2017年9月20日水曜日

“救助者”~【魔樂】推想(2)~


 【魔樂】(1986)で人体めがけて振り下ろされ、肌を割り裂いていく斧。単なる小道具を越えた作者の執着が感じ取れるのだけど、これを“趣味”のふた文字で了解して良いのだろうか。

 確かに石井隆は斧を好んで使う。【黒の天使】(1981)のエピソードで狂った元傭兵がびゅんびゅんと振り回すし、脚本を提供した『ちぎれた愛の殺人』(監督 池田敏春1993)での名美(余貴美子)も斧をぶらさげて姿を現わし、最後は夫の村木(佐野史郎)も大上段にこれを構えて人生の幕引きをしたのじゃなかったか。そういえば、【デッド・ニュー・レイコ】(1990)にも大斧を携える屈強な女アンドロイドが登場する。

 なるほど、重量感のある斧は視覚的によく映える。日本刀や小銃の扱いは武芸者なり殺し屋の技量や年季に左右されてしまい、勝敗の予想を狂わせてしまうけれど、斧というやつは誰が振り回しても当たればただでは済まないと思われ、ぶんぶんという風を切る音だけで相手は目を丸くしてたじたじとなる。観客の恐怖を煽り、娯楽色を強める。その辺をわきまえた差配と考えることも出来よう。

 でも、【魔樂】において殺生の対象となるのは、睡眠薬で朦朧状態に陥ったか、当身(あてみ)で気絶させられ、その挙句に手足を縄で縛られて完全に自由を奪われたおんなたちだ。そんな無抵抗の者に向けて鋭利な万能斧を真一文字に振り下ろす行為というのは、武芸とか決闘とは無縁の局面だろう。ここでの斧は武器の範疇には含まれず、端的に言って処刑の道具、もしくは一撃必殺で打ち倒す屠畜用の器具になっている。争いを前提としない一方方向の仕組みとして万能斧は採用され、【魔樂】という劇中で荒い息を吐いている。

 「おんなに打ち込まれる斧」という図柄だけを取り出して視線を注ぐとき、即座にフョードル・ドストエフスキーの「罪と罰」(1866)を想起する人もいるだろう。おいおい、勘弁してくれよ、まさか本気で言っているのかよ、【魔樂】は単なる人殺しの話であって中身なんか皆無の猥本に過ぎないだろう、と、失笑交じりのざわめきが耳に届くようだけど、一時は「劇画界のドストエフスキー」の異名をとった石井だ。簡単に連結をほどいて良いのかどうか、時間を割いても悪くないように思う。

 ドストエフスキーの「罪と罰」は承知の通り妄想癖の強いロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフという男が質屋を営む老女を殺害し、その死体を目撃して硬直した老女の義妹を続けざまに殺して金品を奪うことに端を発する魂の遍歴を描く。ここまで縮約すると𠮟られそうだが、いまは何より殺害場面の熾烈さこそが大事だ。

 老女アリョーナ・イワーノヴの殺害方法は背後から忍び寄り、斧の背部分で後頭部を連打し、頭蓋骨を陥没させて死に至らしめるものだったけれど、主人公ラスコーリニコフを当惑させ、その後ずっと魂を揺さぶり続けるのはこの老女の撲殺ではない。隣室を物色するうち、入り口の方で音がする。惨劇について何も知らずに帰宅した義妹リザヴェータ・イワーノヴナが、血の海を前に立ちすくんでいるのだった。手の平をこちらにかざすだけで顔面を守ろうとさえしないおんなに、真正面から歩み寄り、その頭頂部に斧の刃先を思い切り打ちこんでこめかみの辺りまで深々と叩き割った二度目の行ないに対し、主人公は心底戦き、いつまでも打ち震える羽目になる。このリザヴェータ殺害の場景の切迫した描写というのは相手が無抵抗であるがゆえに、また、斧の刃先が肉体を幹竹割りする惨たらしさゆえに、石井の【魔樂】と重い共振を為している。

 石井の【魔樂】「罪と罰」に触発され、下敷きにした訳では勿論ない。見える限りにおいては、血だらけの斧以外に共通するところは無い。しかし、石井が「劇画界のドストエフスキー」といつしか呼ばれたその理由に思いを馳せるとき、両者間に共通するものとして、描写の熾烈さ、人物相関の緻密さ、グロテスク・リアリズム、内観の深さという点があったのは間違いない。当時の読書好きの文学青年たちが石井劇画と文豪の小説に通底するものを確かに視止めた、その結果こそがあの譬(たと)えなのだ。だとしたら、【魔樂】だって「罪と罰」並みの重層構造と最初から捉えるのが正しかろう。斧から放射される重奏する面持ち以上に、私たちが留意すべきは実は其処のところなのだ。
 
 連載誌の都合によって中断の憂き目に遭い、単行本化にあたり「かたちばかり書き足してラストらしく繕って」(*1)なんとか物語の体裁を保ったと石井は書く。殺人鬼がさらなる獲物を手にしたという至極簡単な説明であり、それも、第一話の冒頭と酷似したものだった。つまり、物語はふり出しに戻された形にされており、要するに阿鼻叫喚の地獄図は永劫に続くという解釈を読者は強いられた訳である。どこか状況に倦んだ気配が石井にはあって、もうそれで構わないと登場人物たちの一切を棄て置いてしまった。倦んだというのは言い過ぎかもしれないけれど、【魔樂】は撮影半ばに制作を中断させられた映画にも似た状態にあるのは十分意識して良いところだ。

 振り返れば石井の劇は激しい終幕を特徴とする。たとえ主人公が精神を病んで現実から乖離し、魂がきりもみ状態に陥っても、そこに至るまでにはきわめて苛烈で積極性をそなえた(映画的と言ってもいい)境界面の破壊行動がともなうのが普通だ。『花と蛇』(2004)や『人が人を愛することのどうしようもなさ』(2007)が典型だろう。ループ直前には愛する者、愛してくれる者の犠牲が生じてしまう。現状そのままに揺動もまるで無くするすると閉塞していく、そんな平坦な顛末を石井は好まない。昔と同様の生活を送ろうとする者、送らざるを得ない者には壮絶な痛みをともなう欠損が雷となって襲い掛かる。

 この定型に倣うのであれば、【魔樂】の殺人鬼が「日常」(誘拐と殺害を繰り返す行為ながら、彼にとっては十分に慣れ親しんだもの)を続けるには、“愛着ある何らかの者”の欠損が在らねばならない。【魔樂】という物語はそこまで至っていない。その意味でいまだに幕は閉じられていないし、単行本の内容をもって石井の構想はおおよそ形を成したと捉えるのは見当違いと言わねばならない。劇はまだ序番を終えたところである。

 読者はいかに困難であってもさまざまに想像をめぐらし、石井の過去作や近作と照らし合わせ、また、石井が読んだ、もしくは読んだかもしれない古今東西の名作の残照を手懸かりとし、登場人物の「その後」をどうにか見定めなければならない。【魔樂】という物語は其処を経て、ようやく私たちのこころの入り江に漂着するように思う。

 ふたたびロシアの小説に戻れば、ソフィヤ・セミョーノヴナ・マルメラードワ (ソーニャ)という娘が筆先から産み落とされる。家族を飢餓から救うため、街頭に立つ決意をした若いおんなだ。地獄を描くことによって「救い」を描く芳年の絵さながらに血まみれの小説世界に着地している。識者が「救助者」(*2)と表現する存在であるけれど、【魔樂】においてこれと同じ役割を担わされたのが第5章の末尾から登場する「山部明香」と名付けられたおんなだったはずである。【魔樂】は先行する【魔奴】(1978)を発展させたものと呼べるから、【魔奴】にて“語り手、目撃者”に選ばれた「愛」という名の少女と同程度、またはそれ以上の厚みなり重さで物語に食い込んだはずだ。

 これまでの石井の作風からして、既に大勢の女性を殺めてしまった男の罪(*3)を司法の手にゆだねるはずはなく、おそらくは血と雨と青白い光に染まった大団円が闇の奥に待ち受けたはずである。当然ながら森の奥の廃屋が背景幕となり、息を呑み呻くしかない終焉が描かれたことだろう。身じろぎ出来ぬまま「救い」について延延と深省する、そんな夜がきっと在ったと考える。

(*1):「魔樂」 石井隆 ぺヨトル工房 1990 あとがき
(*2):「ドストエフスキー人物事典」 中村健之介 朝日新聞社 1990  218頁
(*3):「魔樂」第4章「悪魔のしづく」にて、男の前に被害者の断末魔の影が同時に出現する。数えてみると14人もいる。





2017年9月18日月曜日

“戦争の惨禍”~【魔樂】推想(1)~


 靴を履こうとしていたら、携帯電話が急にけたたましい警告音を発した。カバンを置いて居間に戻り、開いていた窓に手を伸ばして雨戸をがたがたと閉め直す。カーテンを引き、薄オレンジ色の電燈を灯し、隣りの台所との間にある仕切りの小窓も閉める。同居する者たちが口々に不安を訴えながら集まってきて、ソファに皆が座ったところでテレビジョンのスイッチを入れて飛翔体の通過するのを待った。

 迷惑な事とは思うが、これが本当の世界の実相なのであって、今までがどうかしていたのだとも感じる。地中海では何千もの移民が溺れて海底に沈み、産油国での紛争は日々絶えない。特にウェブを介して中東シリアやイラクでの民族浄化を目的とする殺戮の場景、そのあまりにも絶望的な現場をこれまで沢山見てしまったのがいけない。平和なんて束の間の幻影に過ぎないという、ごりごりした固いしこりに頭が侵されている。

 夏の終戦特集で放映されたインパール、満州国、樺太、広島、ベルリン、ポーランドでの、人体を挽き肉用のチョッパーに無理矢理かけるような棄民と処刑の伝承、人身御供にされた犠牲者の証言なり再現映像を見ていると平和な生活が磐石などとは到底信じられない。残念ながらいつか卵は割れ、どろどろの黄身が床に流れ落ち、あっという間に腐臭で周囲は満たされるに決まっている。のんびりしていられるのも今だけだ。

 石井隆の【魔樂】(1986)の頁をめくるたびに似たような臭いが立ち昇り、鼻腔を突かれた具合になってつい怯えてしまう。性犯罪の域を大幅に越えて、石井は「戦場」に近しい荒ぶる場処を描いているのではないか。殺人鬼の男がわざわざ迷彩のほどこされたズボンに履き替え、偽物ながら重火器を携えて被害者に最初迫ったところも、何かしらの作者の意図が込められている気がする。

 【魔樂】の前身となった【魔奴】(1978)が、連載誌の性格(嗜虐的性向をテーマに絞った編集)を越え、極限の愛を誌面に刻んでいったように、続く【魔樂】だって表面を流し見するだけでは透視し得ないものが付帯されていて当然だろう。そもそも石井隆とはそんな霞掛かった作り手であって、大概の読者は走り去ろうとする彼の背中をかろうじて凝視めるのが精一杯だ。表情なり眼光を覗うことがなかなか難しい。

 戦場を想起させる理由は他にもあり、実は【魔樂】を眺める時どきに常に思い出されてならない連作版画がある。石井が一度も言及したことがないから妄想でしか多分ないのだけど、フランシスコ・デ・ゴヤ Francisco de Goyaの「戦争の惨禍 Los desastres de la guerra」(1810-20)とイメージの連環がある。

 欲望に裏打ちされた異常犯罪の画像や書物をいくら探して眺めても結線しないのだが、このフランス軍によるスペイン掌握に前後して起きた衝突や民族蜂起といった大混乱を題材とした連作を眺めていると、いつしか石井の描く無惨絵と頭のなかで重なり、地平がきれいに連なってしまう。衣服を剥がされた裸の男の両脚が左右に強引に押し開かれ、股間の一物をめがけて兵士がサーベルを突き立てている場面や、手のひらを差し出し制止を訴える兵士に対して斧を高々と振り上げる男の姿を見ると、【魔樂】のあれこれの場面が二重写しとなる。

 無情、諦観、武器を振りかざす者への嫌悪感がむらむらと、鼠の死骸の下から湧いてくる赤い蛆みたいに際限なく、どこまでもどこまでも噴きこぼれる。公平と言われる世の中でありながら、草むらや都市の死角に引きずり込まれ、救けを必死に求めながらも誰も応じてくれず、苦痛と悲鳴にまみれて傷つき死んで行く弱き存在の今この瞬間にも大勢居ること。その現実を見ようとせず、語ろうとせずに、空々しい歌や笑いに逃避するばかりの世相に対して、ただただ暗然として深くうな垂れてしまう。

 こんなおぞましい人殺しはフィクションだと君は思うだろうけどさ、ひと皮剥けばそれが普通なんだよね、素顔の世界ってそういうものだよ、と、遠くを駆けていく石井の背中が小声で語っているように思う。






2017年9月17日日曜日

“讃美者でない真の理解者”~【魔奴】と【魔楽】への途(みち)~(11)



 石井隆が【魔奴】(1978)に挑んだ契機として、1977年に西武美術館で開催された「月岡芳年の全貌展」がさまざまな形でかかわっているとする想像はどうだろう、あまりに奇抜過ぎるだろうか。パンフレットの中には、芳年と“劇画”とを紐づけした一文も見える。

「文学史を少し遡って、明治二、三十年代迄に幼少年期を送った近代作家達にとって芳年は、彼らの日常と切り離せぬ、生活と密着した絵師であったと考えられるのである。いや絵師などという時代がかった肩書きを用いる以前に、新聞、草双紙の挿絵画家であった彼は、流行のイラストレーターや、今だポンチ絵が普及していなかった当時の少年達にロマンを与える劇画家、つまり現代の横尾忠則や白土三平(しらとさんぺい)にも通ずる存在であったということが出来るだろう。」(*1)

 ここでいう近代作家とは谷崎潤一郎や芥川龍之介を指す。芳年を当時隆盛を誇った劇画とくっつける点が世相を反映して見えるけれど、白土の名がぴょこんと挙がるだけでそのまま収束してしまったのは実に惜しい。さらにこの寄稿中には、現在(70年末)への影響と継承をめぐって次のような件もある。

「我々が現在、浮世絵師芳年の名を耳にする機会が稀であるのと同様の理由で、三島を除いた「現代作家」と呼ばれる人々の間に、芳年の影響を問うことは、かなり難しい課題といえよう。」(*2) 「近代の先駆となり、無惨な礎ともなったこの近世の末路を振り返ることから芳年の存在を見つめ直す時、そこには、三島由紀夫の如き特殊な意味での讃美者でない真の芳年理解者が生まれ、そこから芥川と芳年の如き現代作家と彼との関係が成り立ち、新しい現代文学の可能性が開かれてくるのではなかろうか。」(*3)

 このパンフレットを石井が手にしていたとしたら、相当に気持ちはざわめいて血圧は乱れたことだろう。時代を彩る劇画界の巨星として自他共に認める自身の影に一切触れられないだけでなく、芳年の後継たる“新しい文学”の出現を強く希求して文章は閉じられている。日本文学の研究者が寄せたものだから仕方ないのだが、絵の後継は本来、文学ではなく絵ではないか、芳年が幕末から明治にかけてイラストレーターや劇画家として君臨したのなら、跡を襲う役割は当然ながら劇画家たちであるのが筋だろう。

 もちろん絵画は時代を越えて発光し続け、後世の人たちの感懐を誘って何がしかの力を及ぼすものだから、芳年が文芸の進む方位を変える事は起こり得る。それは了解されるが、芳年は唯一無二であり、継承する劇画家やイラストレーターは生まれ得ないとも受け止め得る文末はもどかしさを覚えるところだ。

 石井は1986年、【魔奴】の製作後およそ八年を経て【魔樂】を発表する。例によって独特の多層世界となっており、一筋縄で行かない作品ではあるけれど、月岡芳年の諸作品を受け止めた石井が自分なりに真摯に取り組んだ「無惨絵」を中軸に捉えている。

 舞台は不規則に客が入退出を重ねるモーテルではなくなり、「東京の街から高速で北に二時間、さらにそこから一時間余りオフロードを入った山奥に」ある一軒の廃屋となった。つまりは周辺に人影ない、樹海の海に浮かぶ孤島めいた“ひとつ家”の性格を“不自然に”強めている。男は次々に女性をさらっては遠路はるばるこの廃屋まで苦労して連れていき、そこで無残で血みどろの殺害を繰り返すのだった。

 殺害の手法はいくつかあるが、最も象徴的に使われるのが斧だ。刃先の形状からすると「万能斧」と呼ばれる65cmから70cmほどの物のようだが、緊縛して自由を奪った女性の身体に向けて、思い切り振りかぶって容赦無く撃ち下ろす。卓越した筆さばきで延々とコマを連続させ、おんなたちの絶命に至る様子をこと細かに描いて見せるのだったが、時折挟み込まれる二頁にまたがる見開きでは万能斧が衝撃音と共に肉体に食い込んで血がしぶき、事もあろうに赤インクも使った二色刷りの誌面さえ提供している。無抵抗の白い肌から鮮血がぶしゅっと噴き上がり、天井方向にまではね飛ぶ。読み手のこっちまで息が止まり、斧で殴られ脳震とうを起こした具合になった。

 石井の作歴やインタビュウでの映画愛、絵画愛、役者への憧憬といった言動を知らずにこの列を為す常軌を逸した殺戮の図だけ見たら、十中八九の確率で誤解を生じるのは間違いない。実際この【魔樂】についての識者や読者からのコメントは少なく、内容も言葉少なで要領を得ない。触らぬ神に祟りなしと決め込んでしまったか、熱心な石井の読者でさえも沈黙しがちである。暗渠を流れる水銀のような、冷たく硬質の面持ちで劇画世界に【魔樂】は潜行していく

 単行本となった際に石井が巻末に記したあとがきも混沌を後押ししたように思う。作品を覆う気分をいくらか“盛って”綴った文章であり、それを真に受けた読者は石井が(*4)重い躁鬱病に罹ったのではないか、頭がどうかしている、【魔樂】は狂気と悪魔崇拝が支配した相当にやばい作品と思うだろう。石井の作歴を俯瞰すればそんなことは決して無いのであって、直ぐその後にロマンティックな【雨の慕情】、【雨物語】、【赤いアンブレラ】(共に1988)などが甘い雨滴をともなって描かれ、『月下の蘭』(1991)、『死んでもいい』(1992)といった監督業にも乗り出している。

 無惨絵を会得した石井がこれを強調し、計算を尽くして描いてみせたのであって、渦巻く狂気に翻弄されて勝手に筆が走った訳ではない。先人芳年が敷いた鉄路を正当な若き理解者として名乗りを上げた石井が、意識的、ある意味、露悪的に綱渡りの要領で歩いてみせ、無言ながらも闘志を剥き出しにして取り組んだ作品である。

 上の研究者は白土三平の名を上げた際、そこに白土の忍術ものに散見される残酷描写の連想があったのだろう。血みどろの絵であることの共通性をもって両者を繋げた訳だけれど、芳年の無残絵の後継に白土劇画が立たないのは明らかだ。【忍者武芸帳 影丸伝】(1959-62)における死闘で手足を徐々にもぎ取られ、四肢を完全に飛散させて息絶えていくおんな忍者、明美や蛍火の末期の様子は芳年と似て胸に迫るけれど、紙面に充溢する風景が違う。複数の忍者が罠を張り取り囲み、孤立した相手を襲撃するなぶり殺しの図であって、芳年が描き、石井が継承した“個”対“個”の破壊劇であるとか、逃げ場のない“ひとつ家”感であるとか、“地獄を描くことによって「救い」を描く”という部分が欠落している。

 年少の時分に理容店で順番を待ちながら読んだ絵に心臓を射抜かれ、網膜に焼き付いて頭から振り払えなくなり、その理由を自らに問い続けながら人生を賭して血みどろ絵に向き合っていく。もの凄い集中力と勇気と思う。人の世の裏側には血脈以上に濃厚な系譜がある。血しぶきを浴びた者のみが辿ることを許される、長く冷たい鉄路がある。

(*1):「大蘇芳年と近代文学」 神田由美子 「月岡芳年の全貌展 最後の浮世絵師 最初の劇画家」 西武美術館 1977 
(*2): 同
(*3): 同
(*4):芳年のように!



2017年9月12日火曜日

“最後の浮世絵師 最初の劇画家”~【魔奴】と【魔楽】への途(みち)~(10)


 【魔奴】(1978)の制作にあたって芳年の絵、特にその無惨絵の継承が図られたと考える根拠は、芳年の再評価と個展開催の時期と【魔奴】の発表が重なる点だ。以下は「月岡芳年画集」巻末にある略年譜から拾った。

昭和四十八年(一九七三) 七月、高橋誠一郎コレクションによる「明治浮世絵展」がリッカー美術館で開催され、清親、芳年、国周が展示される。
昭和五十一年(一九七六) 二月、幔幕絵発見記念の「一魁斎芳年展」が東京の大阪フォルム画廊で開催される。九月、「月岡芳年展」が京都新聞社主催で、京都大丸で開催される。
昭和五十二年(一九七七) 七月、「月岡芳年の全貌展」が西武美術館で開催される。(*1)

 芳年ひとりに絞り込んだ展示会は1976年より始まり、400点もの秀作を集めた翌年の全貌展において世間の反応は沸騰している。そもそもこちらの画集自体が西武美術館での個展の反響を経て出版されたものだし、先述の横尾忠則の小文を載せた古い美術誌の特集にしたって全貌展の開催に合わせて編まれたものだ。石井隆の【魔奴】はこの盛り上がりの直後に描かれている。

 全貌展のパンフレットの墨色に染まった幽玄な顔付きの表紙をめくれば、最初に目に飛び込むのが「最後の浮世絵師 最初の劇画家」(*2)という副題である。これを手にした石井の衝撃とその後の発奮というのは、考えてみれば至極当然なことではあるまいか。前年1976年に【おんなの顔】、【街の底で】、【紫陽花の咲く頃】、【水銀灯】、【赤い教室】、【蒼い閃光】、【白い汚点】と傑作を次々に発表し、長期連載の【天使のはらわた】をいよいよ始めた劇画界の寵児たる石井の眼前に、芳年が“最初の劇画家”として紹介されたわけである。彼の存在を身近に感じると共に、劇画とは何かを考えさせられる契機となっただろう。

 以前書いたように石井と芳年の遭遇はずっと早い段階にあって、おそらく1950年代の終わりか60年代のごくごく浅い時期であり、馴染みの理髪店に置かれていた今風に言えばパートワークに当たる「傳説と奇談  日本六十余州」に使われた「奥州安達ヶ原ひとつ家の図」が最初であった。以来、芳年は石井にとって興味ひかれる絵師となっていく(*3)  全貌展で石井が実際に目にしただろう幾つか、妖魔や武者を描いたものは既に「傳説と奇談」の中で見ていたはずだが、血生臭い無惨絵をまざまざと瞳に焼き付けたのは多分この時期に集中しただろう。石井世界にあって“不自然”さを付随させた【魔奴】という中篇は、石井の内部に黒い波が押し寄せて走った一種の亀裂だった可能性がある。

 誤解してはならないのは、石井が芳年の無惨絵にむざむざ浸食され、ひれ伏した訳ではないという点だ。画風や物語の様相が残虐一辺倒へと雪崩打つように変化してはいないのであって、むしろ石井が芳年の無惨絵をすっかり消化し、自身の劇画をより深化させている。芳年ブーム以前の【紫陽花の咲く頃】、【水銀灯】、【蒼い閃光】といった作品においても肉体は傷つけられ、血の塊がぼたぼたと落ちていたから、芳年を見てようやく血に目覚めたわけではないのだ。ただそれら全貌展前の人体殺傷の表現は、ヤクザ映画に見られた刃傷沙汰なり、舞台や時代劇に描かれた切腹の再現にするりと収まり、いくぶん定型に陥っていたように感じられる。

 手首や下腹部が真一文字に斬られる様子は痛々しく仰天させられたけれど、調和的というか観念的というか、どこかで見たような気もする刃先と傷口が露出して見えた。沈鬱な空間に手招きされた読者は乾いた石鹸のようにこわばった表情でひたすら頁を繰ったけれど、とめどなく溜め息が漏れ続けても呼吸が止まることはなかった。

 【魔奴】以降の石井作品、劇画に限らず映画の演出でもそうだけど、傷つけられ殺められる肉体描写はより突発的となり、読み手の想定を大きく逸れたものとなった。どこをどのようなタイミングで傷つけられるかを被害者も目撃者も予想できず、痛覚の伝達よりも先に、当惑、不可解、悲哀といったものがもぞもぞと蠢き、その後で恐怖と苦痛にのたうち回った。

 【雨のエトランゼ】(1979 )の墜死とその目撃、【その後のあなた】(1980)での頚動脈の裂傷、【黒の天使】(1981) にて針で貫かれる眼球、腹部から突き刺さり背中まで至る改造三脚、強く握りしめたナイフからしたたる鮮血、【愛の行方】(1980)での無言の強襲、『GONIN』(1995)のドア底の隙間からの弾丸射出と臀部銃創といった血の景色に最初に出会った時を思い返すとき、我が目がまるで信じられず束の間の呼吸停止があった。傷付けられること、命を奪われることは完全に不意討ちに近づき、狙われる部位は定まらずに身体も心もまったく守りようがないのだった。調和など一切なく、不穏さが増した。暴力と死が暴れ狂って思考が瞬時に凍りつくようになった。石井の劇は加速度をつけて現実味を増したように思われる。

 美術評論家は絵画と劇画を別次元と捉えるのだろうが、わたしは芳年の後継者として石井隆がこの世に在ることを信じるし、それはこの上なく普通の事と捉えている。

(*1):「月岡芳年画集」 瀬木慎一 講談社 1978 略年譜 139頁
(*2):「月岡芳年の全貌展 最後の浮世絵師 最初の劇画家」 編集 瀬木慎一、高橋誠一郎  西武美術館 1977
(*3): http://grotta-birds.blogspot.jp/2016/07/blog-post.html



2017年9月9日土曜日

“地獄を描くことによって「救い」を描く”~【魔奴】と【魔樂】への途(みち)~(9)


 こんな具合に旧い映画や書物の余薫が付き纏う。それは【魔奴】(1978)に限った話ではなく、石井作品全般の特徴だ。見聞した総てが雨のように染み入り、やがてゆらゆらりと連鎖しては鮮烈なイメージへと結像する。石井の映画や劇画のひとつを語るときには、当然のごとく数多の残影を引用せねばならない。いや、そうするのが義務というのではなく、ただそうやって広く深く考えた方がずっとずっと面白い作家であり作品であるのは間違いない。

 この辺りで石井が時おり口にする幕末の絵師、月岡芳年(つきおかよしとし)という存在に絡めて【魔奴】や石井世界を再度捉え直してみたい。人里から離れてようやく行き当たる“ひとつ家”の照明の落とされた暗室で飽くことなく繰り広げられる殺傷の景色は、おそらくは芳年の“無惨絵”に触発されたものだ。

 立て続けに親の死、妻の死に直面した男は彼女らを愛する余りにひどく動顛(どうてん)して魂を変調させ、休憩や宿泊にモーテルを利用する客を襲っては殺めていくのだけれど、累々と築かれた死体の始末に対しては無頓着な対応に終始する。モーテル近くに在る底なし沼に無造作に放擲(ほうてき)するのだったが、それはヒッチコック『サイコ PSYCHO』(1960)の系譜たることを紙面に刻む目的というよりは、この劇の主体となるのが何よりも人間の身体を傷つけ、死者を作り出すその一瞬の有り様をこの上なく残忍で逃げない構図なりタッチで発信し、世間を震撼させることだったからだ。私の推測が正しければ、石井は自分なりの“無惨絵”を描くことでどれだけの力が絵に潜むものか試したかったのだ。

 手元に芳年を特集した古い美術誌があるのだが、そこに作家の野坂昭如(のさかあきゆき)なんかに交じり画家の横尾忠則(よこおただのり)が興味深い一文を寄せている。芳年の血みどろ絵画の読み解きとして正鵠を射ると同時に、石井のかつての劇画と現在に至る映画世界にて執拗に重ね塗りされる血の描写についても正しく言い当てているように思う。

 横尾は芳年の「英名二十八衆句」の一枚である「遠城喜八郎」(1866)ほか数枚を選び、芳年の無惨絵の根幹にあるのは「救い」であると説いている。血だらけの武士がかたわらの石地蔵に腕を伸ばしている、「遠城喜八郎」とはそんな絵だ。少し長くなるが書き写しておきたい。

「芳年の絵をどのように見るかは勝手だが、ぼくは芳年に「救い」の観念を見る。救われない世界を描きながら、その実、芳年は救いを求めていたのであろう。正確にいうと芳年が救いを求めていたのではなく、芳年に憑きまとう死者の霊が救いを求めていたといった方が当たっているかもしれない。「英名二十八衆句」という作品は残虐極まりない殺しの場面の連続だ。ここには死の恐怖が最高に凝結しており、彼方に「救い」を求める人間の最後の姿が描かれている。」

「芳年は決して死を美化していたとは思えない。ずるずる引き込まれていく死と狂気の中で、芳年が最も求めたのは「救い」ではなかったのだろうか。己の因果からの解脱を願っていたのである。」

「芳年が仏教的な人間であったかどうかは別だ。ただ己の因果に相当苦しんだことだけは確かだろう。直感的にぼくはそう思う。地獄を描くことによって「救い」を描くなんて、やはり相当の苦しみであろう。因果からの解脱を芳年はどんなに望んだことだろう。「救い」を描きながら、どうしたわけか芳年の作品には「救い」の安堵感など微塵も感じられない。「救い」の観念は描かれているが、残念ながら「救い」そのものは描かれていない。身体中を小さな針が無数に駆け巡っているような痛みを感じる絵ばかりである。」(*1)

 石井は【魔奴】の最後にヤコブの梯子(はしご)にも似たひと筋の光を贈り、男と妻の亡骸を白く照射している訳だから、横尾の透視する芳年の焦燥や妄執とはわずかに段差がある。しかし、地獄を描くことによって「救い」を描くことや、「救い」を描きながら安堵感など微塵も感じられないという芳年の無惨絵の根本的な仕組みと石井の緊迫する劇の間には、地続きの目線なり同一の軌道が確認出来る。

(*1):「みづゑ」1977年8月号 美術出版社 39-41頁 「芳年・血みどろ絵に見る『救い』」横尾忠則 





2017年9月2日土曜日

“永遠の一体”~【魔奴】と【魔樂】への途(みち)~(8)


 それにしても食人行為と自死を同一場面に盛り込むなんて、さすがに狂ってはいないか。見分役の「愛」という名の少女も顔をひきつらせ、男の頭がどうにかなってしまったに相違ないと考える。この展開に呆気に取られた読者も娘の反応に自らを同調させ、あいつには狂死より他に途はなかったのだと納得する流れだ。しかし、突如いっさいの伏線もなく為された【魔奴】(1978)におけるこの食人行為は、単に狂気の発現のみを指し示していたのだろうか。

 そもそも【魔奴】以外に石井が食人を扱ったこと、過去有ったものか記憶を辿ってみたもののまるで見当たらない。石井にとっても食人は奇異なこと、特別なことなのだ。近未来世界の混沌を描いた【デッド・ニュー・レイコ】(1990)にて、アンドロイド同士の共食いが描かれてはいた。ピーテル・パウル・ルーベンスとフランシスコ・デ・ゴヤの「我が子を食らうサトゥルヌス」に似た構図であったのだけれど、あれは人間を超越した化け物として敵を意識させる装飾の一端であって、読者サービスの域にまだ幾らかあったように思われる。【魔奴】の終幕に貼りついた深刻さ、むっと寄せ来る煙霧のような重苦しさ、ひりひりした真剣味というのは読み手におもねった物ではない。石井の劇に時折出現しては観客を戸惑わせ、出口のない思索へといざなう“不自然さ”と通じる気配がある。

 また始まった、なにが“不自然”なものか、ようするに石井が究極の愛の形を示した、ということをおまえは言いたいのだろう、本当に薄っぺらい奴だな、そう思われるかもしれない。確かにそうだ、その通りなのだ。石井は【魔奴】の食人行為をもって、一個の愛の完遂を描いている。

 じゃあ別に問題はなかろう、めでたしめでたしだよ、そう誰もが了解し得るかもしれないが、待って欲しい、それは私たちが今の世に生きているからだ。性愛の様相が多様化し、異端へのまなざしもこの四十年のうちに随分と軟化している。それに年齢相応に性の巡礼を行ない、唾液や汗、分泌物や血液といったもろもろの体液を口にし匂いを嗅ぐという体験を経ているからだ。もしも結婚して子供を育てる道程を経ていれば、人間が人間に自身の一部を与える授乳を目の当たりにもしようし女性ならば体験さえしていよう。2010年代の終わりに生きる成熟した肉体の私たちから見れば、【魔奴】にあった永遠の一体化を目指す情死劇も素直に受け止め得る形だ。

 けれど【魔奴】が描かれた年代や掲載誌の性格を考えれば、この石井の愛の景色の凄まじさがどれ程のものか分かるはず。あの時代においてSM誌とは確かに“先鋭”であった。しかしその荒れ狂う前線においても不文律はあったのだ。嗜虐的性向に関わる我が国の文化が折檻を土壌とするものでもあったから、肉体や精神に向けての力加減は暗黙のうちに上限が定められた。その枠があったにもかかわらず、極北の愛としての人肉食を真っ向から描いた石井の作劇がいかに厳しく異質のものであったか、どれだけの危険を冒したか。日本人留学生が友人である女性を殺害し、彼女の肉を食べたというパリ人肉事件(1981)より前の発表である点も、私たちは胸にしかと刻む必要がある。

 【魔奴】の食人行為はわたしの中で“不自然”で妖しい光を帯びたまま滞留し、どのように主人公の言動を考えるべきか、いや、石井がどのように考えてあのような凄惨な場景を思い至ったか、なぜそこまで筆を尽くさねばならなかったかをずっと考えさせられて来た。愛情というプリズムを通じて生じる奇妙な波長として食人は実際にあるのか、もしかしたらこの私もそんな終末を刻むことが現実として有り得るものだろうか。迷想と不安から、その手の書籍や映画に敏感になった。

 たとえば「人肉食の精神史」という書籍(*1)などは、思案を補強する上で大切なひとつとなった。著者の大西俊輝(おおにしとしてる)は人肉食を常軌を逸した行為と歴史の辺境に追いやることなく、むしろ人間の魂に直結する顛末として理解しようと筆を尽くしていく。飢餓や戦乱、淘汰といった緊急事態における食人行為にとどまらず、妄念や情報の錯綜から私たち人間はごくごく普通に人を殺めて、または死人の手足の肉を切り分けて口にする存在なのだと理解される。

 大西の「人肉食の精神史」の秀でているところは、後段において行為を肯定的に捉えるだけでなく、魂の移ろいの積極的なもの、すなわち情愛や博愛の一形態と捉え、芸術や医療の分野での開花や将来にまで言及していく点である。歴史学者ではなく医師であり、熱心な著述家であればこその堂々たる横断であって、加えて一個人として家族や患者の臨終に立ち会う事で生じる生々しい感懐も具わっており、名著の風格がある。読んでいて世界の様相がまるで変わっていく、読書の醍醐味に満ちている。

 西日本に時に見かける習俗「骨こぶり」への言及などはこの本の視野角の広さを証づけるところであるのだが、親近者として気持ちの決着をつける為に行なわれるそれは【魔奴】において独り置いていかれた男をがんじがらめにした寂寥とも結線を果たすように思うし、文中で紹介されていたジョヴァンニ・ボッカッチョ「デカメロンDecameron」の第四日目の第一話と第九話を噛み締めるようにして読んでみれば、石井の描く臨界の愛憎劇と通じる温度が認められたりもする

 大西の本からは離れるのだが、『フィギュアなあなた』(2013)に触発されて手を伸ばしたダンテ・アリギエーリの「新生 vita nuova」のなかには、ダンテが幻視するヴィジョンとして作者の分身と思われる愛神が出現し、眠っているベアトリーチェにそっと近付いて手にした己の燃える心臓を渡すくだりがある。受け取ったベアトリーチェは躊躇いつつもこれを口にするのだけれど、ダンテの「神曲 La Divina Commedia」に創作活動の初期から触発されていた石井が、この変則的な食人の景色を知っていたとしても不思議はなかろう。

 歴史をさかのぼれば【魔奴】と同じ色相の景色は幾つも現実世界に、文芸のなかに見つかるのであって、それ等をトーチとして掲げていくならば、物語の終幕を翳らせていた不明は徐々に晴れていき、淡い反射光が認められるようになっていく。

 石井は先人の絵画や映画、小説等を血肉とした上で全霊をかけて思考し筆を走らせる。生きること、死ぬこと、恋焦がれること、愛ゆえに傷つけることを突き詰めていく。私たち読者や観客の視線を背中に感じ、彼らの追尾を期待しつつも、決して歩調をゆるめることなく駆け続ける。衝撃波をともなう【魔奴】の疾走も、そのような過程を経て産み落とされたのだろうと想像をめぐらしている。

(*1):「人肉食の精神史」大西俊輝 東洋出版 1998