2013年10月30日水曜日

“草むら”



 作り手が石井隆の劇画作品に執心する余り、そのコマの“忠実なる再現者”となって頻出した時期がある。絵を生業(なりわい)とする者は盛んにトレースしていくのだったし、フィルムを回す者はナイトシーンの一端にそっくり採り込もうとした。幾つか例示することは可能なれど、ここでは後述する一冊をのぞいて言を控える。好きなものを模写したい、徹底して再現してみたいという気持ちは人間誰しもが抱える欲求だからだ。

 撮影機材やモデルを揃えられる身であれば、私だって試したい。世間から隔絶されたホテルの小部屋などで、撮るものと撮られるもの、熱視(みつ)める者とすべてを晒す者となって石井の創って来たと同様の濃厚な時間を過ごしたいと願わないでもないのだが、機材はさておき、石井の描くおんなを捨て身で演じてくれる人はそうそう身近には居らないし、そもそもが臆病者ゆえ、生身の女性に話を振ること自体が端(はな)から無理な相談である。そんな体たらくなので、つまり私もまた石井作品の中毒者だからこそ、彼らがどのような狂熱をおびて石井劇画に挑んでいったか分かるのである。

 背景と人物がとことん写実的で完璧に溶け合い、かちこちと秒針を刻むが如き擬似空間を湧出させるハイパーリアリズムの旗手“石井隆”の劇画を読み込むということは、そういう“なぞりたい、真似したい”という衝動なり欲望を懐胎するものだし、現実を侵食しかねない獰猛(どうもう)な行為に手を染める覚悟なり諦観が要る。


 さて、石井の森や林は舞台設定上、どちらかと言えば“地獄”として劇中登用されている訳だけれど、狭い我が国土では北海道の針葉樹林なり沖縄の熱帯雨林にでも足を踏み入れない限り植物相は近似するから、ある意味、そこら中が石井作品の背景と化して機能し得るはずである。あの野辺もこの裏山も、たちまち石井隆の地獄になるのではないか。ところが、いざ林道を突き進み、木立の奥に分け入って周囲を眺めてみると、そこに石井の描くおんなや男の姿を幻視することがなかなか難しくなる。仮に想像し得たとしても、石井の紡ぐ劇の情調(じょうちょう)には遠く及ばない安手の印象を残すは必定で、この妙に乖離した気分なり現象については前回書いた通りである。

 馬鹿、おまえが不甲斐なくってモデルを調達出来ないからじゃないか、と笑われそうだが、仮に劇中人物そっくりの女性の手を引いて来て立たせても状況はあまり変らないと考えられる。例えば「自選劇画集」(*1)の巻末で石井は一冊のポルノグラフィーを取り上げていた。これを入手して眺めてもらえば、私が言わんとする意味は掴めるであろう。

 昭和54年(1979)とかなり以前に刷られた冊子であるし、時折ウェブのオークションで見かけはするものの中身が中身だけに大概の人は手に取ることは難しい。要点をかいつまんで紹介すれば、この表裏の表紙を含めて64頁の小冊子(*2)は二人のヌードモデルを起用した扇情目的の成人雑誌であるのだが、中盤の25頁あたりから石井の初期の短編劇画【淫画の戯れ】(1975)を丁寧に“模写”し始めるのだった。連絡船に乗って島に向かう劇画の展開を汲んで、実際にカメラ片手に海を渡って見せる入念さである。ストーリーラインを踏襲するという事に止まらず、石井の描いた絵、すなわち、おんなの姿態、表情、背景といったもの全ての再現を試みている。写し描かれたその数は、実に23コマに及んでいる。

 石井の劇画が墨一色であるのに対し、模倣画像はカラー印刷であるからモデルの肌の発色もあざやかで、また、盗作の訴えを回避する言い訳か、多くの画像で右と左の向きがオリジナルとは異なっている。(*3) おそらくは石井の作品を左右反転なるよう複写(コピー)し、現場に携行していちいちの構図を決めたものと推察されるのだが、そんな違いはあるものの複数のほぼ同一の画像が絵物語風に配置され、架空の時間をかちこちと刻んで息づくことに変わりはない。これは石井劇画の再現のため、“そっくりの舞台に、名美そっくりの女性の手を引いて立たせた”ひとつの好例になっている訳である。(*4)

 モデルの奮闘振りはいじましい。劇画のおんなのおきゃんな性格を表現しようと努めて、さまざまな顔を作り身体をくねらせる。こと切れて野に横たわる惨(むご)い姿さえも、終わり頃には果敢に模して見せるのだから大したものである。後年、石井の劇画作品は数多く映画化されていくが、それらを含めてもこの冊子の“再現をもくろむ意気込み”は突き貫けている。

 こうして現世に再築された地獄絵図であるのだが、穴が開くほど凝視(みつ)め続けても不思議と切迫するものは湧いて来ないのだった。“草むら”を背景にして凶行直前の数秒間が写されている。海水浴場からやや離れた場処であり、近場にトイレが見当たらぬことから茂みの陰で屈んで用を足しているおんなである。カメラを持った男がそこを襲い、細い首筋に手が掛けていくのだったが、そこに【淫画の戯れ】とそっくりそのままの構図なり姿態は認めても、終ぞ“石井世界”は起動しない。

 何が、どうして違うのだろう。首ひねらせながら考えていくと、擬音語が欠如していることや演技のつたなさ、ぞんざいなレイアウト等、幾つかの要因が数えられる訳なのだが、そのひとつに“背景との微妙な乖離”が見止められるように思う。感覚的な物言いとなってしまうが、完全なロケーション撮影であるにもかかわらず“人物と背景との一体感”が損われており、表層的でつまらないものに留まっている。

 草葉は太陽に照らされて燃えゆらめき、生きていることの歓喜で膨張するものか、厚ぼったい印象を与えている。成長することと繁殖すること以外には余念が無く、当たり前と言えば当たり前なのだが、手前のおんなの生死にはひたすら無頓着である。この自然界の鉄則たる“独り立ち”は、しかし、石井世界の領内にあっては全く当たり前ではないのだ。おんなの肌と乖離したこの緑色の乱反射は、石井の背景に全然なっていないだけでなく、劇空間を未完成で貧弱なものに貶(おとし)めている。

 三十年以上も前に刷られたもので奥付もない、いわゆる自販機本と呼ばれる猥褻な写真集を必死の形相で眺めている様は、他人の目からはさぞ不気味にも、また無意味にも映るであろうが、石井劇画、ひいては石井の映画を考察する上での“対照区”として面白い位置を占めているとわたしは捉えている。


(*1):「石井隆自選劇画集」 創樹社 1985
(*2):「事件白書シリーズ第1弾!! 密室現像 犯した!」 1979(推定)
(*3):いかにオリジナル作品を模したものかを可視化するため、引用画像の左右を反転して掲載しようかとも当初思ったが、そこまでしなくても模倣の徹底振りは理解できるだろう。
(*4): 石井とオリジナル作品を掲載した雑誌、および単行本の編集者とが連れ立って抗議に訪れ、決着がついた事を石井は「自選劇画集」に記している。既に終わった話である訳だし、石井自身が紹介している事から問題ないと判断して取り上げた。石井作品の信奉者である若い作り手がオリジナルへの愛情と実験的な野心を持って臨んだ珍作であり、往時の石井作品の人気の程を後世に伝える語り部ともなっている。


2013年10月24日木曜日

“林道”



 先日の豪雨によって枯れ葉や土が斜面から流れ、びたびたとかさぶた状になって道を覆っている。にちゃりとした振動が背中にも伝わり、気色悪くて仕方がない。旅の友にと買い求めたコンパクトディスクの江守徹、それとも荻野目慶子だったか、さっきまで嬉しく聴いていた朗読はまるで耳に入らなくなり、苦しくなって停めてしまった。

 こんな奥に樹齢八百年と言われる古木が在るのだろうか。ホテルのロビーにあったリーフレットでその存在を知り、一期一会の機会をもらったと信じて足を伸ばしたのだった。途中立ち寄った小さな駅の、番をしていた背の高い駅員はどこまでも先へ進めと言ったはずだが、ナビゲーションを操作して彼方へ、さらにその向こうへと地図をたぐってみても、それらしき印や文字は全然出て来ない。そもそもが教わった分岐点を見誤り、自分はとんでもない方向へと迷い入っているのじゃなかろうか。どうしよう、いよいよ道は狭くなる、あきらめて引き返そうか。

 汗でぬめつく手で右へ左へとハンドルを切るうち、突然、朱色の鳥居が目に飛び込んで来た。どうやら辿り着けたのは良かったが、ああ、やっぱり、停まっている車は一台もなく、当然ながら辺りに人の気配はまるで無いのだ。安堵と不安がない交ぜになった溜息をつきながら、車外へと降り立つ。

 小板で土留めしてあつらえた階段の、半ば朽ちかけ、落ち葉の堆積してざらついた様子から、最近参拝なり観光に訪れる者がいない事が察せられた。直ぐ間近で、ぎゃうぎゃうという異様な鳴き声を聞く。耳を澄ますと無限の木立を通し、微かに、ぎゃう、ぎゃうと吼えて答えるのが分かるから、鳥ではなくって野猿かもしれない。

 こいつ一匹で来やがった、地上に這いつくばる馬鹿な奴、皆で襲って食ってやろうか、と、ひさしぶりに侵入した人間を樹上から監視しているだろう彼らの、群れてゆらゆらする影を想像すると恐怖が増すのだけれど、向き合った“神の木”の威容と妖しさはそれをねじ伏せ、忘れさせてくれるものはあった。恐るべき歳月を無心に、無欲に幹と根を伸ばしてここまで大きくなった、その存在感は強烈だった。飽かず眺め続け、柄にもなく祈りもした。何か願をかける気持ちはなくって、ただただ生命力に圧倒されて頭が下がるのだった。



 前置きが長くなってしまったが、道中の不安を追い払う目的もあって私は窓越しに流れる森の景色と石井隆の劇画とを重ね見ようと努めたのだった。主にタナトス四部作と【魔樂】(1986)であったのだが、この現実の寒々とした林道を石井の描いて来た名美に代表されるおんながふらつき、または追っ手を逃れて駆けてくる情景を思い描いた。

 が、どうしても上手くいかない。もわもわした草の茂りであるとか、男根や乳房のごとき瘤を抱いて佇立する樹木、空を覆って密生する枝葉などが頁の隅々まで丹念に描き込まれ、埋め尽くされたのが石井隆の森であるから、こうしてリアルな密度ある樹林に囲まれていると、確かにあの風景のようだ、あそこにそっくりだ、と感じられてくる。そこにおんなが配され、ふらふらと彷徨(さまよ)い出ることは、だから石井の世界をそっくり再現することになるはずなのだが、どこか味気なく、空疎でいんちき臭いものになってしまうのだった。

 本州の最北端に位置する地域の、さらに集落から離れた場処だからか。主に新宿の裏通りに寓居(ぐうきょ)する石井のおんなが、夢に破れ、自傷する己自身を繰り返し幻視したあげくに疲労を極め、ついに薬の小瓶(びん)を握りしめてしまう。はたまた、投身するきっかけを探って歩み出してしまう。そんな彼女たちがこころ定める目標としては、あまりにも此処は遠く隔たっているのは確かである。その途方もない距離感が、私のなかの夢想を妨げるところがあった。

 石井が劇中に用意する幽冥(あのよ)というのは、けれど、路地裏と荒野を、海中と雑居ビルを、風呂場と石切り場を容易に橋渡しするものであるから、新宿だ、東北だ、地の果てだとする言い訳は説得力を持たない。人がいる限りにおいて、石井の森というのは身近に在り続ける。

 結局、わたしの想像力の決定的な乏しさがおんなを招(よ)ばないのだろうか。いや、緑の屏風を背景とする一本道の向こうから、ワンピース姿のおんなが必死に手を伸ばすのは見えていたし、愛しく想う容貌風姿をそっと霊木の脇に立たせるくらいは決して難しくはない。しかし、それは日毎夜毎にお茶の間の液晶モニターに映し出される安直な犯罪ドラマか恋愛劇の一場面に何故か思えてしまい、これまで私が熱視(みつ)めてきた石井の描く劇画なり映画の手触りとは少し違うのだった。

 一体全体、何がどうして違うのだろう。帰ってから一ヶ月も経つのだけれど、そんなことをずっと考えてしまい、気持ちは林道から戻れずにいる。




2013年10月11日金曜日

“大伽藍”~『フィギュアなあなた]を再見して②~



(以下の文章は物語の結末に触れています)

“生”と“死”とは円環を成しており、分かつ垣根はないに等しい。職場での商談室や酒舗で隣り合った同士が挨拶を交わすようにして、いずれ私たちは気負いなく死者たちと膝をまじえ、おだやかに会話を始めるのではないか。石井隆の近作『フィギュアなあなた』(2013)を観終わって、そんな想像を連ねた。柄本祐(えもとたすく)と佐々木心音(ここね)、生者と死者の若いふたりは紆余曲折を経て融合を果たして見えたから、それはひとつの勝利とさえ呼べそうだ。

けれど同時に、どこか噛み合わせの悪さが感じられて仕方がない。これまで石井は人間に巣食う禍禍(まがまが)しき物、日常を浸していく無限の欲望や、手綱を操れず、逆に自分の方が無様に引きずられてしまう恋情という悍馬(かんば)、幸福感と絶望とが戸板返しの要領で突如入れ替わっていく非情さ、切なさといったものをこつこつと刻み続け、独自の大伽藍(がらん)を形成してきた。その多層にして荘厳な構造体の一部として『フィギュアなあなた』を捉えたとき、上に書いた程度の一種平和な割り切り方で果たして通用するものかどうか。『フィギュアなあなた』とは何かを探るだけでなく“石井世界”とは何なのか、といった俯瞰した目線で眺めなければいけない気がする。

物語の真相は既に本人の口で明かされており、それは前述の「キネマ旬報」誌のインタビュウ中であったから秘密でも何でもなく公然の事実となっている。書き写せばこうある。「今回は青年のほんの一瞬の夢想、車にはねられる寸前からドサッと地面に落ちて息絶えるまでの、最後に見るもの、最後に聞く音ってなんだろう……それが撮れないだろうかと思った」(*1) 知られたところで大勢に影響はないと、石井としても興行サイドにしても踏んだのだろう。

 この囁きを特別の感慨もなく受け流す読者は多い。ブレーキ音も衝突音も大音響で挿し込まれているし、幕引き寸前には過去の石井作品、『天使のはらわた 赤い眩暈』(1988)や『ヌードの夜』(1993)に見られた“魂の滑空”が用いられてもいた。若者は誰がどう見たって、今際の際(いまわのきわ)へと追い込まれている。ああ、そうか、天使が迎えに来たのね、幽体離脱しちゃったのね、確かにそういう事って人の最期には起こるかもしれないよね、そもそもその手の映画って多いよね、と頷くばかりだろう。だけど私は、この石井の言葉やそれに続く「たとえば祐君と心音君をそっくり取り替えた物語が二重写しに見えている人がいるかも知れない」(*2)、なんて意味深なひとり言を耳にすると、いよいよ粟立つ思いがして、途方も無い作意が裏側に縫い付けられていたのじゃないかと考え込んでしまう。

二度目の観賞を経たことで映画の場景がつぶさに思い出されることもあって、ざわつきは倍化している。不穏な渦巻きの中心にあるのは、鮮やか過ぎるひとつの景色だ。同様に首をかしげた人もいたはずだが、劇の佳境で違和感を抱かせる場面が“一瞬だけ”挿入されており、それは若者が道路を横断中、けたたましいブレーキ音で振り返って見止めた光景なのであった。「シナリオ」誌に収められた台本採録から抜粋すると以下のようなくだりであった。

 「驚いた内山が自分の背後を振り返る。内山の直ぐ後ろに、一人の若い女性が内山を追うようにして大通りを渡ろうとしていて、走って来たトラックを見て、固まっている。(中略)その女性の顔を見て内山が驚く。ココネだ。若い女性がトラックのヘッドライトを浴びて固まっている。(中略)内山が咄嗟にその女性を庇うように抱きつく。ブレーキの音とタイヤの軋む音。クラクション!トラックのヘッドライトがグン!と迫り、(中略)内山とココネにそっくりな女の引きつる顔がヘッドライトで真っ白になり──。」(*3)

 どうして“ココネにそっくりの若い女性”が登場するのだろう。おいおい、それがどうした、この映画は最初から支離滅裂なところばかりじゃないか、何も不思議はないよ、若者の窮状を見るに見かねた人形が意識を持ち、歩き始め、語り掛け、遂には添い寝まで成し遂げている訳だから、その延長でしかないじゃないか。若者が心配でたまらぬ人形は、ベランダから外へと飛び降りて後を追い、その挙句に事故に遭ったと考えたら良いじゃないか。だいたい夢か現(うつつ)なのか皆目判らぬ劇なのだから、車道に飛び出した若い女性にしたって単なる幻覚かもしれないし。

 それでも構わないと作者は思っているに違いないが、おそらくは、次のような現実こそが想い描かれてあったのだ。若者が道路を横断していく後ろ姿につられて、若い女性(人形ではない)は左右を十分に確認することなく足を踏み出したのだ。名は何といい、どんな性格か、どのような境遇に置かれてあるのか、何を望んで生きてきたのか、ほか一切を含めて読み解く術はない。時間は残されていなかったのである。迫る車の巨体と耳をつんざく警笛に足がすくみ、慌てて駆け寄ってくれた若者と顔を見合わせた瞬間、鋼鉄の塊(かたまり)がふたりの身体に接触した。

薄れゆく意識の奥で若者は、ここ数週間の“見たこと”を反芻する。泥酔の果てに廃棄されたマネキン人形を“見つけて”持ち帰ったときもあった。ヤクザ者と肩がぶつかり、怖い目を“見た”夜もあった。そこに先ほど“見合った”若い女性の顔と瞳が溶け合っていき、生命を吹き込まれた不思議な人形との出逢いの物語『フィギュアなあなた』の精製が開始されたのだろう。唖然としてしまうのだが、冒頭から幕引きまでのその多く、徹頭徹尾とまでは言わないけれど、ほとんどが石井の言う「青年のほんの一瞬の夢想」であった可能性が高い。

夜明け前の屋上で煙雨に染まった空を軽やかに飛んでみせた人形であったが、実際はどうであったかと言えば、突進してきた鉄の壁にもんどり打ってそのまま黒いアスファルト上を滑空したのであり、まるで飛翔して“見えただろう”その若い女性の姿を若者はおのれの網膜にしかと定着させたのだ。混濁する意識のなかで、だから、それだからこそ、フィギュアは空を飛ぶのだろう。屋上に、トンと着地して見せた人形は衣装も笑顔も艶やかであったけれど、実際ははげしく地面に叩きつけられ、頭骨や背骨、肋骨なんかがみしみしと砕ける音と、血管が破れて生温かいものが流れていくを遠くの方で感じながら、ぼろきれとなって横たわったに違いないのだ。まぶたを人形のようにかっと見開いて、しかし、もはやそこには現世の何ものも映じていない。私たちが見守った銀幕の裏側では、そんな悲痛な時間がかちりかちりと刻まれて有ったのじゃないか。

そうして見れば『フィギュアなあなた』とは、実にシビアな物語だ。生者と死者との邂逅、ひとつの勝利などと暢気(のんき)に構えていた私であったが、死に臨むということはそんな奇麗ごとではない。肉体が破壊されていくことの納得しがたい哀しみ、生命の焔(ほむら)が消失することの重みが眼前に黒々と立ちはだかって来る。

上記の推測、“秘匿された轢殺の場景”を起点として劇の全てが築かれてあったと考える理由は、そうであるならば石井のタナトス四部作の一篇、電車に轢かれた瀕死の名美が霞んでいく意識の奥で瓦礫の町をさまよってみせた【赤い眩暈】(1980)と面立ちが瓜二つとなる(*4)からだし、現実は一瞬間だけ描かれ、そこ以外は主人公静子(杉本彩)の記憶と狂気とがまぐわって産み落とした音と光とによって埋められた『花と蛇』(2004)の酷烈な構造(*5)と一致するからだ。当作を石井の新境地、別世界と捉える向きもあるが、その印象は“画角の違い”に由るだけであって、フレーム外に置かれ、裏側へと折り込まれてあるものは変わらぬ景色なのである。ここに至って『フィギュアなあなた』は石井の大伽藍に吸い込まれ、たちまち輪郭を溶かして一体となっていく。


【赤い眩暈】と『花と蛇』二作のヒロインに与えられた役目は“内なる地獄”を凝視め続けることであり、かろうじて救済(らしきもの)があるとすれば“永劫にたゆたうこと”にあった。その川下に位置する『フィギュアなあなた』をこれに照らせば、自ずと明るさを減じていくのだし、闇の侵食は逆に勢い付いて物語の端々を塗り固めて行きはしないか。“見えないもの、見せないもの”を真摯なまなざしで透かし見すれば、酷薄さが型押しされて銀幕からぶわりと浮き出し、私たち観客の心胆を鷲づかみにして悲鳴へと導くのである。


上っ面を眺めただけで分かったつもりになって無責任にうそぶく私に対し、石井映画は微笑みつつ先を歩いてゆくのだが、しばらくすると赫然(かくぜん)と振り返って猛烈な平手打ちを喰らわせてくる。安易な期待、甘ったるい希望的観測を頑強で尖った靴の踵(かかと)でがしがしと踏みしだき圧砕するのである。これこそが石井世界の惨たらしさ、烈しさである。油断しては決してならぬ間合いと切っ先であることを、あらためて了解して血の気が引く思いでいる。


(*1):「キネマ旬報 2013年6月下旬号 No.1639」38─39頁
(*2): 同40頁
(*3):「シナリオ 2013年8月号」 112─113頁
(*4):絶命寸前となった若い女性もまた何かしらを幻視したと仮定すれば、極端な話、『フィギュアなあなた』とは若者のものでは最初からなく、若い女性の内部で一から十まで築かれた城塞であった、と言えなくもない訳だし、もしかしたら死に至る両者の暴走する意識を編み手の石井が交互に丹念に綾織ったものかもしれぬ。石井の「そっくり取り替えた物語」とは、そういう可能性さえ指すのだろう。“怖ろしいもの”を見せつけられた、とつくづく思う。
(*5): http://mixi.jp/view_diary.pl?id=153959433&owner_id=3993869

2013年10月5日土曜日

“たどり着いた神話”~『フィギュアなあなた]を再見して~


 石井隆の作品は一度きりでは容易に呑み込めないことも多いから、間をおいての再見が欠かせない。近作『フィギュアなあなた』(2013)もそういう訳で、映画館に足を運んで観直している。次の観賞時には黙って劇場を後にすると以前書いたのだったが、それを早々に破って言葉を接ごうしている。我ながら節操なくみっともない気がするのだけど、どうしても想いが爆(は)ぜる。

  既に識者の手で方々に書かれてあるし、石井本人がインタビュウ(*1)で語っている通りなのだが、『フィギュアなあなた』とはマネキン人形をめぐる単なる妄想劇ではなくって、死者との邂逅こそが重点的に描かれている。原作となった石井の短篇(*2)は至極あっさりしたもので、失意の若者が廃棄されていたマネキン人形を見止め、自宅に持ち帰って共同生活をしながら希望を手探りしていく内容の短編であった。それが忠実に映像化されていたならば、人形譚の血筋として小奇麗に仕上がっていた事だろう。映画は混沌としているしお世辞にも小奇麗とは言いがたい。尺合わせの目的も多少はあったかしれないが、若者がマネキンの入手するに至る経緯を執拗に、粘性を持って描いていくのだった。

  劇中、佐々木心音(ここね)が埋もれていた膨大なマネキン人形の堆積について、映画は台詞や描写によって幾度もヒントを刻んで見せて、これはひとつひとつが死者なんだよ、元々は息をしていた人間のなれの果てなんだよ、と伝えていた。石井が(自作であれ、他人のものであれ)原作を創作の骨格として取り込み、映画として自立なるよう肉付けを図る際には、決まって差し加えた部分が能弁さを増して観客に強く訴えかけてくるものであって、私たちは彼の創造の意図を常にそのはみ出した肉ひだの部分にこそ読み解くべきなのだが、『フィギュアなあなた』においての肉ひだはまさにこれであろう。

  ここで思い出すべきは、『GONIN』(1995)を最新の画像処理でリストアしてみせたDVD(*3)のジャケット画である。石井自身の筆で描かれた本木雅弘の、雨にうたれながら疾走する姿であった。愛する者を失った男がその遺品であるコートを羽織り、懐に拳銃を握って、闇を切り裂き仇に向かっていくクライマックスの場面を再現した絵である。着目すべきはそのコートの肩あたりに蒼白い尾を引いて人魂(ひとだま)が寄り添っていることだ。『GONIN』のフィルムのコマにコンピューターグラフィックや多重露光で光球が最初から加えられたわけではなく、石井が映画公開から12年を経て、“見せざるもの、想いを密かに託したもの”をそっと視覚化して見せた結果である。コートという“物質”に“亡者のまなざし”がしっかりと宿っている、そのような想いと死生観が如実に語られている。

  佐々木心音が演じたのは確かにマネキン人形であったわけで、それはその通りなのだが、あれもまた死者の魂が浸入した依代(よりしろ)として登用されたと見て良いのだろう。魂の交流をこそ、語らなければならない。もはや『フィギュアなあなた』を語る上で“人形”は、まったく度外視しても構わないように思う。

  さて、亡霊である女性と生者との情愛なり秘め事というものは古今東西のお話で扱われたものであるから、そのように『フィギュアなあなた』を見てしまえば決して珍しくはないだろう。しかし、実際のところ物語は面妖この上ない展開へといざなって私たちを戸惑わせるのだった。柄本祐と佐々木心音の演ずる男女は面識を持っておらず、劇の中盤でようやく“出逢っている”。これはあまり見ない形ではなかろうか。通常生者と死者は“再会を果たす、果たそうとする”ものではなかろうか。

  黄泉国(よもつくに)に伊邪那美(いざなみ)を探す伊弉諾(いざなぎ)であったり、妻エウリュディケを冥界から連れ戻そうとするオルフェウス、夜な夜な牡丹灯籠を手にして浪人萩原新三郎のもとに通いつめるお露もそうであるが、生死の境界をまたいで成立する逢瀬というのは生命ある間に燃え盛った恋慕の念が埋め火となって残留し続け、やがてその熱が野火のごとく赤赤と連なり広がっていく、そんな“人の追憶のどうしようもなさ、はげしさ”に頼っている。

  柄本演じる若者は職場の同僚である娘(間宮夕貴)にかねてから心を奪われており、泥酔した末に彼女との情交を夢に見るほどだ。登場人物のひとりの台詞から探れば、在りし日の面立ちを写し置くのがあの山となった人形の群れのどうやら特徴であるようだから、その中に置かれてあった人形心音(ここね)の生前の目鼻立ちは今と寸分違わないはずなのだが、その出現に対して若者は目を白黒させるばかりなのであった。男のなかには心音(ここね)を慕い、追尾しようとする気負いは見当たらない。もしかしたらおんなの方に何かあるのだろうか。私たち観客の見つめる銀幕の枠をこえた場処で、おんなは若者の日常を物陰からそっとうかがっていて、牡丹灯篭の娘のように恋い慕ったまま死んだのかもしれない、なんて無理に想像を膨らませてもみたが、出逢った当初の人形の若者へ向けられたまなざしには昏く沈んだ色調ばかりがあって、念願叶って再会できたことの歓喜はどうしても見出せない。ふたりは初対面であったと捉えて構わないように思う。

  一方は生の苦闘にさいなまれ、一方は停滞した死のなかで横たわっている。そのふたつが出逢い、そこで声を交わし身体を重ねていく。生と死を分かつ深淵を橋渡しするはずの灼熱の恋情を互いに持たぬまま、見ず知らずの者同士がゆるりと身を寄せ合っていく展開は私たちに馴染みがないだけにカタルシスが生じにくい。なんなの、どうしちゃったの、と混乱の渦がどうしても生じるし、こりゃ妄想だな、夢落ちだな、と早合点する流れも仕方のないことだ。

  けれど、私みたいな天邪鬼には、そして石井隆の仕事を見つめ続けて来た者の目には“吹っ切れたもの”が映って見えるし、視野が広がるような爽快さもあるのだった。季節が二巡し“311”から時間を経ている。この特別の月日を振り返ったとき、ひと握りの作家たちが時局に真向かい多様な表現手段で自らの記憶や感懐を線に刻み、形に成そうと試みた事実が思い起こされる。世間から注目を浴びたものもあれば、まるで無反応に終わったものもある。琴線に触れるものもあれば、眉をひそめてしまう無遠慮なものもある。すべてが成功しているとは言い難いが、災厄の大きさからすればどれもが意味のある大切な行為と形ではなかったかとわたしは思う。

  この特別の時期に石井は何を語るだろう、どのように物語を紡(つむ)ぐだろうと気にしていたところが私にはあったのだ。石井が生まれ育った町は海岸からかなり離れているから大きな被害はこうむっていないけれど、それでも報道を注視し、親族や知人と言葉を交わしながら事態をはらはらして見守ったに違いない。夏ともなれば足を伸ばしただろう浜辺は、建物や数限りない車の残骸で埋まりもしたろう。たくさんの人が不意を突かれて、愛しいひとに別れを告げることなく亡くなり、いまだに多くの人が行方知らずでどのような形であれ帰ることが許されていない。

  石井の作風は政治や世相(固有的なもの)の描写を巧妙に避け、人間が生きて死んでいく上での普遍的な苦しみや哀しみを突きつめることに注力してきたから、この天災なり人災について直接的に取り上げることは最初から有り得ないのであるが、これほどの死と哀しみが降りかかった生まれ故郷を面前にして特別なこと、一時的なこと、巨視的で自分のドラマには馴染まないこととして捨て置くことはさすがに出来ないのではないかと思ったし、何かしらの“手向け”があってしかるべきではないかと感じて、この宮城県仙台市に生まれ育った作家をずっと見守ってきた。

 『フィギュアなあなた』と震災とは線を結ぶことはないから、身勝手な感懐に過ぎぬ訳なのだが、銀幕で交差する生者と死者、柄本と佐々木との魂の交感を目にしながら、石井隆が“死”について存分に語っていると思い、劇中で広げられたその死生観を素直に受け止めることが出来れば随分と楽だろうとも思った。

  柄本祐が死者たちと出逢うための試練として、仕事上の失敗があり、失意があり、暴力があり、怪我がある(、そして死がある)。それら全てが負の方向への急速な傾斜であって、生命のきらめきや力、生産性とは真逆のものであった。そのような冷え切った身体と気持ちであるにもかかわらず、死者は待っていてくれるのであり、さらには新たな出逢いさえ起こると『フィギュアなあなた』はささやくのだった。

  生と死の汀(みぎわ)に佇み、向こう側に渡るという事は、限られた力ある者に起きる特別なことではない。気が遠くなる階段やけわしい坂を上り下りする健脚も不要なら、手を引く道案内と足もとを照らす灯かりもいらない。強靭で不屈の意志も必要ではない。傷つき、苦しむ誰の身にも、そして老いていく身にも必ず出逢いは待っているとささやいている。道は閉じられない、きっと拓けると諭すのだった。目を細めれば、耳をすませば、あちらこちらの“物質”に“人のまなざし”が既に見止められ、会話だって何だって今すぐに可能になるとささやくのだった。生と死はなめらかに溶け合って、連環を開始する。

  石井自身がようやく手にした達観でもあるのだろう。今この世界に生き続ける私たちにとって反芻するに値する、実のそなわった言葉が投げ掛けられたと思っている。


(*1):「キネマ旬報 2013年6月下旬号 No.1639」
(*2):【無口なあなた】 初出「ヤングコミック」1992
(*3): DVD「GONINコンプリートボックス」 2007 松竹