2019年3月20日水曜日

“エロティシズムを超えた劇” ~歓喜に近い愉悦~(4)


 猥(みだ)らに色めくのではなく、そっと胸を圧してくるような、いくらか堅い面持ちの事象として石井隆の作品中には“小水”が出没する。其処には独特のおごそかな時間の滞留が起きて見える。体内から解き放つ者、その様子を横から凝視する者、どちらの眼球にも燃え狂う熱量は潜まない。

 たとえば、初期の劇画に【果てるまで】(1979)という短篇がある。主人公は例によって厳しい職場から脱落してしまい、とてもじゃないが家族のそばに居られなくなった男だ。自分と似た空気を漂わすおんなと偶然に出逢ってしまい、波長の引かれ合うままに肩を寄せ、やがて出口なき道中へと手に手をとって墜ちていく。人生の途上で思いがけず宙ぶらりんとなった互いを労わり、何かしらの手応えを求めて膿(う)んだ時間を重ねていく。要約すればそんな話だ。

 飽くことなく相手の裸身を縛っていく、抵抗することなくひたすら縛られていく。ぼんやり灯っては消えてゆく一瞬の光明を探りながら、終わりの見えない性愛の試行錯誤を連ねていく。夢幻の調べに囚われて昼夜の区別なく踊り明かすそんな男女の息づきを、石井は丁寧に活写していくのだが、その中に数コマ分だけ唐突に仮住まいの便所の扉わきに視座を置き直して、放尿するおんなの背中を身じろぎせずに視守る男の静態を挿入している。

 いつしか無精ひげを蓄えて野性味帯びた風貌の男なのだったが、おもむろに腰を屈めるとおんなの下腹部へと腕を伸ばしていくのである。おんなの血肉で温(ぬく)くなった液体を手のひらで受けていく。指先から前腕を伝って肘(ひじ)へ、さらに二の腕から肩へとつつつっと小水が伝い零(こぼ)れていき、遂に男は自身の唇を寄せてこれを舐め取ってしまう。

 愛する対象の小水を躊躇うことなく口にする。この時の両者の表情や声を石井は堅い構図と描線を崩すことなく、淡淡と切り取ってみせる。狂騒はまるで視止められない。存分に肉を味わい尽くした末の茫洋とした時間であり、アパートの狭い部屋は倦怠の霧で満たされているのだと捉えることは可能であるけれど、おんなの微かな反射からすれば、おのれの小水(および排泄中の器官)に触れられる体験は初めてなのが窺い知れる。

 初めての直球が投じられていながら、突起する感情が産まれ落ちない。どうやら石井は小水を性愛の小道具に最初から用いる気持ちがないのだ。歓喜の質量は手のひらに転がるビー玉のごとしであって、爆発的な燃焼に至っていないのが興味深い。此処のところはしっかり認識する必要を感じている。

 人によって多寡あって当然だが、聖人君子ではない私たちは成長過程でエロティシズムの幻影を愉しもうとする。小説かもしれないし、映画かもしれない。舞台かもしれないし、漫画かもしれない。ちょっとだけ血をたぎらせ、そうして元気をもらいたい時間が誰の身にも訪れる。束の間でも良い、腹の奥がじゅんわりと燃焼すればそれでなんとか塞いだ気分が救われると信じ、だからこそ繰り返し繰り返し私たちは物語に見入っていく。人間は遣る瀬ない日常を耐え忍ぶための発明を絶やさぬ、極めて健気な、何ともささやかな我慢づよい生き物だし、そんな私たちにとってフィクションは欠かせない暖炉となっている。

 総てとは言わないが、フィクションにおいてエロティシズムと排泄行為が交差したとき、居合わせた登場人物は激情に包まれ、言動は猛々しさを弥(いや)増すように思うのだがどうだろう。また、排泄物は彼らの興奮に呼応するようにして分子運動を加速させ、劇中で激しく飛び散るように成りはしないか。例えばここで西洋の著名な作家の小説からどのような装飾が小水に対して為されているか、書き写せばこんな具合となる。抑制しがたい若い躍動が書面に焼き付けていて、いちいちの形容に技巧が尽くされてそつがない。

 「血ではないが透明な、私の目には眩しくさえ思える尿の噴水で自分を塗らす以外に、気をやることができないのだった。その噴水は最初はしゃっくりのように断続的に威勢よく、やがてなめらかに放出されるあたり、人並はずれた歓喜の陶酔と軌を一にするといってよいだろう」(*1)

 同じ小説中に小水の描写をさらに探せば、「熱い魅惑的な液体」、「えぐい幸せな匂い」といった生々しい表現も散見される。本来エロティシズムを軸芯にした物語において小水はここまで激しい動きを求められるものだし、小水とたまたま遭遇した、または、面前に召喚した登場人物は弾け飛ぶような反応を読者に示し、更に相手の肌の奥を必死のまなざしでまさぐっていくものではないか。本能を高揚させ、陽根なり陰核になだれ込む血潮を充溢させてやまない強力な回春剤として小水は機能していく。

 フランス文学者の山田稔(やまだみのる)は上の例に引いた小説とこれに類似する西洋文学を取り上げ、次のように解題してみせる。小説中で展開されるのは「エロチスムの一変種としてのスカトロジー」であり、「すなわち、奔放な性のたわむれにふけっている一組の若い男女の性欲のみたし方は、病理学的にいえば糞淫症に近いもの」である。(*3)  そうして、「気まぐれや冗談であるどころか、その思想の本質部分を形成していることがわかる。彼らは、糞尿という否定的要素の肯定によって、価値の転覆をはかっている」と省察を加えた上で、「悲壮な、深刻な抗議者ではない。」「陽気さが、絶叫ではなく哄笑が生まれてくるのだ」(*4) と締めくくる。

 わたしは石井隆以外の艶笑譚にそれ程詳しくはないけれど、あれこれ掘り返して嗜虐小説の記憶を手繰ると、確かにけたたましい哄笑が纏わりつき、土俗的で威勢のよい祝祭の只中に置かれたような表現が圧倒して多いように思う。連れ込み宿にしけ込んだ男女ふたりだけの劇であっても、どうかすると複雑な体位を次々に披露し、哄笑とともに大量の汗を噴き上げ、また、性戯の果てには潮吹く勢いでしゃあしゃあと小水がほとばしったりする。ひたすら高い頂きを目指して這い登る具合であって、消費熱量と喧騒が半端でない印象がある。

 【果てるまで】に代表される石井隆の小水描写は熱量をともなわず、まったく発火に至っていない。不意をつかれたおんなは「バカ」と男を謗(そし)り、これに対して尿を舌で舐め取りながら男は「大バカさ」と肯定してみせてまるで喧嘩にならないのだし、屋外に出てからの両者の試みはどこまでも冴え冴えとして、公園の塑像のように冷えた面持ちだ。そのような放冷するばかりの、やや空虚な時々刻々こそを石井は描こうとしている。

 このように一般的な性愛劇とは趣きがどうも違うのだけど、それを不完全燃焼とか発酵に失敗していると見るのではなく、そもそもが石井の目指しているものが最初から「性愛劇ではない」という見方もここで活きてくるように感じられる。あれ程も裸身に満ちあふれ、性的行為が連なっており、一般の目線からはエロティシズムを軸芯とする物語に見せてはいるけれど、石井はエロティシズムを遥かに超えた劇をずっと模索しているのではなかろうか。その証左となるのが先述の【初めての夜】(1976)と同じ地平の、小水と性行為との乖離が明確となる【果てるまで】の硬直した面相だ。

(*1):「眼球譚(初稿) Histoire de l'œil」  ジョルジュ・バタイユ   Georges Bataille   生田耕作 翻訳 河出書房新社 2003  51-52頁
(*2):同 37頁
(*3):「陽気な破壊者たち」 山田稔  「スカトロジア―糞尿譚」  講談社 1977 所収 114頁
(*4):同 117頁

2019年3月11日月曜日

“恋を焚きつける日常” ~歓喜に近い愉悦~(3)


 ひとは一生のうち幾度か恋情という轆轤(ろくろ)に身をゆだね、相手の四肢にまとわり抱かれてゆるやかに覚醒していく。心身両面での膨満やくびれといった劇的な、いや、爆発的と言ってもよい変貌を来たす時間を迎えるのだけれど、その只中においては複雑な影を背後に従える場面が少なくない。

 経験値の低いわたしは鈍刀(なまくらがたな)を自覚しない日はないけれど、ささやかな記憶を手探りし、また、身近にいる知人友人の身に起きる騒動を親身になって受け止めながら、ようやくこの年齢になって整理なるところがある。深刻もしくは硬化しつある日常から漏れこぼれる、あえかで沈い香りをそこに嗅ぎ取ってしまう。特性のある人ない人でもちろん出方は違うけれど、不幸の只中にある、少なくとも何かが渋滞をしている、そんな物狂おしい下降局面に置かれた日々にこそ魂は発火するのではないかと疑っている。本能の奥にひそむ防衛本能が、知らず知らずに起動してしまうのが恋の起点じゃないか。足元をよく見る慎重で生真面目な人ほど、日常の苦難に直面したときに恋に墜ちてしまう傾向はないものだろうか。

 では、恋を焚きつける日常とは一体全体なにを指すかといえば、これは人それぞれ異なって当然の話だ。家族の不和や生計の苦しさであったり、学業や職場での試験に落ちた衝撃であったり、怪我での入院や健診での異常を知らせる小さな封書だったり、茫漠とした未来への不安だったり、百人いれば百通りの心当たりがあるに違いない。ある人の背中にあるのは純度の高い大量の爆薬かもしれないし、別のひとのそれはもしかしたら手のひらに隠れるほどの火打石(ひうちいし)かもしれない。何がどの程度の発火を誘い、我らを新たな舞台へと後押しするかは皆目分からない。相手の容貌や声に単純に惹かれるといった「引力」のみではなく、別な大きな力が運命を後押ししているのは間違いない。

 恋情に限ったことではなく、肉欲への急激な傾斜や飛び込みというものも単調な色彩ではない。薄衣(うすぎぬ)纏った姿態に惑わされるだけではなく、拘束やしがらみからの離脱を切望する無我夢中の足掻きがともなっていたりする。ああ、確かにその通りだ、ずいぶんと若い時分に私は足繁く宵闇の裏通りをさまよい歩き、滅多矢鱈に扉を押しては白い肌とその匂いにすがったのだったけれど、あれなどはまさしく逃避行以外の何ものでもなかった。其処で産まれ墜ちるのは浅いみじめな快楽でしかなく、自分を労わっているのか虐げるのか区別がつかない混沌とした時間ばかりであったけれど、そうでもしなければ身は守(も)っても気持ちの方が挫けそうだった。無謀な跳躍の陰には、魂をめぐる綱引きが常にある。

 人間には時にそんな夜なり場処が必要じゃないか、とも思う。こちらから勧めはしないが、よろめいていく人の行為を決して否定できない自分がいる。人間の内奥には逃げない自分と逃げる自分が常に同居していて、どちらも大切で欠かせない存在だからだ。あの時、あの忌まわしくも愛しい束の間の離脱がなければ、私はもっと精錬されて人品卑しからぬ男に仕上がったものだろうか。正直そうは考えないし、曲がりくねった道程があればこそ何とか救われて今が在るとしか思わない。

 以前から書いているように石井隆の劇画や映画はわたしの青春に寄り添うようにして在ったのだけど、私は彼の流麗な劇画を眺めて溜飲を下げると同時に、現実世界からの「現実的な逃げ方」を教わったように思う。徐々に視界を閉ざして見える日常の味気なさを必死に振り払いながら、劇画に描かれた村木たち、哲郎たちの模倣を試みた。そうして危機を越えてきた。疲れた今日をどうにかこうにかやり返して、明日に繋いできたように思う。大袈裟に聞こえるかもしれないが、生き残るために扉を幾つか押しひらいて名美を探すことは避けられなかった。

 石井隆の劇画には性を商品化する店舗や従事者が描かれることがあり、丹念に取材を為してから描かれたそれら扉奥に拡がる光と影の点描は、ハイパーリアリズムの手法をたずさえて読者の目を射抜き、混沌ではなく「安定した(非)日常」として脳内の視覚野に到達した。船頭役の年長の男を周囲に見つけられないで悶えていた私のような孤独な読者にとって、石井の劇画は信頼に応える兄貴であると同時に無防備な裸身をゆだね得る整体師にも似た風貌をそなえて見えた。「安定した(非)日常」に堂々と誘(いざな)って、救ってくれたのだ。

 その手の業界の店員となって糧を得る者に対しての目線は常に平坦であり、決して蔑(さげす)む態度や台詞はなかった。もしも劇中にそんな言動があったら、それを放った者こそが蔑まれる話の流れだった。女性蔑視や職業差別の台詞を放つのは遙か彼方で蠢くつまらぬ輩であり、唾棄すべき思慮浅き者の刻印としてきまって押された。境界を敷くところがいわゆる世間の常識とは最初から違っていたように思う。「不安定な日常」の向こうに自分たちとよく似た「(非)日常」を暮らす苦労人の存在を教わり、彼らと出遭い、膝をまじえて普通の会話することが嬉しく感じられ、ずいぶんと助かった想いがする。似たような道程をたどった読者は存外多いのじゃなかろうか。その意味で少なくとも私は、石井隆とその劇画に深い恩義を感じている。

 誰に頼まれた訳でもないのに、どうして若い時分の迷い路延々と吐露するのか。ありふれていてお世辞にも誉めようがない悪弊の告白であって、どう考えたってまともな大人のする事ではない。それは石井隆の描く“小水”についてこの先触れる上で、自分という物差しをあてがうしか方法が見つからないからだ。石井の描く風景が正常であるのか、変態性欲の発露であるのか、石井は私たちにどう思ってもらいたいのか、あまりにも孤絶した部屋、独立した脳内で展開する極私的な表現となっていて客観視するのがすこぶる難しい。

 たとえば【今宵あなたと】(1983)という小編は映画『ラブホテル』(監督 相米慎二 1985)の骨格になった作品であるけれど、ここで男は宿に呼びつけたおんなを手錠やロープで拘束し、その肢体に向けて小水を降りかけるという乱暴な行為に及んでいる。どのように受け止めるかは読者それぞれの自由に違いないが、浴室の排水口にたちまち吸い込まれていく液体を漫然と見送ることなく、しばし立ち止まって熟考することをあえて試みるなら、どうしても最初に私自身の立ち位置を明らかにしておく必要があると考えた。

 石井隆の抱える生理や欲望と私のそれには当然段差があるし、石井が創造した数多の男たちのそれはバラバラである以上、何を語ったところで的を貫くことは難しいとは思うけれど、それでも無理を押してとことん寝屋に踏み込んで語るためには、私という人間が聖人君子ではさらさら無いと明言してから歩み寄るより仕方ない。理解できない、異常としか見えない、狂っている、自分たちとは違う。そんな上から目線で何を語れよう。

 石井に助けられ、多くの女性たちに助けられて私は青春を生き延びた。だから、石井が描く景色を別世界と捉える距離や段差を持てない。記憶と少なからず結線し、懐かしいとさえ思うコマさえある。近しい価値観、近しい死生観、近しい倫理観を育ててきたと信じている。それ等を頼みとして幾つかの作品と描写についての「私論」を試みようとしている。

 その上で【今宵あなたと】で男がまき散らす小水を考えると、これは自己承認をおんなに際限なく求める話であって、その一環の連結器や通路の役割で小水が使われている。非常に物狂おしい場面が連続することになるのだが、そのいちいちに俺のことを分かってくれないか、貴女のことをもっと分かり合いたい、という希求が盛り込まれている。小水を単純に汚れたもの、性欲の終点と見るのではなく、そこに死に際ぎりぎりの声を聞く必要がある。

2019年3月4日月曜日

“上の方、胸のあたりに引っ掛かる” ~歓喜に近い愉悦~(2)


 いきなり結論めいた言い振りになるが、石井隆が劇中に登用する“小水”をめぐる描写は俗に言う「好色」とは一線を画す存在だ。古代の蛇神さながら妖しくくねって床を這い、時にはげしく地上を叩く。提示の仕方は作為的で、良い意味合いで奇妙さが感じ取れる。あの黄味がかった液体に一体どんな想いが託されているのか、と、読み手の思考は縛られ延々と引きずられる。私たちにむかい乱反射して、何事かを無音で囁いている。

 いや、そんなに理屈っぽくないよ、ぐっと来て芯が疼いて仕方ないと返す御仁もおられるだろう。性的嗜好は人それぞれであるから、この手の話はどうしても焦点がぼやける。あくまでも勝手な私見である旨、先に断わっておくべきか。

 異論百出とは思われるが、そもそも小水というモノは好色さ、猥雑さと連結させる物象だろうか。生活のあちらこちらに頻出するが、それ自体には粘性もなく中途半端に生温かいだけで、いくら目を凝らしてみても表情が乏しい。房事に没入していく時間のなかで、必ずしも毎回決まって出現するとは限らないのだし、あっと言う間に寝具に染み入り、はたまた下水口や草むらの奥に消え去ってしまう。どちらかと言えば実に素っ気ない存在と感じる。

 だいたいにして当初から寝屋には出現しにくい性格じゃないか。生物学上いちおう男であるから我が身体に沿って正直に綴れば、陽根をふくめた下腹部の構造から、愛の時間において小水はたちまち脇に追いやられるのが普通である。歓喜の昂まりと共に一部の器官の充血と変形が起きるが、それにより経路はあっさり遮断され、膀胱という奥座敷にしばし軟禁を強いられる。数分間、極めて稀にだけど数時間に渡って一本しかない道を血気盛んな他の体液に譲らざるを得ない。

 幼年時や泥酔時の夢うつつの中では、もしかしたら淫夢に誘われての失禁もあるやもしれないし、怪我や手術での入院時に挿されるカテーテルでのやるせない排出に際しては、貧弱な枕にのせた頭の奥でこっそりと桃色遊戯の空想にいそしんでいるかもしれない。性愛と小水がだから完全に別世界の者同士とは思わないが、通常は距離を置いた別次元の間柄だ。

 私たちを慰め、生きている実感を呼び醒ます性愛の刻(とき)。形づくるパズルの重要な一片として小水を捉える人は、おそらく世間にそう多くは居ない。本人に確認した訳ではないけれど、石井隆も感じるところは同様ではなかったろうか。単行本未収録である【初めての夜】(1976)という作品があるが、これなどを読むと石井の感覚が私たち読者とさほど違っていないことが読み取れる。遊びらしい遊びをした事がない堅物男が初めて為すささやかな冒険の顛末を、淡淡と浮遊的に描いてみせた小篇だった。

 愚直な勤め人が同僚の与太話に背中を押され、過激なサービスを売り物とする場末のキャバレーを訪れる。憂いある横顔のホステスに惹かれていくのだが、そのおんなは客から小水を掛けられてみたり、自分のそれを目撃させる事をいっさい厭わないのだった。トイレの暗がりでそんな様子を垣間見た男はたちまち嘔吐し、転がるようにして店を出る。既に真夜中となって終電を逃しており、男は酔いにまかせて暗い歩道をしばしさ迷うのだったが、その面前に仕事を終えたばかりのあのおんなが所在無げに佇むのに出くわしてしまう。ふたりは神社の境内に足を延ばし、其処で身体を合わるべく努めるのだけれど、おんなの腰回りにしがみついた小水の痕はさかんに成分の分解を始めており、むらむらとアンモニア臭を放って来るのだった。男は思わず目をつぶり、顔をそむけてしまう。

 性愛小水とが容易に交じり合えないこと、そのすこぶる感覚的な断裂を石井はごく自然な形で【初めての夜】にて吐露しており、私たちの抱える一般的なおののきや戸惑いと自分が持っているのはそう大差無いのだと教えている。白い陶器に向けて描かれる放物線やめらめらと照り光る床溜まりの光景は、激情をもたらし、色欲を膨らませる役どころというよりも、もっと上の方の胸のあたりなり、さらにずっと上の目蓋の端に引っ掛かり、ようやくして発熱と放散を繰り返しながらさまざまに気持ちを揺らしていく。それが石井隆の小水の基本像となっている。