2014年6月26日木曜日

“ねじれ”~『GONIN サーガ』第一報を読んで(1)~


 石井隆が取り組んでいる『GONIN』(1995)の正統なる続編、『GONIN サーガ』(2015)の報せが目に飛び込んだ。(*1) 前作は美丈夫がひしめく活劇だったが、今回のキャスティングも負けていない。烈しく匂いを放って、いまから鼻腔の奥を撫でさする。

 伝わる内容はどれも同じだから、おそらくプレスリリースを元にしている。中に主要キャストの役柄を紹介する件がある。主演を務める東出昌大(ひがしでまさひろ)をはじめ、安藤政信(あんどうまさのぶ)、桐谷健太(きりたにけんた)等が前作の登場人物の息子たちというのがちょっとした驚きだった。読んだ瞬間に思い返したのは圓朝の怪談噺であったのだけど、合わせて三浦綾子の「氷点」もゆるゆると浮上した。(*2) もちろん石井の劇とそれらは一切関係がないのだけれど、最初にそれを断った上で正直に気持ちのままを綴ってみたい。

 「氷点」はずいぶん若い時分に読んでいる。舞台となった街を知っており、懐かしさもあって手に取ったのだった。碁盤の目状に道が切られてあり、正確に測ってはいないが道幅がこの辺りの倍もあるようだった。歩くと頭の上に空が大きく広がって、悠々と大気が循環して感じられる。凍て付く長い冬がそうさせるのか、人情がすこぶる厚い街でもあった。そんな街角の景色を脳裏にちらちらと再生しながら筋を追うことが、とてつもなく贅沢な気分にさせるのだった。

 もっとも、細かいところはあらかた忘れている。どのような家族がどんな会話を為したものだったか、何が話の起点となりどんな幕引きだったか、今ではまるで思い出せない。しかし、犯罪者の血筋に対する強い偏見が物語全般を覆っていて、圧迫されるような、寂しいような感じを読んでいる間ずっと受けたことだけは鮮明に思い返すことが出来る。執筆時の社会通念ではごく普通の語り口であったろうし、体温の高い創造物に違いはないから「氷点」自体を悪く捉えるものでは一切ないのだが、その頑なな偏見と『GONIN サーガ』の紹介文とが頭のなかで接触して火花するところがあった。漏電した電気器具に触れたときにも似た、妙な震えがあった。

 遠縁の者と食事などしながらゆっくりと歓談をすると、顔つきや体型、言葉遣いなどにおのれと近しいものを感じる瞬間がある。血は争えないとか、かえるの子はかえるという言い方にもだから否定的な気持ちにならないのだけど、小説や映像でより具体的に、つまり職種や道徳観までを固く縛るような描き方がされているとどうしても気持ちに揺れが生まれる。人は大なり小なり自身の血脈に対して押し問答を繰り返し、答えの出ないことに苛立ちを覚えながら暮らしていると思うから、裏社会に生きて死んでいった幹部連の遺児たちが約二十年の歳月を経て、同じ組織の上層にそろって君臨していることが“不自然”に感じられたのだった。

 幼な子たちが組織の加護の下で育てられ、かえるの集団にみるみる溶け込んだという流れには無理強いする力は一見働かないのだけど、やはり不思議とも思う。そこまで人が拡散を嫌って、それとも阻(はば)まれてなのか知らないが、身を寄せ合いひと塊になって今に至るのはやや出来過ぎではないのか。それとも彼ら孤児が擬似家族として暮らし、獣の群れの只中でそれぞれを庇いながら生き残ったということなのか。興味と当惑が次々に生まれ落ちて、瞳の奥でのたうつところがあった。


 そのような複雑な第一印象を受けたのが嘘のないところだが、何度か紹介記事を読むうちにある時点から独特の“ねじれ”が目に映るようにもなって、これは面白いと思うように私のなかで変わっている。前作では敵役に徹して暴虐の限りを尽くした幹部連が、視座を換えることで被害者になるという逆転した世界はまったく想像もつかないものだったし、彼ら悪鬼たちの遺児のすべてが悪人でもなく、また、その逆の無垢なるもの、善良な存在という図式でもなく、まだら模様と化している。やがてその中で対立が生じて、組織を揺るがしかねない「復讐譚」へ発展するというのもすこぶる玄妙で愉快だ。これは単調なやくざ映画とは光跡がまるで異なる。

 善悪が二極化した物語では当然なく、世代を継いだ単純な仇討ちともどうやらなっていない。因果律が活きているのか、それさえ叩き潰す混沌が襲うのか。私たちの直線状の安易な視線を許さない、ねじれにねじれた二世代の関係を想い描いていると、いつしか巨大な漏斗に落ちてしまったような具合で眩暈するものがあるのだった。宿命を背負わされた男女の物語であると同時に、この映画自体が因業な生まれとなって見えてくる。最初から地獄の炎の渦巻きに舐められ、焦がされ、ぐるりぐるりと身をよじっているようだ。

 この“ねじれ”を透視出来るかどうかが観賞のひとつの要になるのは違いないから、旧作の『GONIN』を未見であるならば是非とも、それも早めに手に取るべきだ。“見えないもの”を見つめること、を石井作品は観客に期待するところがあるのだが、『GONIN サーガ』ではその覚悟がいつも以上に要るように感じられる。

(*1):http://news.walkerplus.com/article/47654/
(*2):「氷点」の新聞連載は1964年12月から



2014年6月14日土曜日

“ここへ辿り着く”~『天使のはらわた 赤い教室』を巡って[11]~


 明け方に見た夢に引きずられている。お前は旗(はた)みたいだな、ばたばたうるさいが薄っぺらな大名旗だ。『天使のはらわた 赤い教室』(1979)をめぐってこの場に綴ってきた感懐に直接触れてはいなかったけれど、夢の男は硬い表情でわたしに告げるのだった。朝の冷気に寝具を引き寄せながら、そろそろ切り上げの時期かと思う。

 重箱の隅を突いて台本との違いをあげつらい、ひとり悦に入っているつもりは毛頭ない。映画を悪く言うのではなく、形で示されたものをすり合わせて石井隆の世界をより深く知りたい、その一心で言葉を接いできたのだけれど、想いの丈は人に話さず仕舞っておくべきだったか。さすがに放言が過ぎた気持ちでいる。  

 終わりに書きたいのは名美(水原ゆう紀)が言う“ここ”の色彩についてだ。『赤い教室』は石井の短篇劇画のいくつかを取り込み、それがおんなの内部に堆積なった層の厚みをうまく表現していることは以前書いた。(*1) 実は石井の台本にはないのだけれど、完成品には別の短篇イメージが挿入されている。熱心な書き手がウェブで指摘もしているが、それは名美が行き着いた酒場の場景であり、マー坊と呼ばれる男(草薙良一)と名美の関係を短篇【街の底で】(1976)から借りて補ったものだ。

 終幕での名美の台詞、「そちらに行こう行こうと思ったら、ここへ辿り着いちゃったのよ」(*2)の“ここ”とは、この小さな店のことだろう。内部で展開される猥雑な見世物と、それにともない名美の胸中で湧き起こる不純物だらけの対流も含めての“ここ”ではあるだろうが、台本にはなく突如銀幕で現れた店内の補足的な景色は曽根中生版の『赤い教室』を考える上でとても大事だ。

 マー坊は正人という本名を与えられ、昔は歌手でレコードまで出したのに芽が伸びずに“ここ”に漂着したことが明かされる。名美という化け蜘蛛に捕まったバッタといった体で、溜まりに溜まった憤懣を科白にしてぶつけて来るのだった。「畜生、死にぞこないが」、「こんなところでくたばっている男じゃないんだよ、分かってるのかよ」、「こんな生活してちゃいけないんだろ」と涙しつつ絶叫するのを映画は丹念に捉えており、どうやら演出家は“ここ”を苦界と見定めて、その混迷ぶりを強調したかったようだ。

 観客の多くは聞き流すだろうが、腰強(こしづよ)を自認する読み手は、これが石井の手で挿入された劇のパーツでないらしい点に気を留め、さらなる想念の飛翔を行わねば嘘であろう。おんなから逃げられずに住まう“ここ”が社会のどん底であり、死者のたむろする牢獄であると男は語り、集う者同士は意思の疎通が上手く行かず、「骨の髄まで」しゃぶり尽くす共食いの日々だと映画は説明するのだが、元々の石井の思い描く『赤い教室』には【街の底で】は連結なっておらなかった訳である。上の言は一切当てはまらない可能性だってあろう。

 石井隆の劇画や映画のなかで私たちは、道端で膝を屈して雨に濡れる苦労人に対しそのまま通り過ぎる事が出来ず、声を掛け、手を差し伸べていく人物を数多く目撃している。また、“意思の共有”なり“境涯への理解”といったものを激しく希求する石井の劇において、酒場とは大概の場合は人間(ひと)の寄り集う場処として描かれ、魔窟であるとか地獄といった単調な突き放し方は通常しない。

 【天使のはらわた】(1978)の第三部で出現したバー「梢」での、仲間をかばい必死にいたわる名美の様子がまず目に浮かぶ。内装は『赤い教室』のそれに似ているが、温さや照度がまるで違っているのだった。『ヌードの夜』(1993)で豪奢な装いのバーを巣窟とする悪党ども、根津甚八や椎名結平らが人間味あふれる細やかな所作を連ねることで憎悪の対象以上の存在として描かれることや、【黒の天使】(1981)にて酔客に微笑むカウンター内の魔世と絵夢の様子をこれに重ねると、石井がどれだけの愛着なり神経を傾けて酒場を舞台に選んできたか解かる。

 一見どん底のごとき店が映されてそこで主人公が忍従を強いられたとしても、たとえば『夜がまた来る』(1994)の余貴美子と竹中直人のように、獄卒の役回りには主役級の俳優を据えて角(かど)を丸くするのが石井の劇の常である訳だし、容赦ない暴力行為の果てに生来の温かいまなざしをそっと点灯させて、観る者を和ませる『ヌードの夜』の酒場のオカマ(田口トモロヲ)もそうなのだが、善悪の立ち位置を二極化することを石井は望まぬし、上とか下といった階層で人間の幸福を決して量らない。映画『赤い教室』での酒場はこれに反して古典調であり、一面的な仕様に陥ってしまっている。

 もしかしたら名美の言う“ここ”は社会のどん底ではなかったのじゃないか。死者のたむろする地獄でもなく、集う者同士で意思の疎通はなって親和性を維持し、語り尽し慰撫し合う共生の場であった方が流れ的には自然だろう。だいたい「ブルー」という店名は【カーニバル・イン・ブルー】(1975)から来ていたのじゃなかろうか。二階の畳部屋で性を切り売りしながら“おんな”を演じ続ける名美と、同じく男を演じ続けていくマー坊とが、プライベートな空間ではお茶を飲みながら“ひと”として向き合い、柔らかく会話し、身を寄せ合っていくという流れの方が石井の想う劇に多分近しい。【街の底で】ではなく【カーニバル】を挿入すべきであったのだが、後の祭りである。

 なんだよ、ハッピーエンドかよ、つまんねえ。わたしの妄想にまみれたそんな結末を皆は鼻で笑うかもしれないが、個人の感覚としてはこちらの方がずっと辛い。名美の世界がいよいよ堅牢なものとなって、村木は手も足も出なくなるからだ。東と西に散り散りとなり、その結果おんなが自暴自棄を繰り返して荒れた生活のまま今に至っていれば、かえって男は嬉しいに違いないのだ。水溜りに映った名美の唇は少し歪み、涙するようではなかったか。そのような救われないおんなが居る限り、男は大した度量も無い癖に舞台への登壇を続けてしまう。誰も頼んでいないのに自身の不甲斐なさを責め、直りかけた傷のかさぶたを剥がし、憐憫に身悶えしつつ浮き出る血の玉を舐めていれば延々と夢は続いていくばかりだ。余計な枝葉を加えて茂った映画『赤い教室』には救えなかったおんなが佇むままに終わるから、可哀相、可哀相でいつまでも続いていき、見守る男の内部では真の別れには至らない。

 石井隆の台本での終幕での名美は雨に濡れた長い髪をなびかせて、村木より先に去っていく。驚くべき跳躍を果たして世界を駆け抜け、表皮と内臓をひっくり返すような豪胆な意識の変革を成し、さらには似たような相手を見つけて“意思の共有”なり“境涯への理解”を完成させたおんなである。苦界にではなく、同じ境遇の友の元に帰っていくのだ。こうなってしまえば、村木は手も足も出ない。恋情の埋め火に当たって濡れたコートを乾かす暇(いとま)も与えられない。己がやり遂げられなかったサルベージを誰かほかの者にやられ、巣篭もりの様子を目の当たりにして、もはや沈黙するしかないのだ。この三年を仰ぎ見ながら息を細く吐いて、思考を凍らせるしかない。

 死線を越えて恐るべき強靭さを手にしたおんなを前に、今こそ永別の一瞬がめぐり来る。救いと呼べる結末では当然ない。しかし、所詮、人間の生活とは大なり小なり塹壕での持久戦ではないか。そこで繰り返される束の間の食事と睡眠、体温の交換を救いと信じる泥だらけの日常ではないか。なかなか呑み込める展開ではないから、おそらく男は長く時間をかけてこれを受け入れ、周回遅れで走り続けることになる。人生はこれからも続くのである。いま、この2014年に自分なりに捉える石井隆の脚本『赤い教室』は、そんな厳しい顔を見せて村木哲郎と、そして読む者を鼓舞するところがある。

 公開前後の映画誌に記事を探すと、評者のひとりが「最近の日本映画には稀な密度を有した純愛映画の傑作」(*3)と述べているが、総じて違和感を訴える不評が目につく。私もそう思う。人によって定義は異なるだろうが、安易に傑作と唱える訳にはいかぬ、いくつもの疑問符を抱えた作品に映画『赤い教室』はなっている。

(*1):http://grotta-birds.blogspot.jp/2013/05/blog-post_26.html
(*2): 「別冊新評 石井隆の世界」 新評社 1979 218頁 
(*3): キネマ旬報 1979年3月上旬号 №755 今月の問題作批評2「空転している旧・純愛映画」亀和田武 157頁




2014年6月8日日曜日

“霊肉一致”~『天使のはらわた 赤い教室』を巡って[10]~


 『天使のはらわた 赤い教室』(1979)での村木(蟹江敬三)のまなざしは、水面に落ちた油膜に似て四方八方に広がり、ややもすれば減速する。自制が効かないのか、それとも衝突を回避するためだったか、いずれにしても裕子に被さるその貌(かたち)は石井の劇からすれば軽挙に感じられるのだった。一体全体どうしてこんな事になったものか。噛み合わせの悪さはどこから生じるのだろう。

 劇画時代の石井の作品には、波打つ毛髪、皮膚の弾性やたわみ、皺寄るシュミーズがあり、湿りの拡がっていく下穿き、血走った目といったものが並んだから、執拗なその描写を前にして読者の一部は石井世界を情欲の蟻地獄と捉えた。劇中人物はいずれも性愛という名の疾病に侵され、世間から隔絶された場処に住まう獰猛な存在とさえ見える時があった。筆からカメラに道具を持ち替えても姿勢は同じであって、どうしても荒涼とした息吹を鑑賞後に抱くひとは多かろう。

 けれど、石井の作品にどっぷりと融け込んでいくと、どうやら淫夢と暴力の煮えたぎる溶解炉の底には思いのほか静謐で穏やかな冷泉がたゆたうことが分かってくるのだった。たとえば『花と蛇2 パリ/静子』(2005)という作品は、その辺りのことを明確に台詞によって告げている。『赤い教室』との間に四半世紀の開きがあるが、両者は時空を越えて音叉のごとく共振する。作家性のきわめて強い石井ならではの特徴であり、互いが互いを照射し合うから劇の根底に流れるものを探知しやすい。

 『パリ/静子』は、死を意識する遠山隆義(宍戸錠)という男が人を雇って若い妻(杉本彩)を罠にはめ、縛ったり叩いたりを繰り広げる異常性愛の物語であった。全篇にわたって淫虐の宴(うたげ)が続く訳だが、私はこれを涙なしに観終えることが出来ないのだった。感涙を誘うのは酷い目に遭って顔を歪ますおんなではなく、幕引き直前になって吐露される男の真情のあまりの淋しさ、切なさである。

 不可解な行動の動機となっているのが過剰な肉欲なり加虐嗜好ではなくて、単に愛する者に自分の中の引き出しを見てもらいたかった、という何ともいじましく、柔らかい性状の物なのだ。(*1)  散々に人を弄(もてあそ)んだ末に何を今ごろになって子供みたいな事を言うのだろうと呆れながらも、その愚直さ、純真さに気持ちが震えた。わたしも遠山と変わらない。いや、大概の人が遠山と同じ夢を素肌の裏に隠しながら、今日を明日へと繋いでいるのではないか。

 対人関係の根幹にある“意思の共有”なり“境涯への理解”といったものを激しく希求する点が石井の劇には見え隠れする。書いた端からどうにも青くさくて面映いが、石井世界にはそういう霊肉一致への願望が常に潜んでいるのであって、深読みする人には当然それが伝播するものだから“倫理的”と称されることも多いのだ。

 『赤い教室』に石井が託そうとしたものは、何よりこの共有と理解への切望であった。先述の第一稿を手繰っていくと、完成された映画では消失してしまった村木の台詞が幾つか目に刺さって来る。(*2) たとえば名美(水原ゆう紀)に向けられた言葉の中に「付き合いたいんだ……俺を判って欲しいし……信じて」と訴えるものがある。これに似た調子のものは完成された映画にもあるのだが、“俺を判って欲しい”といった無垢な表現はどうやら意識的に排除されている。

 「仕事に使いたかったのも本当だ、だけどあんたの生身に、惚れたんだよ、きっと……」という、やはり消失した台詞中の“あなたの生身”というのも同等に強い光を放つ。相手の存在を多層的にとらえ、奥まった箇所同士を結線させたいと祈る、実に村木らしい告白であった。至るところでそんな引き算が重なって、『赤い教室』は徐々に石井世界から離脱して行ったのだ。霊肉一致を目指す劇の原則が喪われてしまえば、石井らしさが薄らぐのは当然のことだ。

 「口では上手く言えないけどよ、あんたは、思ってた通りの女だったよ、フィルムから察した通りのね……いい女だよ」という独白だってそうだ。これは映画にも一応含まれてあるのだが、“女”という言葉が二度続けて書かれてあり、石井は末尾の方にだけ“ひと”というルビを振っていた。好い「おんな」の貴女に惹かれたのは事実だけれど、自分は人間をさんざん見てきたから判るのだ、貴女は善い「ひと」だ、と村木は真摯な面持ちで打ち明ける。おんなという肉体を透かして内実にこそ触れ合いたいのだ、そして自分の胸の奥の洞窟にも入って来て欲しいのだと手招いている。

 これに対して映画ではどうだったかと言えば、村木役の蟹江敬三は「口では上手く言えないけどよ、あんたは、思ってた通りの女(ひと)だったよ、フィルムから察した通りのね……いい女(おんな)だよ」と吹き込んでおり、石井の細やかな指示を完全にひっくり返して見せる。演出側の内部に石井の世界観を否定するものがあって、容赦ない修正が施されているのが分かる。

 「フィルムから察した通りのね……いい女(おんな)だよ」とは、それにしても何て乱暴な物言いだろう。ポルノグラフィーに囚(とら)われて疲労困憊の名美に対し、そこから手を引いて脱出させようとしないばかりか頸木(くびき)を締め直しにかかる。おまえはフィルムから察した通りの扇情的なおんなだから、そのおんなをずっと演じ続けよと諭しているようにも読める。女性を性的対象として愉しむことが至上命題である、そんなポルノグラフィーの製作現場の鉄の掟(おきて)を見せつけられた思いで少しばかり寒気がする。どうやら映画という媒体が名美を縛り続けている、そうして、石井の物語を破壊している。それが曽根中生版『赤い教室』の確かな一面ではなかろうか。

(*1):宍戸錠の台詞は聞き取りにくく、「見たかったんだ、死ぬ前に。静子にも、僕の中の引き出し」の後は、何度聞き返しても完全には書き取れないのだけど、固く閉じられていた小部屋の鍵を外して静子を招き入れる様子と、これに続く霊肉一致の崇高な夫婦の抱擁の場面などを見ると、男は「引き出しを見て解ってもらいたかった」のだと勝手ながら解釈している。
(追記):準備稿でこの台詞を確認したところ、宍戸錠演じる遠山は以下のように口を開いている。「その女には僕では引き出せない魅力があり、その女本人すら気付かない悪魔的な魅力だが、それこそが彼女を解放する魅力だった……。」そうか「引き出し(得ない魅力)」と言おうとして感情の大波に包まれ、その後嗚咽して前に進まなくなったんだな。また勝手な妄想を膨らませて、ひとり感涙にむせってしまった。人生は恥かきの連続だな。2018.12.16
(*2): 「別冊新評 石井隆の世界」 新評社 1979 208頁 台詞の引用はすべてここから