2020年3月8日日曜日

“私度僧”~生死に触れる言葉(10)~

 石井隆の著した台本を手に持って頁を手繰れば、そこに決まって宗教用語がぽんぽんと爆ぜ、たちまち抹香臭い展開になる訳ではもちろんない。先に引いた台詞やト書きは石井の作歴のなかでは異例とも言える部位であって、ここまで赤裸々に生死に触れる言葉が盛り付けられる事は普段なら無いのだ。しかしその分、登用された語句の端々には良い意味での“不自然”が発酵するようであり、強靭なる思考の澱(おり)が潜んで感じられる。

 強靭といっても世間にありがちなイメージのごり押しはなく、むしろ読み手から見過ごされる点にこそ特徴がある。どれもが至って蛋白で、いくらか不稔(ふねん)の面持ちである。読者へもたらす効果が薄い、つまり技巧が劣っているのでは当然なくって、それこそが作者の観点、まなざしに沿うからだ。

 『ヌードの夜』(1993)で「屈葬」と形容された男の遺体はいつまで経っても埋葬されことなく、それでいてドタバタ喜劇に陥ることもなく、メロドラマの険しくもうつくしい尾根に踏みとどまって愛するおんなに纏わり続ける。『人が人を愛することのどうしようもなさ』(2007)は「憑かれたように」まなじりを決し雄叫びをあげながらも、閉鎖的な思考回路の奥深くに沈滞していくばかりで熱気をはらむ祭祀空間へと展開して行かない。

 『月下の蘭』(1991)で耳をかすめる生死をめぐる諺(ことわざ)は誤って理解されて十分に機能することなく、『花と蛇』(2004)や『死霊の罠』(1988)で繰り返される磔刑図の再現は中軸に居座る聖人へは焦点を結ばず、むしろ視線は拡散し、また痛々しい傷口へと意識は集中していき、型に嵌(は)まった畏敬とはまるで違った思索の萌芽がもたらされる。「この世ではお目に掛かれない」景色は終ぞ約束されることなく、他者による徹底した侵犯を経て、痛みと哀しみと共にやって来る。

 連ねて読めば瞭然たるものがある。あな嬉しや、めでたいめでたい、それとも、あな怖ろし、くわばらくわばらだろうか、そんな露骨な奇蹟の明示と反応へと大見得を切る展開は用意されない。たとえば恋情の終局に置かれて苦悶する恋人同士が息をころして対峙する小部屋に夕陽が射し込み、雨戸の隙間から十字架状の亀裂を壁に投影することで原罪を安易に刻印するような、はたまた拷問部屋のガラス窓に一瞬十字架が現われて、それを目撃した男がひどくたじろいでしまい、捕らえて来たおんなへの凌辱を逡巡してしまうとか、そういった凡庸な描写に漂着することはない。ト書きや台詞の宗教的響きと劇中の現実との間に一種の「噛み合わせの悪さ」が忍び寄り、劇中に空洞を穿つというか、虚しさやもどかしさをむしろ積極的に温存させるべく筆を尽くして感じられる。

 此処に浮かび上がるのは、やはり圧倒的な大いなる聖性の不在である。何がしかの救済の要素が劇中に無いとまでは書かないが、石井の劇で救済の手を差し出す主体が神仏や宗教では決してない点は再度強調しても構うまい。大いなる聖性は実在する、そう思った瞬間に大切なものを見限ることになる、人間を描き切れなくなる、という頑強な諦観と覚悟が見え隠れする。

 私事で締めくくるのは構成上お粗末とは思うけれど、先日とある食事会でひとりの僧侶の間近に座る機会があった。さまざまな方角に話が弾んだ末に、ほんのりと酔った、いや、酔ったふりをしていたのが本当かもしれないが、彼の口からひそかに漏れ出た言葉があった。今もって自坊の教義を信じ切れない自分がいる、それなのに檀家に向けて説法するのがつらい、早く誰かに洗脳してもらえないものだろうか、と、声量を抑えた囁きが唇からほとばしり、うつむく顔面が戸惑いの色に重く染まっていく。

 その時、わたしは彼のことを信じられると感じた。神仏を認め切れない人だからこそ、わたしは彼のささやく説法に今後も耳を傾け続けられるように思う。石井隆も結論を神の御手(みて)に預けず、思索を放棄しない、そういう生真面目な私度僧(しどそう)のひとりなのだと勝手に捉えている。

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