2020年8月10日月曜日

“ありふれた小道具” ~石井隆の時空構成(7)~

 

 漫画で時計の描写に突き当たるたびにいちいち歩みを止め、そのコマに作為なり深甚なる思念を嗅ぎ取ろうとする行為というのは、妄想狂の馬鹿げた奇癖以外の何物でもない。到底つき合っておれぬと匙投げる御仁もおられるだろう。

 たとえば自宅の書棚、同居する家族がおれば彼等のそれでも良いのだが、その前にしばし立って数冊なんでも良いからマンガ書籍を抜き出し、頁をぺらぺらとめくってみれば良い。諸星大二郎の【マッドメン】(1975-82)のような特殊な設定、未開の原生林なり古代中国の黄土を舞台にした作品でもない限り、数冊に一箇所の割合で時計は目に飛び込み、主人公の意識に楔(くさび)を打ち込んでその行動を駆り立てている。アナログ、デジタルと形状は様ざまであるが、現実の写し絵たるマンガの日常に時計たちはくまなく浸透してドラマの普遍的なスパイスとなっている。

 我が家で直ぐに見つかった二作をここで例示すれば、ひとつはつのだじろう、もうひとつは東村アキコの作品内に時計の描写がある。つのだの短篇【あるムシリ物語】(*1)は金に困ったフーテンの娘が主人公の軽妙な作品だ。男に売春を持ちかけ、その実、相手の隙をついて財布を盗もうと目論む娘だったが、ホテルの部屋で男は性的な行為を求めるのではなく、睡眠薬入りのビールを娘に呑ませて眠らせるのだった。その間にホテルの窓から外に忍び出て、目指す家屋へ急ぐのである。男の方こそが本格的な窃盗犯であり、アリバイづくりに娘との一夜を利用したのだ。

 布団を掛けられ独りぼっちで寝かされていた娘がふと飛び起き、部屋に据えられていた時計を見ると明け方近く4時を過ぎたところである。はて自分はどうしたのか戸惑うのだったが、物音がしたので再び寝たふりをしていると窓が開いて男がのっそりと室内に戻ってくるのが見える。ここでは時計の描写に焦点を絞るのでその後の展開は割愛するが、このように時計は私たちの住居環境の古くからの住人であり、さも当然という顔付きで居座っている。

 東村の【かくかくしかじか】(2012-15 *2)は彼女が漫画家としてデビューするに至るまでの歳月を回想形式で描いた自伝的作品で、絵画教室の日高という恩師との交差する時間を喜劇として、時に切々たる調子で丁寧に彫り上げていく。紆余曲折のなかで東村は、一旦親の決めた就職先に席を置くことになるのだったが、カタギの商売の常として早朝枕元の目覚まし時計に叩き起こされている。

 時計の出没する現代劇というのはありふれた存在であり、ある意味合いにおいて凡庸な描写とさえ感じられる。大概の場合、読者の視線は時計のディテールを楽しむ方向には行かず、登場人物の内部に湧き起こる感情の起伏を自らの経験に沿って推察し、さらに共振を深めていくことに夢中なのであって、正直時計はどうでも良いのである。必要な描写とは思っても格別引きずるものはない。

 石井隆の劇画のなかにも当然ながら時計はあって、【黒の天使】(1981)の冒頭では腕時計をめぐる描写が見つかる。闇組織の新入りである若いおんなが腕時計を眺めて、敵地に潜入しているリーダー格のおんなの身を案じ、遅いなぁ…大丈夫かなぁとつぶやいている。このひとコマを描いている石井に特別な想いがあるとは考えにくいし、我々読者も流し読みして構わないだろう。すこぶる「自然な」描写だからだ。

 このように小道具としての時計は、時限爆弾に結線されていれば別物だが、通常の状態、つまり本来の使役にあるならマンガの劇空間に特別の興趣(きょうしゅ)を添えるものではない。そう、本来ならば。

(*1):「あるムシリ物語」 つのだじろう 「女たちの詩SERIES③ 造花の枯れる時」 秋田書店 所載 1989 227頁 目次下に1972年から1975年に「プレイコミック」に掲載された作品とあるが発表年の詳細不明                        

(*2):「かくかくしかじか」 第3巻 東村アキコ 集英社 2014 66頁



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