2020年3月31日火曜日

“容易ならぬもの”


 美術館まで足を運び、工芸品に向き合う時間を持つ。柳宗悦(やなぎそうえつ)と芹沢銈介(せりざわ けいすけ)が戦後まもなくの時期に蒐集したアイヌコレクションで、数がしっかりまとまっており、配置方法もすこぶる凝っていて誠に壮観だ。(*1)

 入口で手渡されたリーフレットに柳の言葉が掲載されていて、同じ文面が展示ブースにも大きく掲げられている。雑誌「工藝」の昭和16年12月号に掲載された小文「アイヌへの見方」の一端だ。後になって工芸専門雑誌に再掲なっているのを探し出し、全部を時間かけて読んでみた。アイヌの民が自然との共生をいかに尊びながら生きたかを熱く代弁して、わずかに盲愛的にも、また、大上段に構えて感じられる文章とも幾らか感じたが、展示会での引用箇所はたいへん味わい深くて的を射た洞察となっていた。

「それは啻(ただ)に美しいのみならず、立派でさえあり、神秘でさえあり、その創造力の容易ならぬものを感じるからである。見て見厭きないばかりでなく、見れば見るほど何か新しい驚きを貰う。(中略)その美に虚偽はないのである。不誠実さはないのである。こんな驚くべき現象を今の文化人の作に見出し得るだろうか。ありとあらゆる偽瞞(ぎまん)と衒気(げんき*2)と変態とにまつわる吾々の作物と比べ、どんなに道徳的なものであろう。」

 柳の切々たる訴えを背中に受けながら、アイヌの工芸品、特に「衣服」を長く見つめていると何者かに諭されているような厳かな時間に変化する。これはどうしたことだろうと不思議に思いつつ、うっとりした気分で「衣服」と向き合う。高額の染料を使ったり、著名なデザイナーの差配を受けておらない実に素朴な品々であるのだが、逆にその分、作り手の労力や費やした時間がありありと透けて見えるようであり、加えて、実際に袖を通した人間の確かに其処に居たこと、土を踏みしめ、四季の風に抱かれて過ごし、さまざまな物思いに沈んだに違いない実在の彼らの生涯にこころが持って行かれた。妙に胸に沁み入って来て、見つめる己が瞳をじわじわと濡らすような具合となる。

 柳が誉め讃えたものは純粋に文様や素材選びの工夫であって、作り手や使用者の生きた印影を重ねてはいない。美術評論のそれが鉄則であろうことは承知もしている。観る者に感動を及ぼす秀抜なデザイン、造形の巧みさ、剛直な色彩といった物体そのものが附帯する性格についてのみ感嘆の声を上げておれば良いのであって、それ以上の事を夢想するのは勝手だけれど、それはもはや探究や評論ではなくて幼稚な感想に堕していく。わたしが抱くあやふやな気分はまさにそれで、一般人の、それも妄想癖のひどい個人の半端な感傷に過ぎない。

 だけど、どうしても身に纏った「ひと」へと想いが次から次に弾んでしまって止まらない。「美しいのみならず、立派でさえあり、神秘でさえあり、その創造力の容易ならぬものを感じる」という柳の礼讃を目で追えば、いかにも豪奢で輝く衣装が浮んで来そうだが、実際は至極地味でささやかな造作であるところが逆に連想を誘ったように思われる。

 頭の奥にある芯がじわじわと重さを増すような、それでいて思考自体は滞留して霞がかかるような、身近な故人の思い出に向き合うみたいにうら哀しい気持ちになる。つまり、展示物が全て「遺品」に見えて仕方なかった。葬儀に参列した後のような、観賞後に浮き立つものは多くなかったが、帰宅の道すがら展示物の印象と我が身を取り巻く記憶、そして石井隆の作品における衣服の描写を長々と反芻する時間を持った。

 石井隆という作家を考える上で、他人の発した石井作品への言及を探して読み耽る行為は欠かせない。私にとっては常習化した栄養点滴になって久しいが、世間を騒然とさせた初期の石井劇画群への反応を思い起こせば、そこに「衣服」描写に関する言及が目立って多かったと記憶する。大概は肌着についてのそれであり、薄い綿素材の布地が肉体の凹凸に沿ってぴたりと貼り付き、またはぐいぐいっと喰い込み、艶かしい大小の襞(ひだ)を作っていく、そんな精密描画に興奮を隠せない発言であった。

 どこか発育がおかしかったのだろう、私はといえば、思春期にもかかわらずコートやワンピースといったどちらかと言えば上着の方に目が奪われてならなかった。異性の肌や肉体の構造、柔らかな輪郭に魅力を覚えなかった訳ではないのだが、現実世界でそういった物をまじまじと見る機会が無かったことから圧倒的に経験値が乏しく、どうやらそれが原因して迫真力を内部に喚起しなかったようである。

 駅に向かう雑踏に混じって歩き、その後に乗った電車にがたがた揺られながら、真横に立っている、それとも、前の席に茫洋と座っている現実の女性たちのコートとスカート、ロングブーツといった上着の輪郭や質感が脳裏に焼き付き、それと石井の劇画の細部が強く結線していくことの方が度々だった。

 石井の画業を年数ごとに分割し、第一期、第二期とか、赤の時代、青の時代といった風に綿密に体系付けてはまだいないのだが、厖大な数の取材写真に基づくハイパーリアリズムに舵を修正した辺りからの「衣服描写」は、いま見ても陶然とさせられる仕上がりである。私を含む多くの読者が石井隆の描くおんなの実在をそれにより信じ、彼女たちを通じて世界を見直すように仕向けられた。ほとんど隙間なく石井の絵と現実は連結していき、読み手の思考を支配した。そんな時期を確かに過ごしている。

 上述の通りで晩熟(おくて)だったものだから、石井劇画を共に楽しんで意見を交わすおんなの友達は身近にいなかった。石井が劇画で選んだ服や化粧道具が高級品なのかどうか、まるで判断がつかない。しかし、石井がおんなたちに任じた役柄なりコマの背景を埋める住宅の諸相から推考するならば、素朴なもの、庶民の手が届く範疇の既製品と思われた。それを身に纏うおんなたちが男社会で歯を食いしばって闘っているように見え、健気に思え、哀しくも愛らしくも感じられた。目線をフラットに保てたから、知らず知らずに感情移入をしていき、要するに恋に染まったみたいになって、醒めながら終始どうにも気になってばかりいた。微熱を帯びながら、いつまでも酩酊しつづけた。

 柳のアイヌ工芸賛歌が脳内に響き渡り、展示品の衣服に自分の目が釘付けになったのは、私の奥まったところに深く鋭く浸透した石井隆のまなざし、世界へと絶えず注がれる低位置からの視線とどこか共振したからだ。他人から見たら緊急入院が似合いの危機的状況かもしれないけれど、貴重で嬉しい連結の一瞬だった。

 「石井の劇の装飾に虚偽はなく、不誠実さもなく、偽瞞(ぎまん)と衒気(げんき)もない。底辺に息づく劇は、それが性愛の地獄までも垣間見せても、どこか道徳的な空気さえ感じ与える。」柳の文章は私のなかでたちまち石井への賛辞へと変換した。「ただ美しいのみならず、立派であり、見て見厭きないばかりでなく、見れば見るほど何か新しい驚きを貰う。石井隆という作り手の容易ならぬものを感じる。」世辞ではなく、本当にそう思う。

 そうだ、石井の劇とは「工芸」ではなかろうか。もとより「工芸品」と巷で総称される木彫りや織物を身骨砕いて作っている訳ではないのだが、実用性を重視して産み落とされた無数の物象「道具たち、衣服たち」が完璧に記録されている。衣食住の面貌を徹底してコマに移し替えながら、「現実と見まがう世界」を創出せんとして精魂を傾けていったその末に「日常」が差し出される。使い手のおんなや男が寄り添って描かれているから、「道具たち、衣服たち」は体温を帯びて脈動さえ刻んで感じられる。劇中での「物」の立ち位置が他の作家のそれと大きく違っていて、端役に過ぎないはずの衣小が確かな重心をともなってこころに迫り来る。

 展示されたアイヌの衣服を不遜にも「遺品」と先に書いた。柳たちが蒐集した時点から八十年程も経過しつつあるから、そんな乱暴な表現もきっと許されると信じたいのだが、その捉え方は石井の劇画を面前とした際の独特の淋しさ、沈降する感懐として、一切の摩擦なく綺麗に連なるように思う。作品のなかで着ていたあのコートやブラウス、唇よせたコーヒーカップ、手のひらから手のひらへと渡されていったあのライター、あの口紅、あの櫛。間違いなく在った物たち。今はどうなっているのだろう。どこかにひっそりと仕舞われているのだろうか、それとも消耗し尽くして土に戻ってしまったか。

 このような妄想を包容し得るのが石井劇画の凄みだ。コラージュされ、編集されているから、現世をそのまま複写している訳では当然ないが、画面を埋め尽くす要素に真実がしっかりと寄り添う。他から大きく抜きん出た方術であり、今もって観る者を捕りこんで離さない。

(*1):「アイヌの美しき手仕事 柳宗悦と芹沢銈介のコレクションから 令和元年度アイヌ工芸品展」宮城県立美術館
(*2): げんき【衒気】自分の才能・学識などを見せびらかし、自慢したがる気持ち

2020年3月8日日曜日

“私度僧”~生死に触れる言葉(10)~

 石井隆の著した台本を手に持って頁を手繰れば、そこに決まって宗教用語がぽんぽんと爆ぜ、たちまち抹香臭い展開になる訳ではもちろんない。先に引いた台詞やト書きは石井の作歴のなかでは異例とも言える部位であって、ここまで赤裸々に生死に触れる言葉が盛り付けられる事は普段なら無いのだ。しかしその分、登用された語句の端々には良い意味での“不自然”が発酵するようであり、強靭なる思考の澱(おり)が潜んで感じられる。

 強靭といっても世間にありがちなイメージのごり押しはなく、むしろ読み手から見過ごされる点にこそ特徴がある。どれもが至って蛋白で、いくらか不稔(ふねん)の面持ちである。読者へもたらす効果が薄い、つまり技巧が劣っているのでは当然なくって、それこそが作者の観点、まなざしに沿うからだ。

 『ヌードの夜』(1993)で「屈葬」と形容された男の遺体はいつまで経っても埋葬されことなく、それでいてドタバタ喜劇に陥ることもなく、メロドラマの険しくもうつくしい尾根に踏みとどまって愛するおんなに纏わり続ける。『人が人を愛することのどうしようもなさ』(2007)は「憑かれたように」まなじりを決し雄叫びをあげながらも、閉鎖的な思考回路の奥深くに沈滞していくばかりで熱気をはらむ祭祀空間へと展開して行かない。

 『月下の蘭』(1991)で耳をかすめる生死をめぐる諺(ことわざ)は誤って理解されて十分に機能することなく、『花と蛇』(2004)や『死霊の罠』(1988)で繰り返される磔刑図の再現は中軸に居座る聖人へは焦点を結ばず、むしろ視線は拡散し、また痛々しい傷口へと意識は集中していき、型に嵌(は)まった畏敬とはまるで違った思索の萌芽がもたらされる。「この世ではお目に掛かれない」景色は終ぞ約束されることなく、他者による徹底した侵犯を経て、痛みと哀しみと共にやって来る。

 連ねて読めば瞭然たるものがある。あな嬉しや、めでたいめでたい、それとも、あな怖ろし、くわばらくわばらだろうか、そんな露骨な奇蹟の明示と反応へと大見得を切る展開は用意されない。たとえば恋情の終局に置かれて苦悶する恋人同士が息をころして対峙する小部屋に夕陽が射し込み、雨戸の隙間から十字架状の亀裂を壁に投影することで原罪を安易に刻印するような、はたまた拷問部屋のガラス窓に一瞬十字架が現われて、それを目撃した男がひどくたじろいでしまい、捕らえて来たおんなへの凌辱を逡巡してしまうとか、そういった凡庸な描写に漂着することはない。ト書きや台詞の宗教的響きと劇中の現実との間に一種の「噛み合わせの悪さ」が忍び寄り、劇中に空洞を穿つというか、虚しさやもどかしさをむしろ積極的に温存させるべく筆を尽くして感じられる。

 此処に浮かび上がるのは、やはり圧倒的な大いなる聖性の不在である。何がしかの救済の要素が劇中に無いとまでは書かないが、石井の劇で救済の手を差し出す主体が神仏や宗教では決してない点は再度強調しても構うまい。大いなる聖性は実在する、そう思った瞬間に大切なものを見限ることになる、人間を描き切れなくなる、という頑強な諦観と覚悟が見え隠れする。

 私事で締めくくるのは構成上お粗末とは思うけれど、先日とある食事会でひとりの僧侶の間近に座る機会があった。さまざまな方角に話が弾んだ末に、ほんのりと酔った、いや、酔ったふりをしていたのが本当かもしれないが、彼の口からひそかに漏れ出た言葉があった。今もって自坊の教義を信じ切れない自分がいる、それなのに檀家に向けて説法するのがつらい、早く誰かに洗脳してもらえないものだろうか、と、声量を抑えた囁きが唇からほとばしり、うつむく顔面が戸惑いの色に重く染まっていく。

 その時、わたしは彼のことを信じられると感じた。神仏を認め切れない人だからこそ、わたしは彼のささやく説法に今後も耳を傾け続けられるように思う。石井隆も結論を神の御手(みて)に預けず、思索を放棄しない、そういう生真面目な私度僧(しどそう)のひとりなのだと勝手に捉えている。

2020年3月1日日曜日

“この世では”と“まれびと”~生死に触れる言葉(9)~



 『花と蛇』(2004)には「この世ではお目に掛かれない」という台詞が登場する。異なる登場人物から別々に発せられており、そこには作り手石井隆の固執した想いが透けて見える。

森田「この世では滅多にお目に掛かれない物に囲まれて過ごしておられる、
   先生自体が稀人(まれびと)なんですよ。」(*1)

ピエロ「ショーを観にいらしてるんだよ、政財会や芸能界とかのセレブの
    皆さまが日々の疲れを癒しにね。だからこの世では一生掛かっても
    お目に掛かれない面白いショーをプレゼンしたいの。」(*2)

 「この世ではお目に掛かれない」という形容は多くが誉め言葉として用いられ、程度があまりに甚だしくて現実のものと思われない物を指す場面が一般的だ。肯定的に捉えれば、甘くかぐわしい快楽の渦につつまれて五感をふわふわと果てなく慰められる、あたかも桃源郷の魅惑的な場面が浮んでくるが、よくよく字面を眺めれば「現世では見ることが許されない、生命あるうちは拝めない」という事だから、剣呑な性格がその背後にくっ付いている。悪く考えればたちまち照明はバチンと音立てて暗くなり、辺りは血なまぐさい悪臭に一気に覆われる。

 既にこの映画を観終えている私たちは銀幕を彩る残虐な性愛地獄を記憶に刻んでいるから、「この世ではお目に掛かれない」という表現の背後に忌まわしい腐臭を当然ながら嗅いでしまう。すなわち、甘美で生きている実感をもたらすもの、上昇指向の明るい絵柄ではなく、おぞましい景色を即座に思い起こす。さらには超自然的な影響の作用する薄気味悪いもの、怪異なもの、それとも状況が極めて悲惨なさまをあれこれ連想し、死屍累々の、生き地獄のような奈落の底と思考の奥で結び付いていく。

 石井が起用されたのは主演女優からの直々の指名と言われているが、その期待に応えようとして石井は演出に臨んで照明にこだわり、衣小に心血を注ぎ、カメラアングルを工夫して女優を「この世ではお目に掛かれない」艶やかな姿態と表情へと導き、映像へと見事に定着させてはいるのだが、内実は死人の群がる地獄絵図となっている。

 手元にある別の作品『月下の蘭』(1991)の台本を手繰ってみれば、「この世ではお目に掛かれない」によく似たト書きが見つかった。「妖艶で悪魔的ですらある蘭の姿は、この世の物とは思えない美しさだ。」(*3)この世の物とは思えないという表現はもちろん世にありきたりであるし、石井の手癖とこれを捉えて読み流すことも可能であるが、改めて考えてみれば『月下の蘭』という物語の骨格は『花と蛇』とまるで同じである。蘭という名の売り出し中のアイドルが暴力組織に貸し出され、そこで政界の黒幕たる男の玩具にされるのだった。

 物語の展開を近しい『月下の蘭』が『花と蛇』の血筋にあたるとすれば、ここでの「この世の物とは思えない」という表現は一過性のものではなく、同じ目的で登用されたと捉えた方が自然ではあるまいか。
 
 救出のため向かった男の前に、捨て置かれた粗末なベッドに横たわる娘の姿があったのだが、絶え間ない陵辱により魂の臨界を越えたものか、それとも薬でも投与されたのか、茫洋とした動作と口調でぼそぼそ返答しながら横臥するその様子は既に異界のおんなの雰囲気であり、男は顔色をうしない凍りついてしまう。間に合わなかった、遅かったのである。その光景を称して石井は「この世の物とは思えない」と書いている。

 つまり、石井隆にとって「この世ではお目に掛かれない」「この世の物とは思えない」とは、かくも徹底して忌まわしさと哀しさがこびりついた形容であって、
「この世」と「あの世」を今すぐにもまたぎ得る容易ならざる局面、死線すれすれの危機的な状況に置かれたときに噴き上がる形容なのである。心底から美しいものとは、実は死とべったりと近接しており、いわゆる健全さや平穏な日常とは隔たったものではないか、と石井は捉えている。

 さて、『花と蛇』と『死霊の罠』(1988)が相似する構造を持ち、その類似箇所をまるで床面に点々とする血痕を辿るように読み解くことで両作と石井隆の劇の一面を探ろうとしている訳だが、上述の台詞にあったように「この世ではお目に掛かれない」物を蒐集する田代老人(石橋蓮司)は「まれびと」であるらしい。こちらが「まれびと」と称されるならば、もう一方『死霊の罠』の死線すれすれの廃墟に居つく奇怪な兄弟ヒデキもまた「まれびと」の位置付けとなるだろう。

「まれびと」とは一体何か。『花と蛇』に突如出現したこの形容は何を言いたいのだろう。興味を覚え、何度か此処でも触れてもいるのだが、正直今もってよく分からない。博物館に足を伸ばし、書籍をひもといたりもした。自然とこの響きに磁力を覚える日々を送っている。

 我が国には「まれびと(来訪神)」を村人が演じる祭祀が各地にあり、これを精力的に取材した石川直樹(いしかわなおき)の写真集が昨秋発売されて書店の棚を華々しく飾っている。書名はそのまま「まれびと」であり、発売後、直ぐに手に持って目を通している。石川の写真は一見に値するが、巻末に収められた伊藤俊治(いとうとしはる)の解説もまた面白かった。伊藤は牙剥く仮面や威圧的な棒を振り回す異相に対して恐怖し、交信の不可能性を嗅ぎ取った上で人間にあらざる神を強く想っている。

「このような異形の神々は、神が人と同形ではないことを明確に表明している。人を恐れさせ、狂気に満ち、決して人間化されることのない猛貌の神々として出現するのだ。その臨在を人間が最初に認識し始めた頃の神の原初的形態は、人々に安らぎや幸せをもたらすような形姿を持っていない。逆に人間に戦慄を与え、畏怖の念を起こさせ、この世に暴力的に介入し、侵犯し、荒ぶる霊性を振りまく存在として姿を現わす。」(*4)

 これはまさにヒデキのことを述べているようではないか。蛭子(ヒルコ)神とも嬰子(えいし)とも見える猛貌の霊性。あれは確かに「まれびと」的な造形だった。このように連想することは間違いだろうか。

 石川の写真は禍々しい祭神、決して人間化されることのない神々と同時に、きわめて人間臭いところも併行して捕らえていて、村人が代わる代わる演じ続けてきた長い歳月と祈りの日々の精神的土壌も滲み出てくる。多重露光なった素の部分、衣装を纏った村人の素朴な姿からわたしの脳裏で連結されるのは、今度は『花と蛇』の方のまれびと、田代老人の身体的な弱弱しさ、神ならざる等身大の人間のなれの果てである。

 超自然的な影響の作用する怪異な存在、『死霊の罠』のヒデキを私たちは化け物、特殊撮影の作り物と捉えては、くわばらくわばらと生理的に向こうへと押しやり、真っ当な思考回路を持つ存在として見たり考えたりはしなかったが、『花と蛇』と『死霊の罠』両作の血管をつなげて(作家性の強い石井作品群にだけは許されるし、むしろそうすべきと考える、)託された囁きを推理しながら再度味わい直すことで、まるで違った感懐に至ることが可能となる。

 両作を往還して徐々に誘われいく次の思索は、石井隆の作品に時おり出現するまれびとの発生に何がかかわり、そんな彼らは異界の者であるのか、それとも私たちの側にいるのか。彼らは主人公を脅す役割だけのいわば脇役なのか、それとも石井のまなざしが熱く長く降り注いでいく人間なのか、という問い掛けである。こちらに関しては後述する。

(*1):『花と蛇』準備稿 シーン番号19 遠山の社長室(時間経過の同夕)
(*2): 同       シーン番号58 円型コロシアム(時間経過)  
(*3):『月下の蘭』決定稿 シーン番号66 ホール状のペントハウス
(*4):「まれびと」 石川直樹 小学館 2019 242頁 伊藤俊治「異界を纏う/写真、仮面、憑依」