2020年8月29日土曜日

“腕時計を外す日” ~石井隆の時空構成(9)~

 


 劇画であれ映画であれ、石井隆の作品のよく知られる特徴として物狂おしい「反復」がある。セルフパロディと揶揄する声も出てくるが、もちろん的を射た読解ではない。人物造形、場面設定、雨と血潮、肌の露出といった骨格をもってまるで同じ内容と捉えるのは早計過ぎるし、あまつさえ石井の創作力の枯渇を疑うのは愚の骨頂だろう。世間に対して己の観察眼のはなはだ凡庸たる面を宣言するに等しい。

 一見同じ物語と見せてどこかが違っていること、そして、読み手に容易に悟られないように「さりげなさ」を装うこと。石井劇の反復はそういう繊細な作業だ。むしろ、そんな目立たないディテール作りにこそ石井は心血を注いで見える。先行作品と遅れて発表された別の作品について、両者が正続の立ち位置になること、パラレルワールドにあることを明言せず、本人と担当編集者の胸にこの深い企みを仕舞い込んで、さらりと何事もないように誌面に載せていく。

 たとえば【紫陽花の咲く頃】(1976)と【花の下にて】(1989)という二篇の発表年は離れていて、実に13年の段差がある。細部はあえて並べないが、両者は幾つもの要素を筋交(すじか)いと為して強く接合する。掲載雑誌を初めてめくって【花の下にて】に対峙した時の愛読者の衝撃は大きく、大袈裟な言い方ではなく私などは腰を抜かさんばかりであった。

 肝要とすべきは、先行作品について石井が完黙のまま突き進んでいる点だ。【紫陽花の咲く頃】の既読者が何人いようといまいと、そして、二篇の連結に気付く者がいようといまいと関係ない。十三年の歳月を付かず離れずに追走する評論家やファンといった分かる者が幾たりかいれば良いし、仮に誰もが分からぬままでも一向に差し支えないというスタンスである。

 個別の劇として完結しているので誰も違和感を覚えることなく、ああ面白かった、ああ色っぽかった、ああ石井隆のドラマだったな、とパタンと頁を閉じてほとんどがお終いとなる。それで結構だよ、喜んでもらえただろうか、と、微笑みつつ世間のざわめきを遠目で窺うだけなのだ。

 石井作品によって読み手は選別され、作品から発せられる反射光の強弱なり物語の色彩が違えるよう設計されている。もしも貴方が石井隆という作家を本気で読み込む覚悟ならば、好奇心の焔を消さないように絶えず己のこころに風を送り続け、地道に粘り強く作品群を凝視めていく必要がある。

 このような人知れず為される「跳躍」と「連結」を繰り返し目の当たりにすれば、それが偶然の産物でもセルフパロディでもなくって、石井の創作の軸心となっている事が自然と了解されるのである。蓮の浮かぶ池を来る日も来る日も描き続け、歳月や千変万化する光をあまねく画布へと刻み付けたひとりの画家の行為とどこか通底するもの、畏怖すべき創作者の姿勢を垣間見せる。

 さて、時計をめぐる軌道へと舞い戻れば、私たちは初期の劇画【緋のあえぎ】(1975)と【紫陽花の咲く頃】(1976)をここで念入りに比較せねばなるまい。上述の言葉を繰り返せば、人物の造形、場面設定、肌の露出といった骨格を同じくし、「まるで同じ内容」と捉える者が出て来て当然の非常に似た面立ちになっている。

 勤め帰りのおんなが登場する。小さな駅に降り立って自宅へ急ぐおんなは、おどろおどろしい路地や造成地を果敢に横断しようと試みる。草むらには見ず知らずの男が野獣のごとく潜んでおり、何も知らずに通過した直後、おんなは襲われて性的暴行に遭うという話である。

 例によって両者が束になることで読者に問い掛ける言葉がより増すのだが、今は焦点をしぼり、腕時計の描写に関してのみ瞳を凝らそう。【緋のあえぎ】の発表は雑誌の11月11日号、そして【紫陽花の咲く頃】は5月12日号であるからほぼ同時期、半年程度の短い間に描かれている。それなのにどうだろう、前者のおんなは腕時計をはめており、後者の手首からは跡形もなく消滅しているではないか。石井が腕時計という衣装・小道具を意図して控えるようになったまさに転換点が明示されている。劇的に消失している、言い換えれば腕時計の「不在」を描くように変わったのだ。

 腕時計を肌身離さずにいて暴行を受ける【緋のあえぎ】のおんなは、傷心を抱えて自宅に戻り、わが身に降りかかった忌まわしい記憶と対峙するうちに事件の細部を幾度も頭のなかで再生しては己の身体を傷め付ける行為へと捕縛されてしまう。劇の当初は無垢で陽気な、出来たての陶磁器のようなすべすべした印象の面相に、やがて烈しいもの、強(こわ)いものが徐々に注入されていき、明け方を過ぎた頃には目の下に暗い隈(くま)を作り、凄絶な光を瞳に宿すようになる。休日の昼間となってボーイフレンドがのこのこ訪れるのだったが、何も知らない呑気なその背中を重くぬめ光る目でおんなが見やっている場面で【緋のあえぎ】は幕を下ろす。

 体躯の小ぶりなところに付け込まれ、一方的に弱者と決め付けられて理不尽に餌食となり、性的玩具へおとしめられた一個の人間が描かれている。そして、暗穴に一旦は放り込まれながら、裏階段を登ってようよう這い上がり、ざらざらとして荒ぶる意識を獲得して男という生き物に対等に抗い得るに至った魂の道程が描かれている。

 印象深いのが腕時計の行方である。おんなは自室で腕時計を外してかたわらに置いているのだったが、独り悶々と先の性暴力を再現し、自身をしつこく傷め付けながらいつしか鮮血がにじみ、赤い飛沫は周囲に勢いよく飛んで、腕時計にびちゃりと着滴している。

 石井隆の劇における鮮血をどのように捉えるべきか、いまの私はまだ分からない。そんな簡単に語れるモティーフではあるまい。石井の血に触れるのはまだ先の、きっと生を終える間際ではなかろうか。しかし、「腕時計」についてはまだどうにか言葉を続けられそうだ。

 哺乳動物が自身の尿で領地を宣言するように、また、「唾を付ける」という言葉が言い表すように、私たちは体内のさまざまな液体を分身と位置づけ、これを他者へと注いでアピールする。性愛に限らず育児の時間においても体液の交換をごくごく自然なこととして実行し、理詰めでなく本能の領域で素直に受け止める。【緋のあえぎ】の血液は愛情表現ではないにしても、一種の到達・占領表現、峠に置かれた道標として描かれたと思われる。

 その上で、なぜ【緋のあえぎ】以降の石井劇画でおんなの腕時計の不在が常態化していくのか。この事実を反芻するとき、そこには漠然とした気分ではなく、決然とした何かしら硬いものが石井から読者に提示されたと解釈して構うまい。

 忌まわしい記憶に呑まれるのではなく、逆に呑み込むに至ったおんなである。血で腕時計を洗い、その瞬間に「時間」を丸ごと封殺したとも読み取れる。個別でありながら「連続性」を持つ石井隆の劇において、一度外した腕時計が次からの作品に見当たらなくなるのは不思議ではない。おんなは「時間」を封じ込めながら生き続けたのだ。

 また、男社会の象徴にして性暴力場面の尖兵たる腕時計という小道具をおのれの腕から剥ぎ取り、そ知らぬ顔を装いながらも心は鎧装 ( がいそう ) 陣羽織 ( じんばおり )の勇ましさ、さながら戦旗を隠したレジスタンスの一員となって男社会に再突入したと言えなくもない。

 実際、【緋のあえぎ】の終幕でおんなのアパートを訪れるボーイフレンド再登場のコマのひとつ目は、ご丁寧にも腕時計をにやけた顔で覗くバストショットであるのだし、次のコマは手土産のケーキか何かが入った小箱を下げた左手のクローズアップとなるのだが、ここにも腕時計が明確に描かれる。腕時計を外したおんなの元に、腕時計をちゃらちゃら巻いた呑気な「敵」がやって来る図式はきわめて対照的であり、作為に満ちた展開となっている。

 読者は誤解する権利を持つ、と著名な評論家は述べる。【緋のあえぎ】を最終的にどのように読み解くかはそれぞれの自由だ。確かなのは石井劇画のおんなたちが戦場に降り立つとき、腕時計を衣装・小道具から外すことが倣(なら)いとなり、それは単なる見映えの問題ではないという事である。「不在さえ描いていく」石井隆という恐るべき作家は、腕時計の無い手首を創出しているのであって、「その不在を介して劇を見つめること」が(一部の熱心な)読者には求められる。

 一見難解な局面を過去何度も通過して来た石井劇画。その航跡をこうして再読していくことは、作家石井隆を解明する上で有益と考えている。

2020年8月14日金曜日

“腕時計に関する意識” ~石井隆の時空構成(8)~

 


 腕時計が【黒の天使】(1981)に在るのを思い出せたのは、記憶力のたまものというよりも、魚の小骨がのどに刺さるがごとく嚥下を阻んで私の内部に居ついたせいだ。石井隆の劇画作品においておんなの腕に時計を見ることは極めて稀なので、違和感をずっと抱いたまま過ごして来た。

 先述のように男の手首にそれを視とめる瞬間はすこぶる多くて、たとえば【赤い教室】(1976)の回想場面において、乱暴されるおんな教師の肢体を複数の不良男子の腕が押さえ付ける描写では、男側の腕に揃いも揃って腕時計がきっちり締められていてざらついた印象を読み手に残していく。

 そこには男性を描く上でのシンボリックな役割が託されているのは疑いようがない。【赤い教室】では運動具置き場、他の作品ではホテルの小部屋だったり草むらといった場処で大した考えもなく偶然に腕にはめられていたのではなく、演出家である石井が作為的に着装させたと見るべきだ。

 そもそも腕時計という道具は「地位」や「社会的優位性」を周囲に示すディスプレイとして機能しており、それゆえに過剰な装飾性や稀少性が喜ばれ、これにともない示される高額な値札に少なからず人は魅入られて行動を束縛される。実用性を越えた役割を担ってうまく付け入り、この瞬間も大型の蝶々のように面前を行き交っている。一方、「地位」や「社会的優位性」を相手に叩き込もうと意図し、且つ、周辺に明示する最も原始的で安直な、それゆえ根絶されることなく世に溢れ続ける蛮行が強制的な性交であり、本人の同意を待たない婚姻である。

 【赤い教室】のコマに代表される性暴力と男の腕時計の共棲は単なる偶然ではなく、男性が女性を貶めて優位に立とうとする社会的構図を意図的に増幅して、相当な筆圧で誌面に刻んだ結果なのだ。

 仮に男の腕時計が劇中に多発する様子を石井が作為をもって描いたのならば、では、その逆におんなの手首にネックレスや手錠があっても腕時計がほとんど見当たらない現象も意図的な描写であろうか。

 調査会社が2018年に行なったアンケートの結果を読むと、女性は男性と比べて腕時計の着装率はかなり下回っているのが分かる。女性の22.4%が「腕時計は持っていない」と回答し、24.8%が「腕時計は持っているが、つけない」と回答している。腕時計の所有者に、では一体どのような場面で着けるかを複数回答で問いたところ、「外出するときはいつでも」が33.9%、「仕事のとき」が23.7%で、男性と比してかなり低い数字となっている。(*1)

 このように女性は、男性と比べて腕時計を重宝することなく、「地位」や「社会的優位性」を周囲に示すディスプレイを別な事象(鞄や衣装)へ託している様子である。【赤い教室】に代表される石井劇画が次々に発表された時期と、上のアンケートの実施年には段差があるにしても、この男女差はかつても今もそう変わらないように思われる。では、石井隆のおんなが腕時計を着装しないことは全く無理からぬ成り行きであって、どこにも「不自然な箇所」は見当たぬと捉えてよいか。男とくらべて女性全般が腕時計をしない、だから、石井劇画の作品中にも特段の意図なく、「至極自然な流れで描かれなかった」と言えるだろうか。

 石井劇画においてそのおんなたちが纏う腕時計の出現率はいちいちカウントするまでもなく、上のアンケート数値と著しく乖離して異常に少ない。かなり頑固、潔癖症かと思えるぐらいに彼女たちは腕時計の拘束を嫌い、劇中で使用しない。ハイパーリアリズムを誇る劇画でありながら「不自然」といっても差し支えないぐらい、石井のおんなは腕時計を拒絶している。

 手首の細さ、しなやかな腕を誇張する目的で、視線の邪魔をする腕時計を外させているものだろうか。臀部や長い髪、化粧といった類いの強烈さはそなえないにしても、女性のひじから指先への流れるラインは「性別信号」として男の目には優しく映る。これを台無しにする腕時計を絵師独自の美学が見咎め、強引に外させている可能性はゼロではない。いやいや、そんな表層的な話ではなかろう。石井内部の何かしらの論理か働いてコントラスト鮮やかに描き分けているのは間違いないように思われる。石井が「不在さえ描く」、そんな底知れぬ創り手であることを忘れてはならない。

(*1):株式会社プラネット「Vol.87 腕時計に関する意識調査 2018.06.08」調査期間 2018年4月20日~5月11日 女性1428名を対象に実施
https://www.planet-van.co.jp/shiru/from_planet/vol87.html

2020年8月10日月曜日

“ありふれた小道具” ~石井隆の時空構成(7)~

 

 漫画で時計の描写に突き当たるたびにいちいち歩みを止め、そのコマに作為なり深甚なる思念を嗅ぎ取ろうとする行為というのは、妄想狂の馬鹿げた奇癖以外の何物でもない。到底つき合っておれぬと匙投げる御仁もおられるだろう。

 たとえば自宅の書棚、同居する家族がおれば彼等のそれでも良いのだが、その前にしばし立って数冊なんでも良いからマンガ書籍を抜き出し、頁をぺらぺらとめくってみれば良い。諸星大二郎の【マッドメン】(1975-82)のような特殊な設定、未開の原生林なり古代中国の黄土を舞台にした作品でもない限り、数冊に一箇所の割合で時計は目に飛び込み、主人公の意識に楔(くさび)を打ち込んでその行動を駆り立てている。アナログ、デジタルと形状は様ざまであるが、現実の写し絵たるマンガの日常に時計たちはくまなく浸透してドラマの普遍的なスパイスとなっている。

 我が家で直ぐに見つかった二作をここで例示すれば、ひとつはつのだじろう、もうひとつは東村アキコの作品内に時計の描写がある。つのだの短篇【あるムシリ物語】(*1)は金に困ったフーテンの娘が主人公の軽妙な作品だ。男に売春を持ちかけ、その実、相手の隙をついて財布を盗もうと目論む娘だったが、ホテルの部屋で男は性的な行為を求めるのではなく、睡眠薬入りのビールを娘に呑ませて眠らせるのだった。その間にホテルの窓から外に忍び出て、目指す家屋へ急ぐのである。男の方こそが本格的な窃盗犯であり、アリバイづくりに娘との一夜を利用したのだ。

 布団を掛けられ独りぼっちで寝かされていた娘がふと飛び起き、部屋に据えられていた時計を見ると明け方近く4時を過ぎたところである。はて自分はどうしたのか戸惑うのだったが、物音がしたので再び寝たふりをしていると窓が開いて男がのっそりと室内に戻ってくるのが見える。ここでは時計の描写に焦点を絞るのでその後の展開は割愛するが、このように時計は私たちの住居環境の古くからの住人であり、さも当然という顔付きで居座っている。

 東村の【かくかくしかじか】(2012-15 *2)は彼女が漫画家としてデビューするに至るまでの歳月を回想形式で描いた自伝的作品で、絵画教室の日高という恩師との交差する時間を喜劇として、時に切々たる調子で丁寧に彫り上げていく。紆余曲折のなかで東村は、一旦親の決めた就職先に席を置くことになるのだったが、カタギの商売の常として早朝枕元の目覚まし時計に叩き起こされている。

 時計の出没する現代劇というのはありふれた存在であり、ある意味合いにおいて凡庸な描写とさえ感じられる。大概の場合、読者の視線は時計のディテールを楽しむ方向には行かず、登場人物の内部に湧き起こる感情の起伏を自らの経験に沿って推察し、さらに共振を深めていくことに夢中なのであって、正直時計はどうでも良いのである。必要な描写とは思っても格別引きずるものはない。

 石井隆の劇画のなかにも当然ながら時計はあって、【黒の天使】(1981)の冒頭では腕時計をめぐる描写が見つかる。闇組織の新入りである若いおんなが腕時計を眺めて、敵地に潜入しているリーダー格のおんなの身を案じ、遅いなぁ…大丈夫かなぁとつぶやいている。このひとコマを描いている石井に特別な想いがあるとは考えにくいし、我々読者も流し読みして構わないだろう。すこぶる「自然な」描写だからだ。

 このように小道具としての時計は、時限爆弾に結線されていれば別物だが、通常の状態、つまり本来の使役にあるならマンガの劇空間に特別の興趣(きょうしゅ)を添えるものではない。そう、本来ならば。

(*1):「あるムシリ物語」 つのだじろう 「女たちの詩SERIES③ 造花の枯れる時」 秋田書店 所載 1989 227頁 目次下に1972年から1975年に「プレイコミック」に掲載された作品とあるが発表年の詳細不明                        

(*2):「かくかくしかじか」 第3巻 東村アキコ 集英社 2014 66頁