2021年8月22日日曜日

“籠をすり抜ける鼓翼(こよく)” ~石井隆の鳥たち(1)~

 


 六十年代、七十年代の映画やテレビドラマ、漫画作品では鳥と鳥籠(かご)が重要な立ち位置を与えられることが多かった。炭鉱夫が小さな籠(かご)を持ち歩いて酸素濃度計の代用にしたり、都会暮らしのカップルのかたわらにはいつの間にかちょこんと準備され、見通しの利かず不安な日常に束の間の潤いを与えたり、場合によっては諍いの種に発展したものである。

 小鳥を籠(かご)の中にて飼い慣らす行為はかつて一般的であり、決して珍しい光景ではなかったからだ。上の世代の霞みかけた記憶の中には、落巣したり、時には木の幹に登って略取したいたいけな雛鳥を育てることを愉しんだ時間なり空間が今なお鮮やかに焼き付いている。小説や詩の同人誌などを発行するとき、題名に鳥にかかわる単語、たとえば「笹(ささ)鳴き」といったものを選んだりする時代であった。

 ペットショップが登場してからは雀なんかじゃなく、文鳥やカナリヤがもてはやされ、親にせがんで飼いたがる子供が増えた。大概はすぐに糞の臭いと掃除に辟易してしまい、鳥の寿命が尽きたり、猫や何かに襲われて死んだり、窓の隙間から逃げ去ってしまった事を契機として急速に興味を失っていった。居住者の消えた空の籠(かご)は縁側の隅あたりに置かれつづけて、やがて埃にまみれ、徐々に輝きを失っていくのだったが、子供たちも大人も最初からそんな籠(かご)は存在しないかのように振る舞うのだった。数年後の大掃除のときに処分されて、ぽっかりした虚無がしばらく居ついて淋しかったが、いつの間にか誰もが忘れてしまい、思い出話が咲くこともなかった。ペットとして何万、何十万、いやいやそれ以上かもしれない無数の鳥が人間と同居させられ、寵愛を受けようと競ったあげくに次々と姿を消していった。

 だから、石井隆が彼の劇画作品で都会暮らしの孤独な女子学生を主軸となした物語を編んだとき、その娘が小鳥と同居していてもまったく不思議はなかった。【赤い陰画】(1977)はそんな東北から単身上京して美術学校に通っている少女が主人公であり、数羽の小鳥を籠に飼っているという設定だった。アルバイトに応募した小さな出版社で、勤務初日にグラビア撮影の現場に強引に連れて行かれ、そこで乱暴に遭った挙げ句に繊細な魂をひどく病んでしまうという掌編だ。

 自宅アパートにようよう送り届けられた娘だったが、食事の世話をしようと買い出しに出た若い出版社員が戻ってすぐ、包丁を手にして彼を襲撃し滅多刺しにしていく。欲望のために限度を越えていく男たちの安直な打算や独善が一個の人間を破壊せしめ、過酷な血の惨劇を招くという幕引きである。

 この掌編はチュンチュン、チュンチュンという鳴き声に始まり、バサバサ、バサバサという羽音のオノマトペで完結する。鳥の存在を強く意識させる構成となっている。人間の意に反して好き放題にさえずり続け、金属の網に接触してはカチャカチャと不連続性の物音を鳴らしていく鳥にピントを合わせることで、神経症を抱えた人間の内心を描く手法というのは、探せばおそらく先例が幾つも見つかるから、それ自体は特筆すべき事象ではない。ここで私たちが注視すべきなのは、最後の頁で激しい羽音を立てる鳥の陰影が怖しいほども巨大に、またどう見ても籠(かご)の外を飛翔しているところだ。

 劇画製作において石井は早い時期から「映画」を意識し、思い切った時間の跳躍を劇中に配していたから、その文体に慣れた読者は小さなアパートの一室でバサバサ、バサバサと飛び回る鳥の姿を目撃しても気にすら留めない。包丁で一撃を加えたとはいえ、若い社員は直ぐには事切れなかったのだ、男とおんなは狭い室内で正視に耐えぬ血みどろの時間を過ごしたのだ、石井は室内乱闘の様子を詳らかにしないが、読者の想像力にその部分は委ねられていると誰もが判断するからだ。

 何かの拍子に鳥籠(かご)は倒れて破損し、隙間から鳥は逃げ出したのだろう、そのように大概の読み手は読み流すであろうが、しかし、よくよく目を凝らせば、室内の壁も本棚の上板ものっぺりとして、血の描写にとことんこだわる石井なのに不自然に白いままである。鳥籠(かご)に至っては娘が出発前に置かれたままのように立ったままで、わずかに動いた様子も見受けられない。これはすこぶる奇妙である。

 石井隆という作家は直線的な説明描写を嫌う傾向があって、「不自然さ」を無言で提示しながら我々の気付きをひたすら待つ、そういった特質がある。鳥はなぜ外をバサバサ、バサバサと飛び回るのか。そもそも部屋での殺戮はあったのか。娘が見たり聞いた暴力的光景は劇中の「現実」として本当に在ったものだろうか。

 迷宮のごとき様相を示す【赤い陰画】の真相は石井にしか分からないのだが、我々は劇中に突如出現した籠(かご)の外の鳥影にここで明確な境界杭の役割を認めて良いように思うし、せめてそこまでの認識無くして【赤い陰画】の観賞は終わらないように思う。すなわち、ここでの鳥は、生と死、もしくは、正気と狂気の境界を跨いだ際に穿たれ設置された三角点標石として機能している。

 映画『天使のはらわた 赤い淫画』(1981 監督池田敏春)とこの劇画【赤い陰画】とは幾つか血流を通じさせる箇所があり、それがタイトルに結実したと想像するけれど、あの映画の中でヒロインに蹴飛ばされ、裏表が引っくり返された赤外線ランプ式の電気炬燵(こたつ)に準じた立ち位置にここでの鳥籠(かご)は在る。

 『天使のはらわた 赤い淫画』のヒロインはグラビア冊子のモデルを強要されて以来、世間の視線を極端に怖れて暮らしていたが、そのがんじがらめの倫理観を転覆させて再生しよう、生き直そうと決めた矢先に電気炬燵(こたつ)は大きく裏返っている。深紅に染まる境界杭たる電気炬燵が分かつのは、劇画【赤い陰画】の彼岸此岸とは陰影をかなり違えているから、単純に両者を同一視は出来ないけれど、石井が「鳥」という小道具を用い、のっぴきならない事態に飛ばしていること、そして、それで何事かを訴えようとしていることは、石井隆の作家性を考察する上で記憶に値する事象ではないかと考える。



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