2023年7月30日日曜日

“侵蝕する暴力”~『ろくろ首』考(7)~


  冒頭、野武士に拉致されかけた夏川結衣は既(すんで)のところで助かるが、足が痛む、到底歩けないと柳葉敏郎に視線を送り、その背中を借りるのだった。この足の負傷もお芝居であるのかどうか。確かに足袋は白く綺麗なままで現実味が乏しい。

 次の場面では、煩悩の渦にうろたえる男がコミカルに描かれる。胴体を密着させたおんなに対し、臀部に伸ばしたおのれの手のやり場に困る。会話するたびにおんなの息が首すじをくすぐる。さらに私たち視聴者は、おんなの首がにょろりと一瞬だけ伸びるのを目撃してしまう。色香に脆い男の本性を鼻で笑い、やれやれこの程度の芝居にだまされおって、痴れ者め、と考える。だから、おんなの足首の話もかなりの確率で嘘と疑うのは道理である。

 ところが野武士の巣窟での死闘を経て、生首がようやく取り戻され、元気に蘇生して見える夏川がなぜか足をずるずるとひきずっているのだった。山道をくだる柳葉の背中を必死に追う姿が痛々しい。もはや無理だな、遠慮せずに俺の背に負ぶされと柳葉が気遣うに至って、その繰り返される光景のくどさに私たちは石井らしい粘着した語り口を認める。「気付いたかい、分かるかい」とつぶやく石井の声と視線を感じ取る。

 此処から解釈されるのは、足の痛みは芝居ではなかったという真実だ。殺害に至った(首を斬られるに至った)過去現実の、さらにはもしかしたら冒頭で再現された二度目の現場でも、おんなは理不尽な性暴力に遭って怪我を被ったという設定である。

 この『ろくろ首』には石井の劇画【天使のはらわた】(1978)とイメージの相似があることを先に書いたが、【天使のはらわた】の第一部で土屋名美が川島哲郎たちに襲撃され、雨がそぼ降る鉄道操車場に追い詰められた際に、足を挫いて歩行が困難となる様子が添えられている。夏川結衣演じる月乃というおんなに対して、石井は名美の面影を託しているのは間違いない。

 【天使のはらわた】の名美という娘は幾度も幾度も性暴力の被害に遭うという凄惨な造形がされた特異なキャラクターであるのだが、その血を継いだ月乃という戦乱の世に生まれたおんなに対し、石井は「よく分からない形」で、繰り返される暴姦の憂き目を強いているのである。夏の夜の誰でも楽しめる幽霊奇譚にしては、どこまでも身体の痛みや苦しみを追求した脚本である。

 それにしても、ここまで反復を繰り広げ、わざわざ地獄を再体験させていく作劇はどうだろう。この執拗さは何だろうか。山道を柳葉が登って来る様子を木立の陰から遠目でうかがい、先回りして木の根元に腰を下ろし、ああ、痛い、足を挫いてしまった、とても歩けないわ、と顔を歪めれば、芝居は、台本はひとまず成立しただろうに。この過酷さは一体全体どうした訳だ。

 わざわざ現実の(再度の)暴姦場面の渦中に身を晒して、このような目に遭ったのだ、大勢に襲われたのだ、叫べども誰も助けには来ず、泣いて懇願しても耳を傾けてはくれず、襲われ続けて足を傷め、首を切られて私は殺されたのだ、と、「よく分からない形」で見せつけている。

 月乃、夏川結衣に尋常な域ではない芝居を指示していながら、苛烈な様相をそうっと死角に置いていく。「不在を描く」石井ならではのリアルティがある。『ろくろ首』はまぎれもなく石井世界という伽藍の一部となっている


2023年7月23日日曜日

“反復する地獄”~『ろくろ首』考(6)~

 


 石井隆は「境界」を無限と捉え、そこにたたずむ人間をかれら側に立って描く作家であった。善と悪、愛と欲、道徳と渇望、美しさと醜さ、生と死といった拮抗する勢力の緩衝地帯が広々と用意され、登場人物はそこを往還し、または彷徨い、大概は人間同士の関係に大きな裂傷なり熱傷を作ってしまういたましい展開に突き進む。

 おそらく石井の想いのなかには、絶対的に揺るがないものなど存在しなかった。人は本当に悲しいとき、悲しそうな表情などしないよ、という言及ひとつからも解かるように、人間観察を重ねて突き詰められた結論は「分からない」という一点に集束した。その曖昧さを大胆に、強いまなざしと共に甘受していこうという毅然とした姿勢があった。

 分かりやすくすることは鑑賞の最中や後の記憶を優しくマッサージし、口腔や鼻腔を甘くとろけさせるが、人間の本質なり社会の実相とは大きく反れていくと考えた。分からない人間に向き合っていくそんな石井のドラマというのは、観る者を不安にさせたり戸惑わせることが多かったけれど、『ろくろ首』の印象はそうではない。

 たとえば、劇の冒頭、夏川結衣演じるおんなが柳葉に向けて不幸な身の上を語る。隣国までの旅の途中で従者にはぐれてしまった、と言うときのたどたどしさ、直截的に言えば「棒読み」口調に対して、多くの視聴者は下手だなあ、いたたまれないなあと感じる。寸劇(コント)をたちまち連想して、なんだ怖い話じゃないんだ、漫画だなと解釈して緊張を解いてしまう。以降は真剣なまなざしを向けることはない。もはや「見切った(分かった)」からである。

 ところがこの「棒読み」は(二重の意味で)演出なのであって、演技の巧拙とは関係がない。つまり夏川は「演技している若いおんな」を演じねばならず、芝居じみた雰囲気をあえて押し出すことを強いられた訳である。真夜中の森の広場での談笑で、また、妖怪化して襲い来た従者が柳葉に撃退されてから白状したように、「自分たちの願いを叶えるための道具」とすべく接近し、あれこれ言い含めて「自分たちのさらわれた首を取り返す」役目を押しつけようとした。その為の大芝居という筋書きであった。

 つまり、『ろくろ首』は演出家の判断で「分かりやすく」されてしまったのだ。テレビジョンは不明瞭さを回避して「分かりやすさ」をとことん追求していき、石井世界からどんどん反れてしまったというのが本当のところだろう。

 石井が自ら演出していたら、ずいぶんと違った様相を呈したはずである。おんなの台詞は棒読み調ではなくて、謎めいて「分からない」ままに進行したろう。夏川と従者たちのお芝居はいかにも誇張されて作り物めいたものでなく、曖昧さをそのまま提示した底知れない人間ドラマとして提示されたに違いない。金曜日の午後9時(*1)という視聴好適時間に自作を投じる機会を得た劇作家の発奮を想像すれば、石井が軽佻な「分かりやすい」執筆で済ますはずなど絶対にない。石井の狙いとはいささか乖離した仕上がりになっていて、つまりは「ルージュ現象」がここでも起きていると自分は解釈している。

 さて、そろそろお解かりの通り『ろくろ首』は懸命に芝居を打つおんなを主軸に据えていることで、『ラブホテル』(1985 監督相米慎二)、『ヌードの夜』(1993)、『ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う』(2010)、『GONIN サーガ』(2015)とも血脈を通じている。

 個人的にはこれら以上に劇画の短篇【琥珀色の裸線】(1987)の切迫した気配と馴染むものを感じる。【琥珀色の裸線】はこんな話だ。暴姦現場に偶然居合わせた男が関わりを避けようとして、顔をそむけ、耳に飛び込む声を無視してその場を離れる。被害者のおんなはその後、加害者のヤクザから脅迫されて場末の酒場に幽閉され、買春目的で訪れる客に身体を開くことを強要される。

 ある夜偶然に先の男が泥酔しておんなの店に立ち寄ったことから、おんなは苦海からの脱出を夢想し始め、徐々にヤクザと男が鉢合わせする状況を作っていき、「過去の暴姦現場を再現する芝居」を両者の前で打つのである。男は保身のために逃避したあの一刻まで引き戻され、カウンターにあった包丁を握るや否やヤクザの背中に突進していく。

 『ろくろ首』の男女の出逢いが暴姦場面である点と、おんなの懸命な芝居に男が翻弄される成り行きが共鳴を誘う。例によって両者はからみ合って石井世界という一個の生命体を彩っている。

 そうして【琥珀色の裸線】から逆照射された『ろくろ首』は、もはや寸劇みたい、バラエティ番組みたいには見えず、笑えない切実な現実へと容貌を変えるのである。つまり、【琥珀色の裸線】と同様の「過去の生々しい現場再現」が『ろくろ首』では冒頭から展開していることを私たちは理解しなければならない。

 (*1):https://www.allcinema.net/cinema/85520



2023年7月22日土曜日

“修羅場に芽吹く純愛”~『ろくろ首』考(5)~

 


 石井隆が世に放った怪奇譚『ろくろ首』の輪郭をざっと辿れば、以上のようにまとめられる。ずいぶんと込みいった話であること、了解いただけると思う。次にこのドラマを石井世界と照らし合わせてどう捉えるべきか、私たちに何が見えてくるかを考えたい。

 第二幕の月乃(月姫)救出を目撃して、私たちは複数の石井作品からの木霊(こだま)を聞く。悲鳴を聞いて駆けつけた柳葉敏郎が目にしたのは男に襲われて着物の裾をはだけた夏川結衣である。暴姦される寸前のおんなを救い出したことに端を発する物語は、石井が繰り返し用いた導入部のひとつだ。相似する場面を内蔵する作品をここに並べることはじつに容易い。すなわち、劇画【天使のはらわた】(1978)や『黒の天使vol.2』(1999)が浮上する。

 乱暴狼藉をはたらく荒くれから女性を救う。この手の英雄描写はありふれたもので石井の専売特許ではなく、誰もが見覚えのある人情劇の枝葉である。かつて量産された時代劇でも題名は忘れたが、まさにこんな発端を観ている。峠道で追い剥ぎに襲われた母娘ふたり連れが危機に追いやられる。少し遅れて同じ道を歩いていた孤高にして美形の剣士が異変に気付いて駆け寄れば、すでに母親は背中を真一文字に切られて絶命しており、娘の周りには砂糖にむらがる蟻のように複数の男たちが嘲笑いながら屈みこんでいる、そんな場面である。抜刀した剣士は目が醒めるほどの剣さばきを披露し、たちまち暴漢たちは泥土を舐め、蹴散らされるのも定番の流れだ。

 それであれば、何もここでわざわざ【天使のはらわた】と『黒の天使vol.2』を引き合いに出すまでもないじゃないか、そう人は思うだろう。ブラウン管に手垢のついた状況が映し出され、予定調和的に駆けつけた武芸者がこれを救う、それだけではないか。お喋りをしながら、家事をしながら、片手間に眺めても安心していられるバラエティ色つよい構成である。危なかったのね、ああ、助かったのね、良かったわね、それで十分ではないか。

 されどこのような話の展開は小泉八雲(こいずみやくも)Patrick Lafcadio Hearnの原作には影もかたちもなく、石井が積極的に注入したエピソードである点は無視出来ない。この辺については後述するが、石井隆の花押(かおう)として暴行救出の場面が組み入れられた点につき、私たちはつよく意識して良いのであるし、何よりいちばん意識したのは石井本人であるだろう。

 つまり石井隆は大胆にも『天使のはらわた ろくろ首』を披露してみせたのであって、それを意識して鑑賞することを暗に求められている訳なのである。この視線の獲得を為し得た瞬間に、私たちは石井独特のまなざしと呟きを体感することになるが、お化けの出る娯楽作品とのみ了解して終わってしまえば、石井隆とは思えない乾燥した面立ちに思えてならず、どうしてこんな軽い企画に乗ったものだろう、誰が書いても同じじゃないか、よくある道中ものでしかない、そう戸惑うばかりだろう。

 【天使のはらわた】と『黒の天使vol.2』は闇世界で糊口をしのぐ青春劇であり、魑魅魍魎の蠢く群像劇でもあるので視点がゆれて焦点が定まりにくいところがあるが、前者の川島哲郎と土屋名美、後者の魔世(天海祐希)と山部辰雄(大和武士)の立ち位置は「純愛」であるから、『ろくろ首』にも「純愛」の芳香が付き纏う。恋に落ちる男とおんなのなれそめを、どうしてこうも過酷な修羅場に持っていこうとするのか。石井隆という作家の特異性がここでも目立っているが、40分という短時間にもかかわらず、この出逢い以降の『ろくろ首』の顛末を丁寧に咀嚼していくと、思いがけずどこまでも石井世界の連結があることが分かってくる。



2023年7月9日日曜日

“激闘と終焉”~『ろくろ首』考(4)~



 [第六幕/妖怪との激闘]

 目を覚ました回竜は見知らぬ花を見つけ、さらに戸が開いていることに気づく。月乃と従者たちのいる部屋の方へ行って内部を見渡し、どこか奇妙な感じを受ける。木樵の布団を剥いでみると、なんと首のない胴体が横たわっているではないか。従者たち、月乃も同じく異体だった。驚いた回竜は慌てて小屋を飛び出す。

 小屋から離れた場処、樹々が途切れて小さな広場のようになっている野原にて、四体の妖かしの者は談笑していた。普通に身体をそなえ、顔も血色よい尋常の姿である。隠れて様子をうかがう回竜。木樵の正体は月乃一行の旅の主導者である筧(かけい)、あの刺し殺されたはずの老侍であった。月乃が恋をしていると冷やかすお供たち。「今晩限りで忘れるように」と釘を差す従者たちは、あの僧侶は「自分たちの願いを叶えるための道具にすぎない」「願いが叶えられれば、死んでもらわねばならぬ定め」と懸命に諭すのだった。首をにょろりと伸ばした老侍を見て、驚いた回竜は音を立ててしまう。

 自分たちの企みがばれたと知った従者三体は、凶悪な形相となって回竜を襲う。特に男ふたりの顔貌は腐乱した死人とそっくりである。大蛇のごとく伸びた首が身体にぐるぐると巻きつき、身動きが取れない。牙を剥いて迫る妖怪の顔。絶体絶命と思った瞬間、木立の向こうに朝日が昇り始める。化け物たち、そして成り行きを見守っていた月乃は途端に苦しがり、その様子から彼らの弱点を悟った回竜は水晶の数珠を取り出して高々と掲げ、陽光を反射させて周囲を照らすのだった。

[第七幕/野武士との激闘]

 戸をすべて閉め切って陽射しを遮った木樵小屋である。平常の姿に戻ったろくろ首の一団であったが、先程の格闘で消耗したのか、戸の隙間から射し込む陽光で苦しいのか、床に倒れて身悶えしている。彼らは回竜に向けて、涙ながらに説明するのだった。隣国への逃避行の途中で野武士に捕らえられ、ともども首を刎ねられてしまった。いま在るのはかりそめの首。本物の首がなければ成仏はできない。首の回帰ばかりを願ううちに首が伸びるようになってしまった。

 多額の懸賞金がかかっていることを知った野武士は、自分たちの首をねぐらに隠したままでいる。どうか自分たちのさらわれた首を取り返してほしい、もしも取り返してくれれば、自分たちの三つの命と引き換えに姫だけは生き返らせることが出来るかもしれない。早く首を持ってこなければ、首が腐ってしまう、腐ってしまってはどうにもならないと回竜を急かすのだった。

 賊のねぐらは朽ち果てた山寺である。見る影もない荒れ寺とはいえ、もはや魔性の身となってしまった四人は近寄れない。回竜は単身彼らの首を取り戻すために急襲する。よくよく見れば乱痴気騒ぎに酔い痴れる野武士の面々は、序幕直後に雪乃らを襲撃した連中である。そこには囚われの身となり野武士の慰み者にされている複数の若いおんなたちが幽閉されて居るのだが、絶望の淵に墜ちて正気を失っているのか、男どもの乱暴に抵抗する素振りもなく、僧服の回竜を認めるとあろうことか裸身を晒し、猫撫で声をあげて救出を請うのだった。野武士たちは回竜を見つけて倒しにかかるが、なんとか首を奪還する。

[終幕/同行二人]

 首を抱えて小屋へ戻ると四人は感謝して迎える。回竜が経をあげ元通りの姿へ戻るも、月乃以外の三人は「姫さま、お達者で」「お幸せに、月乃さま」の言葉を残し成仏した。「おまえも行け、皆と行かないと成仏できんぞ」と伝えるが、回竜について行くという月乃である。「道中はきびしい、日照りに嵐、尋常ではない、(戦死した)親もお待ちだ、あの世で暮らした方が愉しかろう」と諭すのだが、頑なに首を振るばかりである。

 山道をどんどん歩む背中におんなはついていこうとするが、足が痛むようでなかなか進めない。河原で休憩している時も、おんなは足をさすっている。そんな様子を見かねて、男は最初に出逢った時と同じように背中を差し出す。するとおんなは姿を変え、頭部だけの状態になり男の僧服の懐へとすべり込むのだった。男のおなかのあたりから、顔を見上げて微笑むおんな。そんな笑顔を見た男もまた笑顔を見せる。旅を行くその顔は明るかった。


(参照)「MOONLIGHT イチ夏川結衣ファンのひとりごと。」

http://moonlight-yui.jugem.jp/?eid=131


“浮遊する身体”~『ろくろ首』考(3)~

 


[第三幕/おんなの正体]

 道中、月乃はこの山中に妖怪が出る噂を知っているかと問うのだった。その妖怪は「ろくろ首」であるという。回竜はこれに答えて、死者が夜な夜な己の体を残して首だけが飛んでいき、旅人を惑わせたり、殺して食べたりすると本で読んだことがあると話すのだった。「飛ぶんですか、首が。首がながーくなるのではないのですか」と不思議そうな顔をする月乃。「このようにニョロニョロと」とつぶやいた刹那、月乃の首はウネウネと伸びていく。前を向いたままの回竜はその異変に気付かないのだった。

 途中回竜が「ここらで野宿しよう」と言っても、月乃は先を促す。崖から足を踏み外しそうになったり、すっかり寝入ってしまった背中の月乃の顔が自分の顔のそばにあって思わずニヤけてしまう回竜だったが、気を奮い立たせて歩き続けて、ようやく闇の奥にぽつねんと浮ぶ木樵(きこり)小屋を見つける。

[第四幕/回想]

 扉を開いた木樵の老人(名古屋章・二役)に怪我人がいるので助けてほしいと請う回竜だったが、木樵はなぜか回竜が野武士からおんなを助けた事情などを知っているのだった。奇妙に思う回竜だったが、中に入ると月乃の従者である紫という名のばや(岩崎加根子)と猛々しい侍(六平直政)がいた。「月姫さま、よくご無事で」三人は再会を喜ぶのだった。

 従者たちの話によると、合戦により一族は滅ぼされたが、主人は姫だけはこのまま死なせるのは不憫だと考え、自分たちを供につけて隣国へ向かうところだという。腕が立つ回竜に対して、どうか一緒に行って欲しいと頼み込む従者たちである。ともかく夜も遅いので、回竜もそのまま小屋で休ませてもらうことになった。

[第五幕/異変]

 隣室を提供された回竜は亡き侍の供養のためと経をあげるのだったが、襖の向こうの木樵、従者たち、月乃は耳を塞いでお経が聞こえないようにして横になっている。必死の形相である。

 いつしか疲れた回竜は経をあげながら眠ってしまう。声が止んだ途端に安心して眠りに就く従者たちであるが、月乃だけは目をぱちっと開けるとやおら起き上がり、鏡台に向かって髪を整えるのだった。ふわりふわりと漂いながら回竜のいる部屋へと至る。おんなは入り口にたたずむと、首をどんどん伸ばしていき、妖艶なその顔を男に近づけていく。フッと目を覚ました男の袂から水晶で作られた数珠が落ち、それを見たおんなは慌てて首を引っ込める。髪にかざしていた一輪の花が床に落ちる。


(参照):「MOONLIGHT イチ夏川結衣ファンのひとりごと。」

http://moonlight-yui.jugem.jp/?eid=131


“木立の奥で動くもの”~『ろくろ首』考(2)~



  『怪談 KWAIDAN II ろくろ首』(1993 以下『ろくろ首』とする)はテレビの単発ドラマであり、コマーシャルを除く放映時間は正味40分強とたいへん短い。1993年8月20日の本放送の後、最近では衛星チャンネルで2012年8月9日の深夜に再放送されている。(*1) 

 茶の間に流れたのは、つまり「真夏」であった。かつての「真夏」といえば、骨の髄にもぺたぺたと汗かくと感じられるほど暑かった。誰もが流れる汗で服を濡らしながら学校に通い、働いていた。芳香剤のコマーシャルも大して流れなかったから、若い男たちは総じてつんと酸っぱく臭っていた。どこもかしこも熱風に巻かれて、夏だから当然とは思いつつ、顔をしかめ閉口する毎日だった。納涼の意味合いもあって、心霊特集、幽霊ドラマがテレビのブラウン管を占領したのも道理である。

 往事の団欒の風景を思い返せば、団扇(うちわ)をはたはたと振っては連れ合いに風を送るおんなたちが目に浮ぶ。扇風機が狭い茶の間で低くうなり、蚊取り線香がその風を受けてちりり、ちりりと紅く燃え、流水にしばしさらして冷えた西瓜に一斉に喰らいつき、ビール瓶のカチャカチャすれて鳴る音が涼しかった。下着姿でくつろぐ大人たちの見守るなかで、暗闇でマッチの擦る音が聞こえ、続いて明滅する子供用花火が披露された。

 バブル期以降は家庭ごとに空調機械が充実し、大人も子供も窓が開け放たれていることに舌打ちして、がらがら、ぴしりと閉める音ばかりが頭に響いた。その分、外界は意識から徐々に遠のいていき、じっとりと湿った熱帯夜の闇の奥から得体の知れない化け物が舌なめずりをして窺っている、そんな連想を庶民が捨て去るのに時間はかからなかった。自然と妖気漂うテレビ番組は目立たなくなった。

 今も肌を焦がすような陽射しはあり、その下を懸命に人は歩み、働き、暮らしている。しかし、店舗なり公共空間、職場や社用車、自宅といった風に点々と暑気を追い払う避難所的な場処が設けられている。凄絶で逃げられぬ「真夏」と闇夜のおどろおどろした存在感は消え去った。

 『ろくろ首』が作られたのは暮らし向きが変わっていくそんな端境(はざかい)をとうに過ぎた頃だ。不易流行を重んじるテレビジョン業界の製作陣からすれば、鳥肌が立つような「涼しい描写」など大衆にはもはや不要と考えたに違いない石井と演出の久世光彦(くぜてるひこ)もその点は割り切っていた事だろう。

 『ろくろ首』は、だから娯楽にひたすら徹すべく努めて見える。屋内のセット撮影を主軸とし、ビデオ合成や特殊造型といった当時の最新技術をにぎやかに配すると共に、剣劇を挟み、扇情的な描写を散りばめ、分かりやすい過剰な演技を役者に求めて、ひたすら飽きさせないように工夫している。バラエティ番組の狂騒が渦を巻いている。幽霊、化け物譚であるのだが闇の濃さと湿度は低く、作り物の面白さをどこまでも希求していて、私たちの住まう世界とは隔絶した舞台に見える。

 まず最初にこの『ろくろ首』のあらすじを書き起こし、その上で石井の作為を読み解こう。起承転結を文章にするにあたり、夏川結衣(なつかわゆい)を応援するブログを参照とさせていただいた。(*2) 主役の姫を演じた夏川は撮影当事、二十代なかばであり実に愛らしく、清楚な魅力に溢れていた。彼女を愛でる気持ちが伝わる素晴らしい文章であったし、何より分かりやすくまとめられてあって、そのまま書き写せば十分であるのだけど、石井の創作術に触れる必要から失礼と感じつつ加筆させていただいた。もしもご覧いただいたなら、何卒ご容赦いただきたい。

[序幕/行脚(あんぎゃ)] 

 時は室町時代、文明年間のこと。血で血を洗う戦国の世に嫌気が差して武士から僧となった男(柳葉敏郎)がいた。今は回竜(かいりゅう)という法名を受け、全国行脚の日々である。旅の途中、渓流で身体を清めていると木立の奥で何かが動く気配がある。半透明の影が陽炎のように揺らめいては、周囲の葉をがさがさ鳴らす。まるで男を見詰めているような気配である。今しも天頂では日食が始まるところで、あたりは薄い闇に包まれていく。

[第二幕/救出] 

 鬱蒼とした林の道で悲鳴が聞こえる。駆けつけた回竜は、複数の賊に襲われる若いおんな(夏川結衣)と年輩の侍(名古屋章)を目撃する。ふたりは身なりから高貴な者と分かる。どうすべきか様子を伺っていたが、老侍が無惨に刺し殺された姿に我慢ならずに飛び出してしまう。無法集団と化した野臥(のぶ)せりと対峙し、多勢に無勢ではあったかがこれを追い払う。

 危ういところで救われたおんななれど、足を挫いて上手く歩けない。おんなは月乃(つきの)と名乗る。とある理由で隣国まで急いでいたが、従者とはぐれてしまったと打ち明けるのだった。回竜は月乃を背負い、行方わからぬ従者を探しながら山中を進んでいく。解せないのは老侍の死体が跡形も無くなっていたことだ。土を赤く染めたおびただしく血しぶきも綺麗さっぱり消えている。


(*1): https://yakumokai.org/5508

(*2):「MOONLIGHT イチ夏川結衣ファンのひとりごと。」

http://moonlight-yui.jugem.jp/?eid=131




2023年7月8日土曜日

“素裸の魂”~『ろくろ首』考(1)~


 身近におこった不思議を回想するとき、大概のひとは謙虚さに満ちたしずかな顔つきになる。聞き手を怖がらせようとする子供じみた魂胆でもあれば、なかなかそうはならない。こめかみ辺りが力んでしまうし、鼻腔もふくらむ。本気で記憶をまさぐって奇怪な現象の解析を試みる時間に置かれたひとというのは、それとは逆に独特で厳かな空気に包まれる。

 頬の緊張が解け、眉をわずかに八の字にかたむけ、目を大きく開いて瞳は遥か彼方に焦点を結んだまま、ゆっくりと見たものを語り出す。自分を慕い信じてくれる縁戚や友に対してありのままを語っていく彼らのなんと立派で、美しいことか。周囲にもそれがやさしく伝播していき、なんともいえない柔らかで落ち着いた空間になる。

 夜もかなり深まった時分、近くにそびえる山の中腹を妖しい光が点々と移動する様子であるとか、家屋の外に置かれてあった厠(かわや)のそばに青白い火球が浮んだとか、葬式の祭壇に手を合わせる最中に回り灯篭が音もなく静止し、ゆるやかに逆回転をしたり、通夜の夜に誰もいない玄関のチャイムが鳴ったなどなど。他愛もない、よくよく考えれば容易に謎が解ける現象であるのだが、一方がそうっと打ち明け、他方がおだやかに受け入れて耳を傾ける人間対人間の語らいというのは、人生のなかでなかなか得難い宝石にも似た輝きがある。等身大の者同士が素裸の魂のまま集っているような雰囲気があって、実に味わい深い。

 創作を生業(なりわい)とする者が霊的現象や妖怪変化を誇張して盛り込み、そこで読み手の恐怖や驚愕の次々に起きるよう仕込んでいくのは常套の手段であるから、そこだけをことさら抜き書きし、創り手の宗教観や人生観、コアにある精神構造と結びつけて述べることは拙速であるだけではなく、創作者の実像を歪める危険この上ない行為だ。

 しかし、石井隆の劇内に顕現する怪奇現象というのは、承知の通り驚くほど純粋な面立ちがあって、上に書いた回想者にも似た生真面目な態度が貫かれて見える。石井という絵描きの気質や生死への解釈が透けて見える箇所であることは間違いない。石井の創作世界の総体を論ずる上で、それら作品中の不可思議な景色を繰り返し玩読し、詳細を通じて指先をのばしていくことは、決して的外れでも乱暴でもないと考える。

 もっとも、石井が怪奇現象を主題とした劇はわずかである。子供向けの妖怪図鑑の挿絵(*1)、いくつかのイラストや絵画、シナリオを提供した『死霊の罠』(1988 監督 池田敏春)と『怪談 KWAIDAN II ろくろ首』(1993 監督 久世光彦)に限られる。ここからはあまり知られていない『怪談 KWAIDAN II ろくろ首』について、しばし空中停止飛行を行なうようにして観察して石井隆の素裸の魂に寄り添ってみたい。

 (*1):「とてもこわい幽霊妖怪図鑑」 草川隆 朝日ソノラマ1974