2023年7月8日土曜日

“素裸の魂”~『ろくろ首』考(1)~


 身近におこった不思議を回想するとき、大概のひとは謙虚さに満ちたしずかな顔つきになる。聞き手を怖がらせようとする子供じみた魂胆でもあれば、なかなかそうはならない。こめかみ辺りが力んでしまうし、鼻腔もふくらむ。本気で記憶をまさぐって奇怪な現象の解析を試みる時間に置かれたひとというのは、それとは逆に独特で厳かな空気に包まれる。

 頬の緊張が解け、眉をわずかに八の字にかたむけ、目を大きく開いて瞳は遥か彼方に焦点を結んだまま、ゆっくりと見たものを語り出す。自分を慕い信じてくれる縁戚や友に対してありのままを語っていく彼らのなんと立派で、美しいことか。周囲にもそれがやさしく伝播していき、なんともいえない柔らかで落ち着いた空間になる。

 夜もかなり深まった時分、近くにそびえる山の中腹を妖しい光が点々と移動する様子であるとか、家屋の外に置かれてあった厠(かわや)のそばに青白い火球が浮んだとか、葬式の祭壇に手を合わせる最中に回り灯篭が音もなく静止し、ゆるやかに逆回転をしたり、通夜の夜に誰もいない玄関のチャイムが鳴ったなどなど。他愛もない、よくよく考えれば容易に謎が解ける現象であるのだが、一方がそうっと打ち明け、他方がおだやかに受け入れて耳を傾ける人間対人間の語らいというのは、人生のなかでなかなか得難い宝石にも似た輝きがある。等身大の者同士が素裸の魂のまま集っているような雰囲気があって、実に味わい深い。

 創作を生業(なりわい)とする者が霊的現象や妖怪変化を誇張して盛り込み、そこで読み手の恐怖や驚愕の次々に起きるよう仕込んでいくのは常套の手段であるから、そこだけをことさら抜き書きし、創り手の宗教観や人生観、コアにある精神構造と結びつけて述べることは拙速であるだけではなく、創作者の実像を歪める危険この上ない行為だ。

 しかし、石井隆の劇内に顕現する怪奇現象というのは、承知の通り驚くほど純粋な面立ちがあって、上に書いた回想者にも似た生真面目な態度が貫かれて見える。石井という絵描きの気質や生死への解釈が透けて見える箇所であることは間違いない。石井の創作世界の総体を論ずる上で、それら作品中の不可思議な景色を繰り返し玩読し、詳細を通じて指先をのばしていくことは、決して的外れでも乱暴でもないと考える。

 もっとも、石井が怪奇現象を主題とした劇はわずかである。子供向けの妖怪図鑑の挿絵(*1)、いくつかのイラストや絵画、シナリオを提供した『死霊の罠』(1988 監督 池田敏春)と『怪談 KWAIDAN II ろくろ首』(1993 監督 久世光彦)に限られる。ここからはあまり知られていない『怪談 KWAIDAN II ろくろ首』について、しばし空中停止飛行を行なうようにして観察して石井隆の素裸の魂に寄り添ってみたい。

 (*1):「とてもこわい幽霊妖怪図鑑」 草川隆 朝日ソノラマ1974 



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