2020年8月14日金曜日

“腕時計に関する意識” ~石井隆の時空構成(8)~

 


 腕時計が【黒の天使】(1981)に在るのを思い出せたのは、記憶力のたまものというよりも、魚の小骨がのどに刺さるがごとく嚥下を阻んで私の内部に居ついたせいだ。石井隆の劇画作品においておんなの腕に時計を見ることは極めて稀なので、違和感をずっと抱いたまま過ごして来た。

 先述のように男の手首にそれを視とめる瞬間はすこぶる多くて、たとえば【赤い教室】(1976)の回想場面において、乱暴されるおんな教師の肢体を複数の不良男子の腕が押さえ付ける描写では、男側の腕に揃いも揃って腕時計がきっちり締められていてざらついた印象を読み手に残していく。

 そこには男性を描く上でのシンボリックな役割が託されているのは疑いようがない。【赤い教室】では運動具置き場、他の作品ではホテルの小部屋だったり草むらといった場処で大した考えもなく偶然に腕にはめられていたのではなく、演出家である石井が作為的に着装させたと見るべきだ。

 そもそも腕時計という道具は「地位」や「社会的優位性」を周囲に示すディスプレイとして機能しており、それゆえに過剰な装飾性や稀少性が喜ばれ、これにともない示される高額な値札に少なからず人は魅入られて行動を束縛される。実用性を越えた役割を担ってうまく付け入り、この瞬間も大型の蝶々のように面前を行き交っている。一方、「地位」や「社会的優位性」を相手に叩き込もうと意図し、且つ、周辺に明示する最も原始的で安直な、それゆえ根絶されることなく世に溢れ続ける蛮行が強制的な性交であり、本人の同意を待たない婚姻である。

 【赤い教室】のコマに代表される性暴力と男の腕時計の共棲は単なる偶然ではなく、男性が女性を貶めて優位に立とうとする社会的構図を意図的に増幅して、相当な筆圧で誌面に刻んだ結果なのだ。

 仮に男の腕時計が劇中に多発する様子を石井が作為をもって描いたのならば、では、その逆におんなの手首にネックレスや手錠があっても腕時計がほとんど見当たらない現象も意図的な描写であろうか。

 調査会社が2018年に行なったアンケートの結果を読むと、女性は男性と比べて腕時計の着装率はかなり下回っているのが分かる。女性の22.4%が「腕時計は持っていない」と回答し、24.8%が「腕時計は持っているが、つけない」と回答している。腕時計の所有者に、では一体どのような場面で着けるかを複数回答で問いたところ、「外出するときはいつでも」が33.9%、「仕事のとき」が23.7%で、男性と比してかなり低い数字となっている。(*1)

 このように女性は、男性と比べて腕時計を重宝することなく、「地位」や「社会的優位性」を周囲に示すディスプレイを別な事象(鞄や衣装)へ託している様子である。【赤い教室】に代表される石井劇画が次々に発表された時期と、上のアンケートの実施年には段差があるにしても、この男女差はかつても今もそう変わらないように思われる。では、石井隆のおんなが腕時計を着装しないことは全く無理からぬ成り行きであって、どこにも「不自然な箇所」は見当たぬと捉えてよいか。男とくらべて女性全般が腕時計をしない、だから、石井劇画の作品中にも特段の意図なく、「至極自然な流れで描かれなかった」と言えるだろうか。

 石井劇画においてそのおんなたちが纏う腕時計の出現率はいちいちカウントするまでもなく、上のアンケート数値と著しく乖離して異常に少ない。かなり頑固、潔癖症かと思えるぐらいに彼女たちは腕時計の拘束を嫌い、劇中で使用しない。ハイパーリアリズムを誇る劇画でありながら「不自然」といっても差し支えないぐらい、石井のおんなは腕時計を拒絶している。

 手首の細さ、しなやかな腕を誇張する目的で、視線の邪魔をする腕時計を外させているものだろうか。臀部や長い髪、化粧といった類いの強烈さはそなえないにしても、女性のひじから指先への流れるラインは「性別信号」として男の目には優しく映る。これを台無しにする腕時計を絵師独自の美学が見咎め、強引に外させている可能性はゼロではない。いやいや、そんな表層的な話ではなかろう。石井内部の何かしらの論理か働いてコントラスト鮮やかに描き分けているのは間違いないように思われる。石井が「不在さえ描く」、そんな底知れぬ創り手であることを忘れてはならない。

(*1):株式会社プラネット「Vol.87 腕時計に関する意識調査 2018.06.08」調査期間 2018年4月20日~5月11日 女性1428名を対象に実施
https://www.planet-van.co.jp/shiru/from_planet/vol87.html

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