2020年4月11日土曜日

“インテリアを介して”


 最新でなく、華やかでなくても構わない。洒落た喫茶室や評判の料理屋が併設されてなくても良いし、極端な話、病院でも火葬場でも気持ちは変わらない。設計した人について何かしらの逸話を知り得る、また、その著作をひも解けるぐらいに近年の、つまりは「現代建築」と呼ばれる場処をしらべ歩くことを以前から行なっている。

 完成に至るおおよその経緯が赤の他人にも示され、実際に足を運べば目論見が成功しているか失敗したか、その結果は一目瞭然である正直言えばそんな残酷この上ない一面にも引き寄せられる。

 環境を調査し、将来の街路の変貌を予測し、陽射しや風雪を勘案して構想を固めていく。表現者としてのおのれの欲望と、依頼人の無理な願いと、常に潤沢とは限らない予算を交互に天秤にかけて、遂にえいやっと決断する。昂揚と不安を過剰な胃液のように身体の奥にたぷたぷと溜めつつ現場を指揮し、ようやく施主へと引渡した末に、本当にささやかな賛辞、もしくは、矢ぶすまさながらの嘲笑を一身に受け止めねばならない。

 繁盛する様子に知恵を授かるのはもちろんだけど、その逆の惨状を面前にしても、きっとどこかで独り耐えているだろう作り手の姿を想像しては勇気をもらう。物作りのきびしさと淋しさ、それを生業とした者の重圧と悦びを明日のこころの糧にできるから、それでついつい足が向くのだ。

 かねてから関心を寄せていたカソリック系の学舎があり、過日、幸いにも見学の許しを得た。胸弾ませて電車に飛び乗ったのだが、日頃の癖に従って、探し求めておいた一冊を鞄からいそいそと取り出し、さっそく開いて設計家の生い立ちや嗜好、哲学をむさぼるように読んでいく。訪問前にちょっとだけでも頭に入れておけば、敷地に一歩踏みこんだ瞬間に目線は絞り込まれ、また景色全体が明らんで見えてくる。その設計家鬼籍に入って久しかったが、建屋のあちこちに往時の声が残響となって宿るように感じられて、とても充実した時間を持てた。

 さて、読んだ本のなかで設計家は次のようなことを綴っていた。映画鑑賞から派生した思考の軌跡でとても興味深い内容だった。大概の設計家は競争に打ち勝って相応に名を馳せてくるに従い、どうかすると学術界の重鎮たるべく上昇志向をぐんぐんと強め、いつしか霊峰や里山、それとも欧州の祝祭空間、宗教的イコンといった重厚で無害な景色にだけ発言しがちになる。大衆娯楽の典型で、聖と邪、美と醜といった清濁を染み込ませて混沌を極める「映画」をわざわざ劇場に足を運んで観たり、公の場でそれに言及したりすることを極端に減らしがちな老建築家の群れの中にあっては、純粋というか、意外とも思える発言だった。例示された映画作品がいつの誰の何という題かは分からないが、その取りあげ方に実に柔らかな筆致を感じ取る。

 「人と人とがコミュニケーションする。その時に媒介となるものは何かというと、室内のいろいろな設え、いわゆるインテリアだ。昔、インテリアを介して人が人間的な都会の結び付きをつくり出すという筋だての映画をみたことがある。ある酒場で男女が一緒になって急激に好きになって、男の部屋に行って一緒に生活をし出すのだが、女が次第に違和感を感じてくる。その理由は、男性のインテリアが余りにも自己合一化して自分のものになっているために、そこに入りきれない。いたたまれなくなって、やがて出て行くというストーリーであった。空間の持つ力を非常に強く表現した映画だったが、事実そういうことが、私はあるのではないかと思う。」(*1)

 彼が書留めた恋愛の末路とその発火点となった室内装飾のくどさの話は、私たちの周辺にも直ぐにでも起こり得る生理現象、本能が源となった生活の宿痾と思われ、注意を喚起する言葉と思われた。「余りにも自己合一化して自分のものになる」、「恋人がそこに入りきれず、いたたまれなくなって出ていく」という展開自体は、谷崎潤一郎や楳図かずおの作品などに散見するものだから驚きは普通だが、そういう実に困った事態は往々にして誰の身にも起こり得るし、これを読むどなたかの身の上にも既に発生しているかもしれぬ。その警鐘が家をつくる建築家から為された点に興味を感じる。

 「自分の身体の延長であり、分身であり、そういう皮膚感覚まで一体化されたものが、私は本当のいい住宅だと思っている。」(*2)と次に設計家は述べていき、彼の作風と色濃く重なるように捉えたのだが、続けて補足された言葉に正直慄然とした。「住宅こそ、まさにその人のコスモロジー、宇宙であろう。そこへ他人が入ってきても、その人を感ずることはあっても、そこで生活は不可能に近いくらい排他的なものだと思う」(*3)、「その空間に他人が入り込むという段になると、大変な混乱が起こる」(*4)と記述している。

 学舎だけでなく個人住宅も請け負った著名な設計家が、住居空間の、人と人とが共棲することの難しさと怖さを赤裸々に語っている。それと同時に部屋と装飾が、自己合一、身体の延長、分身、皮膚感覚まで一体化していき、コスモロジー、宇宙へと膨張していく潜在力を説くのである。

 ひとつの仕事に邁進し、こつこつと掘り進めているうちに「人間とはなにか」という答えに辿りつく。上の内容はまさにそれかな、と思う。ごとごとと奔る列車のなかでこんな禍々しくも魅惑的な文章を目で追いながら、ふと石井隆の『ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う』(2010)を思い浮かべた。あれはまさに部屋が宇宙となり、そこへ他人が入っても、その人を感ずることはあっても、そこで生活は不可能に近いくらい排他的なものへと変貌していたという話であって、さらに怖いことに地底深くの暗渠に変幻して、家族や隣人を喰い殺すのだった。いたたまれなくなっても出て行くことさえ許されない、混乱と消滅に至る大悲劇であった。

 映画や劇画の製作現場であつらえられる建造物は、実際の居住には不適なことが大概である。石井が造る家屋はときに廃屋となり、ときにそら恐ろしい石切り場となり、出口のない死の闘技場とも化して一切の生活を阻むのだが、それでも私のなかではいずれも魅力的でこころに残る面立ちである。職種は違えど、彼もまた私にとって現代建築家の位置に君臨している。 

 先の設計家のことば「その人のコスモロジー」を突き詰めた末に立ち上がっていくもの、それが石井隆の伽藍ではあるまいか。人物造形の延長として、彼らがたたずむ空間をも至極丁寧に描き込まれている。石井の建造物は日毎夜毎においでおいでと手招きして入室を促がしてくる。道なき森を歩むように、足のつかぬ泉にたゆたうみたいにして私は再訪し続ける。
 
(*1):「装飾の復権 空間に人間性を」 内井昭蔵  彰国社 2003 44頁
(*2):同 44頁
(*3):同 44-45頁
(*4):同 45頁