2021年8月13日金曜日

鳥瞰図


 書棚の整理にほとほと厭いてしまって椅子にへたり込み、放置していた本を手に取って休憩する。フュリスという少女の名前が冠されたホルスト・ヤンセン Horst Janssen の画集を膝に乗せ、ゆるゆるとその頁をめくる。(*1)

 ここしばらく鳥について気持ちが捕われてきたせいだろう、中の一枚に目が吸い寄せられた。ヤンセンが1978年、四十代の末に描いたものだ。種類の違う四羽の鳥たちが寝台に横たわる裸の少女を取り囲んでいる。白鳥のような姿の一羽は嘴(くちばし)を少女の唇に深く挿し入れ、別のもう一羽の丸い頭蓋をそなえたそれは両股の付け根のところを突こうとして見える。

 葛飾北斎の「喜能会之真通(きのえのこまつ)」やヘンリー・フュースリー Johann Heinrich Füssli の作品から着想を得たと思われる官能的な絵が多数収められており、日本の春画にならって人体の部位はやや誇張されて描かれているのだが、この一枚においてもそれは顕著である。へそ下の陰裂が、あばらの浮き出た痩せた少女の体躯と比してバランスを欠いた大ぶりの表現で描かれている。上下左右に粘膜を広げて、さながら南洋の真っ赤な華の重たい花弁が雨に打たれて身悶える様子で、腰の部分にぺたりと貼り付いている。

 下半身に覆い被さった鳥、というより人間の足をにょっきりと生やしているからここでは鳥人と呼ぶのが正しいのだが、その硬そうな嘴が置かれたのは花びらのやや下辺あたりであり、位置的に陰核を愛撫しては見えない。鳥人の頭は動きを一寸だけ止めて、しきりに粘膜の濡れた具合を観察し、また、放たれる香りに溺れているように見える。

 いや、嘴の尖端は既に何度か突き進んだ後ではないのか。紅々とした花弁と肉翼の左右への極端な広がり、臍下まで伸びてしまった亀裂は、鳥人が勢いづいて啄(つい)ばんだ結果ではないのか。チベットの鳥葬みたいに寄ってたかって少女を食している瞬間を捉えた怖い絵に見えてしまって仕方がなく、粘つく戦慄にいよいよ襲われ、白状すればしたたか興奮もした。

 おんなの身体を啄(つい)ばむ残虐な様相におののき、どう受け止めて良いのか思案に暮れるうち、絵の下の方にアルファベットで何か刻まれているのに気付いた。VIRIBUS UNITIS と書かれている。調べてみるとラテン語で「力を合わせて」の意味であると判る。

 なあんだ、画集のほかの絵と同じ姿勢で描かれているのだ、と了解されて、肩の力が一気に抜けていく。そうであるならば、絵の諸相はまるで違った趣きとなる。禍々しさが減じて穏やかな薫りに包まれた具合になる。突く側も受け止める側もよいしょ、よいしょと「力を合わせて」いる場面なのである。つまり思春期の少女が当初抱く性愛への純粋な好奇心と健気な実践、豊かな妄想をヤンセンは淡淡と描いているのであって、レイプを主題としたものではないのだ。少女たちの見開いた目や柔らかな口元を通じて、また、男たちの外観の異様さを通じてエロスとは何か、我々の奥まったところに何が巣食っているのかを、求道的に根気強く探り続けた連作なのである。

 鳥たちの襲撃と見誤ったのはいつもの迂闊さ、節穴同然の瞳によるもので恥ずかしいのだけど、それは鳥の嘴ってやつが前戯に不向きであり、到底上手くいかないのではないかと本能的に身構えたせいだ。また、どこかで鳥を恐怖する気持ちがあるのだろう。錐(きり)のように尖った嘴で口戯をさせようとする画家の想像と自信に私はついていけなかった。どれだけフィルターを通して物事を見てしまっているか、本質を見たつもりでいるけれど、まるで見当違いの連続なのだと分かって妙に可笑しく、そして愉しくなってしまった。

 ひとしきり身近な鳥について考える時間を持った訳だが、こうなると俄然気になってくるのは石井隆という作家が鳥をどう描いてきたか、ということである。たかが鳥、されど鳥だろう。根を詰めて思案し貫くタイプの作者が劇中で鳥をどう扱っていたかを再度読み直すことは、単に鳥だけでなく、石井が世界をどう鳥瞰してきたかを知る手掛かりになるように思われる。

(*1):「フュリス ホルスト・ヤンセン画集」 ホルスト・ヤンセン トレヴィル 1994

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