2022年5月28日土曜日

出眠時幻覚


  就寝中の出来事で、今のあれは何だ、まさに亡霊じゃないか、と、そわそわさせられる瞬間がある。私みたいな木偶の坊(でくのぼう)ですら悶え迷うのだから、誰の記憶にだってちらほらと揺らめく影のひとつかふたつ在るだろう

 瞳に焼きついた寝床での出来事のひとつは、何者かの気配をふと感じとり、まぶたを開いていくと枕元に影がぬっくと立っている様子である。あれ、人間だ、と思った刹那、そいつの黒い髪の毛がわさわさわさ、ずっざざざざ、と、もの凄い勢いで伸びてきて自分の顔をもわもわと覆っていく。当然ながら絶叫して跳ね起きる。これまで二度も襲われている。

 「幽霊」とまでは言わない。むしろその逆だ。年齢を一年一年と重ね経るごとに醒(さ)めていく部分があり、どこか空しくもあるけれど、世界の神秘性が急速に衰えている。たとえば、居残った夜の職場で施錠の確認に歩くことも、以前ならば戦々恐々の体であった。黒々と闇に塗りつぶされた隅っこには、不遇な晩年を送った先人が潜んでいて、こちらを凝視しているようにも思われた。ここ数年はいっさい何も感じない。それにしたがい胸の奥に明々と灯っていた焔(ほむら)も照度を落としていき、なんだか総てが色褪せて感じられてならない。

 そんな生乾きの下着か、出涸らしの茶葉みたいな、パリッとしない身であるから、もはや単純に「幽霊」とは思われない。あんなものが魂であるものか。黒髪の化け物は先述のオリヴァー・サックスの「見てしまう人びと」で説かれる「出眠時幻覚」、まさにあれだろう。「たいていは苦痛、ときに恐怖を引き起こす。なぜなら、その幻覚には意図があって、目覚めたばかりの幻覚者を攻撃しようとしているように思えることがあるからだ」と綴っている部分はどんぴしゃりだ。(*1)

 でも、もう一方、別の性格のものがあって、こちらはあきらかに「夢」の景色であるのだが、死んだ係累や音信が途絶えて久しいひとが日常空間に現われ、懐かしい表情や物腰で活き活きと喋ったり微笑んだり、そっと佇んでいたりする景色を目撃してしまう。これも特別なことではなく、誰にでもあるほろ苦い迷路の時間だろう。明らかに古い記憶が短絡(ショート)して、擬似的な現実を見せるありきたりの夢まぼろしである。

 単なる夢と理解してはいても、甘い感傷や淡い期待を禁じ得ない。黄泉の国からの訪問ではないのか、魂が遠路飛翔してわざわざ遊びに寄ってくれたのではないか、と執拗に考えてしまう。彼の人たちは霊体、一種の超次元的存在として目の前に顕現したのだと信じたい気持ちが、ちかちかと眼球の奥に居座って舞い踊る。

 サックスは幻覚と夢を区別する文章のなかで、「夢は瞬間的な像としてではなく出来事として現われ、連続性、一貫性、物語性、テーマがある」と書いている。(*2) なるほどそうだ、幻覚は突飛で脈絡がないが、夢は魂をもった人間を見事に組み上げ、彼らなりの理屈を持って行動して見える。束の間なれども脈をとくとくと打ち、ゆっくり呼吸をして私たちと真向ってくれ、奇妙な声掛けをくれる。その連続性、物語性が証し立てするように、やはりそれ等は夢に違いなく、結局のところは幽霊でも何でもないのだろう。

 でも、ここで不思議だな、と思うのは、日本の幽霊譚においては連続性、一貫性、物語性、テーマが付随していることだ。「牡丹灯籠(ぼたん どうろう)」しかり「皿屋敷(さらやしき)」しかり、日本の幽霊物語で描かれる霊体というのは睡魔に陥りがちな夜に大概が出現し、夢とはげしく交差し、融合して見える。夢は幽霊の住み家であり、とり憑かれるということは夢にもたれ抱きついて揺蕩(たゆと)うことに近しい。

 生きている限りにおいて私たちは、生きた人間、死んだ人間に取り囲まれ、目撃し、出逢い、語らい、別れていく。そうして睡眠障害を患わない限りは夜毎眠りに陥り、そこに懐かしいひとを垣間見るように創られている。連続性、一貫性、物語性にあふれた数限りない幽霊譚をすりこまれた経験から、目撃した夢の内容を無理なく神秘体験と了解していく。幽霊ときわめて似た趣きの「何者か」と向き合い、考えあぐねることをどうしたって繰り返さねばならない。

 「彼ら」に再会することが一抹の救済になったり、その逆に淋しさを煽ったりするけれど、それが私たちに組み込まれた宿命的なプログラムなのだ。「出眠時幻覚」の髪わさわさにはもううんざりだが、夢の断章にて、嬉しい人の再訪があることを期待しながら、夜を朝につないでいきたいように思う。そのようにしてしか、もはや逢えない相手ならば尚更である。夜がただただ待ち遠しい、ただただ恋しい。

 さて、半年近く幻覚や幽霊について綴ってきたが、これは石井隆の世界におけるそれを語る上での枕であった。石井作品中の怪異をめぐって思索することは、この作家と彼の創造世界を語る上で、最も繊細で大切な部分である。まずは私の内部をじっくり横断して、幻覚と幽霊の両体験を振り返り、ちゃんと整理しておく必要があった。

(*1):「見てしまう人びと 幻覚の脳科学」オリヴァー・サックス 著 大田直子 翻訳 早川書房 2014 251頁

(*2):  同 250頁

2022年5月1日日曜日

異常神経


  往事の庶民の暮らし、具体的には花売りの様子について調べねばならず、日曜日の午後を図書館で過ごした。医学書を山と重ねて貪り読んでいる学生や黙々とプリント問題に取り組む高校生などしか見当たらず、子どもや老人の姿がまるで無い。まだまだコロナウイルスへの警戒心は世間からぬけ落ちていない。

 肌寒いものだから陽射しの差し込む窓ぎわと決め、職員に頼んで奥から引っ張り出して来てもらった随筆集を膝に置いてめくっていく。画家の鏑木清方(かぶらききよかた)が晩年になって綴った自叙伝二冊だ。(*1)

 本の内容はあまり参考になる箇所はなく、春の白い陽光に染まっているといつしか眠気が襲ってきて困った。今は福富太郎のコレクションに納まっている、あの「妖魚」の屏風絵の発表時にアーノルド・ベックリン Arnold Böcklinの人魚の模倣ではないかと指摘を受けた件につき、鏑木は言葉を尽くして延延と釈明している。そんなところは彼の気負った声と人柄を感じさせて面白く読んだが、それ以外については今の私にとってはあまり血肉になるところは見当たらなくて、いよいよ眠くなるばかりだった。目的は果たせず、空振りに終わったなと感じる。

 おや、月岡芳年(つきおかよしとし)について書いている、と気付いて、そこの部分では頁をくる速度をゆるめて読んでみる。1839年(天保十年)生まれの芳年と1878年(明治十一年)生まれの清方は親子程も年齢差があるが、清方の父親が新聞を出版する文化人であったことから芳年の方がよく家に来ていたのだ。つまり、幼少時分から面識があるのだった。やがて清方が芳年の弟子に師事することから、孫弟子として芳年とは精神的な結びつきがいよいよ強くなる。

 エピソードなり感懐の言葉のいちいちが興味深かったが、とりわけ幽霊画製作の裏話を明確に記していることに心地好い衝撃を覚えた。「こしかたの記」が上梓されたのは1961年(昭和三十六年)であり、清方はそれから十年ほど長く生きはしたけれど、八十歳を越えた自身が晩節に至ったことを意識しないはずはなく、ならば内容については正確さを求め、文中に後世に混乱を生む種子を埋めることだけは慎重に避けたに違いないのだが、ここで清方は大師匠たる芳年が幽霊を目撃して写し描いたと明言してはばからない。

 世間につとに知られた話ではある。編集者だった本多嘯月(しょうげつ)が芳年没後二十年近く経った1910年(明治四十三年)に雑誌『新小説』で紹介している内容(*2)を、清方なりに反芻して再度世間に伝えているように読めなくはない。

 「先生の師匠芳年は、私が畫道(がどう)に入った翌二十五年に、まだ五十四歳の、畫家(がか)には最も盛りの年頃に精神病で亡くなつた。世間では慢心からだと云つたが、その製作のあとを見れば異常神経がよく窺へる。幽霊を屢屢(しばしば)實在(じつざい)に見たと人に話したさうで、圓朝(えんちょう)の舊蔵(きゅうぞう)であった、「幽靈百幅」の中にある、梯子段の途中でうしろを振り向く女郎の幽靈は寫生(しゃせい)に依ると傳へられる。」(*3)

 「話したさう」「と傳へられる」という言葉尻からすれば、芳年自身の生々しい告白を清方は聞いていないことが判る。それにしても死の到来を意識し、自作を誰かの真似と謗(そし)られることを許せずに縷縷(るる)説明を重ねる老画家鏑木清方(かぶらききよかた)が自叙伝に記していることには眩暈さえ覚えた。つまり、清方は幽霊の目撃譚につき、あの大師匠月岡芳年ならば見たかもしれない、むべなるかな、と捉えているのだ。さらには、「製作」に臨む絵描きの魂と「異常神経」はよく馴染み、ふたつが手を組み合って創作へと突き進むことは時に自然であって、そのような逸話が大師匠芳年の名誉をまったく傷付けないと信じて見える。

 最近出された月岡芳年論の労作、菅原真弓 著「月岡芳年伝 幕末明治のはざまに」のなかでは、明治という時代は文明科学の一気に流入浸透した時期であった、幽霊というものが神経衰弱に由来する幻覚、錯覚のたぐいであると認識し直す動きがたいへん顕著であったから、芳年自身の内部にも神秘主義的な柱は徐々にすたれていったのではないか、次第次第に跳梁跋扈する妖怪や幽霊を描かなくなっている、と解読している。(*4)

 「鬱憂狂」という彼の病歴にしても菅原は世間が考えるほど重くなかったと推察していて、彼の生の道程は一般的なものであったと考えている。確かに狂っていて、あそこまで精緻な絵を描き続けられるとは思えない。おそらく、幽霊は芳年の周りに出没しなかったのだろう。つまり芳年は「幻覚」を見てしまったのだ。

 しかし、それにしても、と思う。幽霊を見てしまう、幽霊を描いてしまう、そして、それら特殊な絵画を観て、その由来を聞いて数多くの人が溜め息をつき、時には涙さえ流していく事の不思議は何だろうか。時代の進歩では振り落とせない強烈なイメージが私たちには巣食っている。幻視、異常精神を通じて到達する魂の領域というのがきっと在る、そんな認識が世界を横断している。エーテルのように透明無臭で絶えず人間にまとわりつき、文明科学の理屈では到底追い払えないのだ。そうして幽霊と呼ばれる幻覚は一生の折々に深く、激しく、切々と作用してくる。

 我々は揃いも揃って「異常神経持ち」なのではないか。そのことの再確認に至ってしまい、なんだか怖いような、暗い動揺が押し寄せてくる。


(*1): 鏑木清方「こしかたの記」1961、「續こしかたの記」1967

(*2):「月岡芳年 妖怪百物語」日野原健司 、渡邉晃、太田記念美術館監修青幻舎2017 86

(*3):「こしかたの記」 鏑木清方 中央公論美術出版 再版1963 123頁

(*4):「月岡芳年伝 幕末明治のはざまに」 菅原真弓 中央公論美術出版 2018 113-114頁


2022年4月29日金曜日

幻覚ヲ見タルコト

 


 幻覚を見ることは恥じることではないと書いてはみたものの、実体験者にとっては口外し得えない困った事態だ。

 幻覚を見る側として、それが幻覚という領域の物であるのか、それとももっと深刻な狂気という域にいつしか踏み込んでしまったのか、その区別がつけられないという不安がある。精神病理学者の渡辺哲夫の本(*1)を最近読み終えたところだが、境界線を越えてしまった者の幻視する混沌世界は酷薄さを極め、幻聴の苦悩たるや想像以上の凄まじさであって、安易に要約できない複雑さと深度を持っている。幻覚の延長線上にそんな次元が舌なめずりして待っているのだとしたら、はてさて自分と家族はどうなってしまうのだろうか。どうしても口籠(くちご)もってしまうのは当然の成り行きだ。偏見を恐れ、万が一の強制入院や薬漬けをぜったいに回避したい、家族の愛情、友人との和やかな会話が遮断することを避けたい、それが人情というものだ。

 かつて我が身に起きた視覚異常についてだって匿名性に頼るかたちであればこそ、どうにか此の場に記せたのであって、身内にさえ見えてしまった光景を打ち明けぬままで終わっている。(*2) 油膜を帯びた薄い雲母状のものが空中に拡がっていったり、目の前の物体の右半分が溶解したりする光景に対し、あれは一時的な幻覚のたぐいだったのだな、今にして思えば珍妙で面白かったな、と落ち着きを徐々に取り戻してはいったけれど、そこに至るまでの道程は薄暗く、ぬかるみがだらだらと続いた。私の場合はそうだった。

 オリヴァー・サックスの「見てしまう人びと」(*3)なんかを読めば、幻覚は一種の救済として内部から湧き上がるものだと分かり、いっさいの後ろ向きな固定観念がたちまち融け落ちていくのだけれど、世間の誰もがこの種の本を手に取る訳ではない。無知な人たち(嘲っているのではなく、単に機会なく知らないでいる人たち)に混じって平穏な日常を送るためには、残念ながら多少の隠蔽なり仮面は必要だ。

 そんな次第であるから、世の幻覚のほとんどはきわめて個人的な事柄として記憶の淵に幽閉されていき、そのイメージや音色は滅多に口述されることなく、毎夜繰り返される睡眠時の他愛ない夢のようにしていつしか忘れられていく。

 稀に幻覚体験者が喜々としてそれを公言することがあるが、自らに落ち度なく、それが他人の手で一方的に為されたものであって、また、自らの肉体や精神が源になっていないと胸張って言える場合に限られていくというのも、だから至極当然な帰結となる。たとえば手術の際の麻酔薬の投与による現象は、医療の側にそのすべての責任を押し付けることが出来る。愉楽のために進んで薬剤を静脈注射なり吸引した場合と異なり、そこに漠然とした後ろめたさや世間の非難を予兆する暗い影は落ちてこないからだ。術後しばらくして快癒すれば、受け取った見舞いなり心配の声への返礼がわりの意味をいくらか含ませて、友人知人にくすくす笑いといっしょに耳打ちするだろうし、言動に翻弄された家族にしても、あなた大変だったのよ、びっくりしたわ、と、眉間に皺寄せて気軽に会話に上らせることが許される。

 澁澤龍彦は死去する直前の入院時に痛み止めの薬による幻視を体験し、それを「都心ノ病院ニテ幻覚ヲ見タルコト」という小文(*4)にまとめているが、これなども典型的な、無垢で天真爛漫な幻覚譚の好例であろう。「舞楽(ぶがく)の蘭陵王(らんりょうおう)そっくりのおそろしい顔」が天井から寝台に向ってゆるゆると降りて来るところなど実に見事な描写で、澁澤ならではの観察眼と記憶力にささえられた名文となっている。幻覚の体験者もまだそれに出逢えていない人も機会あれば読んでおいても損はないように思われる。やがて私たちの誰もが似たりよったり目撃をするだろう。その際には、どうせなら大いに愉しんだ方が得だと思うからだ。

(*1):「死と狂気 死者の発見」渡辺哲夫 筑摩書房 1991

(*2):https://grotta-birds.blogspot.com/2011/10/blog-post_22.html

(*3):「見てしまう人びと 幻覚の脳科学」オリヴァー・サックス 著 大田直子 翻訳 早川書房 2014

(*4):「都心ノ病院ニテ幻覚ヲ見タルコト」渋澤龍彦 1987 同名文庫(学研プラス 2002)に所載  ‎ 

2022年3月21日月曜日

魂入れ

 


 順位付けにひとは熱狂しがちだ。一、二、三、四と数字を並べ、自分なりの理屈で甲乙を付ける。わたしも学生時分には夢中でやったものだ。なつかしい。でも、世間に出てみれば職業差別の眼差しを注がれて辛酸をなめる日々であり、順番でいえば相当下でじたばたする凡夫でしかないと分かってくる。そんな序列外の四季を幾度か越えてみれば、もはや格付けなんてものがいかにも子供っぽく思えたし、悪趣味にさえ見えてきて、以来まったく関心が無くなりどうでもよくなった。

 誰が勝ったか、どちらが賞を取ったかなど報道が過熱気味のときほど体温がさわさわと下がり、興味覚える別の対象にさっさと視線を替えるようにしている。時折こころを妙に動かされる運動選手や歌手も現われるが、共振を覚えるのは彼らの皮膚の裏で怒張していく鉛のごとき緊張であったり、失敗や敗北のときに激しく頭頂部からしたたり落ちる悲哀や傷心であって、ボクシングの試合中継など観ていても、はるばる異国から呼び出され、罵声を浴びせかけられ、蚊の羽音のごとき声援しかもらえぬ外国選手にしか目が向かないし、床に崩れ散る敗者ばかりが瞳に刻まれてしまう。

 映画を観ることを好んでするが、どうしようもなく稚拙な演出や脚本でげんなりしながらも、その作品を悪しざまに語ることはしない。役者のちょっとした演技や声量のコントロールに目と耳を持って行かれる瞬間などあると大変な幸せを感じるし、ロケーションやセットで巧妙に切り撮られた繊細な光と影を目にすると、多彩な景色に陶然となり、玄人の職能にただただ舌を巻き、世界とはなんて素晴らしい場処だろう、人間とはなんて健気な探求者であろうと感嘆する。そうして、愉しい余暇を過ごせたと感じて自然と笑みがこぼれてしまう。

 読書だってそうだ。一冊の本のなかには無数の星々が同居し、其処かしこに浮遊してさまざまな光景をつむいでいる。総体を評価するのも確かに大事であろうが、局所的な描写に気持ちが捕らえられ、読後いつまでも忘れられなくなる展開こそが醍醐味と思う。起承転結の構成が上手くなくても、自分の脳なり魂としっかりと結束する箇所がわずかでも見つかれば十分にすばらしい本に出逢うことができたのであり、とても有意義な人生を送れている、そんな勇気みたいなものがもらえる。

 書籍のなかから数行をすくい上げ、許可もなく世間に紹介し、身勝手な意見や解釈を添えていく行為を自分は此処で繰り返している。もしかしたら有害かもしれないし、そんなことをされる著者もきっと困惑するのだろうが、それ以外には体質的に出来ないのだから許してもらいたいところだ。ちいさな柄杓でほんのわずかな水をすくい、目を寄せて観察し、口に含んで味わうようにしか世界と向き合えない。順位も勝ち負けも度外視して、内観と祈りを繰りかえすしかない。

 さて、先日読んだ本のなかに「幻覚」に触れた箇所があって目を引いた。公害で身体をむしばまれ、訴訟で魂をすり減らした一個の人間が、駆け引きなくその真情を吐露する貴重な一冊である。元々は公害とは何か、差別とは何か、私たちの住まうこの社会とはどんな場処であるかを知りたくて手に取った本であり、実際学ぶことが多々あって、こんな年齢になってからも教育してもらえる有難さを堪能している。まだまだ世界は知らないことばかりで愉快だ。

 この本のなかでインタビューに答える著者が、おのれの精神錯綜の重篤であった時期を振り返り、これを淡淡と語っている箇所がきわめて興味深かった。彼の言葉をそのまま書き写せば「狂っている最中」の記憶であり、そのとき鬼と出くわした、と話すのだった。

 元凶となった化学工場に働く者たちを「自分たちが肥え太るために人間の生き血を吸い、人を食っている鬼ヶ島(の鬼)のように」思っていた彼が、また毒を放出していると感じられたことから鬼退治よろしく単身乗り込もうとする。  

「そのとき自分のなかで展開されたのは幻覚と言えば幻覚なんだけれども、実際にその場面が鮮やかに出てくる」、「二~三歩歩いたぐらいのところで、五匹か七匹ぐらいおった鬼たちが人間の手足を引きちぎって食っているわけですよ、血をスタスタやりながら。」

 彼が構内に踏み込んだ上で見た幻覚であったのか、それとも道端で夢遊病者と化して垣間見た蜃気楼じみたものだったのか、それは書かれていないが、確かに鬼の住処へ侵入し、運悪く見つかってしまった彼はあやうく捕まって食べられる寸前となる。

「その瞬間、上から「早くあがってこんか」いう声がしてロープが下りてきた」、「危ういタイミングでしたね。おれの足が鬼の手につかまる寸前に引き揚げられた」ということで、からくも生還することが出来たのだった。(*1)

 詳述されるこの世ならざる光景のかずかずも凄まじいが、それ以上に感心したのは、筆者が「狂っている最中」の自身と幻覚につき一切否定せず、恥じることなく、逆に自身の魂の快復や逆境の捉え方につき有効であったと確信している様子が驚きであり、また見事であるのだった。

「狂っていく過程は恨みが吹っ切れていく過程でもあったわけです。吹っ切れたというより、吹っ飛んで果てたという感じです」(*2) 「自分もギリギリで、しかも命がけで、狂って狂って、キワキワのところでやっと気づいた、というより気づかされたこと」(*3) 「狂ったあのときは文字どおりの「魂入れ」だったし、揺るぎないですね。見せつけられたというか叩き込まれたというか」(*4)

 こうして繰り返される自己検証の声を並べ見れば、彼にとって狂いと幻覚が無駄どころではなく、必要不可欠な分岐点であったことが納得される。狂っていた方がよく見えていく状況もあるのだし、幻視や幻聴の記憶を魂の道程に深く刻み、成長の糧にしていくことが人間にはあって良いのだ。狂いは、幻視は、忌まわしき病状ではなく、一種の啓示として働くことが間々あるという事実を毅然として主張している。

 正気であること、幻覚を見ないということ、それが健常とは限らないのだ。それが無いことを誇ることも、それで苦しみ恥じることも、どちらもどこか足らないということだろう。


(*1):「チッソは私であった 水俣病の思想」 緒方正人 河出文庫 2020 198-199頁

(*2): 同 198頁

(*3): 同 202-203頁

(*4): 同 210頁


2022年2月23日水曜日

敗北の歴史

 


 肉親の死を通じてようやく宗教との間合いを縮め、その教義やしきたりにつき真顔で向き合う時間を持てている。それまでのわたしはどちらかといえば無神論者であり、宗教、ここでは明確に仏教と言い切った方が自然だと思うが、斜に構えてぼんやり眺めるばかりだった。春秋の彼岸やお盆には先祖の墓を清掃し、手を合わせることはしたけれど、本音を言えば義務感からやっていただけでお寺という存在がすこし疎ましかった。

 磨崖仏(まがいぶつ)や横穴墓をよく訪ねるし、散歩がてら墓所を歩いたりもして、世間から隔絶した宗教空間に浸るのは好きなのだが、実生活に関わりだすと強い抵抗を覚えた。先祖の墓を守るということは精神的に縛られ、外(ほか)の地方に住まうことを邪魔し、海を越えて生きるという可能性を諦めることになる。いや、実際にそうする度胸もなく、家族というしがらみを絶つ放埓さも自分は最初からそなえていないのだけど。要するに覚悟も何も出来ていないものだから、寺を毛嫌いしたということか。簡単に折伏(しゃくぶく)されてなるものか、という幼い気概もあった。

 亡き親族との会話を思い出すと、そのなかに寺に対する意識についてのやりとりがあって、苦い場景として度々脳裏に再生される。寺の門徒会の役職は世襲制であるから、原則自分が亡き後はおまえが継ぐことになりそうだが、その意思がおまえにはあるかどうかと尋ねる声に幼稚な言葉を即座に返している。経文(きょうもん)の内容、特に天国の記述がリアルに感じられず到底信じ切れない、どうしたら純粋に信じられるだろう、正直言って寺に前向きに関わりたいと思わない。黙ってこれを聞いていた故人の、瞬きをせず鎮かにこちらに注がれていた瞳の深い色彩と面持ちを忘れることが出来ない。がっかりさせたかもしれない、悲しませたのかもしれない、今更ながら罪なことをしたと悔やんでいる。

 ここしばらくの弔事を通じて、また、寺の年間行事に何周か足を運んで神妙な顔で着座し、さらに疑問や興味から関連する書籍を選んで自宅で読み進めるうちに、この世界観も満更でもないという気持ちに至っている。宗教家という存在の内実が凡人同様に不安や揺らぎに満ち溢れ、必ずしも鉄壁の信仰を抱いているのではない事がだんだん分かってきて、垣根が低くなったというか、眩しさが薄れてきてかえって居心地が良くなった感じがする。

 たとえば、ある仏教思想家は以下のように自身の若い時分の宗教観を綴っている。「お浄土といふものが解らないのであって、浄土とか地獄とかいふような話は昔の偉い人が好い加減に何かの方便でいつたものであらうといふような考へを持つて居つたのであります。」(*1)  なあんだ、こんな高名な識者も自分と同じ立ち位置から出発していたのか、と肩の力が抜けて嬉しくなった。

 また、親鸞(しんらん)が六角堂夢告という出来事を通じて吹っ切れたことを学び、さらに親密さを覚えた。六角堂夢告については長くなるからあえて詳しくは触れずにおくが、百日弱の長い参拝の末に聖なる存在を夢のなかで面前にしてしまった親鸞という男が、その映像と声に背中を押されるようにして次のステージに登っていった、思い切り端折ればそういう話だ。

 過去に悪行を為した者さえも心根次第では救われるという、世界でもめずらしい寛容な浄土信仰を組み立て広めていく宗教家の礎に「夢告」があった点が興味深いが、その夢の内容が「女犯(にょぼん)」に触れたものだったのも面白い。宗祖の活動のほぼ起点において当時聖者にとって悪行の極みといわれた異性との触れ合いや交わりを全肯定し、さらには実践に踏み切った事実も合わせて知り、実に鮮烈で気持ちに真っ直ぐに飛び込んできた。ああ、なんて生臭く、弱っちくて、陰影の濃い信仰だろう、いや、信仰と書くと偉そうになる。実際は切実で極私的な懺悔と祈りとが堆積する、相当に黒々とした場処なのだった。そういう事であるならば、倫理的に脆弱なこんな自分のような馬鹿者の居場所も見つかりそうに思われた。

 同じ過程で手に取った石田瑞麿(いしだみずまろ)の本は、中世の僧侶と戒律の関係、特に異性との交わりに関して徹底蒐集してみせた労作であったが、「敗北の歴史」と評していて、読んだ時には暗然とした気持ちを味わった。「戒律の問題としては、殺生や盗みなど、重罪とされたものは外にもある。ただ、出家がこれらを犯した事実は実例としては、姦淫に比較すれば、物のかずではない。性欲の問題はそれだけ身近で、誘惑の度合は強い。その誘惑に勝てなかった出家の姿を洗いざらいぶちまいて、戒律がいかに根づきにくいものであるか、これを書くことによって、痛いほど思い知らされた」と石田はあとがきに記している。(*2)

 わたしは僧職の身ではないけれど、もしもそういう宿命を帯びて中世に生まれていたならば、多分相当に苦悩して自己崩壊を来たしたように想像される。振り返れば性愛に対してわたしは敗北につぐ敗北を重ねてきた。その都度、さんざんに穢れ尽くして鬱鬱とした気分を味わってきた。そのような汚濁した魂を自覚していればこそ、聖なる寺院を最終的な寄る辺とする気持ちになれなかった、そんな風にも自己分析している。肉親に対して経文(きょうもん)中の天国の記述うんぬんを示して抵抗してみせたが、本当のところは愛欲と官能に溺れ続けた身で神仏に額(ぬか)づくことが恥ずかしくて怖くて仕方なかったのだ。

 親鸞が厳しい修行を経て「夢告」を授かり、戒律破りの妻帯(さいたい)という大胆な転換を自ら行なうとともに、これを旗印にした信仰集団を育ててくれていなかったら、そしてこれ等の生臭く、弱っちくて、陰影のある行程を後継の僧たちが覆い隠し、衆目に晒さずにいたなら、わたしが肉親から継いだここ最近の宗教初心者生活はあまりに眩しく、立派過ぎて、どんなにか心苦しかったか分からない。

 笑われるに違いないけれど、私にとって今や親鸞は我が人生の頭上に石井隆と並び立ち、どちらもこんな自分でも良いんだよ、どんなに穢れたってだいじょうぶだよ、人は人に惹かれ、触れ合いに溺れ、五感を満たす性愛に生きる歓びと苦しみを味わう存在なんだよ、全然おかしくないんだよ、駄目でいいし、駄目が普通なんだよ、と呼び掛けてくれる大切な存在になっている。


(*1):「浄土の観念」 金子大榮(かねこだいえい) 文栄堂 1925 2頁

(*2):「女犯 聖の性」 石田瑞麿 筑摩書房 1995 あとがき 218頁


2022年2月5日土曜日

濃霧

  それは無いなあ、と言下に否定されてしまい、すがすがしささえ覚えた。その人は山を愛しており、年間を通じて登攀やロッククライミングに没頭している。

 彼がよく通うという絶壁まで物見遊山したことがあるが、車道からかなり奥まった処にあって、低地とはいえ尾根伝いに細道を歩かされて難渋した。人里から離れてそんな山ふところに入ることなど自分の生活にはほとんどなく、案の定、道に迷ってべそをかきながら行きつ戻りし、軽率にも平底の靴で登ったせいで足を滑らせ、あげく不安定な石がはずみでごろごろ転がって来て我が背中を叩くなど実に散々であった。

 あの数倍の距離をさらに分け入って深山幽谷を果敢に歩きまわる彼ならば、「何か」を見たり、聞いたり、触れたりする時間、すなわち山の怪(かい)に遭遇することも時折あったのじゃないか、そのように尋ねたのだけど、出会った記憶は無いとあっさり返された次第である。

 鬱蒼とした林に踏み込んでいくと、私などはたちまち背筋がぞぞぞっと寒くなる。中岡俊哉(なかおかとしや)の心霊本とか南山宏(みなみやまひろし)の宇宙人の本を子供のころに読み過ぎたせいで、独りでいると背後に誰か立っているように感じられてならないし、樹木の陰から銀色の服を着た化け物が飛び出して来るような気がする。修験道とかで何十日も山に籠っているうちに神秘体験をするというじゃないか、君にだってこれまで全然ないという事はないだろう、探せばきっと何かあるのじゃないのか、と、しつこく喰い下がった。天狗とか、山女(やまおんな)とか、不思議な話をあれこれ聞くじゃないか。

 それはさ、自分たちは「ぎりぎり」まで行かないからだよ。生死の境まで行くのが修験道だろうけど、そういう「ぎりぎり」にならないように計画を立て、無理をしないで山に遊ぶことが登山の理想だし務めだよ。奇怪なものを見たり聞いたりするのは、最初から行程に無理があったり、体力に見合った山を選ばないからだな。

 物静かな口調でそのように説かれると、確かにそういう感じもしてくる。達人の言葉というのは説得力がまるでちがう。実際の野山には怪奇現象など皆無なのかもしれない。

 与太話に翻弄されて幼稚なことを口走ってばかりいる友人を哀れみ、しょうがないから付き合ってあげるといった風情で彼は話を続けた。そういえば一度だけあったよ、幅1メートルもないような狭い尾根を登っている最中に濃厚な霧に出くわした。もう牛乳の中を泳ぐような具合で、足元も何も見えないんだ。さすがにこれは足を踏み外して転落するのじゃないか、と慄(おのの)くぐらいの濃い霧だったな。

 それから数年後に別な山を登っているときに同じような濃霧に遭った。その時、時間と空間の感覚が飛んでしまって、自分が何処にいるか皆目分からなくなったんだ。数年前のあの険しい尾根で立ちすくんだ時のように思えて、意識があの瞬間に完全に舞い戻ってしまった。今日此処に至った道中の記憶がきれいさっぱり失われて、数年前の自分になっていた。幻覚とか幻聴ではないけれど、あれは不思議な感覚ではあったなあ、と彼はやさしく微笑んで、今夜何杯目かになるココアを口に運んだ。


2022年1月30日日曜日

異物

 自分の身体に起きた変調なり病気のあれこれを、見ず知らずの世間様に伝えることにはかなりの抵抗を覚える。滅多にない出来事ゆえに知らせたい思いと、弱点とも言うべきそんなものを敵とも味方とも分からぬ人たちに白状するのは随分とお人好しであって、ぎゅっと握りつぶして忘却の彼方に捨てるべきだという思いが綱引きをする。だいたいにして病気の話など読めば誰もが滅入るに違いないのだし、めそめそ弱音を吐くような感じもして恥ずかしい。

 逡巡しているうちに、あっという間に四ヶ月が経ってしまった。紅葉の時期がたちまち通り過ぎ、とんでもないどか雪がつづき、その片付けで疲労困憊して四つんばいになる心持ちのまま歳末を迎え、マスク姿で初詣の列に恐る恐る並びながら、もう既に一月の終わりに至っている。

 正直な話をすれば、友人知人が怪我で入院をしたり、手術で長く療養し、その後しばらくしてから本人の口から冗談をまじえて聞かされる治療の実体験というのは実に興味深く、面白く感じるものである。魂の収納庫として同じ血肉のかたまりを使用している身としては、後学のために是非とも傾聴したくなるのは当然だ。病床なりリハビリ棟で巻き起こる人間模様が愛おしく感じられ、また、人間という存在や人生というものが哀しくも温かく感じられて、なんとも嬉しい充実した会話になっていく。これから綴っていく拙文についても、人によっては笑える話じゃないだろうか。いや、ケラケラと笑えて愉しめると思うからこそ、開陳する気に当人はなったわけなのだけれど。

 昨年の前半ぐらいまで睡眠を突如破られてしまう、そんな騒々しい瞬間を繰り返していた。期間にして三年弱ぐらいは尾を引いたみたいに思えるが、正確な記録を取っていないからよく分からない。正確な病名は解かっている。医者から変態チックな形状の計測機具を借し出され、これを鼻面に取り付け、何夜かに渡って調べてみたら、案の定、世に言うところの例のあの症状であった。仰向けで寝ていると舌が気道までのそりのそりと下りてきて、呼吸の道を塞いでいく、アレである。

 どうしてアレなんて言葉で誤魔化しているかと言えば、わたしの書くこの小文の束は実在する病気の体験談を語り、同じ症状を抱える誰かと悩みや解決法を共有する目的で立ち上げたつもりはなく、だから、アレで検索されて訪問されても実際困るし、かえってまわり道をさせて気の毒と思うからだ。

 変態器具を貸してくれた医者の勧めを無視し、今もその筋の専門医と接触していない。正しい知識がまったく蓄積されていない。テレビや雑誌といった身近な媒体に頼ってしまったが、そんな物は誰でもすぐに入手可能である。もしも同病の人が万が一、不幸にも此処に漂着したとしても答えらしきものは見当たらないのだし、そもそも命にかかわる健康のことであって保証などぜんぜん出来ないから、あれこれ解決策など書くべきではない。ここは沈黙を守るべきだろう。

 さて、それでは何を記録しておきたいかと言えば、夜な夜な気道を塞がれたわたしの身体が窒息しかけては暴れ狂い、うわーっ、死んじゃう、と、がばっと覚醒させられるその道筋で「体験」していく多種多様な異物の嚥下現象である。息が出来ない、目が醒める、身を起こす、気道が開く、その刹那にわたしの「実感」としてさまざまな球状の異物を呑み込んでいる。

 カプセル・トイのプラスチック空き容器、ビー玉、ピンポン玉、硬貨、コイン形リチウム電池、ガラス壜詰飲料の鉄製王冠、円形の磁石といったものが気道なのか食道なのかに消えていった。ああ、大変だ、そんな物を呑んではいけない、と寝具を跳ね飛ばして半身を起こし、焦る気持ちで目を白黒させながら闇のなかに数秒間居座るうちに、茫然自失の体は綿菓子の溶け落ちるように消えて無くなり、ああ、いつものアレだったか、今日のやつも壮絶に「リアル」だったと思うのだった。(過去形で書いているのは自分なりの対処が今のところ功を奏したものか、ぴたりと現象は治まったからだ。)

 当初は本気で思い悩んでしまった。家人が口を開いて寝ている私にそうっと忍び寄り、指先を唇の先までゆるゆると伸ばしていき、つまんでいた球形の物体をふわりと放す。一直線に喉奥に向けて物体は落ちていく。そんな事を想像しては苦しんだのだった。石井隆の『夜がまた来る』(1994)で夏川結衣が熟睡している寺田農を襲う、あれみたいな場面である。あっちは刃物、こっちはビー玉だから殺伐とした雰囲気は皆無なのだけど、そこまで自分は恨まれているのだろうか、気苦労をかけて来たのだろうか、そんな申し訳ない気持ちでいっぱいになって枕を濡らしたこともある。

 何のことはない、つまりは「幻覚」に過ぎない。姿勢を起こしたことで舌の位置がかわり、気道が確保された刹那、夢を垣間見たのだ。やばい、これは危ない、そうして必死に吐き出そうとしたにもかかわらず、口腔にも舌の上にも異物の触感が既に(もともと)無いものだから、ああ、呑み込んじゃった、と脳が理解したのである。

 それにしてもあまりにリアルで、今も喉をふさぐプラスチック容器やビー玉の「圧迫感、硬質感」をまざまざと再生し得るほど強く「記憶」している自分がいて、そこまで生々しいものは「幻覚」と書くのがもどかしい気持ちになっている。あれは紛(まが)うことなき「実体験」であった。確かに喉が塞がれ、まちがいなく球体を呑み込んでしまっている。

 少し長く生きていると人間は、いつか必ず「何か」を見たり、聞いたり、触れたりする時間に遭遇するのだが、それは「完全に覚醒している時間帯に見たり、聞いたり、触れたりする事と地続き」であって、「区別することが出来ないこと」なんだ、と、こんな年齢になって納得した。少し長く生きてきたことへの、誰かからは解らぬが、大切な贈り物なのだと捉えている。