2012年7月24日火曜日

“たまゆら”


  硬さや湿度を保って永らえる物も稀にあるけれど、人のこころの大概は環境や流行に左右されて変幻する。私みたいないい加減な男はなおさらのこと、振り返ればあのときの心模様はどうしたものか、なぜあそこまで斜度を深めたかと首をかしげることも多い。

  先日綴っためそめそした感傷は当時の偽らざる内実であり、渦巻く川面を鼻先にした思いは確かなのだが、あれから時間もずいぶんと経ってさすがにふっ切れたところはある。大切なものを守らんと発奮する人に触れ、本を読み、映画に学んで平衡を取り戻した。五線譜を音符で埋める手わざは限られた人への贈り物だろうが、そんな天賦の才は与えられずとも誰もが唯一無二の旋律を奏でながら暮らしており、それは我が身からも絶えず放たれていると今は信じられる。大事にしなきゃと思う。

  第一、私のようなひどい弱虫で痛がりが自分から命を絶つことなど土台無理というか、まるで似合わぬ話でしかない。いざ境界またぐ列車に飛び乗ってみれば“痛み”は臆面なく相席を欲してくるもので、旅中ずっと“死ぬ思い”をさせられるに決まっている。この“死ぬ思い”に耐え切れぬから人は機能を停止する訳なのだが、軟弱な我が身をかえりみれば耐え得る、耐え切れぬの前段階でさっさと白旗を掲げて下車を願い出るに違いないのだ。刹那の地獄を想うとそれだけで身体のあちらこちらは萎縮し、呼吸が乱れる。

  実際、からきし意気地がない。先月に入って左の足裏に違和感があり、しげしげと見やれば土踏まずに1センチ大の円形の盛り上がりがある。風雪にさらされ変形し、サイズの合わなくなった古い靴を捨て惜しんだ報いであろうか。靴ずれの進んだものと思い、いたわって様子をしばらく見たものの一向に痛みは去らない、どころかいよいよ触れると画鋲を踏み抜くような鋭さとなる。これは厄介な“できもの”の類(たぐい)と判断して薬局におもむき、説明書にしたがって薬を塗りこんだりしたけれど、それでも完治なる気配がないからそこでようやく匙を投げ出し、足を引きずり引きずりしながら皮膚科の門を潜ったのが今月の初めだった。

  壁にかかった博士号の免状から私よりひとつ下と知れるS医師は、女形のようなかん高い声で喋る中肉中背の眼鏡の男であった。一瞥(いちべつ)しただけで“ウイルス性のいぼ”と断じて、初老の看護婦に小さな金属容器を用意させる。綿棒を中に突っ込み、透明の液体を含ませるやいなや患部にペタペタと押し付けはじめた。最初は何とも感じなかったが、数秒して錐(きり)で突くような痛みがやって来た。液体窒素により人為的に凍傷を起こし細胞を壊死(えし)させ、下に新しい皮膚が出来た頃を見計らって死んだ部分を小刀でざくざくと切り剥がす、そんな野蛮この上ない治療法である。それ自体はよく知られた話だから耳にしてはいたけれど、何も間髪いれずマイナス196度の液体を押し付けることはなかろう、と思わず目を剥く。

  痛くて声が出る。寝屋(ねや)でついつい漏らした淫声を相手に聞かれたおんなの心境とはこんなものかと思う、というか、いい大人が悲鳴をあげて滅茶苦茶に恥しいのだけど。誤魔化そうとひり出した冗談をものともせず、S医師は執拗に冷水を押しつけるばかりで余計泣けてくる。ソビエト製のSF映画(*1)のなかで絶望したおんなが液体窒素を呷(あお)って自死する件(くだり)があったのを思い出し、あのおんなの痛みはこの数十倍か数百倍であったかと思うと、急にそのおんなの哀しみや煩悶の深い淵を覗いたように感じられてちょっと嬉しかったのだけど、痛いものはどうしたって痛いから、オウ、オウ、と水族館のアシカみたく鳴くしかない。生死を分かつ河を渡るに際しての痛みの、数千分の一ぐらいは透けて見えたような気がした。そんな恐ろしい河、近づかずに済むのであればそれに越したことはないだろう。そんな風なことを最近しきりに思っている。

  さて、映画のなかで液体窒素を呑み干したハリーという名のおんなは、黄泉の国からさ迷い出たような不安定で常軌を逸した造形であるから、やがて横たわる床面の上ではげしい痙攣を繰り返しながら蘇生を果たすのだったが、その様はフィルムを逆回転させた巧みな演出も加わって人間の身体表現の域を遥かに超えた凄絶なものだった。弛緩と緊張がおんなの四肢を交互に支配していく様子は(死から生へと逆行する流れであっても)渡河のはげしさ、酷さ、神々しさを見事に現わして何度見ても言葉を失うものがある。

  このような“渡河の光景”に険しさや厚みをふんだんに盛り込んでは独特の間合いや気合を劇中に籠(こ)めていく作り手の一人として、ここで石井隆の名を上げることにきっと誰もが抵抗を覚えないのではなかろうか。石井は人間の皮膚なり骨の質感、厚みや重みであるとか、体温、弾力といったものを実に丁寧に活写していくのだけれど、その一環として劇中挿入される臨終の場も丁寧に紡いでいくところがある。グロテスクな特殊造形の登用は極力控え、それが準備万端整ってセットに置かれていてもカメラはゆるやかに針路をそれて凝視することはない。その慎ましさの奥に居座る生々しい“肉体”は鮮血にまみれていてもどこか元気に自己主張するようであり、実際その役目を割り振られた役者たちはおのれの精力や技法を残さず投じて渡河の顕現に努めるのである。

  たとえば『死んでもいい』(1992)の終幕、ホテルの浴室でひっくり返り炭火の徐々に消え去るごとく体温の奪われて見える室田日出男の、そのぼってりとした肉付きの良い背中や臀部であるとか、『フリーズ・ミー』(2000)で湯船に沈むにあたり、主人公のちひろ(井上晴美)にのしかかって存分に体重を実感させていく北村一輝の頑強な骨と筋肉であるとか、目、鼻、口など有りとあらゆる体孔を極限まで広げてみせ、世界の虚空と精神の洞穴を連結して見せる同作および『ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う』(2010)における竹中直人の断末魔の形相であるとか、呼吸はおろか血流すら止めたかと観ているこちらを慌てさせる、やはり『愛は惜しみなく─』の津田寛治とか、馬鹿が付くほど丹念に“渡河の光景”を演じ、また描いている。逝く者にここまで雄弁に語らしむ演出家は洋の東西を問わず、そうそうはいないように思う。

  特に『フリーズ・ミー』で頭頂部をおんなに撲られ、間欠的にはげしい痙攣を重ねて河を越えていく鶴見辰吾の姿は恐怖をこえて笑いを誘い、笑い転じて憐憫へと変容するだけの長い時間を観る者にずるずると与えていて、先のハリーという名のおんなと同様に一度見たら最後、消え去らぬ昏(くら)い面影となって脳裡に巣食うのだったが、独特の低位置に据えられたカメラはこの時、横臥しふるえる男に添い寝してその内側に逆巻く当惑や哀しみを代弁しつつ惚れたおんなを見上げることをなかなか止めないのであって、そこには主役にではなく、今まさに退場を迫られつつある側に注がれた強いまなざしが香っている。

  捨て駒として劇内に点々と置かれ、おはじきを操るようにして唐突に退場を強いられがちな助演者や脇役に対して石井の姿勢は首尾一貫しており(*2)、 主役だろうとチンピラであろうと恋路の障壁であろうと最期は同列に扱われていく。たまゆらであれその背中に気持ちを傾けて、生い立ちなりささやかな(もしくは誇大な)希望に敬意を払い、けれど粛粛と看取っていくのである。全方位へ向かうこのなよやかな親身なり目配りの徹底が石井の劇を“救い”の息吹で満たしていくのであり、無明感や焦燥を日々抱きながら生きていかざるをえない私たち市井の徒からすれば、スクリーンを越えて我が身にまでその慈しみは及ぶように感ぜられる時だってある。阿鼻叫喚の地獄絵に放り込まれても石井の物語にどこか安心して居られるのは、きっとその為なのだろうと思う。

(*1): Солярис 監督アンドレイ・タルコフスキー 1972 
(*2):たとえば『花と蛇2 パリ/静子』(2005)は画家の妄執を扱うのではなく、絵画を愛していながら自らは筆を握らぬ画商の話である。影の立役者、脇役として生きようと決めていた男が死を目前にして“人生の主役”の座に拘泥して暴走していく物語であって、実に石井らしい吐息と采配に染まった作品と思う。



2012年7月7日土曜日

“オラトリオ”


 石井隆の物語空間における死とエロスとは、皮膜を隔てて寄り添う間柄にある。皮膜は雨やシャワー、水たまりに触れるとすぐに曖昧になり、両者はいよいよ混然となって渦巻き、目撃者を圧倒するのだけれど、その哀しみと悦びのメイルストロムをつぶさに見返していくと一つの特徴に行き当たるように思う。あれだけの死を累々と築きながら、自死へと至る顛末が少ない。

 もちろん“タナトス四部作”と呼称される劇画作品が1980年に展開され、そのひとつの【赤い暴行】は睡眠薬を大量にあおって死んでいくおんなの話だったわけだし、直前には石井ドラマの輪郭を決定付けて見える、あの【雨のエトランゼ】(1979)が横たわってもいる。屋上からの名美の投身をもって断絶する【雨のエトランゼ】は、『魔性の香り』(監督池田敏春 1985)、『沙耶のいる透視図』(監督和泉聖治 1986)、『ヌードの夜』(1993)、『フレーズ・ミー』(2000)といった具合に幾度となく趣きを変えながら石井の物語を彩っているから、その航跡を見る限りにおいては“自死”はたしかに連鎖して止まらない。

 オレンヂ色の灯がともる寝屋(ねや)に白刃がきらめき流れ、無防備な手首をすうっと真一文字に切り裂いていく。たとえば【蒼い閃光】(1976)であり【緋の奈落】(1976)であったりするのだが、紅蓮地獄が突如目前に浮上したような血の大噴出をともなう場面さえあって、読者をどんと突き放すそんな酷烈な幕引きが印象に残る石井の物語群に対し“自死が少ない”と書くのはなるほど可笑しな言い草かもしれぬ。惨死の群れなす陰鬱なお話ばかりじゃないか、でたらめを書くなよ、と首を傾げる御仁も居よう。

 人それぞれの世界観の読み解きがあって良いのだが、私にとっての石井の劇とはむしろ死に抗(あらが)う行為の連続であって、“生還と延命の絵巻”と捉えて来たところだ。ゆらめく影に恐怖して跳びすさり、幽かな足音に怯え疲れて地面をいざりながら、もう無理だ、死んでしまおうと思案のまな板に“死”を載せる局面はなるほど頻発するのだけど、いよいよとなって実行に移せぬまま煩悶の足踏みに入るのが石井の劇を支えるもう一方の“みめかたち”ではなかったか。端的には『ラブホテル』(監督相米慎二 1985)の村木(寺田農)であったり、『夜がまた来る』(1994)の名美(夏川結衣)だったり、『GONIN』(1995)の三屋(本木雅弘)の系譜である。

 夜通し海原を奔る連絡船の客となり、デッキから目を凝らして遠ざかる波の飛沫をにたどれば、海蛍(うみほたる)の青くざわめき筋をなして漆黒の闇に伸びていくのが視とめられるという。虚無と思えた黒い空間に無数の小さき生き物がそうやって群れ集い、懸命におのれの存在を主張するように、死の誘惑に手向かい、苦悶の色濃い面貌にさらに皺を刻んで生き延びようと足掻き続けた男たち、おんなたちがいくつも石井の劇には見つかるのであって、たとえば死線を一度はまたぎかけるが寸でのところで回避していく初期の劇画作品【天使のはらわた】(1978-1979)の川島哲郎もそうなのだけど、私の記憶の淵には彼ら石井隆の“抗う者”がいまも居座り続けて、ときどき思い出したようにして声を送ってくる。

 年齢を重ねるということはそういう事で驚くには値しないだろうが、わたしは知り合いを三人、自死というかたちで見送っている。身内や親族ではない。匿名とは言え、このような公の場でその事実を綴れる程の知人、友人としての距離のある間柄である。それでも折に触れ、彼らの事を考える時間がある。ひとりは望んでそうなったか、それとも無理強いされたのか判然としないのだけれど、この震災の混沌とした状況で絶望し魂の手綱を放して流浪を始めた男と一緒に寝起きしてしまい、最後は淋しく暗い場所を選んで逝ってしまった。死をわざわざ手招いて天寿に背いた幕引きに違いはなく、思い返す度に酸っぱいものが喉を逆流する。

 私にしたって様々な方向から大小違った弓矢が射ち込まれる毎日であって、撃たれどころが悪ければたちまち致命傷にもなるのだし、薙ぎ払うのに一杯いっぱいの余裕のない時だってある。甘えて白状すれば、我が家の玄関からほど近い場所に十坪ばかりの空き地があり、この時代に珍しく黒土が露出したところに樹齢どのぐらいか分からぬが胴回りが1メートルほどにも育った梅が数本最近まで並んで立っていた。(庭師に尋ねたところ百年は経過した老木とのこと)──自責の念に酷くさいなまれる出来事が数年前にあって、連夜日付が変わる頃まで二時間、三時間と上がり口に腰を沈めて、向かいにそびえる木々の中ほどでおのれの足先がさかんに空を蹴る場面を想った。物置から自動車の牽引用ロープを引き出したり、椅子を持ち出すことを幾度も繰り返して想像した。

 からくも窮地を脱して以来、梅の木たちは内奥をよく知る者として身近な存在となってしまい、朝な夕なに無言の挨拶を交わして来たのだった。けれど、先日、強風が列島に吹き荒れて各地に甚大な被害をもたらしたことを契機にして、我が家を含む周辺へ迷惑を及ぼすことをおもんばかった心配性の持ち主により職人が手配されてしまった。今はすべて伐(か)り払らわれて、白く平らな断面をさらした切り株を点々と残すばかりとなっている。

 伐採(ばっさい)の前夜、上等の地酒を幹や根に惜しみなく注いで別れを告げながら、内心“助かった”という気持ちがないでもなかったのだ。このまま行けばいつか苦しい日々が再度巡って来たときに、この木の枝にぶら下がって息絶えていた自分自身の可能性は否定出来なくって、そんな危うい場処を綺麗さっぱりと奪われることに実は安堵したところがあった。

 “生の終わり”を想う時間はこのように日常茶飯で他人事ではない。先に逝った知人の位牌や死場処に花を手向け瞑目して浮かぶのは、彼らが特異でおかしな人では決してなかったという感慨であり、さわやかに微笑んでいる表情と穏やかな声である。そこに至った事は決して特別とは思えない。人間はかくも弱く、崩れるときは一気に崩れていくものと思う。条件がある程度整ってしまえば、粉砕なり決壊はたやすい。

 あの真夜中、蛍光灯に寒々と照らされた戸口で座り込む私を救ったのが石井の“抗う者”の発した“こだま”であったとまではここで書かないけれど、石井の作品群を性欲と暴力、おんなの裸と拳銃ばかりの物語とつまらぬ括り方をした上で軽んじている文章などを見ると、それを書いた人間もつまらぬ者に見えてならない。(幸せな人とも思うが、うらやましいとは感じない。)

 誰もが似たり寄ったりで生と死の汀(みぎわ)にたたずんでいるのであって、逝くも残るも成り行き次第という受け止め方を最近ではしている私は、石井隆の世界を荒唐無稽の“異界”とは到底思えないでいる。魂に届くオラトリオと信じて耳をそばだて、水際までの間合を見定めるきっかけにしている。洗練されているとは総じて言い難い石井の“抗う者たち”の悪戦苦闘ぶりを見つめながら、ほんの少しの勇気を譲られ、今日に明日を繋いでいるところが確かにある。