2021年8月28日土曜日

“舞い降りるもの” ~石井隆の鳥たち(2)~


  【赤い眩暈】(1980)はいくつもの宗教画を取り込み、さらに石井の郷里の風景をも背景に落とし込んでいて、石井世界の中でも作り手の精神性をまばゆく露呈させた物となっている。その独特の風景描写とリズムに強く惹かれる読者は多く、単行本に再掲される機会も数重なっていて、石井劇画の代表作と言っても差し支えないだろう。

 ここでの宗教画との関連については、私も過去幾度か身勝手な推論を展開させた。(*1) もちろん参照した絵画を言い当てたところで作品の評価は変わらないし、場合によっては先入観を読者に植え付け、純粋な鑑賞体験の邪魔をするかもしれない。石井隆はそんな読み解きを迷惑に思うかもしれないけれど、「鳥」といったテーマで石井作品を語るとき、この【赤い眩暈】に触れない訳にいかないし、また、どうしても絵画との関連について言及しなくてはならない。

 長年の読者には不要と思うが、ここで簡単に【赤い眩暈】のあらすじを紹介してみよう。路面電車の走る車道でおんなは事故に遭って転倒し、怪我をして横たわる。頭部から流れる血を確認したおんなはよろよろと立ち上がると、裏通りの酒場、トンネル、旧式の便所といった脈絡のない場処をさまよい歩く。いつしか廃屋のような建屋にたどり着き、其処の住人たる上半身裸の男から性戯めいた奉仕を受けるのだった。

 ふたりの頭上で突如バサバサバサと音が立ち、一羽の白い鳥が飛翔する。屋根に穴があるのかどうか分からないが、剥き出しになった天井の梁の闇の奥から鳥が舞い降りたのである。これから先の案内は鳥にさせると男に告げられたおんなは、瓦礫だらけの街路を歩き出す。音もなく降り出した雨がおんなを優しく包んでいるそのシーンに続いて、街路で横たわるおんなの姿が見開きで提示され、彼女を囲む男女のざわめきが被っていく。ふきだしを読む限りでは、おんなは車の轢き逃げにあったのであり、救急車が呼ばれているが出血の具合からいって助かりそうにない。この物語はおんなが命を失う瀬戸際の数分間に幻視した風景を描いたものであることを示唆し、静かに、切々と幕が落とされる。

 登場する鳥は宗教画の「告知」のエレメントを模写して見える。「輝く雲に乗る天使の来迎」「雲・煙・霞につつまれた茫漠たる空間」「光もしくは鳩による天帝の暗示」「ひざまずく敬虔なるマリア」といった物が組み合わさる絵が厖大に描かれた時代があった。あの中の鳥の姿である。(*2)  過去のインタビュウで石井にこの辺りを尋ねた者はなく、石井も自身の劇画中のエレメントにつき詳らかにすることはないから確証はないが、これはどう見ても宗教画の一部が写し込まれた物と考えられる。

 石井は鳥の全身を3コマで描いていて、それ以外は抜け落ちた羽毛や翼の一部になっているのだが、ここで注視すべきは2コマ目の描写である。俯瞰気味のコマである。手前に鳥影、奥におんなと男が小さく配置されている。ピントが奥に合わさっているから手前の鳥の姿はおぼろとなる理屈で、鳥は左右に翼を広げた様子こそ分かるが白くぼんやりした姿で描かれている。

 映画を愛し、一眼レフカメラを駆使して厖大な資料用写真を撮り貯め、写真集も上梓している石井らしい演出効果と言えるのだけど、私にはそれ以上の作為が込められて見える。この鳥のぼうっとした姿は「手前を向いていること」を器用に隠し、それと同時に暗に示そうとしているのではないか。

 このコマの直前の展開を丹念に見直せば、天井の闇から舞い降りた鳥はおんなに向かって一直線に飛んで来るのだから、次のこのコマでは鳥の背側、尾羽(おばね)側が見えていなければいけない。おんなのいる方とは逆のこちらに飛んで来ては駄目なのであるが、石井は背中を向けた鳥の姿を巧妙に「描かずに済ませた」のではなかったか。つまり告知絵図に見られる「正面向きの鳥」の印象を、ハイパーリアルを優先させる余り減じたくなかったのである。

 資料用写真を周到に準備して作品に取り組んでいく石井の作画姿勢からすれば、後ろ向きに羽ばたく鳥の写真を揃えていなかった、もう時間がないから誤魔化しちゃえ、という経緯であったはずはない。上野公園に行って、パン屑で鳩の群れをつくり、小石を放り投げる。慌てて散っていく彼らの様子を連写すれば素材写真は入手出来たのだから、私たちが目にする白いぼんやりした光体に代わって、尻を向け、脚をこちらに伸ばした鳥の後ろ姿が描かれた方が相当に自然である。

 その自然が失われていることで、回りまわってこの鳥が現実世界で目にするものでなく「絵画」から抜け出した存在なのだと示したかったのだし、素材たる「告知図」そのものを読者に想起させ、おんなの身に、いや、私たちひとりひとりの終着点で何が見えるかを教えたかったのだと思う。「不自然」を描く作家たる石井は、この前を向く鳥を白く塗りつぶすより仕方なかったのだ。その奇妙さに気付く真の読者の出現を望んだのじゃなかったか。

 冥府に足を踏み入れざるを得なかった、今この瞬間に早世せんとする一個の生命体を案内する道標(みちしるべ)として鳥は舞い降り、死という次元へといざなっている。いやいや、「告知」のエレメントが移植された鳥影は常識の足枷を外して、生死(しょうじ)の往還(おうげん)すらもたらす。もはやベンチ周辺でよちよち歩き、餌をねだる鳩ではなく、魂の生滅(しょうめつ)に直結した飛翔体として存在している。

(*1):ティントレット②回廊と鳩~【赤い眩暈】~

https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1157506539&owner_id=3993869

(*2):「マニエリスム芸術論」 若桑みどり 岩崎美術社1980 257頁

引用した絵画はフアン・デ・フランデス Juan de Flandes の「受胎告知 The Annunciation」(1508-19)および、同じくピーテル・パウル・ルーベンス Peter Paul Rubensのそれ(1609-10)である。





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