2015年12月27日日曜日

“ヤングコミック”


 石井隆に最初に触れたのは、図書館の書棚を介して、映画監督実相寺昭雄の著書(*1)に載った数点の挿画だった。発売から少し経っていた。単行本がその時点で何冊も書店に並んでおり、独自のスタイルを確立して色香がより増した【黒の天使】(1981)を雑誌に連載中なのだった。以来愛読者のひとりとなった訳だけど、つまり、わたしは石井劇画が平穏な日常に突如出現し、それが鎌いたちのように世間を切り裂いてどれほど大きな衝撃をおよぼしたか、彼のデビュー当時の目撃体験を全く持たない。この事につき悔しく、残念に思うときがしばしばだ。

 人が実際に感じ切ったその時どきの微妙な気配というものは、その人限りに宿るのであり、後世の誰彼に譲ることは出来ない。全宇宙で唯一無二のものだ。政情の変化や衆意の斜度、戦争との距離はいかばかりで、道ゆく人の頬に弛緩があったのか緊張が走っていたものか、鼻腔に飛び込むのは薫風であったか不潔臭だったか。いかに達筆な文章を読んでも、そんな時代感覚までも残らず共有することは相当に困難だ。他人の体験はどう足掻いたって自分のものとはならない。

 だから、石井隆の過去作を私がいくら探し求めて読んでみても、当時の世間の熱狂を知ることだけは絶対に叶わないし、それが石井という作家にどんな具合に創作意欲を湧かせ、同時にどのような失望を与えたか、そしてそれ等が作風にどんな影響を及ぼしたか、この点を踏まえた俯瞰なり解読がならない。きわめて大切な部分と思うが、ここは山根貞男か権藤晋にでも託すしか道はないだろう。

 石井のかつてのホームグラウンドは「ヤングコミック」であったのだが、同誌に関わる本が最近出されており、目で追いながら歯がゆい思いを抱いた。いずれも別の作家、手塚治虫と上村一夫(かみむらかずお)をめぐる本であり、世代的に、加えて嗜好的に両者に対する興味と憧憬は以前から強くある。また、ふたりの名はインタビュウ中で石井の口から度々出てもいる。彼らを知ることは石井を知ることに繋がるように信じているから、頁をめくる毎に喜びが寄せては来たのだけれど、リアルタイムの熱狂を知らぬもどかしさは解消ならず、渇きは癒されるとは逆に増すばかりであって実に困った。生まれるのが少し遅かったように思う。

 二冊とも“少年画報社創業70周年記念”と謳っている。ひとつは「鉄腕アトムの歌が聞こえる ~手塚治虫とその時代~」(*2)であり、編集者として時代の先端を歩んだ著者橋本一郎が体感した手塚プロダクションの盛衰と作家の苦闘の様を中軸とし、加えて漫画およびアニメーションのキャラクタービジネスの黎明期をつぶさに描いてみせた労作である。勢いのある筆致に胸を躍らせて読み進めた。金脈を探し当てるのは常に若い情熱であり、そのほとんどが世間の目の触れない場処での泥だらけの採掘と知る。数々のエピソードを通じて苦労がじわりと伝わって、今更ながら頭が下がる思いがした。

 橋本は「増刊ヤングコミック」の編集者として、その頃まだマイナーであった石井隆の作品、具体的には【埋葬の海】(1974)の再録を同人誌に見つけて唸り、彼を登用し、その後の石井の劇画人生、そして映画作家としての新たな幕を切って落とした人だ。当時の熱狂を懐旧して以下のような文章を綴っている。創り手側に起きたどよめき、震動が感じ取れる貴重な証言となっている。

 私がかわぐちかいじの仕事場にあった同人誌『蒼い馬』で見つけた鬼才、石井隆が、増刊にデビューすると、読者ばかりでなくマンガ家、編集者、作家、評論家、映画関係者にも想像を絶する衝撃を与えました。彼のみずみずしく豊潤な情感を流し込んだ作品によって、(中略)劇画は革命的に一変し、部数は右肩上がりになりました。それは私にとってたまらない快感でした。(315頁)

 想像を絶する、革命的に一変、という表現ふたつを、石井世界を愛する者は記憶に刻んでおくべきだろう。

 もう一冊は「ヤングコミック・レジェンド 上村一夫表紙画大全集」(*3)であり、1969年の夏から1980年の春までの10年以上に渡って描かれた上村の表紙画を紹介したものだ。上村のおんなの造形に惹かれる者にとって、絶対に見逃せない内容となっている。該当する号の幾つかを購入し、また、新宿早稲田の現代マンガ図書館で眺めてもいるが、こうして一堂に会した姿というのは壮観であるし、方角を石井とはまるで違えてはいるが、おんなという存在を終生にわたって凝視め続け、筆の先に探し求めた上村という男の鼓動や血流が感じ取れるようで胸に迫るものがあった。

 技法に関する記述としては、これら表紙の構図やテーマ、そして配色に関して編集部(筧悟、岡崎英生ら)とデザイナーも加わっての共作であった点も分かり、視野がぐんと広がった。美女画と共に題字も活き活きと配され、今見ても新しく感じる箇所が多い。現在の書籍の表紙にはホログラフや擬似エンボスが溢れ返り、写真製版も完成された観を呈しているが、70年代には手法も技法もまるで手探りであったわけで、毎号が冒険に次ぐ冒険、掟破りの連続だったことだろう。新しい表現を模索する出版人の息吹き、まなじりが確かに感じ取れるし、商品デザインに関わる人には示唆に富む内容かと思われる。

 石井に関する記述は無いに等しいのだが、掲載された全260枚の表紙が世に出た時期と、石井劇画が「増刊ヤングコミック」からこの「ヤングコミック」本誌にも活躍の場を広げ、名作を創出した時期とは重なるところがある。だから題字の扱い方を目で追っていくと石井作品への読者の支持がどれだけ急激に、巨大に膨らんだのか理解出来るところがあり、その点で貴重な資料となっている。

 1975年夏の初登場からして目立っているのだが、直ぐに題字のポイント数が上がり、置かれる場所もトップポジションとなり、【天使のはらわた】が映画化されると別格扱いとなった。1979年6月27日号では【おんなの街】の連載開始を大々的に報せて、何と作者名と題字は「ヤングコミック」という誌名とほぼ同じ大きさで組まれていて物凄い。

 こうして自身の筆名と自作のタイトルが大きく取り上げられる恍惚と圧力はどれ程のものだったろう。また、そのような神輿(みこし)に担ぎ上げられて後、通常の扱いへと戻された時の淋しさと焦りはどれほどのものだったろう。才能がない自分には無縁のことだし想像のしようがないのだけれど、いまだに人気漫画作家の幾たりかはその後の空虚さに耐えかねて自らの命を断っている訳で、創造を糧とする者、人気商売に関わる者に襲いかかる牙は全く容赦がなく、凄惨この上ないと感じる。

 石井隆という作家を考えるとき、わたしは常に「ヤングコミック」登場時の大きな波を思い描き、その水圧や高低差がどれほどだったかを懸命に手探る。これに耐え抜き、今も泳ぎ続けているしぶとい泳ぎ手として、いまの石井を捉える。
暗礁に叩きつけられ、塩水を呑み、砂を噛む思いをどれだけしただろう。彼のドラマに常ににじみ出る苦労人のまなざしは、こういった背景に醸成されたのではなかったか。

 なにくそ、なにくそ、と懸命に水をかく石井の背中を思うと、自分も負けられないという気持ちが自然と湧いてくる。そういう息の長い作家を偶然知ることが出来たことは、私たちにとって何よりの幸せであるように思う。

(*1):「闇への憧れ―所詮、死ぬまでの《ヒマツブシ》」 実相寺昭雄  創世記  1977
(*2): 「鉄腕アトムの歌が聞こえる ~手塚治虫とその時代~」 橋本一郎 少年画報社 2015 ウェブで知己を得た手塚ファンがいて、彼の書き込みから著者の経歴と本の内容を教わった。これを読んでくれていたら、感謝です。教えてくれてどうも有り難う。
(*3): 「ヤングコミック・レジェンド 上村一夫表紙画大全集」 少年画報社 2015


2015年12月13日日曜日

"女優ふたり”


 随分前の話になるのだけれど、電車のなかで女優と出会った。いや、会ったなんて大層なものではない、単に目にしたというのが正しい。

 記録しておいた訳ではないのだけれど、それが何年の何月かははっきり分かる。天井から垂れた中刷り広告が目に止まって、長い時間眺めていたからだ。文藝春秋の「ノーサイド」という雑誌の1994年(平成3年)十月号のそれは、「戦後が似合う映画女優」という特集が組まれており、モノクロの写真に赤い題字が鮮やかな表紙であり、また広告であった。写真には桂木洋子と若山セツ子がぴたりと頬を寄せ、腕を回して互いの肩を抱くという異様な親密さを示して写っている。ほんの数日前にこの号は購入済だったから、発売日の9月中旬であったのは間違いない。

 展示会を観に来たのだったか、商談が目的だったのか、その辺はすっかり忘れてしまった。初秋の午後、陽射しはほどほど在って車内を淡く染めていた。用が済んで東京駅の方角へ電車はごとごとと進んでいたのだったが、何度も途中の駅で快速に乗り換えることが出来たにかかわらず、茫漠とした思いのまま鈍行に揺られ続けた。自分が用済みの男、つまらない奴という気がしきりにして、弱くなったこころが人恋しさを募らせた。つやつやした頬っぺたを触れ合わせた若い姿に惹き寄せられたのは、それが理由のひとつだ。白い歯を見せる女たちに慰撫されながら、ずいぶんと見入っていたように思う。

 電車はだから、所要に追われる人の姿がすっかり消え失せてしまい、がらがらを越えて貸し切り状態なのだった。実際車両には私を含めて三人しか居らなかった。非日常の繭にくるまれ、白昼夢の只中を電車はゆっくり進んでいく。その只中で寂然として「映画女優」の広告を飽くことなく見上げる私の様子は、はた目にはかなり奇異に映ったかもしれないが、その女性客は斜向いの席からじっとこちらをうかがっていたのだった。

 彼女の連れは細面の紳士で、並んで座っていたのはゆらめく広告のほぼ真下の席だったのだけど、まさかこちらに視線を注いでいるとはまったく思わない。いくらか慌てたが、別に泣いていたのでもなく、また、こちらの頭の中まで覗かれるとは思えないので平静を保つことはできた。視線を交わして後、改めてこの一組の男女の様子を見てみれば両者とも黒の礼服であり、おんなは着物姿であって、その物腰から弔いの為に移動中なのだと知れる。そのうちおんなは、わたしの顔と頭上の広告とにかわるがわる目をやり始めたのだった。一度ではない、二度、三度とそれを不自然に繰り返す。いくらか細めた目の奥で黒い瞳が悪戯っ子のように光っていた。

 頭の回転がよろしくない私が無反応であるので、おんなは隣の男に顔を寄せて何事かを囁いた。流れる車窓の風景から顔を反らすことなく男は何事かを返す。(気付かないのかしら)(いい加減に止めときなさい)そんな会話と思われた。おんなはそれを受け入れ、男と同じように背筋をしゃんと伸ばして車窓を見つめることに努め、もはや私を視界から締め出した。彼女が誰であるかにようやく気付き、そのことに心底驚いたのは東京駅で乗り換えた特急列車の車中であった。

 計算してみると、そのとき七十歳を越えていただろう。今にしてウェブで検索すると、調度その時期、彼女といっしょに働き、何本か共演した男優が亡くなっている。たぶん葬儀の席を微妙に外しての、ひそやかな弔問の帰り途だったのではあるまいか。

 この老女(と書いているが、老いを連想させぬ装いだった)が蟄息の末に遂には伝説となった元女優の某(なにがし)であった証拠はなく、とんまな私の単なる思い込みであるかもしれないが、それでもそんな事があって以来、わたしの中で女優という存在は地に足を付けた人間、幼な子に似たお茶目で可愛いおんなという位置付けにとどまっている。持ち上げたりする気持ちが湧かない分、当然ながら胸の内が灼熱と化することもなく、それが淋しい気がしなくはないのだけれど、別方向に時おり感情が決壊する。彼女たちが選択した職種の残酷で熾烈なことに思いを馳せ、大変だな、と同情的に捉えてしまう。

 思うに女優という存在は憧憬や畏敬の念を無闇に抱かれ、どうも神格化されやすい。その分、醜聞が立って評判を落とすと皆のこころにみるみる反撥する気持ちが湧いてしまい、義心は一気呵成に膨れ上がる。罵詈雑言を浴びせ掛ける事態へと発展することも少なくない。特にウェブではこれが加速し、苛烈を極めていく。

 第三者の校閲を要さず、奔放な発信を可能とし、その瞬発力と利便性に誰もが甘い愉悦を覚えるウェブなのだけど、時にこれが想像を越えた巨大な黒い波と化して一個人とその家族を打ち負かすことになる訳だから、本当に怖い道具だ。自重というシフトレバーを常に頭の隅に準備しておらないと不味いことになるな、と、最近の一連の、上に書いたのとは別の女優Kをめぐる騒動を見ながら感じている。

 ひとりのおんなが身を挺して偶像役を引き受けるその陰で、興行にたずさわる数多の男女が生きる糧をようやく得ていく流れなのだが、はげしい攻撃にさらされる渦中にあっては守ることどころか手を差し伸ばすことも困難で、石打ちにもよく似た、無惨この上ない私刑染みた景色が延々と続いてしまう。結局、孤立無援に陥るのであって、なんとも哀しい世の定めかと思う。

 わたしは芸能世界に身を置いてはいないし、身近にそれを生業とする者もいない。けれどもこのぐらいの年齢ともなれば、女優の誰それと知人の某が縁戚にあるとか、最近デビューした何々は近所のあの家の娘だとか聞こえてくるようになり、彼らが純金製のつくりには到底見えなくなる。懸命に鍍金(めっき)を施した同じ人間なのであって、綺麗に装う時間は極々限られ、他の部分を占める生活模様なり思考回路はそんなには私たちと違わない。夢のない話であるが、それが正しい距離と姿と思う。

 神とあがめたり単純な類別にぬかるむことなく、冷静に見取らなければ駄目だ。“自らと異なる者”という安直な壁づくりに堕することなく、それこそ同じ町内の八百屋さん、魚屋さんのご内儀ぐらいに思っているのが正解なのだ。目線を低くするという意味ではなくって、対等に向き合うということ。そう考えれば、汚れた言葉は自ずと呑み込まれ、唇はふんわりと閉じられるのではないか。

 都心の電車内での不思議な出会いから二十一年が経過してしまい、その間に幾重もの禍福をわたしは体験し、人並みに脛(すね)に傷をこしらえた。人間は誰もが弱く、聖人君子でいる訳にはいかない。間違いも犯すし、取り返しのつかない失敗も起こす。それらを黒い年輪として重ねるより道はないのだし、個人的には傷痕や轍(わだち)を全く負わぬまま悠然と過ごす人はどうかな、大丈夫かな、とも思う。むしろ哀しみの淵に追いやられ、涙の河に手を挿し入れてすくい、これを呑み干し、かろうじて生き長らえている人の方に親近感を抱いてしまう。過ちを糾弾し、正義を叫ぶ資格を少なくともこの私は持たない。

 Kよ、おんなたちよ、沈黙する声なき励ましに耳を澄ませ、膝折ることなく歩んでほしい。同じ時間の流れを泳ぐ同輩として、落胆せずに、元気に人生の遡上を続けられることを心から祈っている。