2013年5月26日日曜日

“島宇宙”


 石井隆が脚本を書いた『天使のはらわた 赤い教室』(1979 曾根中生)のなかで、棘(とげ)となって胸に残るのは中盤の旅館のくだりである。石井の劇とは何だろうか、どのように凝視めたなら深度がより増して焦点が合うのか、思念を積んでいく行程で外せない景色がある。

  (『赤い教室』未観賞で読むことに抵抗を感ずる人あらば、ここで頁を閉じてもらっても構わないのだけれど)体読のために物語の輪郭に触れる必要がある。主人公は名美と雑誌編集者の村木である。暴姦された上にその仔細を8ミリフィルムに撮られ、それが世に出回って苦悶する名美(水原ゆう紀)であった。戦場に捨て置かれた負傷兵さながら、息をひそめ、顔を伏せ、身とこころをきゅうきゅうに縮こませて時間をやり過ごしている。

 事情を承知で歩み寄ってきた村木(蟹江敬三)の裏表を感じさせない態度にこころは氷解し、その熱い言葉にほだされ、安息の地をようやく得た思いで約束の公園へと足を運んだのだったが、その頃、当の頼りとする村木は編集した雑誌にからんで警察署に拘束されており、いっさいの連絡が取れないのだった。ふたつの誠実な魂に永劫の別れが迫る。公園の闇のとばりにくるまれ、雨に濡れそぼった名美の表情は次第に硬直していく。下心を抱いて声掛けして来た男の誘いに応じ、共に歩き出してしまうのだった。

 足元を突き破り、突如隆起しては当事者のみならず周囲のひとの心をも引き裂いていく、そんな出来事が日常には稀に起きる。どうしようもないこと、取り返しのつかない事が蛇のように連なって思いもしなかった現在(いま)を築いていくのであるが、そうこうして行き着く果てに過去の残像と向き合い、瞳を宙にさまよわせる静謐な時間が大概のひとに訪れる。劇に内在する痛ましさとそれがきっと共振を始めてしまうからなのだろう、『赤い教室』という作品に烈しく惹かれ、心酔する人はずいぶんと多い。

 どうにも遣る方ないそんな展開に続いて、私たちは場末の連れ込み宿に引きずり込まれ、名美と男とのかりそめの情事(というよりは交接とでも書きたくなる)の果てしなく連なるさまを目撃するはめになるのだったが、ここで男の存在を掻き消す勢いで、行為が一方的におんな側から強要されているところが刮目すべき点である。 

 男に煮え湯を呑まされ続け、自尊心を粉砕され、なんとか口角をあげて前を目指そうとした矢先にその控えめな笑顔さえも押しつぶされた流れである。名美の清楚な顔立ちの裏側は般若に変幻して、憤激にひどく歪んでいるのだった。迂闊にもそんなおんなに声掛けした男はちっぽけな生餌(いきえ)に成り果て、さんざ弄ばれた挙句にぼろ雑巾のようにやつれて床を這い回る羽目となる。

 性愛の深い淵を覗き見れば、女性と男性では身体のつくりもこころの造りも段差があって、おんながその気になりさえすれば武器や道具を手にするまでもなく男を消耗させ、激甚な病変を引き起こさせることもたやすいように(実感として)思う。行きずりの男と交合する『赤い教室』の名美は鬱憤晴らしをしているのではなく、内部に膨張してやり場に困った性欲の処理をしているのでもなくって、このおそるべき性差の実証に取り掛かっているのだろう。“被害者”の側から一転し、男を食い尽くし叩き潰す“加害者”へと変相を遂げている。以降、終幕に至るまで名美はその立ち位置を変えないし、むしろ酷薄さを増していく。人の魂の面立ちと共に劇の流れが“完全に折り返される地点”が、あの旅館のわびしい一室であった。

  『赤い教室』の構造を石井の劇画作品に探れば、それは作者自身も「自選劇画集」(創樹社 1985)や単行本「名美・イン・ブルー」(ロッキング・オン 2001)の巻末で打ち明けてもいて、三つの短篇がゆるゆると浮上し絡んでくることは世に知られたところだ。名美を襲った災厄のざらついた手ざわりは【赤い教室】(1976)の中に、映写幕に現れた姿を目にして以来こころがひどく囚われ、面影を追い求めて止まなくなる男の傾斜は【蒼い閃光】(1976)に視止められる。哀しみに狂ったおんなの独壇場となる旅館は【やめないで】(1976)から移植されており、三篇は石井の目論見にしたがって“自然なかたち”で連結を果たし、『赤い教室』という長尺の物語をなおやかに構築したように見える。


  一見そう見えるけれど、はたして本当にそうだろうか。あの展開が“自然なかたち”であったのかどうか、私は立ち止まって目を凝らしてしまうのだし、この文面を読む石井のファンにも、同様にしばし足を留めてほんの少しでいいから考えてもらいたい。

 ブルーフィルムの名美の容姿と境遇にひどく引き付けられ、おんなの救済と自身の恋着の完遂を願ってひたすら追いすがる【蒼い閃光】の(映画で登用された)前半部分は、男の目線から一方的に描かれていたのに対し、【やめないで】はおんな側に視座が据えられていて、両者の内実は全く異なるベクトルで貫かれている。つまりは“全く違う世界の見え方”がされているもの同士が接木(つぎき)されていた、ということであって、拒絶反応とまではいかないが相当の衝撃が物語の足元を揺らしていた、と捉えるべきではないのか。それが私たちを混乱させ、唖然として視線をきつく縛ったのではなかったか。石井独特の“不自然さ”が横たわっていたのではなかったか。

 名美のこころの変貌と、それと同時に劇の変相が突如、それも極めて烈しくあの宿で生じていることと、二つの短篇【蒼い閃光】と【やめないで】がバトンを繋いで物語を橋渡ししていくことは無関係ではなかろう。『赤い教室』、いや、石井世界を語る上でこの点が見過ごされてはなるまい。

 
 どのように喩(たと)えれば、腹のおさまりが良くなるだろう。それぞれの世界に同じ顔をした名美と村木がいて、各々の領域で息をし、必死に暮らしている。ともに聞き上手であるから、ある物語ではひたすら目を細め相手の言葉に耳を傾け、やさしく相槌を打ち続けるのは名美であるかもしれない。しかし、別の物語では役目が交替し、抑えていたものが決壊して、胸の奥の洞窟から風が吹き出るようにして切々とおのれの境遇を相手に語り聞かせていくのが名美となる。まるで視座の異なる恋情劇が島宇宙となって点在し、“ハイライト”が各々佇立しているのであるが、本来独立して在るそれを石井は臆することなく連結させていくのである。

 映画『赤い教室』を構成する三つの物語は、ほぼ同じ時期に石井の手を離れて世に放たれているのだけれど、単行本の初出一覧に顔を寄せて発表年月日まで書き写していけば、私が上で書いたことの意味も少しは分かってもらえるのではなかろうか。起承転結の“起”にあたる【赤い教室】は「ヤングコミック」の1976年12月22日号(*1)に掲載されていた。 “承”に相当する【蒼い閃光】は「漫画エロトピア」に二ヶ月前の同年10月26日号に発表され、さらに二ヶ月を遡って同年8月21日号の「増刊ヤングコミック」に、“転”に当たる【やめないで】が場を得ている。この点だけを見ても、三者は元来別々の流れにあったことが読み取れる。

 石井の劇とはつまり、複数の異なる視座と異なる拍子の世界が巧みに融合された(縫合と呼んでもいい)その後の全身を指すのである。群像劇ともなれば、時には繋ぐ相手(物語)が二者にとどまらずに三者、四者と連なっていくこともある。世界から世界へ移行する瞬間に“折り返し感”や“違和感”が生じるのは当然過ぎる反応であって、私たちは本能的に居心地の悪さをそこで感じ取るし、それゆえに緊張を強いられ、混乱に苛まれていく。(*2) 石井の劇特有の多層性や深度の創成にも通じる複雑な流れであって、ここに一切言及しない石井論はどこか軽く、片手落ちの印象をぬぐえない。


 いまさら何で昔の映画に言及し、くどくど訴えているのかと怪訝に思われるかもしれないが、最新作『フィギュアなあなた』(2013)においても私の目には“物語世界の縫合”が視止められるのであり、この点に触れずして到底感想文など書けない、そう思っての前置きである。

(*1):翌年1月12日号にまたいで掲載
(*2):朝は家族として、昼間は社会や組織に揉まれ、夕には人恋しさや肌恋しさを娯楽で誤魔化し、夜は内観して身悶えし、夢の中に遊んでなんとか溜飲をさげていく、そんな阿修羅像のごとき多面相の、やや分裂気味の日常を重ねる現代の私たちにとって、キメラ的な要素を内在する石井の銀幕世界というのはすぐれた鏡面となって機能を果たしているように感じられる。






2013年5月3日金曜日

『フィギュアなあなた』を観るあなたへ③


 石井隆の劇空間には、人形に耽溺していく話が見当たらない。だから、【無口なあなた】が月刊誌に掲載された当時は随分と首を傾げたものだった。廃棄されたマネキンを自宅に持ち帰り、それに語り掛け、献身することで気をまぎらわせていく孤独な若者の行為は心情的に分からないでもないけれど、石井の敷いてきたレールからは正直脱線して見えた。(*1) しかし、この作品が石井の想うところの“マンガ”を具現化したものと捉え直すなら、嚥下(えんげ)するのも容易となる。

 石井のマンガ作品【THE DEAD NEW REIKO デッド・ニュー・レイコ】(以下【レイコ】1990)に手塚治虫のアトムの遺伝子を視止めた上で、改めて【レイコ】に近接して描かれた短篇マンガ【無口なあなた】(1992)を読み返していくと、こちらも少しだけ手塚の残り香が薫るように思えてくる。(*2)

 手塚作品に見え隠れする独特の嗜好については、竹内オサムや大野晃の研究本(*3)に詳しいが、その中には人形に対する尋常ならざる執心が含まれる。マネキン人形は【地球を呑む】(1968)の挿話【アダジオ・モデラート】でも重要な役回りを果たすし、【ザ・クレーター】の一篇である【風穴】(1969)では、人目を気にせず絶えずマネキンを同伴するカーレーサーが登場する。【ばるぼら】(1973)の主人公である作家はデパートのマネキンに本気で心奪われ、精神の崩壊なる寸前で同居する娘に救われている。

 マネキンという形状にとらわれずに見渡せば、“人形愛”の類型はさらに数を増していくのだし、激しさも極まっていく。【人間昆虫記】(1970)のヒロイン十村十枝子は死んだ母親の蝋人形に甘えてすがり、【やけっぱちのマリア】(1970)の焼野矢八は自身のエクトプラズムを飲み込んだダッチワイフのために粉骨砕身して売られた喧嘩を買っていくのだったし、【火の鳥 復活編】(1970)では交通事故で脳を損傷し、復活手術を受けたレオナ・宮津がチヒロ61298というロボットに恋をし、相思相愛となった両者は魂の融合を目指して苦難の道を突き進む。代表作の【鉄腕アトム】(1952-68)にしたって、結局のところ人間がロボットを愛し切れるかどうかを問うことに終始していたと思う。

 上に掲げた手塚作品を石井が熱心に読んでいたものかどうか、世代的にも微妙なところだし、本人に問うても笑顔を返すのみで取り合わないに決まっているのだが、劇画という頸木(くびき)を自ら外した石井が敬愛する手塚の発想なり描法を思い返しながら跳躍を果たそうとするのは、流れ的にはまったくおかしくない、いや、むしろ自然であるようにわたしは思う。

 リアルであることを封じ、激情のおもむくままに筆を走らせた結果、背景は輪郭のみを残して続々と記号化したのではなかったか。のど奥に押し殺した喜怒哀楽は顔面に露呈して、マンガによくある百面相を人物に与えたのではなかったか。どちらかが破壊なるまでアンドロイド少女と同族とを戦わせ、マネキン人形には生命を与え、尽きることの無い生命の連環を大胆に想ったのではなかったか。石井は脱線したのではなく、あの時大急ぎで始発駅まで立ち戻って、夢の超特急に乗り換えたのではなかろうか。

 ウェブで公開されている颯爽として動きの早い予告編を繰り返し眺めながら、石井隆という作家の根源にある“少年マンガ”のロマンティスムが充溢していると感じる。アトムの周りで交わされていたイノセンスな台詞、荒唐無稽で弾力のある場面展開、晴れ渡る蒼空のような人間賛歌といったフィクションの無限の夢なり歓びが、結果的に『フィギュアなあなた』(2013)という作品の内で増幅され、爆発し、四方八方に放出されているのじゃないか、と勝手に想像して愉しんでいる。
 
 原作(自作であっても)を徹底的に咀嚼し、換骨奪胎していく石井の演出法はもちろん健在であろうから、意外な景色がとんでもない勢いで銀幕に拡がるかも知れぬ。劇場での鑑賞を今から心待ちにしながら、のんびりと気ままな思索に耽っている。

(*1):石井隆の世界には人形へ粘着する景色は見当たらない。フランス人形風のものを手元に置いて愛でる程度のことは、劇中それまでも散見できた。たとえば【レイコ】にしても寝具脇にアンティークドールは控えている。けれど、主人公が恋情の対象と思い定め、総身を人形に傾けていくという偏愛はどこにも見受けられない。誘拐したおんなを殺め、蝋の皮膜で覆って永久に保管しようと企てる犯罪者の狂った熱情が初期の劇画の幾篇かには描かれていたが、それは“おんな”そのものの収監を夢見るものであるから全く別次元の話だ。後年『GONIN2』(1996)において、男性恐怖症に陥ったおんなが等身大の人形を蒐集する小部屋が写されていたが、あれとて鑑賞物の域であって恋愛の相手ではなかった。
(*2):此処に展開したものは完全に私だけの妄想であって、石井隆の【無口なあなた】および、その映画化である『フィギュアなあなた』の世界観がこうだと断言するものではない。石井は何も語っていないし、この先もきっと言葉を選ぶか沈黙を守るのだろう。過日書いたように何か結線するものはないかと期待し、人形を題材とする古今東西の小説や映画を読んでみたり眺めたりする毎日なのだが、【無口なあなた】と二重写しになり、これだ、と膝を打ちたくなる古典に突き当たることはなかった。今のところ私のなかで木霊(こだま)を響かせるものは、同じく“マンガ”であるところの手塚治虫の手になる一連の作品だけなのだ。つまり、あの手この手を尽くして、私がわたし自身を納得させているに過ぎない訳であって、確たるものは何ひとつない。ゆめゆめ早合点はされぬよう、お願いします。
(*3):「手塚治虫論」 竹内オサム 平凡社 1992
   「手塚治虫 〈変容〉と〈異形〉」 大野晃 翰林書房 2000




『フィギュアなあなた』を観るあなたへ②


 ここで掲載誌の当時の状況を振り返る。以前の文章と重複するが、とても大切なところと思う。『フィギュアなあなた』(2013)の原作である短編【無口なあなた】(1992)を掲載した「ヤングコミック」は、私の世代からはひときわ輝いて見えるコミック誌の巨星である。1967年に少年画報社から創刊され、小池一夫原作【御用牙】が看板となって強く牽引した時期もあり、また、宮谷一彦、望月三起也、上村一夫、そして石井隆といった筆達者な絵師にも恵まれたことから青年劇画誌界で隆盛を誇った。しかし、栄枯盛衰は世のならい、1982年1月27日号にて突然の休刊宣言を行なってしまうのだった。

 紆余曲折あって月刊誌として再スタートしたのだったが、いつ果てるともわからない混乱と停滞感にくるまれて息切れは増すばかりで、傍目にも濁流に揺られる小船のような様相を呈した。コンビニエンスストアが地方にも乱立し、既存の書店を圧倒する商流の侵食が始まっていた。強力なその販売網に幻惑され、刹那的な“読み切り”を編集部として訴求した面がきっとあったのだろう、誌面を彩っていた連載は徐々に姿を潜め、一話完結ものに置き換わっていく。ひとつひとつの物語の隆起は自ずと低くなったし、人物描写の奥行きや陰影は極端に減って意味のない台詞ばかりが誌面に踊り、かしましさを覚えた。花冠(かかん)は次々と地に堕ちて、輝きは失われていく。百花繚乱たる時代は去ったのである。 

 石井隆の戦史もこれに倣(なら)う。1991年9月4日発売の10月号から短編の発表へと移行するが、それが九話からなる連作【カンタレッラの匣(はこ)】であったのだ。連載予告や扉絵に添えられた宣伝文は、これまでの石井のスタイルから脱却する旨を宣言している。  

「コミック深まる。男と女 そこに綾なす無数のドラマを独自の美学で貫いた緊張と興奮の一大綺想世界!巨匠のファンタジックな舞台に酔いしれるのも別のコミックの楽しみ!! コミックの壁をクリアするとネオGEKIGAの衝撃世界が!!」

 石井は掲載誌を取り巻く烈風を肌で感じ、重い鎧を自ら脱いで新しい戦端を開いたのだった。現在『フィギュアなあなた』の試写会が重ねられ、ウェブ上には石井のこれまでの映画に慣れ親しんだ参加者が上げる驚嘆の声が散見できるのだけれど、それは当然と言えば当然の成り行きなのだ。『フィギュアなあなた』を支配する洒脱な気風は、原作が【天使のはらわた】(1978-79)や【おんなの街】(1979-80)といった“石井劇画”ではなくって、上のような経緯で到達した“石井マンガ”だからだ。


 付け加えるなら『フィギュアなあなた』には、【無口なあなた】とは別のもうひとつの“マンガ”の面影が移植されている。1990年8月より約一年に渡り先行して連載されていた異色の近未来バイオレンス、【THE DEAD NEW REIKO デッド・ニュー・レイコ】(以下【レイコ】)である。このマンガの世界観が映画『フィギュアなあなた』の骨格にどこまで符合するかは知らないが、等身大フィギュア(佐々木心音 ささきここね)の面立ちは間違いなくそれである。セーラー服姿のレイコ(*1)はつるつるの人工皮膜で首から下を覆って素肌を防護しながら、強靭な意志と捨て身の戦法で親の仇を追っていくのだったが、銀幕での佐々木心音の身姿とレイコのそれは完全に重なるのである。

 (注意─石井がこのマンガに託したものを探る上で、結末に触れねばならない。)レイコの住まう世界はスラム化した高層建築に犯罪者が巣食い、異形のレプリカントが人間と混然となって暮らす未来社会であるのだが、レシーバー越しに寄越される母親の声に導かれながらレイコは、敵をもとめて廃墟ビルへの潜入を重ねるのだった。対する凶悪レプリカントは火を吹き、怪力をふるい、幻術を使い、大斧を振り上げてレイコを絶体絶命の危機に追い込む。レイコは日本刀を振りかざして彼らに立ち向かっていくのであるが、その闘いのなかで自らの出生に疑問を抱き、いつしか声を聞かせるばかりでついぞ姿を見せぬ母親との面会を渇望するようになる。

 当初は女豹さながらの鋭さを眼光に湛(たた)えていたレイコだったが、自身の生い立ちがどうやら普通でないと気付いてしまった辺りから徐々に伏目がちになる。母親の居場所を知って駆けつけたレイコを待っていたのは、水槽に浮かんだ女の生首であり、ガラスの湾曲によって巨大な影となって目に前にそびえているのだった。

 母親はレイコに対し、おまえはレプリカントである、と泡(あぶく)をゴボゴボと吹きながら言い放ち、創造者である自分への服従を厳命するのであったが、レイコの戸惑いと怒りは止まることを知らず、ひどい混沌の末に母親は暴れ狂って自身の容器を破壊し絶命してしまう。爆砕するガラスの破片はレイコをも襲い、無残にもその首をちぎり飛ばすのだった。水煙に霞んだ広間にレイコの胴体がよろよろと起き上がり、涙に頬を濡らす頭部をやさしく持ち上げるところで物語は幕を閉じている。

 劇画の緻密さ、周到さとは距離を置いた縦横無尽の視座の転換があり、マンガ本来の躍動が最後まで持続していた。奇想天外な景色の連続であるのだが、どこか懐かしい感じも受けるのを当時は不思議に感じたものだった。

 最近になってようやく気付いた事がある。それはこの【レイコ】と手塚治虫の【鉄腕アトム】(1952-68)との相似である。水槽の中にて世界を牛耳る首だけのおんなというのは、アトムのエピソードのひとつ【ゾロモンの宝石】(1967)に登場するベラロイドの女王シーラそのものであるし、主人公であるロボットの頭部が吹き飛ぶという描写は【青騎士】(1965)の終幕などで破壊されていくアトムの様子とそっくりだ。(*2)

 石井隆のインタビュウでたびたび顔をのぞかせる「手塚治虫」や「アトム」という言葉は、幼年時から多感な少年期にかけて漫画の神さまがどれだけ石井に影響を及ぼしたかを示すに止まらず、マンガらしい“マンガ”を書くことを迫られた劇画家時代の石井に強く作用した可能性を示唆する。回転し、飛び降り、天空に飛翔し、悪漢を叩き潰す、そんな『フィギュアなあなた』の佐々木心音には、だからレイコの容色と共にアトムの面影がそっと寄り添って見えるのである。

 乱暴な括(くく)りをすれば、アトムは捨て子や棄民の物語であろう。蔑視や偏見、悪用がのさばり、理不尽に鞭打たれ、用済みと宣告されては次々に廃棄されていく、そんな存在(仲間たち)にちいさな心を痛め、背中を丸めて歩く、そんなアトムのやさしさが佐々木のまなざしには宿っている。

(*1):セーラー服の少女が抜刀して悪鬼と格闘するという絵柄は、押井守が企画して制作されたアニメーション『BLOOD THE LAST VAMPIRE』(ブラッド ザ ラスト ヴァンパイア)とも似ているが、『BLOOD』は2000年の作品であった訳だから、石井の着想が10年近く先行している。
(*2):アトムの人工頭脳は胴体に収納されてあるため、頭部が破壊もしくは切り離されてもよほどの損傷がなければ歩行や会話の機能は停止しない。おのれの頭部を抱えて歩み去ろうとする苛酷すぎるレイコの末路は、アトム的な身体構造がレイコに附与されていたことを物語っている。




『フィギュアなあなた』を観るあなたへ①


 石井隆の『フィギュアなあなた』(2013)の鳴動が、ここに来てはげしさを増している。なおやかさと同時に勇胆を白き肌に裏打ちした、ヒロイン佐々木心音(ささきここね)の押し出しが楽しく、小心そうな柄本祐(えもとたすく)のときときした所作もまた可笑しい。こころを和ませて、こちらの笑顔が思わず引き出される。こんなにも停滞し切った世相にあるから、息抜きの時間を欲して劇場へと足向ける人は多かろう。

  そこには独特の映像美と語り口に惹かれる生粋の石井ファンも交じるわけだが、さて、そのうちどれ程の人がどれだけ遠い過去まで振り返り、この『フィギュアなあなた』の解釈を試みるものだろうか。承知の通り『フィギュアなあなた』には原作がある。かつて石井が雑誌に発表した短編劇画【無口なあなた】(*1)であるのだが、掲載の時期を調べ直せば1992年の2月だ。発表からかれこれ21年が経過している。今さらそんな昔の作品をがらがらと掘削(くっさく)しても、意味ないことと捉える人がほとんどだろう。

  けれど私はそのような視線の遠投が、石井世界の読み解きには有効だと信じている。“尾根(おね)の連なり”や“神経線維(シナプス)の結束”にも似た作品同士の連環や照射が、石井隆の世界には往々にして起きる。石井の作家性に言及する上でこの飛距離なり息の長さは外せないし、絶対に譲れないところだ。古い記憶をたどり、再認識すべき点はしっかりと頭に叩き込んで銀幕に臨む事は今回とて無駄ではないはずだから、そのあたりの事をよくよく吟味した上でしばし持論を広げようと思う。なお、好奇心まで殺(そ)いでしまっては本末転倒になるから、具体的な話の筋道には触れないか、もし触れても既に公式サイトに掲示なっている域を越えるつもりはない。


  【無口なあなた】は【カンタレッラの匣(はこ)】(*2)と銘打たれた短編連作のひとつで、掲載誌「ヤングコミック」には第6話(六の匣)として登場したのだったが、私には当時もいまもこの【カンタレッラの匣】が、石井世界のなかで異彩を放って瞳に映るのだ。前年に石井が発表した【THE DEAD NEW REIKO デッド・ニュー・レイコ】(1990 後ほど触れる)あたりからその変調は目立っていたのだが、長らく石井の劇画を愛読してきた者にとって【カンタレッラの匣(はこ)】は、石井劇画の決定的な転進を突きつけられる内容であった。(*3)

  【無口なあなた】を読みかえしていくと、前の方に酒場の情景が挿し込まれているのだけれど、ここも石井の描法と姿勢がいかに変化したかを物語る良い例である。上司からの罵声を浴びて消沈した若いサラリーマンが、気をまぎらわせる目的で歓楽街をさまよい歩き、とある酒場で独り盃を重ねるうちに程なく酔いつぶれる。隣席のボトルに手を伸ばして注意されたことに逆切れして、つまらぬ騒動を起こしていく。

  隣席の男との距離や卓上に散らかるグラスや皿から、若者が座るのはカウンターなのだと推察させる。正面から若者をとらえた絵の背後には、薄墨に染まる店内が描かれており、他にも数組の客があって、それぞれが酒器を傾けながら歓談している様子がうかがえる。上司や同僚にむけて噴出する憎悪と、拡大して止まらないひと恋しさ──二極の感傷が逆巻く酒舗(しゅほ)の幽暗がうまく補われており、よくある風景と大概の読者は割り切りながら次のコマを追ったはずだ。

  しかしながら、よくよくその背景画を見つめてみれば、描かれてあるのは他の客たちがカウンターに腰をおろして、揃って背中を向ける姿である訳だから、考えると眩暈にも似た不安な心持ちになるのだった。だって、こっちもあっちもカウンターって変じゃないの。若者が足を踏み入れたのは通路を挟んで手前と奥の両方の壁際に、「二」の字、はたまた「コ」の字型にカウンターを配した奇怪な間取りの店だったのだろうか。それとも先の解釈が誤っており、泥酔する若者はカウンターではなくテーブル席にいるのであって、本来ならホステスの座るべき通路側になぜか腰を下ろし、同じく通路側に腰を下ろす相席の男といさかいを起こした、という、通常ありえないことが起きたことを示す特別の景色だったのか。

  座席の位置はさておくとしても、奥の棚に並ぶ酒壜(びん)のあじきない顔といったらどうだ。渾身の筆さばきで世に送って来た細密画、例えばビールのラベルに載るひと文字ひと文字の再現に努めた、あの鬼神のごとき背景づくりは霧散して、「酒壜が並んでいる」という説明を簡略な線で示すにとどまっている。チベットの砂曼荼羅のような、あの恐るべきこだわりは一体どこに消えてしまったのだろう。

  石井の劇空間において“酒場”の多くは過去の罪との邂逅の場処であり、他者と向き合い感情を交差させ、血を酩酊させるか沸騰させていく祭壇といった趣きがあった。【天使のはらわた】(1978-79)で哲郎と名美が再会を果たす“梢”を筆頭とし、【シングルベット】(1984)、【酒場の花】(1988)、【月の砂漠】(1989)といった作品の光景がすぐに頭に浮かぶのだし、『天使のはらわた 赤い眩暈』(1988)や『ヌードの夜』(1993)といった映画作品であっても、その場所の湿度と温度はたいへんに高く、憧憬や憐憫といった剥き出しの感情がはらはらと交錯した。

  人のこころを鋼(はがね)に鍛えて顔を能面に変化(へんげ)させもしたし、逆に弱い部分をまさぐって、深く、甘く慰撫するところがあった。どうしようもなく訪れてしまう人生の転機の道標として働きもして、ドラマの渦潮(うずしお)がひそかに底流し、漂う紫煙の奥で出番の来るのを上目遣いに待っていると予感させる場処だった。【無口なあなた】の酒場では、もはやドラマは発現しない。おだやかに弛緩を手招く会話もなければ、後悔の念も膨らまない。物語を展開する上で必要な“酔い”をただ単に注入する装置として置かれていて、そこに名美が腰かける椅子はない。

  簡略化された記号となって提示された酒壜(びん)が象徴するように、また、間取りもまるで分からぬ曖昧な空間が人物を包みこむことが証左するように、従来の石井劇画から離脱した、つまり、私たちがよく見知った“マンガ”の口上に従って【無口なあなた】は描かれた、と解釈してきっと良いのだろう。石井は自身を呪縛する劇画のスタイルを壊して、“マンガ”をここで描こうとしたのは明らかである。

(*1):「カンタレッラの匣」 ロッキング・オン 2000 所載
(*2): 1991年9月4日発売の「ヤングコミック」10月号から掲載開始
(*3):最も分かりやすい変貌がおんな(名美に代表される)の顔の描かれ方であり、これまで目にしたことがない険しい表情を読者に見せて衝撃があった。飛び上がらんばかりに驚いた私は、その点を延々と文章(*4)に書き綴って動揺を抑えようとしたほどだ。また、石井隆のお家芸であり、林静一からは“ハイパーリアリズム”と称された精密描写がほんの少し手控えられ、その分だけ弾力や復元力を世界が獲得していたように思う。主人公の設定年齢が低く抑えられているのも特徴のひとつで、石井の伸びやかで闊達な描線は彼らの内部に派生する抑えの利かぬ、鉄板で油の飛び跳ねるがごとき欲情や焦燥、寂しさ、躁鬱、反撥といった生臭い息を上手く表現し、勢いよくほとばしらせて誌面を覆って見えた。
(*4): http://mixi.jp/view_diary.pl?id=218039166&owner_id=3993869