2021年9月5日日曜日

“何処から来たのか、何時から居たのか”  ~石井隆の鳥たち(4)~


  映画『GONIN2』(1996)は複数の登場人物がぐねぐねと絡み合う構造で、「あらすじ」という題目で縮約するのは難しい。夜空を彩る花火が様ざまな元素から成り立っているのと似ている。リチウム、ナトリウム、カルシウム、銅、リンといった物質が盛んに燃えながら放射状に広がっていく様子を見て、私たちは一輪の花を連想するのであるが、内実はばらばらで、悲鳴を上げながら散り散りとなって燃え朽ちる物質の群れなす姿である。明滅する発光体には石井隆のドラマが繊細な面持ちで宿っていて、狂おしいそれぞれの胸中が切々と描かれている。

 ここではあえて物語の詳細には触れず、劇中に描かれた「鳩」だけを見ていこう。一組の夫婦が登場する。外山正道(緒形拳)とその妻陽子(多岐川裕美)は川に面した鉄工所を営んでいたが、経営的に行き詰ってしまい街の金融業に救いを求める。しかし、それは暴力組織の運営による悪辣なもので、瞬く間に借金は山と膨らんでしまう。あげく夜間に急襲されて、夫婦が飼っていた鳩が何羽か撃ち殺され、肉体的な暴行と酷い脅迫を受けた末に妻は自死を選んでしまうのだった。台本には見当たらないのだが、完成された物には死に臨んでおんなが檻の扉を開き、彼らを夜空へと解放する様子が挿入されている。

 伴侶の仇討ちに逸(はや)るというより、事態を上手く受け入れられずに半ば朦朧の呈となった男は、急造の日本刀もどきを持って街を彷徨う。先日ふたりして立ち寄った宝石店で妻が食い入るように眺めていた大振りの指輪をふと思い出し、これを探し求めるのだった。結果的に夫婦を追い詰め愚弄した組織組員を次々に惨殺することになり、最後にたどり着いた場処が閉鎖されて久しいディスコテークである。死闘で深傷を負ってしまった男は、紫煙と埃で煤けた壁に寄り掛かって息も絶え絶えとなる。

 一羽の鳩がぱたぱたと其処に舞い降り、旧知の間柄のように男に近づいてくる。人の気配のしないディスコテークの天井あたりに、いつしか野鳩が侵入して居着いたらしい。男はにんまりと笑顔を返し、どうにか立ち上がると銃火と硝煙の只中に飛び込んでいく。男のそんな最期を目撃して圧倒されたほかの主人公のおんなたち(余貴美子、喜多嶋舞、夏川結衣)は、それぞれ短銃を握り締め、眦(まなじり)を決して組員の群れに突撃し、死中に活を求めるのだった。無数の銃声に怯えたのか、それともおんなたちに共振したものか、鳩たちがばたばたと飛び交って闇を切り裂いていく。

 私たち観客は夫婦の飼い慣らしていた鳩が集団してディスコテークに引っ越して来たのだ、と、当然ながら考える。劇の冒頭で解放された者たちが飼い主を心配し、先回りしてその最後のあがきを見届ける、そんな場面と認識して憐憫の情がどっと湧き上がってくるのだった。ペットが人間以上の深い愛情を主人に抱き、その闘病や臨終に前後してぴたりと寄り添って離れなくなるという場面を私たちは過去幾度も物語空間に見い出し、また、スマート端末で記録された同様映像にもらい泣きしているから、ごくごく自然な反応として『GONIN2』にもそれが起きたのだと解釈する。

 だが、台本を読むとどうも事はそんな単純ではないようで、石井隆という作家の思考が盛られたこの劇は別の一面を抱えることが窺い知れるのである。夫婦の飼っていた鳩の小屋を組員が襲い、夫婦を絶望の淵に追い込む冒頭の場面は次のように説明されている。

7 同・裏

工場の裏は枯れ草が生える河の土手の裾になっていて、事務所の裏側に当たる処に外山夫婦が飼っている鳩小屋が造ってあり、20羽程の鳩が棲んでいる。その小屋の中に向って組員の小島が滅茶苦茶に拳銃を撃ち込んでいる。(*1)

 これに対し、最終局面で死んだ男と特攻をかけるおんなたちの周辺を飛び狂う鳩の群れを石井は次のように描写するのだった。

112 同・バーコーナー

天井に巣食っていた数百羽の鳩が一斉にバサバサバサと飛び立ち、正道、そして蘭、早紀、ちひろの回りを激しく飛び交う。飛び交う鳩の群れ。それを縫って、蘭、早紀、ちひろが、銃を撃ちながら一歩もひるまず進む。(*2)

 石井の台本を幾篇か読み込んでいくと独特の言い回しが随所に見つかり、それは何種類かに分類されるのだが、その中のひとつに“不自然”で念入りなト書きがある。これはその一環である。20羽程と数百羽の段差はどうだろう。石井はこの数字の大差を示すことで、鳩小屋に飼われていた者たちとディスコテークに出現した者たちが明らかに「違う」と告げている訳である。

 そのようにして見れば、息も絶え絶えとなっている男は床をよちよちと近寄ってくる一羽に対して無言で微笑むだけで、ああ、自分たちの飼っていたチーコじゃないか、おまえは俺のことを天井から見守ってくれていたのか、どうもありがとうな、といった、ありがちな目線の交換や温い言葉を投げてはいない。現実世界での個体識別というしがらみが溶け落ちている点をそれとなく示しながら、石井は「別のこと」を物語ろうとしている。

 すなわち、劇画【赤い眩暈】(1980)の「鳥」と同じ性質のものが彼ら劇中人物の瞳にまざまざと映ってしまっている事を伝えたいのである。鳩小屋の扉を開放するという描写をいわば隠れ蓑にして、生と死の境界にて道案内をする存在を実際はあからさまに描いていて、つまりは、人間たちが揃って発狂の域、臨死の荒野に踏み入ったことを知らせたがっているのだ。娯楽映画の様相を維持しながら、その実、凄絶で無情な精神崩壊の顛末を裏打ちしている。

(*1):『GONIN2』台本(決定稿) 7-8頁 ちなみに準備稿での鳩の数は「十数羽」

(*2):『GONIN2』台本(決定稿) 139頁 ちなみに準備稿での鳩の数は「何百羽」


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