2021年9月7日火曜日

“そのとき何を見るのか”  ~石井隆の鳥たち(5)~

  さまざまな体験を通じて人は成熟するけれど、間近で臨終を見るぐらい鮮烈で考えさせられる出来事は無いように思われる。どれだけスペクタキュラーな舞台や映画を見ても、胸に刺さる深度は敵わない。人によっては赤ん坊が誕生する景色こそ別格と捉えるかもしれないが、凡庸な私などはどちらかと言えば死に重たい衝撃を受けるし、ついつい色んな事を想像する。

 いずれ越境は避けがたい訳だが、その時、いったい何に出逢うのだろう。救世主や阿弥陀が突如来迎して、がしっと手首を握ってくれ、その先の時空へと導いてくれるだろうか。まさかまさか、こんな信心薄い奴の枕元に誰が舞い降りてくれるものか。不意に真っ暗になって一切見えなくなるか、それとも瞳孔がめらっと開いて、猛烈な光の進入に目が眩んでほとんど何も見えないか、そのどちらかで幕切れとなるように思える。激痛と不安、哀しみに塗れて逝くのだけは勘弁して欲しい。唐突な闇か、隙間なき圧倒的な光に包まれ、吃驚させられて思案する暇(いとま)なく、ひょいと軽妙に飛び越えたいと願う。

 世の中には死の瞬間に執着し、徹底的にこれを掘り下げる者がいて、石井隆はまさにそういったタイプの作家である。よく知られるように石井は幼少時分から気管支が弱く、呼吸困難と薬の作用で朦朧となる自身の意識につき、早い時期から客観視する時間を持った。生理機能がどんな仕組みで幻視を誘うものか、多様な怪異をありありと目撃しながら過ごしている。それらの不思議を勘違いだ、錯覚だ、と切り捨てず、人間はそういう“何か”を実際に見てしまうし、刹那それらは確かに現実空間に侵入して目前に在ったと捉える。

 そんな石井が己の作品で臨死を繰り返し再現し、記憶の錯綜ともろもろの怪異を盛り込んでいくのは至極自然な行為と思われる。映画『ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う』(2010)の終幕で魂の限界点を振り切った若いおんな、れん(佐藤寛子)が、天井方向に何物かの発する騒々しい音を感じ取って絶叫しているが、あれなどは石井の体質と直結した切実な場面であろう。傍らに立つ男女には一切感じ取れない何かが、ざわざわと群れを成して一個の魂に襲いかかっている。


112 樹海のドォオーモ

   コウモリなのか、何かがギャアギャアと鳴きながら飛んで行き、

   石切り場がざわめき始める。四階建てのビルほどの天井の高さから

   何かがれんとちひろと次郎の修羅場を見下ろしている。

れん「?」

   と、急に怯えた顔をして、洞窟の高い天井を見上げる。

れん「なんかいる! なんかいるう!」

   れんが絶叫して銃を持つ手を緩める。(*1)


 台本から書き写したものだが、石井の筆は「何かが」「なんか」の計三箇所に強調を表わす圏点(けんてん)を打っている。これは先に紹介した石井脚本の「独特の言い回し」のひとつである。コウモリではないと示したいのだし、「何か」が尋常ならざる存在であって、どうやら翼を持って「飛んで行く」のだと語っているのだが、もうお気付きの通りで、これは【赤い眩暈】(1980)と『GONIN2』(1996)に連結する「鳥」の顕現である。

 臨死の場面で出現する「鳥」が、まだ無傷に近しいおんなの五感を激しく責めているのは、おんなが狂い死にの瀬戸際に立ってしまったと石井は示したいからだ。狂死(きょうし)に追い詰められた人間の深淵なる苦悩を、冥境に飛翔する鳥らしきものの出現を通じて補強している。

 ここで我々が理解しなければならないのは、鳥が実像を失い、異形化している点だろう。「鳥がいる!鳥がいるう!」と叫んでも十分に悲しみが高波となって客席を濡らしたであろうに、石井は鳥の輪郭をあえて崩して見せる。石井の作歴を見て「同じものを描いている」と評する言葉が稀に発せられるが、それは正しくない。石井は読者や観客に知らせぬまま、見えない物を描いてみせる恐るべき作家であるけれど、『ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う』では馴染みのカードをそ知らぬ顔で別の絵柄のものと取り替え、さらりとテーブルに差し出して明後日の方角を見ているのだ。

 「鳩」ではない「何か」はおんなを導くでも慰めるでもなく、ただただ頭上から圧迫し、崖っぷちへと追い詰めていく。次の段階では仏教儀式にて行なわれる散華(さんげ)にも似た「雨なのか露なのかキラキラと水滴が舞い降りて」(*2)、おんなは一時的に正気を取り戻すけれど、「何か」が「水滴」に変現したとは思えない。仮に両者の根っこが同じであれば、「鳩」は「何か」となり、さらに「何か」が「水滴」へと移ろった事になり、責める者と救う者が瞬時に裏返ったことを同時に示すから、まったく目まぐるしく壮絶な事象である。

 元々石井の劇には二極化した単純な割当はなく、聖邪は入り乱れ、時に男女の役割も交替していくのだけれど、その混迷を実に象徴的に顕現してみせた瞬間であった。


(*1):『ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う』 準備稿 147-148頁

(*2):『ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う』 準備稿 150頁

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