裂だった可能性がある。

 誤解してはならないのは、石井が芳年の無惨絵にむざむざ浸食され、ひれ伏した訳ではないという点だ。画風や物語の様相が残虐一辺倒へと雪崩打つように変化してはいないのであって、むしろ石井が芳年の無惨絵をすっかり消化し、自身の劇画をより深化させている。芳年ブーム以前の【紫陽花の咲く頃】、【水銀灯】、【蒼い閃光】といった作品においても肉体は傷つけられ、血の塊がぼたぼたと落ちていたから、芳年を見てようやく血に目覚めたわけではないのだ。ただそれら全貌展前の人体殺傷の表現は、ヤクザ映画に見られた刃傷沙汰なり、舞台や時代劇に描かれた切腹の再現にするりと収まり、いくぶん定型に陥っていたように感じられる。

 手首や下腹部が真一文字に斬られる様子は痛々しく仰天させられたけれど、調和的というか観念的というか、どこかで見たような気もする刃先と傷口が露出して見えた。沈鬱な空間に手招きされた読者は乾いた石鹸のようにこわばった表情でひたすら頁を繰ったけれど、とめどなく溜め息が漏れ続けても呼吸が止まることはなかった。

 【魔奴】以降の石井作品、劇画に限らず映画の演出でもそうだけど、傷つけられ殺められる肉体描写はより突発的となり、読み手の想定を大きく逸れたものとなった。どこをどのようなタイミングで傷つけられるかを被害者も目撃者も予想できず、痛覚の伝達よりも先に、当惑、不可解、悲哀といったものがもぞもぞと蠢き、その後で恐怖と苦痛にのたうち回った。

 【雨のエトランゼ】(1979 )の墜死とその目撃、【その後のあなた】(1980)での頚動脈の裂傷、【黒の天使】(1981) にて針で貫かれる眼球、腹部から突き刺さり背中まで至る改造三脚、強く握りしめたナイフからしたたる鮮血、【愛の行方】(1980)での無言の強襲、『GONIN』(1995)のドア底の隙間からの弾丸射出と臀部銃創といった血の景色に最初に出会った時を思い返すとき、我が目がまるで信じられず束の間の呼吸停止があった。傷付けられること、命を奪われることは完全に不意討ちに近づき、狙われる部位は定まらずに身体も心もまったく守りようがないのだった。調和など一切なく、不穏さが増した。暴力と死が暴れ狂って思考が瞬時に凍りつくようになった。石井の劇は加速度をつけて現実味を増したように思われる。

 美術評論家は絵画と劇画を別次元と捉えるのだろうが、わたしは芳年の後継者として石井隆がこの世に在ることを信じるし、それはこの上なく普通の事と捉えている。

(*1):「月岡芳年画集」 瀬木慎一 講談社 1978 略年譜 139頁
(*2):「月岡芳年の全貌展 最後の浮世絵師 最初の劇画家」 編集 瀬木慎一、高橋誠一郎  西武美術館 1977
(*3): http://grotta-birds.blogspot.jp/2016/07/blog-post.html



2017年9月9日土曜日

“地獄を描くことによって「救い」を描く”~【魔奴】と【魔樂】への途(みち)~(9)


 こんな具合に旧い映画や書物の余薫が付き纏う。それは【魔奴】(1978)に限った話ではなく、石井作品全般の特徴だ。見聞した総てが雨のように染み入り、やがてゆらゆらりと連鎖しては鮮烈なイメージへと結像する。石井の映画や劇画のひとつを語るときには、当然のごとく数多の残影を引用せねばならない。いや、そうするのが義務というのではなく、ただそうやって広く深く考えた方がずっとずっと面白い作家であり作品であるのは間違いない。

 この辺りで石井が時おり口にする幕末の絵師、月岡芳年(つきおかよしとし)という存在に絡めて【魔奴】や石井世界を再度捉え直してみたい。人里から離れてようやく行き当たる“ひとつ家”の照明の落とされた暗室で飽くことなく繰り広げられる殺傷の景色は、おそらくは芳年の“無惨絵”に触発されたものだ。

 立て続けに親の死、妻の死に直面した男は彼女らを愛する余りにひどく動顛(どうてん)して魂を変調させ、休憩や宿泊にモーテルを利用する客を襲っては殺めていくのだけれど、累々と築かれた死体の始末に対しては無頓着な対応に終始する。モーテル近くに在る底なし沼に無造作に放擲(ほうてき)するのだったが、それはヒッチコック『サイコ PSYCHO』(1960)の系譜たることを紙面に刻む目的というよりは、この劇の主体となるのが何よりも人間の身体を傷つけ、死者を作り出すその一瞬の有り様をこの上なく残忍で逃げない構図なりタッチで発信し、世間を震撼させることだったからだ。私の推測が正しければ、石井は自分なりの“無惨絵”を描くことでどれだけの力が絵に潜むものか試したかったのだ。

 手元に芳年を特集した古い美術誌があるのだが、そこに作家の野坂昭如(のさかあきゆき)なんかに交じり画家の横尾忠則(よこおただのり)が興味深い一文を寄せている。芳年の血みどろ絵画の読み解きとして正鵠を射ると同時に、石井のかつての劇画と現在に至る映画世界にて執拗に重ね塗りされる血の描写についても正しく言い当てているように思う。

 横尾は芳年の「英名二十八衆句」の一枚である「遠城喜八郎」(1866)ほか数枚を選び、芳年の無惨絵の根幹にあるのは「救い」であると説いている。血だらけの武士がかたわらの石地蔵に腕を伸ばしている、「遠城喜八郎」とはそんな絵だ。少し長くなるが書き写しておきたい。

「芳年の絵をどのように見るかは勝手だが、ぼくは芳年に「救い」の観念を見る。救われない世界を描きながら、その実、芳年は救いを求めていたのであろう。正確にいうと芳年が救いを求めていたのではなく、芳年に憑きまとう死者の霊が救いを求めていたといった方が当たっているかもしれない。「英名二十八衆句」という作品は残虐極まりない殺しの場面の連続だ。ここには死の恐怖が最高に凝結しており、彼方に「救い」を求める人間の最後の姿が描かれている。」

「芳年は決して死を美化していたとは思えない。ずるずる引き込まれていく死と狂気の中で、芳年が最も求めたのは「救い」ではなかったのだろうか。己の因果からの解脱を願っていたのである。」

「芳年が仏教的な人間であったかどうかは別だ。ただ己の因果に相当苦しんだことだけは確かだろう。直感的にぼくはそう思う。地獄を描くことによって「救い」を描くなんて、やはり相当の苦しみであろう。因果からの解脱を芳年はどんなに望んだことだろう。「救い」を描きながら、どうしたわけか芳年の作品には「救い」の安堵感など微塵も感じられない。「救い」の観念は描かれているが、残念ながら「救い」そのものは描かれていない。身体中を小さな針が無数に駆け巡っているような痛みを感じる絵ばかりである。」(*1)

 石井は【魔奴】の最後にヤコブの梯子(はしご)にも似たひと筋の光を贈り、男と妻の亡骸を白く照射している訳だから、横尾の透視する芳年の焦燥や妄執とはわずかに段差がある。しかし、地獄を描くことによって「救い」を描くことや、「救い」を描きながら安堵感など微塵も感じられないという芳年の無惨絵の根本的な仕組みと石井の緊迫する劇の間には、地続きの目線なり同一の軌道が確認出来る。

(*1):「みづゑ」1977年8月号 美術出版社 39-41頁 「芳年・血みどろ絵に見る『救い』」横尾忠則