2014年11月15日土曜日

“正気を超えたもの”~石井隆の雨について(1)~



 人の眼球は、紙面や銀幕に写し込まれた肉体なり表情を注視するべく作られている。思い出の井戸で釣瓶をたぐれば、かつて目撃したおんなたち、男たちの見目かたちが引き寄せられるのであって、大概のところ背景は二の次だ。石井作品の鑑賞時も例外ではなく、目は役者たちの風貌や体躯に釘付けとなる。

 『黒の天使vol.1』(1998)での整髪されて甘く煙るような根津甚八の頭部や、鍛えられておらないがゆえにもったりとして行き惑って見える『ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う』(2010)の竹中直人の腕やら腹、『甘い鞭』(2013)における伊藤洋三郎の眼窩まわりの異様に力んだ感じや、屋敷紘子の皮膚にせり出した骨のおうとつ、それに『ヌードの夜』(1993)の余貴美子のぬめって光る白目なんかが脳裏を駆けめぐる。『花と蛇』(2004)で驚いてきょとんとする杉本彩の八の字眉や、獣のように咆哮する『人が人を愛することのどうしようもなさ』(2007)の喜多嶋舞の犬歯なんかも輪郭あざやかに蘇える。劇画も同様であって、うつむく名美の横顔や村木の硬い背中を、そして、彼らの深く重なっていく様子を誰もがおそらくは思い返す。

 彼ら美丈夫、伊達女に舌鼓を打ち、ああ十分に堪能した、ごちそうさまと告げて席を立っても良いのだけれど、出来るならひと呼吸を置き、審美眼をはたらかせて周辺を見渡したいところだ。石井の差し出す料理は実に精緻だ。余韻を湛えて、客のまなざしに長く応える。改めて皿の文様、色調に目を凝らそう。そうして調理人の秘めた作意や術を玩読し、そこに到った時間すべてを愛でる心の還流を愉しみたい。

 先にあげた【おんなの街】シリーズの一篇【赤い蜉蝣(かげろう)】(1980)の背景のひとつ、断崖や海原の描写にからめて言葉を継ぐならば、石井の描く自然描写には単なる舞台設定の域を超えた“不自然さ”が数多く視とめられる。定型を突き抜け、石井ならではの差配が及んで“背景が演じている”局面にあって、劇評をする上で到底無視できないコマが含まれる。言葉だけでは説明しにくい点もあるから他の漫画家作品の背景描写をいくつかここでは並べ置き、それを足掛りにして石井劇画の、ひいては石井映画の背景の“不自然さ”につき考えてみよう。

 断崖絶壁とおんなという絵柄は決して珍しくないから、書棚から幾冊か手にとってめくれば似たような場面を見つけるのは容易い。たとえば、つのだじろうの短篇【暗い海の香織】(1970)には、銀座でホステスとして働くおんなが身を投げようと夜の海辺を訪れる場面がある。(*1) 岩礁に波が砕け、白い飛沫をけたたましく宙に飛ばす荒海が見開きいっぱいに広がっている。おんなの表情は左隅のコマに小さく押し込まれ、とても窮屈そうだ。海の猛々しさに眉を曇らせ、頬に一筋の涙を流すと唇を結んで天を仰いでいく。観念したおんなは、そっとその場を後にするのだった。

 夜の海はおんなの胸中とは無関係な“他者”としてうねり狂い、一切を寄せ付けようとはしない。思えば私たちの日頃から接する海というのは、実際そのような“他者”の動静ではなかろうか。波のかたちも風の強弱も、昼夜や季節の気温差に応じて千変万化する自然現象に過ぎない。そこに集う動植物にしても、こちらの思惟とは関係なく生きて、まるで勝手に蠢いている。それに対して石井の背景描写というのは登場人物の胸中を投影するかのごとく面立ちを急変させ、雲の色や波の動きまでを変幻させる。実際の景色とは明らかに違っている。

 楳図かずおの【洗礼】(1974)には、海辺がこの“他者であること”を表現したくだりがある。 おんながひどく傷心し、おぼつかない足取りで浜辺へと降り立つ。沖には鳥の群れが飛び交い、クワークワー、ギーギーと滑稽な声で鳴いている。空は青々と晴れ渡り、おだやかな海原がはるか彼方まで広がるのだったひとしきり泣いた後でおんなは自分を袖にした男を恨み、その妻を烈しく憎んでいく──そんな描写になっている。ふと見ると、足元の岩に小さな波がぶつかり音を立てている。作者はその小波のザザッ、ザザ、ザパーンという音と動きを間欠的に、ことさら執拗に取り上げるのだが、それはおんなの心に異常な振幅が生じたことを読者に体感させる添え木とするためだ。一見のどかな海辺を丹念に見渡し、探し求め、ようやくおんなの心境と同調する陰鬱な小波の音にたどり着いたことが丁寧に説かれている。

 自然描写のまるごと全てが人物のこころを代弁する、そのような事は通常ありえない。構成される物は無数で、それぞれが趣きの異なる“他者の群れ”である訳だし、私たちの視線は絶えず移動を続けては次から次に隣接する事象、たとえば灯台、水族館、防潮堤、磯辺の小動物、汚い漂着物などに対峙し、個別の反応を強いられるからだ。その度にこころは色彩や紋様を変えていく。最終的に小波の重複へと至る【洗礼】の描写は、こころと共振するごとく見える限定的な自然現象に焦点を絞り、その音や動きをことさら誇張することで激しい効果を生んでいるのであって、これは写実ではなく編集上の技巧と呼んでよい。無理矢理に視線をねじまげ、おんなのこころと景色の一部を強引に結束させている。

 石井の劇というのは【赤い蜉蝣】に限らず、ときに淫雨に包まれたり、奇怪な洞穴へと導かれていき、さながら世界全体が独りのおんなの心象風景と化す勢いなのだけど、その局所的とは言い難い大きなスケールの変容というのは、だから写実でもなければ技巧的な視線の結束でもなく、これは何かと言えば、“正気(まとも)ではない景色”が突如噴出している、そのように認識すべきだろう。石井はそれを連綿と、飽くことなく描き繋いでいる。

 次に引くのは石井が敬愛して止まぬ手塚治虫なのだが、手塚の描く背景画と石井のそれは、誰の目にも隔たりがあるように見える。単にタッチが違うというだけではなく、登場人物の心情からの距離が違う。【アラバスター】(1970)の幕開きは海に面した別荘で始まっているが、そこで吹く風というのはその典型でまるで情感を付帯しない。

 女優がひとり、別荘番を雇って暮らしている。かつて彼女に玩(もてあそ)ばれ捨てられた男が復讐鬼と化し、そこを急襲するのだった。別荘番を脅して賊が内部に侵入して間もなく、散歩からおんなが戻ってくる。風が吹き寄せ、コートのベルトをなびかせる。強い向かい風はこれからおんなの身に起こるだろう困難さを予感させ、読み手の気持ちを緊張させる。前のコマにはおんなが草むらを上ってくる様子が低いアングルで描かれていて、別荘の全景も取り込まれてあるが、その時の天空は気味の悪いまだら模様があるだけで風は描き込まれていない。突如、時空を裂くように吹いておんなに立ち向かってくる風は、だから一種の危険シグナルとして手塚の筆先から発せられた人為的なものであり、この点のみを解釈すれば人間の精神と直結した、どこか霊験的な現象にも思われる。

 しかし、実際のコマを冷静に直視すれば、平行線で描かれた手塚の風は意識を持たぬ、人間の内実をまったく慮らない気流の表現に過ぎないと分かるのだし、また、おんなの周囲と密接に絡むことなく、ひどく遠巻きにして吹き降ろされてもいる。確かにコートのベルトは後方に幾らかなびいているが、おんなの髪や姿勢、それに表情も、屋内空間での様子と全く変わらない。つまりここで描かれた風は登場人物と一切関係を持たない存在であるのだし、当然ながらおんなの心象風景とも重ならない。

 かつて一世を風靡したものの今は凋落した女優の、その哀しさと心細さを想起させる風景とはなっていない。そのような手塚の無機的な風や雨の描線は、食い足りない印象を覚えはするが、これが現実の風というやつではなかろうか。ここのところ急激に気温が下がり、吹く風がやたら意識されるのだけど、私たちはそんな風のいちいちに個別の憎悪や悔恨、自己憐憫を視止めはしない。風は風に過ぎない。(*3)

 石井隆のそれは性状が異なる。心情によって変幻する“正気とは思われぬ風景”の噴出が石井隆の背景描写には確かにあって、そこでは風や雨が不自然なかたちで顕現する。人の内部から放射されたものゆえに、それらは遠巻きにするのでなく、人物と隙間を埋めるように近接していく。

 そこで起きるのは生理現象との明らかな乖離である。本来、私たちは風もそうだが、特に雨に降られた時、これを不快に感じて逃げようとするのだし、眉を寄せ、目を細めて防御の姿勢を取る。雨滴が粘膜に触れるのは不安を覚えるものだし、目に入れば沁みて厭なものだ。私たちは風や雨を遠ざけるのが普通であるのに、劇中で目撃する石井の雨や風はその逆であったりする。その点でも極めて特異であると思う。

 水木しげるの【コケカキイキイ】(1970)の冒頭では、風雨に晒され、行く手を水たまりに阻まれ、息も絶え絶えのおんなが描かれている。地べたに倒れ、ぼろ雑巾と化してなお、「生きたい、生きたい」と必死に這い進む。膨大な数の妖怪や精霊を描き、アニミズム(汎霊説)に則った物語を編んで見える水木であるのだが、厳しい戦中の体験に裏打ちされているのか、体温を奪い、疾病を招く風雨の描写は苛烈を極める。おんなに襲い掛かる雨と風の非情さには、自然と人間は時に敵対するという実感が込められている。(*4)

 上村一夫(かみむらかずお)の代表作【同棲時代】(1972)の挿話のひとつに、人と雨の間合いを丹念に描いた一篇がある。道路の雨だまりに車が突っ込み、跳ね散らかした泥水を少女が傘で必死に避けようとする。防ぎ切れずに泥だらけになる少女が、憤然として虚空を睨むのが印象深い。日常を過ごす上で時に避けがたい雨の日の不快さをスライドさせた表現であり、水木の描写と同様に道理に適ったものだ。(*5) 

 もうひとり、安彦良和(やすひこよしかず)を並べ置こう。安彦はアニメーターとして活躍する一方、漫画作品にも果敢に挑戦している。人間の身体が劇中対置された敵やその武具の突然の動き、そして、雷や雨の急襲に対してどのように反射し、次にどのような動きに繋がっていくかを思案し続ける立場にある。したがって人物の喜怒哀楽を四肢の微細な動きに託す技量を具えていて、その漫画作品のひとコマひとコマに置かれた人間の手足、表情にしても微妙に位置や面影を変えていくのだった。能弁とも言えるし、やや表現過剰とも思えるが、いずれにしてもその描画は私たちの日常に通じる一瞬が写し取られている。

 たとえば【ジャンヌ Jeanne】(1995)で、主人公が皇軍への資金供出の交渉役を担い、ジル・ド・レー男爵の城に数名でおもむく。錬金術と男色に溺れた男爵は男装の主人公に目をつけ、部下に命じて罠にかけようとするのだった。雨降る中庭へおびき寄せられたおんなの背後から覆面をかぶった大男が襲い掛かる。このときおんなは雨を避けて右手を額のあたり掲げているのだし、眉はぎゅっと寄せられ、瞼にも緊張が加わって雨の目に入るのを防ごうとしている。(*6)

 また別の場面では、至近距離に落雷を受け、その白光のただ中にジャンヌ・ダルクの火刑される一瞬のイメージを見てしまった王太子がその奇蹟に打ち負かされ、自らが権力闘争に敗れた事実を受け入れる。雨が降りしきっている。男泣きする王太子は横にいるおんなに対して雨が目に入ったと言い訳するのだが、その顔は雨に打たれてくしゃくしゃに歪み、目を固くつむっていくのだった。(*7)

 このように、私たちの胸中におかまいなしに攻撃を仕掛けてくる雨と、それを防御する身体反射の双方が合わさって降雨の表現が完遂するのが常であるが、石井の劇の場合には不自然なことに身体を保護する方向へと反応しない。頭頂部から足先までをぐちゃりと濡らし、雨足が顔面を叩いたとしても、石井のおんなたちはそれがまるで無いように、はたまた雨ではない別種のものが飛来したような素振りで佇むのである。不快さをにじませる事もない。

 かつて評論家の権藤晋(ごんどうすすむ)は、石井の作品を“死者の書”と称して私たちの度肝を抜いたのだったが(*8)、この“正気とは思われぬ風や雨”と生来あるべき反射を示さぬ石井のおんなたちの身体、艶然と雨に濡れるがままになっても平気な姿というのは、確かに“死者”の物腰に通じるところがある。【紫陽花の咲く頃】(1976)や『ヌードの夜』のポスター画などを見つめていると、どこかに持っていかれそうな気分になりはしないか。狂人や死者の視点に立った景色を、私たちは繰り返し示されているのではないか。物語を綴るように見せて石井は、物語の域をはるかに超えた、もの怖ろしい描写へと踏み入っている。


(*1):「シリーズ女たちの詩1 玲子の歩いた道」(1999 さくら出版)所載 18-19頁 
(*2):【洗礼】 楳図かずお 1974 小学館文庫 第三巻 78-83頁 楳図は日常の死角に尋常ならざる事態をそっと潜ませたり、徐々に平穏な風景が乖離を来たして暗黒の祭事空間へとすり替わっていく恐怖を描くことを得意としている。それゆえに楳図は、景色やそれを構成する事象につき入念に観察し、自作にすり込んでは象眼を施す術にひと一倍長けた作家となった。彼の背景は石井とはやや性格を異にするが、劇に占める比重は近しい。
(*3):【アラバスター】 手塚治虫 1970 手塚治虫漫画全集 講談社 第一巻 48-49頁 アシスタントを多用して、自身は主線(おもせん)に力を注いだことも幾らか影響していると思われるが、環境に対する諦観のようなものも手塚の劇空間全体を色濃く覆っていて、それが背景描写を定型化させたと読み取っている。地球規模の、はたまた宇宙的な大変動の前に滅びゆく人間社会の断末魔を数限りなく手塚は描いたのだったが、そのような巨大な変節には至らぬ小さな騒動を含め、自然の前で人間は為すすべなく非力であることを作者は最初から認め、白旗を掲げている。自然は非情で容赦がない。膝を折り涙する人間にお構いなしに風は吹き、火は駆け、病魔が流行する。
(*4):【コケカキイキイ】 水木しげる 1970 「畏悦録~水木しげるの世界~」1994 角川ホラー文庫所載 280頁
(*5):【同棲時代】 上村一夫 1972 アクションコミックス 双葉社 第二巻 「VOL.18 ふしぎな女」126頁 雨は情欲を搔き立て、寂然とした風情に人を酔わせ続ける。上村はその特性を利用して恋人たちの舞台をしっとりと、時にはげしく濡らすことに執念を燃やしたが、ここでの少女の災難とその後の険しい面立ちには、雨なんてものは本来厄介で煩わしく、迷惑千万の現象でしかないと断じる硬い物言いがある。それを有り難がり甘美に描くのは愚かしいという、作者の自己批判が感じ取れる。
(*6):「愛蔵版 ジャンヌ Jeanne」安彦良和 (2002 日本放送出版協会)321頁
(*7): 同 546頁     
(*8):「名美Returns―石井隆傑作集」 ワイズ出版 1993